33.レオ、森で輝く(中)
「――……くそっ」
グスタフは焦っていた。
鬱蒼と茂る、森の最奥。
無数に張り巡らされた枝が、陽光を遮るその場所は、朝だというのに薄暗い。
すぐに足を絡め取ろうとする蔦性植物を器用に避けながら、彼は滲み出る汗を拭った。
(ここも、違った。となれば残るは、東端にある湖の方か)
そう。
彼は、演習場に着くなり集団を抜け出し、湖の貴婦人の探索を行っていた。
魔術の演習を目的としたイベントであるという性質上、精霊学講師である彼の存在はおまけのようなものだ。グスタフはありがたくその立場に甘んじ、普段の威圧的なオーラを抑え込んで、するりと集団を抜け出すことに成功していたのである。
彼の主精は火の精霊であったが、助精を乞う――つまり独占的な契約をしているわけではないため、他の精霊とも割合仲良くできる。
通常であれば、森に漂う精霊達に片っ端から声を掛け、早々に湖の在り処や貴婦人の有無を聞き出すのだが、今回ばかりはそれができず、彼は自らの足で森を歩きまわる羽目になっていた。
理由は二つ。
一つには、湖の貴婦人に近しい精霊たちが、グスタフのことを「
もう一つは――グスタフの精神それ自体が、いつになく乱れているからであった。
「くそ……っ」
彼は、手近にある幹に手を掛け、苛立ったように頭を振った。
そうして振り払おうとしたのは、目を潤ませ、困惑したようにこちらを見上げる紫瞳の少女の姿だ。
――彼女は、自分が判断していたような、ふてぶてしく計算高い、聖女気取りの人間などではなかった。
ただ役に立つことでしか自身の存在価値を信じられない、いたいけで無力な幼い子どもだった。
その事実は、時間と共に彼の心に染み込んでいき、ますます彼を苦しめた。
ナターリアからもたらされた痺れは取れたが、苦々しい罪悪感は、今もどす黒い染みのように心に広がったままだ。
(なぜ俺は、そんなことに気付けなかった……?)
華奢な体、怯えた眼差し、拙い言葉遣い。
ヒントは沢山あったのに。
自分はそれらよりも、少女の動じなさや、異様なほどの思考の巡らせ方に、警戒ばかりしてしまった。
あまつ、単に周囲が、壮絶な過去を持つ少女を守ろうとしていただけだったのを、侍らせていると勘違いするなど。
(確かに、胡散臭い瞬間があったと思ったんだ――いや、そんなの言い訳にもならねえ)
騎士として、弱き者を虐げるのは最低の行為だ。
しかもビアンカが始終張り付いているせいで、未だ詫びの一つも寄越せていない。
グスタフの焦燥は募るばかりだった。
(それに、姉貴のことも、聞けてねえ……)
あの時、少女は確かに、導師のクリスから御名を聞いたと言っていた。
湖の貴婦人の御名は、一部の高位導師しか知らないはずだ。
彼女がクリスと何らかの接触を持ったのは間違いないだろう。
(あいつは、以前、時間をくれと言っていた。俺の不安と焦りを見抜くような言葉を寄越して、それについて考えてみるとも)
そして次に会った時には、「必ず会わせる」「願いを叶えてやる」と告げたのだ。
つまり少女は、グスタフにも救いの手を伸ばそうとしたのではないか。
自らが出遅れたせいで姉を失ったかもしれないという、グスタフの懊悩を見抜き、かつ、クリスの生還という願いを叶えようと――
グスタフは眉間に皺を寄せた。
いや、やはりありえない。
クリスの失踪については、ロルフ・クヴァンツのように嗅ぎまわれば把握できるかもしれないが、不当に彼女を貶しめた相手のことを、なぜ救ってやろうなどと思うのだ。
しかし、ナターリアの語る少女像が真実だとしたら。
自らを
「――……くそっ」
グスタフは再度、幹を叩く。
精霊が非難するように、ざわりと枝を揺すらせた。
とその時、
「スハイデン導師! ここにいたのですか! 非常事態です!」
新任の講師が慌てた顔で走り寄って来た。
その姿を認め、グスタフは億劫そうに眉を寄せて顔を上げる。
「ああ? 非常事態だ?」
「まったく、必要な時に限っていらっしゃらないなんて、なんというお人です! ――いや、今はそれどころではありません、とにかく一度旗の広場にお戻りを!」
グスタフと同時期にハーラルトの後任として派遣された、中流貴族出身の魔力学講師は、素朴な顔に焦りと苛立ちを浮かべて叫んだ。
彼から草原で起こったことを聞かされて、グスタフは表情を一層険しくする。
「精霊が暴走して、皇女殿下とレオノーラ・フォン・ハーケンベルグを攫った……?」
「生徒の話では、火の魔術を行使した途端、巨大な火柱が立ち上がったと。止めようとした皇女殿下とハーケンベルグが連れ去られたそうです」
「こんだけ森の近くで、精霊力ならともかく魔力で火を起こす奴があるかよ!」
精霊たちが怒りを覚えた理由を悟って、グスタフは一喝した。
が、すぐに「悪ぃ」と詫びを寄越す。
こんな基礎的なことすらわからないほど、学生たちはハーラルトの良いように偏った知識を詰め込まれていたのだ。実践ばかりに話を絞り、それらのことに言及せずにいた、明らかにグスタフの責任だった。
貴族と市民。学院ではその対立ばかりが取り沙汰されてきたが、本当は、魔力と精霊学――皇族と教会の隔たりだって、無視できないほどに大きい。
精霊の常識を知らぬ魔力学講師に、その辺りのことまで教えてやるのも、グスタフが果たすべき使命のはずだったのだ。
「――状況を、詳しく。現象の起こり方がわかれば、ことを起こした精霊が特定できるかもしれねえ」
広場に向かいながら、低く冷静な声で指示しはじめたグスタフに、講師は反感と安堵を混ぜ合わせたような表情を浮かべた。
「それが、殿下とハーケンベルグは、上空に向かって、恐らく精霊と会話していたようなのですが、周囲の生徒にはその声を聞くことができず。ただ、二人は、『湖の貴婦人』がどう、と言っていたと」
「湖の貴婦人だと?」
――ざわざわざわっ
途端に、周囲の木々が反応したかのように葉を揺らす。
その中に微かに精霊の声を聞き取り、グスタフははっと顔を上げた。
――おや、「捧げもの」を捕まえたのか。
――これで御方様のご機嫌が直ればよいのだが。
――本当に。
(「捧げもの」だと?)
穏やかでない話だ。
これでは、助精を乞うどころではない。
グスタフは咄嗟に古代エランド語に切り替えて、辺りに漂う精霊たちに、二人の生徒の行方を問うた。
が、その口調が鋭すぎたためか、はたまたクリスの弟というところを嫌がってか、くすくす笑うばかりで答えてくれない。
グスタフに最も厚い加護をもたらす火の精霊も、この森では勢力が弱いらしく、姿が見えなかった。
つまり、――自力で、貴婦人が棲まう湖に、向かうしかないのだ。
「――……は」
グスタフはその琥珀色の瞳に強い意志を光らせた。
精霊は気まぐれだ。
助精を乞い、それに縋るばかりでは、救いたい相手を救えない。
だからグスタフは、聖騎士として精霊を敬いながらも、いざという時は自らの力で難局を乗り越えてきた。そうすると結果的に、精霊の方から擦り寄ってくることが多いのだ。
グスタフは素早く思考を巡らせると、新米講師に告げた。
「生徒及び講師たちに至急通達を。火系の術に限らず、これ以上森に向けて魔力を放つことは許さない。今、精霊たちは祈祷不足で気が立ってるんだ。二人だけでなく、他の生徒も連れ去られる恐れがある。演習は中止、生徒を学院に送り返すぞ」
きっぱりとした口調で指示を飛ばしながら、足早に道を進みだす。
「ち、中止、それはそうですが、学生たちも総出で、二人を探しだそうと――」
「あほか」
講師がおろおろと背後から話しかけてきたので、グスタフはくるりと向き直った。
その精悍な顔に、獰猛な迫力を滲ませる。
彼はひょろりとした相手の胸倉を掴み上げるようにして、言って聞かせた。
「大挙して森に踏み入ったら、失踪者を増やすだけだ。通常なら精霊力なんぞ魔力には敵わねえが、これだけの自然――ここは精霊のホームだ。何が起こるかわからねえ。ことを悪化させる前に、生徒たちには立ち退いてもらうぞ」
「は、はい……!」
気迫に呑まれた講師が、かくかくと頷く。
生徒たちは一ヶ所に集めて転移に備えること、危機があればエランド語を唱えさせること、転移の魔法陣は念の為、魔粉ではなく土と草で描くこと。
グスタフは更に矢継ぎ早に指示を飛ばすと、「じゃ、後は頼んだ」と踵を返した。
「え!? 導師は、どこに行かれるので!?」
「連れ去られた二人のもとへ。当然だろ?」
こともなげに答える彼の視線は、既に東――貴婦人の棲まう湖の方角へと向けられている。
精霊は、傲慢な魂の持ち主の前にはけして姿を現さない。
しかし、あの無欲な少女であれば、気まぐれと評判の至高精霊も、きっと食指を動かすことだろう。
(いくらあいつが湖の貴婦人を探していたとはいえ、姫さんが張り付いている以上、そうそう湖に近付くことはあるまいとたかを括っていたが……まさか精霊の方から引っ張られるとはな)
気に入られれば祝福を授けられるし、少女の場合その可能性も高いように思われるが、なにぶん掴みどころの無さと残忍さで知られる相手だ。
一歩扱いを間違えば、湖に引きずり込まれることもありうる。
救出には、慎重さと迅速さが同じだけ求められた。
それにしても、至高精霊に捧げられようとしている生徒を救出し、その上で、更に水不足を解消するための助精を乞うとなると、相当のハードルである。
しかし、
(ガキの尻拭いをするくらいの気概を、俺もちっとは見せねえとなあ?)
グスタフは琥珀色の瞳を、虚空に向かってすっと細めた。