37.レオ、ネゴる(後)
(これがね、優れ物なんですよ。この一枚を湖の底に置いておけば、陣が勝手に水を吸い上げて、水を欲しがっている人のもとに届けてくれるんです。浄水とか貯水とか、細かいところは全部陣がやってくれますからね。精霊様側の仕事としてはただひとつ、この布を置く許可を告げるだけ! そうすれば、労せずにして、水不足問題がささっと解決してしまうんです!)
ただ搾取されるだけであることを、そんな風に言い替えて、レオはにこっと笑いかけた。
(今回は特別に、カーネリエント様の御名まで刺繍させていただいた、限定版をご用意しました。いかがでしょう?)
だがさすがに、カーネリエントもそこまで愚かではないらしい。
自らの湖の水を分け与える陣と聞いて、警戒したように魔術布を眺める。
しかし意外にも彼女は、そこで、ほう、と感嘆したような声を漏らした。
――なるほど? 人の子が作ったにしてはよくできた陣だ。
(え?)
きょとんとしたのはレオである。
脊髄反射で「いえいえー」などと謙遜の相槌を打ちながら、首を傾げて手に持った魔術布を見つめた。
実際のところ、この陣を作ったのは九割皇子だ。
その出来がよいか悪いか、陣の構成を理解していないレオには今一つわかっていなかったのである。
――我とて魔術にさほど明るいわけではないが、この陣はとても美しい。円環が完成しておるのだな。
精霊が人に水を分け与える。人はそれを取り入れて活動し、感謝と共に大地の歯車を回す。
感謝は祈りに、祈りは光に、光は天に届いて雨となり、再び湖へと帰ってくる。
湖はより、豊かに、美しくなっていく。
カーネリエントが、その細い指先で陣をなぞるように指差して呟くが、レオはまったくの初耳だ。
(皇子、すげえ!)
なんと彼は、複雑な陣を考えついたばかりか、その中にウィン・ウィンの関係まで落とし込んでいたらしい。
水を召喚するだけでなく、それによって湖も豊かにしようという皇子の計らいに、レオは本気で痺れた。
――皇子とな? この陣、おまえが描いたのではないのか。
(いえいえ、まさか。俺にはこんな陣描けませんよ。描いたのは、この国の第一皇子殿下です。あ、真ん中の刺繍は俺ですけどね)
レオはさもしいが、別に嘘つきというわけではない。
手柄を公正に分けるべく説明すると、カーネリエントは何やら納得した表情になった。
――なるほど。おまえが死ななかったわけがわかったぞ。
(え?)
――この陣。精霊の干渉を避ける、龍の血でできておる。
これを持っていたから、さすがな我が眷属たちも、おまえを食い殺すことができなかったのだろう。
彼女は、陣に触れようとした指が弾き返されるのを見て、顔を顰めた。
――ふん。血からさえ、「守りたい」という強烈な意志が滲んでおるわ。
(なんと!?)
どうやら自分は、陣ならびに
感謝の一言だ。
「銭を守りたがる奴」と書いて、守銭奴と読む。
ということはつまり、皇子も守銭奴というわけだ。
あの時折よくわからない理由でキレる性格さえなければ、仲良くなれるかもしれないのだが、残念である。
――……残念……? 残念なのはおまえではないのか……?
なぜだかカーネリエントが胡乱な眼差しで見てくるが、レオはそれどころではなかった。
ふと気付いてしまったからだ。
(……あれ? この魔術布が俺を守ってくれてるってことは、つまり、これを湖に置き去りにしたら、俺どうなんの?)
その瞬間、威嚇するように周囲の水が揺れた。
向き合うカーネリエントも、意地の悪い笑みを浮かべてこちらを見つめてくる。
――もちろん、我が眷属が即座に、そなたを食らうだろうなあ?
(えええええ!?)
――なに、そなたは我が名も知っているようだし、このまま帰るというのなら手は出さぬ。
そら、その陣を持って、さっさと帰るがよい。
カーネリエントは白い腕をすっと上げて頭上の湖面を指すが、レオからしてみればそんな殺生な、という感じだ。
まさかここにきて破談など。
(そんな! だって、俺、御名を唱えたじゃないですか! 湖の洗礼受けても、こうして生きてるじゃないですか! 要件は満たしたわけでしょう!?)
だからどうか、この陣を置かせて、かつ無事に湖の外に戻してくださいと頼み込んだが、カーネリエントはけんもほろろだった。
――ならぬ。洗礼を生き延びたのは、そなたではなく皇子の力ではないか。
……だが、まあ、その陣は使ってやらぬこともない。
だから、陣を置いて死ぬか、置かずに無事に戻るか、どちらかだ。
そなたのさもしい欲望に対して、破格の待遇だぞ。感謝せよ。
(えええ!? さっきは「素直で強い願いは嫌いじゃない」とか言ってたのに!?)
驚きの評価下落だ。
レオが思わず突っ込むと、貴婦人はその高貴な眉を持ち上げて、きっぱりと言い切った。
――そなたの、光の精霊と似たその姿。
なかなか愛らしい顔をしていると思うたから甘く出ていたが、どうも、中身はまるでゲスな男のようではないか。
好かぬ。
「俺」「俺」というのもうるさい。
俺っ娘などお呼びでないわ。
(えええええ!? そんな理由!?)
まさかの男嫌い発覚だ。
いや、単にレオががめつすぎるのがいけなかったのだろうか。
レオは慌てて、私、私、と一人称を変えてみたが、もはや手遅れだった。
陣を置いて命を落とすか。
命を守って陣ビジネスを諦めるか。
冷静に考えれば、もちろん後者を選択すべきだろう。レオだってもちろんわかっている。
しかし、後一歩まできているというのに、ここで引き返すというのが、彼には悔しくてならなかった。
この余分な糸を一本切って、手を放すだけなのに。
(そんな……!)
何か。何か方法はないのか。
レオが無事に湖面に戻る手段さえ、確保できれば。
レオが魔術布を握り締めて黙りこんでいると、突然、
『メブキウル・シーゲリウス・ウズマキルケ・カーネリエント! 御名のもとに乞う! どうか我が眼前に姿を現し、捕らえた人の子を解放したまえ!』
頭上の湖面が激しく揺れ、男の声が降ってきた。
少し不思議な響きの、けれど美しい古代エランド語。グスタフの詠唱だ。
(先生! 助けにきてくれたのか!)
レオは喜色を浮かべて顔を上げる。
(聞きました!? 聞きました!? 今ほら! 高潔な導師様が、御名を唱えて願いましたよ! ほらほら!)
が、カーネリエントは忌々しそうに顔を顰めただけだった。
――ふん、クリスの弟か。
詠唱は美しいが、雄臭いのが好かぬ。
やはり男は駄目だな。
(えええ!? これでも駄目なの!?)
クリスは、御名を告げ、精霊に気に入られれば力を貸してくれると言っていたが、その後半部分があまりに難しすぎやしないか。
だって、男というだけで全滅なのだから。
グスタフは外で詠唱を続けてくれているらしく、彼が御名を叫ぶたびに湖面は揺れたが、カーネリエントは水中に浮かぶようにして頬杖を付き、嫌そうに溜息をついただけだった。
――おお嫌だ。強引な感じが好かぬ。出て行きたくすらないぞ。
(なんという気分屋!)
そのフリーダムさにレオは慄いた。
こうなってくると、逆になぜ、先程は御名も告げていない時点で出てきたのだと問いたくなる。
するとカーネリエントはちらりと視線にこちらを向け、ふふんと笑った。
――そなたの隣にいた娘。ビアンカと言ったか。
あれが、美しいと思ってな。
(えっ)
確かにビアンカは美人だが、まさか湖の貴婦人のタイプであったとは。
(いやいや、一応精霊だし、心の清らかさとか、そういう観点で……?)
なんとなく、貴婦人が金髪美少女を好む図というのが受け入れがたくて、レオがそう解釈しようとすると、カーネリエントはその試みをぶった斬るような発言を寄越した。
――あの勝気そうな顔、豪奢な金髪。堪らぬなあ。
高飛車でありながら、根はいじらしい感じなのがまたよい。
あれのつんと澄まし顔をしているところを苛めて、泣かせてやりたくなる。
(ど、どS……!?)
レオの知らない世界だ。
思わずぞくりと背筋を凍らせたが、貴婦人はそんなこと知らぬ気に、うっとりと溜息を漏らした。
――いや、上から命令される感じでもよいな。
うん。それもよい。
(いや、ど、どMううう!?)
やはりレオの知らない世界だ。今度は青褪めた。
グスタフといい、カーネリエントといい、大人の世界というのは業が深い。
彼女の場合は約二千歳というから、性癖が色々こじれてしまっても仕方ないのだろうか。
(や……やべえよ、ここ、やべえ世界だ……)
今更ながらに、自らの今いる場所が危険な世界であることを悟ったレオは、あわあわと魔術布を引き寄せた。
断腸の思いだが仕方ない。
陣の配置は諦めて――
未練がましく、一本だけはみ出した余分な糸をそっと撫でた時。
『メブキウル・シーゲリウス・ウズマキルケ・カーネリエント!』
ひどく勝気な、凛とした声が、頭上に響いた。