41.レオ、青褪める(前)
「――……っ」
ぶるっと背筋を伝うような悪寒に、レオは身を震わせた。
部屋は暖められ、厚着のまま寝台に寝かしつけられている自分は暑いくらいなのに、なぜだろう。
眉を寄せていると、その様子に気付いたカイが素早く近寄り、額に手を当てた。
「レオノーラ様、大丈夫ですか!? もしやまたお熱が……」
「いえ、大丈夫、です」
咄嗟に心配性な従者の手を外すが、カイはむっと口を引き結ぶと、水盥と布を運び込んでレオの額を冷やしはじめた。
「レオノーラ様の『大丈夫』は、私はもう二度と信用しないことにしているのです。ほら、ちゃんと寝台に横になっていてください」
ぷりぷり怒ってそう言うが、手つきは優しい。
そっと窘めるように布団を引き寄せられ、レオはしぶしぶ寝台の民となった。
「……もう、大丈夫、なのに」
「ですから、信用しておりません」
きっぱり言われ、眉を下げる。
従者のこうした態度は、この数日ずっと続いていた。
布陣の成功から五日。
レオを待っていたのは、ビジネスの進展を確信したベルンシュタイン兄弟の歓喜と、早々に試験運営を始めたという朗報。
そして――風邪だった。
どうも、春が近いとはいえ冷え切った湖に浸かったうえ、草原に戻るまで体を乾かさずにいたことで――なぜなら、森の中では魔力が使えなかった――体がすっかり弱ってしまっていたらしい。
水の加護のあるビアンカは早々に水気を払ってもらっていたが、レオやグスタフはそうもいかず、濡れ鼠のまま森を歩いていたのだ。
貴婦人の力を制御できないことを、ビアンカは始終申し訳なさそうにしていた。
レオとて、生活の知恵を使えば体を乾かせなかったわけではない。
しかし、隣を歩くグスタフは実に平然としているし、自分もまた、布陣の成功と、ついでに森での収穫物にドーパミンを大量放出していたので、そのことをすっかり失念していたのだ。
幾度となく体調を気に掛けてくれる二人に対して「いやいや暑いくらいです!」と答える程度には。
結局学院に帰った後、基礎体力に優れたグスタフが事後処理に動き回るのとは対照的に、レオは盛大に風邪を引き倒れ込んだというわけであった。
(くっそー、レーナの体の脆弱なことよ……!)
レオは歯噛みした。
この安息日には再び孤児院に赴き、レーナと打合せをと思っていたのに、とんだ番狂わせである。
というのも、下町に出ればヤな男に絡まれ、森に赴けば溺れて帰ってくる主人に、カイが警戒レベルを一挙に引き上げ、部屋から出してくれないからであった。
(大丈夫だっつってんのに、少なくとも風邪が治るまではこの部屋から出さねえ、行くなら自分の屍を越えて行け、だもんな。参るぜ。しかも、実際俺が、カイを越えられないってのもまた……)
泣ける。
レオは項垂れた。
カイなど所詮、いいとこのお坊ちゃんだ。
顔だって幼いし、体つきだって細っこい。なにより、自分の弟分だ。
今は女のなりをしているとはいえ、その辺の甘さを突けば、カイなどいくらでも出しぬけると信じていたのに、なんと、それができなかったのである。
隙を突いて脱走しようとしたら、いつの間にか扉に仕掛けられていた透明な糸を引っ張り盛大に鈴を鳴らす羽目になり、交渉で乗り切ろうと思ったら泣き落としの反撃に遭い撃沈。
ならば力技でと渾身の蹴りをかましたら、少々赤らめた顔で「はしたないですよ」とその足を封じられた。
特に最後のがショックだった。
そういえばこの姿になってからは、ろくろく喧嘩などもしたことがなかったし、もともと荒事はブルーノの担当ではあった。
それでもまさか、自分の攻撃がこうも簡単に無力化されるとは。
(レーナだ。元凶は全てレーナにあるんだ)
どうもこの体は、いろいろ脆弱だし、力も弱い。
バランス感覚などはいい方だと思うのだが、膂力や筋力、そういった物理的な強さがからきしなのだ。
レオはその日から体を鍛えることを決意したが、ジョギングどころか、腹筋背筋さえ、この従者が止めてくるので今のところ一度もできていなかった。
げんなりと寝台で仰向けになりながら、溜息を落とす。
(これじゃ精霊祭、間に合わねえよお……)
最大の懸案事項は、それだった。
本日、雪割月 最後の安息日。
来週、花舞月 最初の安息日は、もう精霊祭本番である。
それまでに体を戻すためには、少なくとも今日くらいには、孤児院に赴いている必要があった。
これでは、精霊祭の前日に駆け込むのが関の山だし、そんなドタバタな進行で、無事体を戻せるものかどうか。不安は募るばかりだ。
(精霊祭までに戻すって目標を、延期した方がいいのか?)
雪花祭では、幸いこの姿のままでも金儲けをすることができた。レーナもあまり乗り気ではなかったようだし、最悪それもよい気がする。
だが、ずるずるといつまでも女の姿でいるのはレオとしては好ましくなかったし、それにやはり、精霊祭にはいつもの自分の姿で、ちゃきちゃきと値切りをして回りたかった。
うー、と唸っていると、苺の乗った皿を持ってきたカイが、苦笑しながらその一つを差し出した。
「レオノーラ様。よければ、こちらをお召し上がりください。そして、少しはご機嫌を直してくださいませ」
扱いがすっかり子どもである。
苺くらいで釣られっかよと思いつつ、タダで頂ける食べ物は、やはり美味しく頂戴すべきだと思うので、レオは丁寧にそれを咀嚼した。
苺はこの雪割月ならではの果物。
春を感じる繊細さはレオには標準搭載されていないが、それでも、その芳醇な甘みから、これが高級なものであることは察せられる。
むすっとしたまま、しかし美味しそうに食べるという器用なことをする主人に、カイは苦笑を深めた。
「レオノーラ様が、外で自然に触れるのがお好きなのは、この私とて心得ております。ですが、今は特に大事な時期。次の安息日の本番に備え、どうぞ体調を万全に整えることをご優先ください」
「本番……?」
思わず、苺を摘まんでいたレオの手が止まる。
精霊祭でこの環境とはおさらばするということを、カイにはうっかり話してしまっていただろうか。
少しびっくりしながら、おずおずと尋ねると、カイはきょとんとした後、もしやというように眉を寄せた。
「……まさかとは思いますが、校外学習に出かける前、お伝えしたことをお忘れで?」
「え?」
まったく心当たりのなかったレオは、思わずことりと首を傾げる。
するとカイは、なんてことだ、と呆れたような溜息とともに爆弾を落とした。
「次の安息日――ちょうど精霊祭の日に当たりますが、その日は、恐れ多くも両陛下主催の茶会に招かれていると、お伝えしたではございませんか!」
「ええっ!?」
寝台から飛び上がりそうになった主人を見て、カイはもっともだと内心で頷いた。
この帝国のトップに君臨する二人が主催の茶会に招かれるなど、それ即ち、第一皇子の婚約者候補として、少女に白羽の矢が立ったということに他ならない。
それを忘れてしまえるというのもすごいところだが、確かにあの頃の少女は、市民を助けるための陣の構想にいっぱいいっぱいになっていた。
ようやくそれが一段落し、他のことにも注意を向けられるようになった今、その重大さを思い知って驚いているのだろう。
「改めてお伝えしますが、大奥様が侯爵閣下と掛けあってくださって、ご多忙の中ようやく実現することになったのです。精霊祭当日というのは少々意外でしたが、逆にその日くらいでないと、ご公務の隙間も無いようでして。それにしても、両陛下の茶会がデビュタント代わりとは、さすがはレオノーラ様ですね。私も鼻が高いです」
「え……? ええ……?」
珍しいことだが、主人が目をまん丸に見開いて混乱している。
もしや、またも身に余る栄華に怯えているのだろうか、と思ったカイは、そっと少女の手を取り、穏やかに諭した。
「どうぞ自信を持ってください、レオノーラ様。今この世の中に、あなた様以外に、皇子殿下の婚約者に相応しい姫君がいるものでしょうか。どうぞあなた様は、ご自身を信じて、いつものように振舞っていらっしゃれば、それでよいのです」
「えええ……!?」
レオは目を白黒させた。
さっきから、この従者の言っていることが、ちょっと激しくわからない。
(精霊祭当日に、茶会!? しかも両陛下主催の!? ていうか皇子の婚約者ってなんだよ! ……って、あ、そうか。茶会、イコールその家の坊ちゃんとの見合い、みたいなもんだから、この場合はそうなるってカイは思ってるわけか)
カイの思考回路は把握したが、そんな恐ろしいものに参加したくもなければ、そんな恐ろしい立場に祭り上げられたくもない。
まあ少なくとも皇子は、自分をふとした拍子に監禁・処刑したくなるくらいには嫌っているようだから、婚約みたいな話には間違ってもならないと思うが、それにしてもまた、ひどいタイミングの悪さだった。
「あ、あの……それって、断っ……るのは無理でも、その、延期とかって……?」
断ったり、と言いかけた時点で、カイがびっくりしたようにこちらを見てきたので、レオは慌てて言い方を和らげた。
この従者が本気を出すと、なかなか手ごわいのを知っているからだ。
しかし、それに対するカイの回答は、どこまでも揺るぎなかった。
「延期などまかりなりません。この機会を逃せば、次はいつになるか精霊ですらわからないほど、お忙しいお二人なのですから」
「…………」
ならばなおさら延期していただいて、その間にトンズラこいてしまいたい。
レオは押し黙り、さりげなく従者の手を逃れたが、そこにカイが追い打ちを掛けてきた。
「この茶会は、大奥様たちが、レオノーラ様のためにと奔走し、実現に至ったものです。どうぞそのお心を汲み、たとえ遠慮からでも延期などと仰らないでください」
「エミーリア様が……」
「ええ。大奥様は、レオノーラ様が大奥様のことをマナーの師として尊敬しているというのを大層お喜びになり、淑女として最高の栄誉、最高のデビューを用意しようと尽力されていました。両陛下主催の茶会でのデビュタントなど、前代未聞。実現すれば、大奥様もさぞ誇らしくお思いになることでしょう。もちろん、レオノーラ様のお立場も確固たるものになるに違いありません。どうぞ、当日には気持ちよく臨まれてください」
重ねて言われて、レオは瞳を揺らした。
自分のその場しのぎの社交辞令が、うっかりエミーリアのどこかを
(……エミーリア様、そんなに、孫娘のことを愛してるんだ……)
夫人たちの、
愛。無償の想い。
相手のために心を砕き、利益もなしに奔走するというそのことが、レオにはよくわからない。
――いや、その想い自体が理解できない、というのとは少々違う。
(そんな想いを向けられたら、どうしていいのかわかんねえよ……)
その受け手が自分であったときに、どうしていいのかわからないのだ。
だって、そういう温かくってくすぐったくって、胸の奥がじんわりと緩むような感情は、自分がとうの昔に、憧れることすらやめたものだったから。
金とか利益追求とか、そういった、強くて陽気でドライな欲求であれば、いくらでも理解できるし、受け入れられるのに。
(でも……)
侯爵夫妻には筋を通せという、ハンナの言葉が蘇る。
国の一番偉い人を捕まえて、茶会を開かせるというのがどれほど大変なことか、政治に疎いレオでもさすがに想像は付いた。
にもかかわらず、その実現を前に行方をくらまし、せっかく整えた茶会もふいにしてしまったら、一体彼らはどれほど悲しむことだろう。
折しもその日は精霊祭。
家族や恋人で、春と精霊の降臨を祝う日。
十三年ぶりに、その日を孫娘と一緒に迎えられると、彼らは楽しみにしているかもしれないのに。
「…………」
レオは唇を噛んだ。
精霊祭の大朝市で、ひと狩りしたい。
孤児院の皆と一緒に福袋をゲットしたい。早く体を戻したい。
どれも本音だ。
――だが、一回くらい。数日くらいなら。レオは我慢できる。
十三年も我慢した、侯爵夫妻に比べれば。
中身はしょせん別人だ。彼らが真に愛情を注ぐ対象はレーナであるべきだ。
だから、自分が代わりに彼らの孫として振舞おうだなんて、まるで詐欺だし大した欺瞞だ。
そもそも、実の親にすら捨てられた自分が、「無償の愛」とやらを享受しようだなんておこがましい。
それでも、少なくとも今、彼らの視線の先にいるのは自分だった。
レオノーラという虚構の存在も、彼らにとっては揺るぎない現実なのだ。
今こうしてカイが、「レオノーラのために」甲斐甲斐しく差し出してくれる苺の味が、揺るぎない現実であるように。
それは姑息な考えなのかもしれない。
しかし、精霊祭を前に彼らを捨て去ることは、レオには難しく思えた。
(……それに、結局まだ、皇子が危険じゃないって確証も、取れてないわけだしな)
思えば、皇子とは校外学習前に陣を作ってもらって以来で、その後話もできていなかった。
お礼も伝えられていなければ、彼の人となりというか、真意もよくわかっていない。
このままレーナと体を入れ替えるのは、少々危険なようにも思われた。
(レーナも、あんま精霊祭に家族と過ごしたいとは思ってなかったみたいだし)
無理矢理自分を納得させて、レオは再度溜息を吐いた。
きっと彼女は、自分が延期を申し出たら、小躍りして喜ぶことだろう。
「わかりました。……ハンナ孤児院に、連絡したいこと、あります。手紙を――」
レーナに手紙を書くべく、カイに便箋を取り寄せるよう頼もうとした、その時。
「失礼」
静かなノックと共に、美しい声が響いた。
思わずレオとカイは顔を見合わせる。
もはや
この部屋に前触れもなく訪れるのは、久しぶりだった。
「お、お待たせいたしました。皇子殿下におかれてはご機嫌麗しく。本日はどのようなご用件でしょうか」
慌てて部屋とレオの身支度を整えたカイが、恭しく扉を開ける。
しかし、その向こうに立っていた皇子を見て、レオはことんと首を傾げた。
(あれ……? 皇子、なんか元気ねえような……)
気のせいであろうか。いつものキラキラしいオーラが三割ほど減って、なんだか目に優しく見える。
安息日らしく、シャツと黒パンツというシンプルな出で立ちの彼は、それでもやはり美々しくはあるのだが、――どこか、影が感じられた。
しかしカイは特に気にならないようだ。
よくできた従者は、主人の体調不良と、身支度の至らなさを丁寧に説明し、皇子とレオを部屋備え付けのソファセットに滑らかに誘導すると、てきぱきと茶を用意し、自らは壁側に下がった。
「やあ、レオノーラ。病み上がりに、前触れもなく訪れて、悪かったね。許してくれるだろうか」
やがて、いつもの穏やかな笑みを浮かべた皇子が、そう切り出した。
「いえ……。あの、皇子こそ、どこか、お加減、悪いのでは……?」
おずおずと、ついレオはそんなことを尋ねてみる。
別に、顔色が悪いわけではないし、笑顔だっていつもの通りだ。
しかし――どこかがおかしい。そんな気がしてならなかった。
その言葉を聞いて、アルベルトは少しだけ目を見開いたようだった。
が、すぐにそれをいつもの完璧な笑みに戻すと、優美な仕草でティーカップを取る。
その時、伸びた腕とシャツの袖の間に、ちらりと金の腕輪が光るのが見えて、レオは咄嗟にきゅぴんと守銭奴センサーを反応させた。
(おお、金の腕輪! なんつーゴージャスな輝き!)
ほんの一部、しかも一瞬しか見えなかったが、それがとても高価なものだということはわかる。
皇子はあまり装飾品の類は付けないようだったので、それも珍しいものだと思った。
が、自分でも不思議なことに、なぜかレオは、あまりそれに触りたいだとか舐めまわしたいだとかいうようには思わなかった。
さては自分の金銭欲も、ここにきて陰りを迎えたのだろうか。
そんな不吉な思いが脳裏を掠めるが、いやいや、今日も変わらず胸に下げているカー様は好ましく思うし、そういうわけでもなさそうだ。
はて、と内心で首を傾げるレオに、皇子は滑らかに答えた。
「具合が悪いなどということはないよ。気遣いをありがとう。だが、気に掛かるのは君の方だ。また無茶をしたんだって?」
「え、いえ、別に、そんなことは……」
ない、と言いかけて、レオははたと気付いた。
そういえば、湖の底に陣をちゃっかり置いてきたのに、皇子の礼のひとつも寄越していなかった。
あれは、ほとんど彼が作ったようなものだ。
しかもカーネリエントいわく、湖でレオが無事だったのは、皇子が魔術布に、利益遵守の想いを込めてくれたからだという。それを讃えもしないなど、商売人の風上にも置けない無礼だった。
いくら皇子が怖い人とはいえ、その辺りはきちんと筋を通しておいた方がいいだろう。
そんなわけで、レオは改めてアルベルトに向き直り、ぺこりと頭を下げた。
「あの、皇子。その節は、陣の生成を、ありがとうございました。お陰さまで、水の召喚、できるよう、なりました」
「ああ、……その辺りのことは、ビアンカやオスカー先輩から聞いているよ。無事、試験運用まで始まって、民も喜んでいるとね。だが、そのせいで、君は危うく溺れかけたというじゃないか。ビアンカからその話を聞いた時、僕は心臓が止まるかと思ったよ。まったく、まさか君が自ら湖に飛び込んでいくだなんて……。僕は陣など作らない方がよかったのではないかと、一瞬そう思ったほどだ」
「そんな!」
レオは飛び上がった。
思わず身を乗り出して、一生懸命叫ぶ。
「そんなこと! 皇子が、陣を作ってくれたから、私、助かりました。召喚の仕組みも、完成して、水、行き渡るよう、なりました。そんなこと、言わない、ください!」
自分の頭や残念な魔力制御では、とうていあのような大掛かりな術式を完成させることなどできなかった。
仮にできていたとしても、湖の洗礼で命を落としていたことだろう。
それを救ってくれたのは、全て皇子の力だ。
レオがそう力説すると、アルベルトはじっとカップの液面を見つめ、やがて静かに笑みを浮かべた。
「……そう。僕は、君や民を、助けられたのか」
「皇子……?」
なんだか様子がおかしい。
皇子は別に、すごく陽気だとか元気というキャラでもないが、いつもはもっと、朗々と歌うように話すのに。
ならよかった、と呟く彼に、レオは戸惑いを隠せなかった。
しばし、沈黙が落ちる。
ひどく気づまりな時間だった。
それでようやくレオは、普段、皇子がさりげなく話題を提供してくれていたことを理解した。
この雲上人に、どんな話題を投げ掛ければ会話が弾むのか、レオではよくわからなかったから。
(ええと……なんか話題、なんか話題……!)
こと金儲けのためのアイスブレイクでもないかぎり、レオのコミュニケーション能力は平凡な少年のそれだ。
陣の話がこれで終了っぽい雰囲気になっている以上、もはやどんなことを話していいのかわからない。
皇子が結局のところ、自分のことをどう思っているか――未だに処刑したいと思っているのか、そうでないのか――聞き質したいところではあったが、この状態の皇子にはそれを切りだすのも憚られる。
レオは頭の中でめまぐるしくトピック一覧を回転させ、そこでようやく二人共通の、割と穏やかな話題を思い付いた。
「あ、あの……! ご存じかも、しれませんが、私、来週の安息日、両陛下からお茶会、招かれたのです」
視線を落としていた皇子が、ふと顔を上げる。
表情は読めなかったが、ひとまず反応があったことに安堵して、レオは続けた。
イケメンすぎる人物が無表情だと、なんだか怖い。
とにかく言葉を紡いで、この場を乗り切るのだ。
「なんでも、侯爵夫妻が、掛け合って、実現したものらしく、私と、夫妻だけしか招かれない、会みたいで。あはは、そうだ、これだとまるで、お見合いみたいですね! でも、私たち、そんな……」
そんな柄ではないし、そんな気色の悪いことは起こらないって重々理解してるんで、安心してください。
そう言いかけて、レオは中途半端に言葉を切った。
不意にカップをソーサーに戻した皇子が、じっとこちらを見つめてきたからだった。
彼はまるで、その視線の先に真実があるとでも言うように、目を細め、真剣にこちらを見ていた。
「…………皇子?」
思わず、呟く。
するとアルベルトは、居住まいを正し、おもむろに口を開いた。
「レオノーラ」
まるで上等の
レオはなぜか緊張し、胸から下げていた金貨を無意識に握りしめた。
「――……はい」
「今日は君に、頼みたいことがあって来たんだ」
「……は、い」
なんだろう。
とても穏やかな語り口なのに、嫌な予感がする。
相手の口の動きが、やけにゆっくり見える。心臓が、先程からうるさい。
そうして。
「茶会が開かれるよりも前に……君が、僕の婚約者と目されるその前に。その金貨を、返してはくれないだろうか」
アルベルトがゆっくりと告げた時、レオは言葉の意味をすぐには理解できず、固まる羽目になった。
(……金貨を、返す?)
この毎日磨き込み、話しかけ、大切に大切にしている、金貨を?
「え……?」
皇子が何か言っている。
が、言葉がよく耳に入ってこない。
どこか遠くで、カシャンと小さな音がする。
カイが叫んでいる。
皇子は驚いたように目を見開き――つらそうに視線を逸らしている。
自分がどうやらカップを取り落としたらしいことに、レオはしばらく気付かないでいた。