34.レオ、森で輝く(後)
二人が森の中を彷徨って、どれほどの時間が経ったろうか。
ビアンカは、もう何度目になるかわからない謝罪の言葉を口にした。
「ごめんなさい、レオノーラ……」
その美しい顔は、泥と涙に汚れている。
白い手には、服を破って作ったと思しき包帯代わりの布が巻かれていた。
それに対する答えも、毎回同じだ。
「ビアンカ様、気にしない、ください。私、全然、平気です。それより、足元、お気を付けて」
少女のシャツの左腕は、肘から先の布が切り取られている。
そう、彼女は、蔦に足を取られて転び、その拍子に手の甲を盛大に傷付けたビアンカを手当てするべく、自らの服を切り取っていたのであった。
水の卵が割れ、草原から姿を掻き消したと思った次の瞬間。
二人はこの森の奥深くに、投げ捨てられるように出現していた。
強かに打ちつけた腰や足を擦ることしばし。
驚いたビアンカやレオが、いくら周囲を見回しても、また呼び掛けても、精霊の姿が見えることも声が聞こえることもない。
湖の貴婦人と思しき精霊も、湖の気配すら感じられなかった。
それで二人は、どうやら精霊の術を中途半端に遮った結果、予期せぬ場所に放りだされたらしいということを悟った。
慌てたのはビアンカだ。
吸い込む空気さえ緑に噎せ返るような、濃密な自然。
目印となる建物も、整備された道もない、薄暗い空間に、方角もわからず投げ出されたのでは堪ったものではなかった。
辺りには虫が這い、草木の陰には獣が走る気配もある。
彼女は皇女として普段心がけている毅然とした態度も忘れ、隣に座り込む少女の手を握りしめた。周囲を見回すアイスブルーの瞳には、うっすらと涙すら滲んでいる。
一方、相手の少女といえば、ひとしきりの驚きをやり過ごした後は、いたって冷静だった。
耳を澄ませ、ぐるりと森の木々に視線を走らせると、やがておもむろに口を開いたのである。
「――ビアンカ様。大丈夫。ここ、湖、近いようです。このまま、東、向かえば、湖、あります。木の精霊? そんなこと、言っているような」
ビアンカは驚きに目を見開いた。
「まあ……! あなた、精霊の声が聞こえるというの!?」
「え、だって……」
少女は当然だろうと言わんばかりにきょとんとしているが、本来は異常なことなのだ。
先程はなぜかビアンカにも聞こえたが、普通、高位導師でもない人間が精霊の声を聞くなど、ありえないのだから。
「やはり、あなたは、精霊の愛し子なのね……」
ビアンカが呆然とした様子で呟くのに、レオは怪訝な表情を隠しもせずに首を傾げた。
(いやいや、俺にも聞こえるのは、ビアンカ様が手を握ってるからだと思うんですけど)
先程から、ビアンカの体に触れた時だけ、まるで彼女の能力が伝播したかのように、よくわからない声が聞こえるのだ。
思えば、以前の授業でもビアンカは光の精霊を呼び出しかけていたし、本人が気付いていないだけで、凄まじい精霊力の持ち主なのだろう。
どうやらパニックになっていたり、不安がっていたりすると、声が遠のくような感触があったので、恐らく心が整っていないと聞こえないとか、そういうことなのだ。
(てことはアレか、前に光の精霊を呼び出しかけた時は、途中で諦めちゃったか、集中力が途切れちゃったかしたから、中途半端に終わっちまったんだな)
そういえばあの時、ビアンカは途中からやけに自分の方を凝視していたような気もする。
その後も表情が強張っていたり、急に涙ぐんだりしていたから、きっと情緒不安定だったのだろう。そのままいけば光の精霊も顕現したかもしれないのに、もったいないことである。
まさかビアンカの心を、美しすぎる自分の聖句が乱していたのだとは、思いもよらないレオであった。
「精霊の愛し子は、ビアンカ様です。ビアンカ様、心を落ち着ければ、絶対聞こえます。光の精霊だって、現れるかもしれません」
そんなわけで、レオはありのままの事実を告げてみたが、なぜか皇女は「そんなはずが……」とつらそうに視線を逸らしただけだった。大いに心乱れているらしい。
ビアンカのそんな様子は気懸りだったが、しかし目前に迫っている金の源泉を見過ごせるレオではない。
皇女に草原に戻るよう伝え、レオだけ勇ましく湖に向かおうとしたのだが、そうすると当のビアンカからそれを止められてしまった。どうやら、彼女も一緒に湖に向かいたいらしい。
それならばと、レオはビアンカにもこの水源探しに加わってもらうことを決めた。
さて、はぐれぬように手を取り合い、東に向かって歩き出した二人だったが、ここでビアンカが次々と災難に襲われた。
何しろ、ビアンカは姫君中の姫君。剥き出しの自然の中を、供も連れずに歩いたことなどなかったのである。
一歩歩けばぬかるみに足を取られて転び、立ち上がれば飛び出た枝で肌を傷付け、慌てて身をかがめれば目の前に迫った虫に悲鳴を上げるという有り様だった。
魔力を使って難を逃れようにも、どうやら湖に近いこの場所はよほど自然の――つまり精霊の力が強いらしく、業火を発現させるつもりで種火程度しか起こせない。
ビアンカは完全なる足手まといと化していた。
一方レオはといえば、舗装のされていない馬糞まみれのぬかるみでも颯爽と走り抜け、無数に飛び出るスリの手をするりと躱し、飛んでくる虫の転売価格を瞬時に計算できる、歴戦の猛者である。
ついでに言えば、魔術がてんで使えない彼は、魔力が使える環境であろうとそうでなかろうと、魔術的な意味において木偶の坊であることに変わりはなかったので、その点でもなんら衝撃を受けていなかった。
結果、どろどろに汚れて肩を落とすビアンカと、無傷でそれを介抱するレオ、という構図が出来上がったわけである。
「ごめんなさい、レオノーラ。わたくし、何もできない……」
今また、手を繋いだまま、とぼとぼと後ろを歩くビアンカが、俯いてまた詫びを寄越す。
レオは「気にしないで」と同じ言葉を返しかけて、眉を下げた。
実際のところ、こうして湖の近くに放り投げられたのは、レオにとっては幸運だ。
それに、ビアンカと手を繋いでいれば、精霊の声が聞こえるというのもありがたい。
確かに女性を介抱しながら歩くというのは、なかなか骨が折れる環境ではあったものの、俯瞰してみればお釣りがくるくらいの状態なのだ。そんなに謝られると、心苦しいばかりだった。
レオはぴたりと立ち止まると、ビアンカの両手を取って、心を込めて告げた。
「ビアンカ様、そんな、謝らないでください。湖に、向かう、私が決めたことです。それに私、ビアンカ様が一緒、ありがたいのです。だから、もう、謝らないで」
「レオノーラ……」
ビアンカはいよいよ目に涙を浮かべた。
今こうして、二人がわけのわからぬ場所を歩く羽目になったのは、ビアンカが不用意に精霊の掛けた術を破ったからだ。
少女が連れ去られそうになったのだって、元をただせば、ビアンカたちが精霊の怒りを買ったからだ。
にもかかわらず、自分の負うべき責任のように語り、あまつ、迷惑を掛けてばかりいるビアンカのことを、一緒にいて安心すると言ってくれるなど。
この、懐の広さ、そして慈愛の深さ。
まさに彼女こそ、無欲の聖女にして、精霊の愛し子である。
言葉を喉に詰まらせるビアンカに、少女はちょっと慌てたように、
「ね! 元気、出す、ください!」
と言葉を重ねる。
その姿に、ビアンカはあらゆる感情を押し殺し、無理やり口の端を持ち上げると、「わかったわ」と頷いた。
(よし、ビアンカ様の涙、引っ込んだ!)
女の涙はリーサルウェポン。ちらりと姿を見せるだけで男の戦意を喪失させる、恐ろしき威力を誇る暗器である。
ビアンカがそれを取り下げてくれたことで、レオはほっと胸を撫で下ろした。
(やー、それにしても、なんて恵み豊かな森!)
落ち着いたついでに、改めてぐるりと周囲を見回してみる。
崇高なる金儲けの前に不謹慎だが、実は先程から、レオは他のことでテンションが上がって仕方なかった。
(あそこに生えてる草、高めの薬草として売れるやつだよな。で、ここら一帯に生えてる木は、樹皮剥がしたら甘い液が取れるやつだ。色味もいいから、きっと質も高いぞ。この蔓で籠編んだら、いくらで売れるかなー。あの葉っぱもきれいだし、飾り用として料理屋に卸せば高値がつきそうだなー。おおっ、あそこに咲いてるのは
そう。
精霊の加護のもと生命力を漲らせる森は、高級な植物および自然食品の見本市だったのだ。
レオの個人的な指針として、泥棒は罪だが、ねこばばは許容の範囲内だ。
誰かの所有地でない森において、乱獲にあたらない程度に恵みを分けていただくのは、全然おっけーなのである。
即ち、今レオたちが立っているこの場は、高級自然食品・取り放題もぎ放題の、桃源郷のような場所であった。
(ありがとう精霊! ありがとう自然!)
計画性という点ではなにかと残念なところのあるレオだが、柔軟性や適応力には定評がある。
特に、あらゆるものを金儲けに結びつける発想力では、他者の追随を許さない。
貴族令嬢としてはまったく無駄だったスキル・「さもしさ」は、今や活躍の場を得て、生き生きと輝いていた。
そんなわけで、ビアンカが歩きにくそうにしているのを口実にしばし休憩を取り、レオはむしろ恍惚としながら、自然の恵みバイキングを決行したのである。
採取と運搬の容易さという観点で、一番に手を付けたのは薬草だ。
ざくざくと、素手で大胆かつ丁寧に取っていき、蔦で編んだ簡易の籠に収めていく。
それをクッション代わりにして、形のよい葉を数十枚、椿の花と実もついでに確保した。
樹液も集めたいところだったが、こちらについては道具が無いため諦める。
更に、小腹が空いてきたタイミングで巨大な蜂の巣を見つけたので、ビアンカに火を起こしてもらってその煙で蜂を追い払い、ありがたく蜂蜜を頂戴した。
「無人島に連れて行きたい人ランキング」三年連続ナンバーワン(ハンナ孤児院調べ)の座は伊達ではない。レオにかかれば、この世の全ては換金価値のある商品で、大抵の困難は屁の河童なのである。
そんなわけで、一通りの労働を終えた時、レオの目は、大作を作り上げた職人か、偉業を成し遂げた革命家のような、満足気な光で輝いていた。
豊作だ。
実に素晴らしい。
「ビアンカ様。これ、薬草です。こうして、揉んで、つける、切り傷に、よく効きます」
獲れ高がよかったので、レオは機嫌よく薬草の一部をビアンカに分けてやった。
レオならばこの程度の傷など放置しておくが、相手は女性だし、精霊の言葉をレオに聞かせてくれる、歩く翻訳機のような貴重な御仁。それくらいの礼は尽くすべきと考えたのだ。
礼がその辺に生えている草という時点で色々アレだったが、要所要所の折り合いの付け方が、極めてラフなレオであった。
「レオノーラ……」
一方で、痛む足を休め、ずっと地面に
先程から少女は、何もできないでいるビアンカに代わってせっせと動き回り、薬草や美しい椿、蜂蜜を取って来ては、それを見せて慰めてくれる。
時折そっと手を取り、
「大丈夫、ですよね?」
と様子を窺いすらして。
まさかそれが、「これくらい取っても、乱獲じゃないよね? 精霊、怒ってないよね?」と
見れば、少女の手の方がよほど傷付いている。
白く滑らかな手は爪まで泥にまみれ、鋭い葉をもつ薬草のせいで、無数の赤い線を走らせていた。
蔓で籠を編んだ時に引っ掻いたのか、その甲には痛々しく血まで滴っている。
ビアンカは眉を寄せて、
「あなたの方が、よほど傷だらけではないの」
と呟いた。
しかし少女は、きょとんと首を傾げて、
「え? このくらい、大丈夫です。慣れてます」
と、こともなげな様子だ。
その言葉にある疑問を覚え、ビアンカは思わず尋ねてみた。
「慣れているって……。なぜレオノーラは、こんなにも、薬草や、森の中での過ごし方に、詳しいの?」
「え?」
少女は、予想外のことを聞かれたとばかりに目を瞬かせると、その後、ちょっとばつが悪そうに微笑んだ。
「薬草、よく、取りに来ていましたから」
「え……?」
穏やかでない発言に、ビアンカの心臓がどくりと嫌な音を立てる。
言葉も流暢に話せないほど人と隔離されていたなら、薬草を摘んで売るなどできたはずもない。
ということは、薬草を取りに来たというのは「自分のため」であるはずで、つまりそれは――
ビアンカのえぐい想像を裏付けるように、少女が小声で呟いた。
「だめだと、言われていましたが、我慢できなくて。こっそり、抜け出しては、薬草、食べ物、採っていたのです。いくらあっても、足りなかった」
レオの金儲けの衝動は、注意されたくらいでは到底我慢できるようなものではなく、いくら売っても満足できなかったのである。
「見つかったら、怒られて、余計に薬草や食料、必要になってしまいましたけど」
言いつけを破ったレオは、時にハンナに小遣いを減らされ、一層稼がなくてはならない状況に陥ることも多かった。
しかしそれも、「こいつに金儲けさせるのでは罰にならない」とハンナが気付いたことで、めっきりと無くなったのだが。
ブレない金銭欲の勝利である。
「レオノーラ……!」
しかしそんなこととは知らぬビアンカは、少女が、痛みをこらえきれないほどに打ち据えられ、薬すら与えられずに放置され、しかも監禁を抜け出したことで更なる折檻を受けたのだと解釈し、ショックに青褪めていた。
少女はそんな壮絶な過去だったというのに、懐かしがるように目を細め、
「春は花、夏は野草、秋は果物……。森はいつも、私に、いろんなもの、くれました。私、本当に、感謝、しているのです。自然は、いつも、分け与え、温めてくれる。本当に、偉大ですね」
そんなことを口にしているではないか。
(いやほんと。ありがてえよな、自然ってのはさ。取られても取られても文句一つ言わねえで、懐をあっためてくれるしよ)
もちろん、その程度のことしか考えていないレオは、「ありがたや、ありがたや」と内心で呑気に手を合わせていただけであった。
突き抜けた金銭欲の前には、雄大な自然すらタカる相手でしかないのである。
しかしビアンカは、森の木々に優しく目を細める少女の姿に、身を震わせるほどの衝撃を覚えていた。
(この子は……! どんな過酷な状況からも、一筋の希望の光を見出して、それに感謝を捧げて生きているというのね……!)
なんと尊く、穢れなき心。
彼女の魂は、皇女として甘やかされて育ってきたビアンカなどとは全く異なる。
幾多の困難に鍛えられ、磨き抜かれた、至高のものなのだ。
「レオノーラ……」
ビアンカは、きゅっと口を引き結ぶと、沸き上がる衝動のままに、自らのシャツの裾を破り、少女の傷だらけの手に薬草ごと巻きつけた。
この手は、少女そのものだ。
傷付き、泥にまみれ、けれど本来の美しさを欠片も損なうことなく、多くの恵みを創りだす。
ビアンカはかつてそれに嫉妬した。自分と比べ、焦りもした。
けれど、今、彼女はそのような負の感情の一切を捨て去っていた。
だって、少女の受けてきた試練と、自分のそれは、あまりに違うから。
この圧倒的な受難と、それを乗り越えてきた少女の気高さに、ビアンカはただこうべを垂れるしかないから。
「――わたくしは、誓うわ」
「え?」
だからせめて、ビアンカは誓った。
きょとんと首を傾げている少女の紫瞳を真っ直ぐに覗き込み、その澄んだ輝きに刻み込むように、きっぱりと告げた。
「あなたに、誓う。わたくしは、あなたにけして敵わないけれど……でも、わたくしにしかできない方法で、きっと、この魂を磨いてみせる。あなたの友として、姉様として、恥ずかしくないように……!」
きっと自分は傲慢だったのだ。
少女にふさわしくありたいと言いながら、心のどこかでは、この少女に打ち勝っていたいと願っていた。
この少女よりも、常に優れていなければと思っていた――ただ自分が、年上だから、皇女だからという理由で。
だが、二人の間に横たわる差というのは、そんな次元のものではないのだ。
いくらビアンカが足掻こうと、彼女がその身に受けてきた凄まじい試練と困難には、到底敵わない。
そしてそれを認めると、不思議なことにビアンカの心には余裕が生まれた。
越えられない、けして。
けれどせめて、恥ずかしくないように。胸を張って隣に立てるように。
自分にとって最大の、努力を払うことはできる。
「誓うわ――!」
もう一度口にした瞬間、ビアンカは自らの心に、さあっと爽やかな風が吹き渡るのを感じた。
それは、自己嫌悪だとか、怯えだとか、この森で彼女が鬱屈させていたものを吹き払い、ただ凪いだ湖面のような、透徹した覚悟だけを残した。
その時である。
――おや、なんと美しいこと。
どこからともなく、高貴なる女性の声が、響いた。