39.レオ、忠誠を得る(後)
カーネリエントの、その冷たいほどに白かった肌が紅潮し、冬の湖面を思わせる碧眼も潤む。
そうして、彼女は艶やかに口の端を引き上げると、優美な仕草でその場に跪き、右の手を左胸に当てた。
臣下の礼だ。
――仰せの、ままに。
「え……?」
ビアンカは呆然としていた。
突然相好を崩し、美しい笑みを浮かべたカーネリエントにも驚いたし、何より、気高く尊い至高精霊が、まさか自分に向かって跪くなどということに、彼女は思わず固まった。
だが、ビアンカが我に返り、口を開くより早く、
――まずは、祝福を。我が友に、惜しみない水の恵みが行き渡るよう……!
言の葉が弾けると同時に、湖全体が輝く。
まるで雨が逆流したかのように、湖から無数の水滴が天に向かって飛び出していった。
そのひとつひとつが、神々しい光に包まれている。
水滴は上空に散らばり、まるで砕けた太陽のように、森全体を――いや、地上を明るく照らしだした。
「なんてことだ……」
その眩しさに、グスタフも天を仰ぎながら目を細める。
このところすっかり量を減らし、均衡を崩していた水の気が、今やぐんぐんと濃くなり、湖から大陸全体へと広がっていくのを、彼はまざまざと感じ取っていた。
潤う。染みわたる。
祝福が、水の恵みが。
萎れていたトルペの花が、水を吸って蕾を膨らませる姿が、グスタフの脳裏に浮かんだ。
水不足は恐らく、今この瞬間をもって、解決されたのだ。
――ビアンカ・フォン・ヴァイツゼッカー。
やがて右手を収めたカーネリエントが、響きを味わうようにして皇女の名を呼ぶ。
立ち尽くしていたビアンカははっと我に返り、慌てて精霊を見返した。
「な……なんですの!?」
――礼はいらぬぞ。
「…………は?」
会話についていけず、ぽかんとする。
だが、ビアンカのそんな様子など歯牙にもかけぬ長寿の精霊は、一方的に言葉を紡いだ。
――我はそなたの主精となったのだ。
主精はその人の子を想い、助けるもの。
だから礼はいらぬぞ。
そなたが困った時は、ただ我が名を呼べばよい。
いつでも馳せ参じよう。
そしてカーネリエントは満足げに微笑むと、湖に溶けるように姿を消した。
――だから、礼はいらぬぞ。
と言い残して。
「……え? れ、礼? 求められているの? いないの? どちらなの? しゅ、主精?」
ビアンカは混乱した。混乱して、濡れ乱れた金髪に両手を差し込んだ。
が、そこに、
「ビアンカ様! 素晴らしいです!」
顔を紅潮させた少女が両手を取ってきた。
少女は珍しく興奮を露わにし、力を込めた両手をぶんぶんと振ってくる。
全身ずぶぬれのままだったが、その澄んだ瞳は更に潤んでいた。
「ありがとう! ありがとうございます! おかげで、カーネリエント様が! 陣が! 水が! 召喚し放題! 素晴らしいです! 素晴らしいです! ビアンカ様、最高!」
「え……? え……?」
話が見えない。
だがそこに、まるで解説するかのようなタイミングでグスタフが話しかけてきた。
「おまえ……貴婦人の怒りを解くついでに、例の陣も置いてきたのか」
「はい! 許可、ばっちり頂きました! これで、水の召喚、自由にできる、なります!」
「まったく……なんてやつだ。陣だって、この前までは途中だっただろ? 昨日の精霊紋の状態からよく完成させたな」
それは皇子が、だとか、それにしてもなんて無茶を、だとか二人が会話するのを、ビアンカは何度も耳を疑いながら聞いていた。
どうやら少女は、井戸すら整っていない下町の人々にも水の恵みが行き渡るようにと、この湖の水を召喚するための陣を配置してきたらしい。
ビアンカでは想像もつかない複雑な術式――それは兄皇子が組んだものらしいが、それを、まさかこの機会に精霊の許可をもぎ取って置いてくるとは、思いもしなかった。
(わたくしが、生徒たちの代わりに怒りを鎮めるので頭がいっぱいになっていた時に、この子は、危機を機会として瞬時に捉えなおし、市民のために心を砕いていたというの……!?)
その柔らかい心。
揺るぎない慈愛深さ。
ビアンカは改めて自分との差を思い知り、大きく目を見開いて少女を見つめた。
――もちろんレオとしては最初から最後までそれだけが狙いだったのだが。
そして、市民のためというよりは、ただただ自分の儲けのためだったのだが。
残念ながらそれを指摘する者はこの場にいなかった。
(ふは……ふはははは! やった! やったぞ! 水源確保だ! これで陣ビジネスは成功も同然だ!)
一方、ビアンカの手をぎゅうぎゅう握りしめていたレオは、ミッション成功という勝利の美酒に、へべれけになるほど酔っ払っていた。
そう、先程彼はカーネリエントと念話を交わし、「ビアンカが頼んでくるなら願いを叶えてやらぬでもない」という言質までを取り付けていたのだ。
そこでビアンカに、ちょっと強気な依頼を口にしてもらい、満足したカーネリエントが無事、召喚陣の配置を許可してくれたというわけである。
ついでに、なにか祝福のようなものも掛けてくれたようだ。
ありがとうビアンカ、ありがとう貴婦人。
ありがとうグスタフ、そして皇子。
今ならば、この世の生きとし生けるもの全てに、力強いハグと感謝を捧げられる気がする。
この功績があれば、陣ビジネスの儲けは確実にレオのもとに入ってくるだろうから。
全身ずぶぬれだったし、手は傷付いているが、そんなもの全然気にならなかった。
むしろ、今のレオは、全身これ興奮に満ちていた。
ビアンカの叫びと同時にぐんと体が引き上げられた時、咄嗟に糸を噛みちぎって湖底に手放してきた自分を自分で褒めてあげたい。超気持ちい。
それでもようやく昂ぶりが収まってきて、自分が随分長らくビアンカの両手を握りしめていたことに気付く。
レオは「わ、すみません」と言ってそれを放した。
とそこに、
「――レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ」
グスタフが再び話しかけてきた。
そして彼は驚くべきことに、なぜかすっとその場に跪いた。
立てた片膝に右腕を乗せ、その握った拳で胸を押さえる。
軽薄で粗野な態度からは想像もつかない、ぴんと背筋の伸びた――騎士の礼だ。
「今更だが――詫びる。おまえのことをさんざん誤解して、失礼な態度を取った。すまなかった」
「え……?」
突然真剣な顔で謝罪を寄越されて、レオは戸惑った。
これも何かのネタだろうか。
「いえ……そんな。先生は、なにも……」
「謝罪を受け入れられない程、怒っていたのだとしても当然だ。俺はそれだけのことをした。だが、それならば、何度でも詫びさせてくれ。その腕を拘束したこと、罵ったこと、魔術布を――おまえの想いを、踏みにじるような真似をしたこと」
苦々しく告げられて、ようやくレオは合点がいった。
なるほど、彼はどうやら、先日の痛々しいエセ肉食系行為について反省することにしたらしい。賢者モードというやつだろうか。
それがなぜこのタイミングかはわからなかったが、別に痛々しいだけで実害はなかったし、むしろ魔術布を返してくれたことについては感謝さえしているので、レオは慌てて、彼に立ち上がるように言った。
「そんな、顔、上げてください。私、何も、気にしていません」
「だが……」
「私も、考える、きっかけになったと言いますか。それに、魔術布については、先生が返してくれたから、こうして、今、湖に置いてこられました」
精霊祭を前に見事陣ビジネスの目途が立ったのは、ひとえに、グスタフの凄まじいエアリーディングスキルのおかげである。
(あ、そうだ、先生にもなんらかお礼しとかねえとな)
グスタフには、先程湖から放り投げられ全身を打ちそうになっていたところを、抱きとめてもらった恩もある。
ちょうどグスタフへのお礼としては、ぴったりのものがあったのだ。
レオはふと思い付いて、グスタフを立たせながら切り出した。
「先生。クリスさん、会ってみたく、ありませんか?」
「――なんだと?」
騎士の礼を解いたグスタフは、はっとしてこちらを見返してくる。
その琥珀色の瞳が興奮できらりと光ったのを見て、レオは、やはり彼は女性との出会いを求めていたのだと理解した。
「以前、先生に、詰め寄られてから、私、どうしたらいいんだろうって、考えていたのです。でも、そうしたら、運よく出会うことができました。クリスさんは、きっと、先生が求めていた、女性です」
だから、紹介させてください。
そう告げると、グスタフは異様なほどの食い付きを見せて、レオの両肩を掴んできた。
人相だとか、出会った経緯だとか、健康であったかなどを矢継ぎ早に問われて、そのがっつき具合に少々びっくりする。
彼もいい加減結婚し、子を持つことを考えねばならない歳だ。相手の女性には健康さを求めると、そういうことだろうか。
まあでも、エセ肉食を気取られるよりは、素直な方がよほどいいと思ったので、レオは気圧されながらも、下町のハンナ孤児院を経由すればクリスとは連絡が取れることを教えてやった。
「感謝する……!」
するとグスタフは、その男らしい顔に喜色を浮かべ、力強くレオのことを抱きしめてきたではないか。
なまじ腕力が強いので、肋骨が持って行かれそうになる。
レオが苦しそうにうめくと、彼は慌てて身を放し、過剰なくらいの詫びの言葉と共に再び跪いてきた。
「レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ。俺はこの聖騎士の名のもとに、忠誠を誓う」
「えっ!」
たかが女性を一人紹介したくらいで、騎士の忠誠を捧げてくれてしまうらしい。
それはさすがに、とレオが困惑していると、彼は眩しげにこちらを見上げて言葉を重ねてきた。
「クリスのことといい、召喚陣のことといい……。人の願いを読み取り、奔走し。不当に罵られても、傷付いても、凛として救いの手を伸ばし続けるその姿は、尊い。おまえは、俺が忠誠を捧げるに足る人物だ」
「え……、いえ、別に、そんな大したこと、したわけでは、ないのですけれど……」
実際、クリスと出会ったのは単なる偶然だ。
召喚陣のことにしたって、陣を描いたのは皇子だし、命を守ってくれたのも皇子だし、湖底からレオのことを引き上げてくれたのはビアンカとグスタフである。
レオがしたことといえば、うかうかと金貨に釣られて溺れかけ、せいぜい糸を切って、布を手放したことくらいのものだった。
もちろん、それを根拠にビジネスの利潤は分与してもらう気満々だが、別に忠誠など捧げてもらっても、困ってしまう。
「あの、どうか、立つ、ください。私、そんな、忠誠とか、捧げられるような人間では……」
レオは眉を下げて頼んだが、グスタフは頑として譲らない。
彼は琥珀色の瞳に真剣な表情を浮かべると、その力の強そうな右手をぐっと握りしめ、再び心臓に押し当てた。
右手は武力を、心臓は忠誠心を意味する。
それを騎士が捧げるというのは、最上級の敬意の表れだ。
「頼む、レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ。俺の心臓と――そしてこの右手を、捧げさせてはくれないか」
「いりません。右手は特に」
レオはつい、光の速さで断ってしまった。
だって、彼の右手はいろいろアレだ。
一方グスタフといえば、帝国内でも指折りと称される己の力を、躊躇いもなく断られてしまったことに少し目を見開いたが、すぐにそれもそうかと考え直した。
それだけのことを自分はしたのだ。
(それに……こいつは、血生臭い武力の行使など求めてねえんだろうな)
無欲にして慈愛の心を持つレオノーラ。
自己犠牲によって他者を救ってきた彼女からしたら、これまでに無数の敵を屠ってきたグスタフの力は、どちらかといえば禍々しいものに映るのだろう。
「この右手は穢れている――その通りだな」
「え」
ぎょっと目を見開いた少女に、グスタフは苦笑を浮かべた。
「いや、気遣ってくれなくていい。事実だ」
だがしかし、断られたからといって、一度捧げた忠誠を引っ込めるのも騎士の名折れだ。
グスタフはにっと口の端を引き上げ、愉快そうに目を細めた。
「それならそれでいい。俺は、俺のできる方法でおまえに尽くす。例えば――賢者にしかできない方法で、な」
聖騎士は、優れた武技の持ち主であると同時に、教会における強い権力の保持者でもある。
その最高位導師、すなわち賢者の地位を以ってすれば、恐らくはこれから帝国の妃として君臨することになる少女を、きっと守り導くことができるだろう。
要はグスタフは、血塗られた剣の代わりに、教会という名の盾を少女に捧げようと考えたのだ。
「け、賢者として、尽くす……?」
レオは戸惑っていた。
女性を紹介してもらったお礼に忠誠を捧げるというのに、なぜそれが「賢者として尽くす」ことになるのだろう。
相変わらず彼の思考回路は謎だ。
(っていうか、忠誠とかいらねえし!)
男に這いつくばられても、なんら嬉しくないレオは、困り果ててビアンカのことを見やった。
「あの、ほら、ええっと……すごいといえば、ビアンカ様です! 湖の貴婦人をも、従えましたよ! 素晴らしいですね! ビアンカ様にこそ、忠誠、捧げた方がよいですね!」
こういう時は押し付けるに限る。
実際、ビアンカが見事カーネリエントを従えてみせたのは讃えられてしかるべきことだと思ったので、レオは彼女に盛大に拍手を送ってみせた。
「レオノーラ……」
突然話を振られたビアンカは、ちょっと苦笑している。
彼女は次いで、レオのことを責めるように唇を尖らせてみせた。
「何を言うの。わたくしは、あなたの言うとおりに、拙いエランド語を叫んだだけではないの」
「ビアンカ様こそ、何、仰るのですか! それが、よかったのです。ビアンカ様にしか、できないことでした」
性格は高飛車、瞳は勝気、けれど口調は舌っ足らず、というのが、また実にカーネリエントの心をくすぐったのだとレオは分析する。
あれはまさに、ビアンカにしかできない奇跡の
レオは改めてビアンカの両手を取り、深くこうべを垂れた。
「ビアンカ様、本当に、ありがとう。私、ビアンカ様に、とても助けられました。さすがは、精霊の愛し子、です」
「レオノーラ……」
ビアンカはちょっと戸惑ったように目を瞬いている。
だがそこに、グスタフがはっきりと告げた。
「その通りだ、ビアンカ皇女殿下。経緯はどうあれ、あの気難しい湖の貴婦人を従えるなど、そうそうできることではない。あんたは間違いなく、精霊の愛し子だよ」
そこまで言われて、ビアンカは、レオに握られている自らの手をじっと見つめた。
「わたくしが……精霊の、愛し子……」
ようやく受け入れてきたようである気配を察して、レオはぱっと顔を上げた。
「そうです! ビアンカ様は、精霊の愛し子。私、前から、言っているでしょう?」
そうして、にっこりと笑いかける。
ビアンカはなぜか眩しそうに目を細め――ややあって、何か意志を固めたようだった。
彼女はゆっくりと頷くと、手を放す。
そして、自らの手に巻き付けられたままの、シャツの布地を愛しそうに撫でた。
「そうね」
そしてビアンカは、未だ跪いたままのグスタフに告げた。
「グスタフ・スハイデン導師。聖騎士としてでもいいわ。もし、このことを教会として記録を残すならば、このように書きなさい」
力強い口調に、凛とした横顔。それは、尊く気高い、帝国第一皇女にふさわしい姿だった。
「なんだ?」
グスタフが視線を上げて聞き返す。
その強い視線を涼やかな青い瞳で受け止め、ビアンカは美しく微笑んだ。
「ビアンカ・フォン・ヴァイツゼッカーは、湖の貴婦人を従えた、たしかに精霊の愛し子であると」
しかし、と彼女は続ける。
「――しかし、それを導き、目覚めさせたのは、その友人。無欲の聖女、レオノーラ・フォン・ハーケンベルグであるとね」
きっぱりと言い切った瞬間、まるで彼女の言に応えるように、湖面がきらめき、辺りに風が吹き渡った。
精霊の祝福を感じさせる豊かな自然、佇む金髪の少女と、跪く騎士。
それはさながら、一幅の絵画のようだ。
ビアンカも、そして跪くグスタフも、けしてこの瞬間を忘れることはあるまいと、その胸に確信を抱いた。
「…………え?」
ただ、黒髪の少女――レオだけが、急にビアンカまでもがネタのような二つ名を口にしたことに驚き、その紫の瞳を大きく見開いていた。