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40.レオ、知らぬところで罪悪感を抱かれる

「んの……っ、大馬鹿姉貴!」


 狭い庭に、グスタフのドスの利いた怒声が響いた。


 花の代わりに、これでもかと野菜が埋められた花壇。

 古びているが、きちんと手入れの施された石畳。

 ハンナ孤児院の裏庭である。


 今グスタフは、全体的にこぢんまりとした孤児院に似合わぬ巨躯を屈めて、小柄な女性を叱りつけているところだった。


「導師辞めてパン屋になるだ!? 焼き加減のために御名を放棄しただ!? それが、湖の貴婦人まで従えた高位導師の、ってか、三十五のいい大人がやることかよ!」

「やだ、年齢のことは言わないでよ」


 一方、それをそよ風に乗ってきた羽虫くらいに軽く受け流した女性――クリスは、ちょっと眉を寄せて、唇を尖らせた。


「ちゃんと、恙無くあなたが彼女を寿げるようにって、御名まで託したじゃないの」

「ああ、ああ、あの遺書としか読めない手紙でな!」


 グスタフは苦虫を百匹ほど噛み潰したような渋面だ。

 彼はこの姉と話すたびに、胸の内でどんどん、紫の瞳を持つ少女への罪悪感が膨らんでいくのを感じた。


 グスタフがレオノーラ・フォン・ハーケンベルグに教えられ、ハンナ孤児院に連絡を取ったのは、五日前のこと。

 校外学習で起こった事態の事後処理に時間を取られたものの、はやる気持ちのままに院に駆けつけてみれば、そばかすの残った平凡な顔をした少年に、ちょうど次の安息日に、クリスが院にやってくる約束になっていると教えられた。

 なんでも、廃墟と化しつつあるフスハイム教会の跡地のことで、クリスと院の少年たちは頻繁に打合せを持っているらしい。


 やはり姉は生きていた。失踪していただけだった。

 しかし、なぜ。どこへ。今は何をしているのか。


 やきもきしながら待つこと五日。


 約束の安息日、早馬で駆けつけてみれば、院の玄関で目にしたのは――たくさんのパンを抱え、のんびりと院の子どもたちとおしゃべりに興じている、姉クリスの姿であった。


 市民の暴挙に絶望して姿を消したはずの姉が、にこにこと笑みを浮かべて話している時点で、グスタフは嫌な予感がしたのだ。


 かくして、周囲に素早く断りを入れ、驚きに目を見開く彼女を裏庭に連行して話を聞きだした結果。


「……っざけんなよ」


 グスタフは盛大に頭を抱える羽目になった。


 聞き出したのは、姉は迫害されたのでもなんでもなく、パンを馬鹿にされたのにブチ切れ、職務も精霊も投げ出してパン屋修業に明け暮れていたという、呆れた顛末。


「俺の苦悩は、なんだったんだよ……」


 たった一人の肉親を、害されたのでは、失ったのではと、思い詰めたあの日々は。


 だが、そう。

 思い返せばこの姉は、告白して男に振られた時も、初めて焼いたパンを焦がした時も、周囲が心配になるほど盛大に落ち込んでは、翌日になるやケロッとしていたものだった。


 グスタフは院にそびえ立っていた木の幹と腕の間にクリスを囲ったまま、がくりと項垂れた。


「やだもう、あなた、実の姉に向かって壁ドンもどきするの、やめてくれる? 無駄に体格大きいし、ものすごい圧迫感なんですけど。なに、口説きたいの?」

「誰が姉貴なんかを口説くかよ、あほか」


 おっとりと気色の悪い発言を寄越してくる姉に、グスタフは顔を顰めて身を起こす。


 幼くして騎士団に引き抜かれ、体育会系の環境で育ってきた彼は、口よりも手が先に出るのが常だったし、人との距離感も少々近しすぎることが多かった。

 おかげで、女性を口説くのには苦労したことはなかったが、自分のこうした行動傾向は、一体どれだけあの少女を追い詰めたことだろうか。


「……くそ、姉貴のせいで、罪も無いいたいけな女の子を怖がらせたじゃねえか」


 少女を見極めようとして、見込みを外したのはグスタフだ。

 しかし、つい少女を厳しく捉えてしまったのには、彼女のせいで肉親を亡くしたかもしれないという私怨があったことも、彼には否定できない。

 聖騎士としての職務と私怨とを混同させてしまったあたりも、猛省すべきことではあるが、それにしても、クリスがもっとまともに、事情を説明してさえくれていたら。

 グスタフは舌打ちをして、愚かだった己と、ろくな説明を寄越さなかった姉のことを内心で呪った。


 忌々しそうに首を振る弟に、クリスが「どうしたの?」とのんびり尋ねてくる。

 グスタフが、「無欲の聖女」と呼ばれる女子生徒との間にあった、一連のやりとりを告白すると、彼女は目をまん丸に見開いた。


「やだ! あなた、レオちゃんにそんなことしたの!? 最低ね」

「…………」


 グスタフのせっかくの精悍な顔が、仏頂面になる。

 わかってはいるが、姉に言われるのは釈然としなかった。それに、レオちゃんという呼称はなんなのだ。


 彼がそのような表情をすると、傍目には大層な迫力だったが、この大らかで図太い姉には勿論なんのダメージも無かったようで、彼女はむしろ弟を責めるように眉を顰めた。


「ちょっと見ただけで、あの子、虐待でも受けていたのかしらってことくらい、気付くじゃない? それに、禍が広まったのも、教会が大いに叩かれたのも、全ては身から出た錆――私たちの責任よ。それを、彼女を責めるような考えを持つなんて。私、これじゃあなたのことを、『この青二才め』って叱らなきゃならないじゃないの」


 彼女のその発言は、グスタフには耳の痛いものだったし、既にナターリアからも突き付けられて自省しているものではあった。

 が、やはりそれを、この姉から言われるともやもやするのは、自らが導師として未熟だからであろうか。


「……家族を、それも、俺のことを育ててきてくれた唯一の肉親を、失ったかもしれないとなったら……多少は冷静じゃなくなるだろ」


 悔し紛れに告げると、クリスは困ったように笑った。


 グスタフは体格もよく、顔付きだって獰猛と表現するのが相応しい。

 そのよく通る低い声で責めれば、大抵は相手の方が縮みあがるものだったが、この姉の前では、結局、自分はいつまでも手のかかる弟でしかないのだ。


 忌々しい思いを込めて、


「それに繰り返すが、姉貴に大人を語る資格はあんのかよ。簡単に御名を放棄しやがって」


 グスタフは姉を睨みつける。

 彼は、態度こそ軽薄だが、これで騎士という職務には誇りを持って臨んでいた。


 パンが焼けないからなどというよくわからない理由で、あっさりとカーネリエントの助精を手放し、世の中を混乱に陥れかけた姉のことを、だから彼は割と本気で怒っていたのだ。


「うーん……」


 が、クリスは動じない。

 彼女はぼんやりと、晴れ渡った雪割月の空を見上げると、相変わらずの穏やかな口調で告げた。


「まあ、ねえ。でも、なんだか、そういうタイミングの気もしたし」

「なんだと?」

「祈祷が滞りはじめて、水の気が弱りはじめたとき、もはや私がカーネリエントに頼んだのでは、充分にそれを賄うことができなかった。……なんとなく、私に力を貸すのにも、飽きてきたんじゃないかと、思ったのよね」


 精霊は気まぐれだ。 

 そして、自然の流れは揺るぎなく、壮大で、人間が一人で足掻いたところでそれを変えることなどかなわない。


「時がそれを望むのなら、教会と帝国は滅びるし、そうでないなら、生き残るのでしょう。私が取り縋っても、叫んでも、きっと流れは変わらない」


 むしろ、そうしていたら、カーネリエントの方からクリスを切り捨てていたかもしれなかった。

 精霊は、媚びない魂を愛する生き物だから。


 ――自身が介在しようがしまいが、結果は変わらない。

 けれど、誰か他の人物が彼女の目に留まれば、あるいは。


 クリスは、しばらくぼんやりと空を見上げていたが、ふふっと笑い、


「――なーんてね。つまるところ、私はパン屋になりたかっただけなわけだけど」


 悪戯っぽく弟に目配せをした。

 だが、グスタフは何も言い返さなかった。


 彼とて、精霊の捉えどころのなさは承知している。

 だからこそ、彼はどれだけ火の精霊に愛されようと、その力をいたずらに借り受けようとはしないのだ。


「……やっぱ助精なんて、クソくらえだな。ビアンカ皇女も、お可哀想に」


 その呟きに、今度はクリスが反応する。

 彼女が一体どういうことと問うてきたので、グスタフは、皇女が新たに湖の貴婦人の助精を得たこと、その陰にはレオノーラ・フォン・ハーケンベルグの活躍があったことを掻い摘んで説明した。


「まあ……! 皇女殿下が愛し子というのはともかくとして、レオちゃんたら、そんなことまで……」


 クリスは呆気にとられたといった様子だ。

 まさか御名を聞いてきた裏に、そんな意図があったとは思いもしなかったのだ。

 しかし、あの心優しい少女が、井戸も引けない市民のために奔走する姿はすんなりと腑に落ち、クリスは感嘆のため息を漏らした。


「学院に戻った後、あいつが控えに持ってた陣形を見せてもらったが、見事なもんだったぞ。水の気を恙無く循環させ、人に恵みをもたらした後は、円環を描いて湖に戻る、互恵的な美しい陣だ。ま、考えたのは皇子らしいが」


 大陣の対となる小陣は、早速優秀な生徒によって作成され、ベルンシュタイン商会を通じて、一部の貧村で試験運営が行われている。

 先の水不足で濁った沼の水しか飲めずにいた人々も、きれいな湖の水を格安で手に入れることができるようになり、伝染病の恐怖からも井戸汲みの負担からも解放された。

 人々はこぞって、陣の作り手に感謝を捧げているらしい――。


 その奇跡のような後日談をグスタフが語って聞かせると、クリスはふと悩ましげな表情を浮かべた。


「それは素晴らしいけれど……。皇子殿下が陣を描いたというのは、大丈夫なのかしら。その、お立場的に?」

「ああ。教会としては、精霊を搾取するのではなく、それと相利関係を保つ陣ということで、特に問題視はしないよう意志表示をしてある。……が、それでも貴族連中の方は、どうだろうな」


 グスタフが顔を顰めたのは、治水権を持つ古参貴族が、事態を知って大暴れするだろうことが目に見えているためだ。


 彼らは総じて腰が重く、「上下水道の貧困層への拡充」という課題には一向に手を付けようとしないくせに、既得権益を荒らされることには異様なほどの怒りを見せる。

 彼らがその不満を一斉にぶつければ、強大な権力を持つ皇帝とて、皇子になんらかの罰を与えねばならないだろう。


 教会の権力を盾に、少女の憂いを晴らす。

 そのために、少女が慕っている皇子の処罰を回避できるよう、グスタフなりに牽制を掛けたのではあるが――。


「ねえ、グスタフ」


 不意に、クリスがグスタフを見上げ、にっこりと微笑んだ。


「私と一緒に、尻拭いするつもり、ない?」


 その穏やかな、しかし力強さを感じさせる声に、グスタフは目を瞬かせた。

 これは、この一見穏やかな姉が悪だくみをする時の声、そして笑顔だ。


 ――『ガキ』に出し抜かれて逆恨みするより、その尻拭いをするくらいの気概を見せたらどうですの?


 ふとグスタフの脳裏に、とある言葉が蘇った。


 鳶色の瞳を強い怒りにきらめかせ、真っ直ぐにこちらを見つめてきた、ある少女のものだ。

 それは、無欲の聖女と讃えられる少女のものとは異なり、苛烈で、攻撃的であったが、その分彼の胸に深く刻まれたものでもあった。


「…………へえ?」


 厚めの唇が、無意識に持ち上がる。

 そんな楽しい申し出に、飛びつかないわけがない。


「俺は、何をすればいい?」


 すっかりいつもの獰猛な笑みを浮かべ、楽しげに首を傾げた弟に、クリスはにっこりと微笑み、口を開いた。

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