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32.レオ、森で輝く(前)

 ヴァイツゼッカー帝国学院、下級学年合同で行う校外学習は、十人ほどの縦割りのグループになって執り行う。

 年長の学生がその場を取り仕切り、班内で魔術を披露しあうのだ。


 例年であれば、暗黙のうちに貴族と市民が分かれて編成されるのが常であったが、今年はビアンカ下級学年長の意向もあり、両者の区別はなされていない。

 早朝のコルヴィッツの森には、学年も身分も異なる学生たちがひと塊となって、続々と魔法陣から召喚されていた。


「ここが、コルヴィッツの森……」


 動きやすいようにと、薄墨の作業服(サバラン)ではなく乗馬服をまとったレオは、眼前に広がる儲けの源泉、もといコルヴィッツの森に目を輝かせた。


 簡易の陣が引かれたのは、木々が開け、広大な草原のようになっている場所だ。

 その真ん中には大人の背の高さほどの赤い旗が立てられ、この旗が見える範囲までは、自由に森に踏み入ってよいことになっている。あまり奥まで入り込んでは危険だから、ということだろう。

 確かに、整備された石畳も堅固な建築物もないその場所は、猛々しい程の緑と、自然の匂いに溢れていた。

 箱入り育ちの令嬢たちは、興味深そうにしながらも、少々の戸惑いを目に浮かべているのが見て取れる。


(ま、俺としてはホームみたいなもんだけどな)


 レオはちょっと懐かしい思いで、草の匂いを吸いこんでみた。


 財政難に陥った時には、孤児院のメンツでしょっちゅう森に繰り出しては、食料を確保してきたものである。

 許可なく裏山から野草を摘んでくるのにハンナは良い顔をしなかったが、レオたちはその目をかいくぐっては、ピクニック気分で食料採集に勤しんでいた。


 つい癖で、あの山菜は取れるかな、あの動物は狩れるかな、などと鷹の目モードになりかけた自分に気付き、レオはぷるぷると頭を振った。


(いかんいかん、今日の目的は湖の探索! 目先の欲に囚われるなよ!)


 正しくは、この演習の目的は魔術の鍛錬と交流である。

 しかしレオの脳裏に、もはやそのようなカリキュラムの意義など欠片も残っていなかった。


 胸元には、昨日皇子から陣を施してもらった魔術布を忍ばせてある。糸一本を切り落とせば、もれなく召喚陣の完成だ。

 レオはわくわくしながら、演習をぶっちし、集団を抜け出すタイミングを窺いはじめた。


 ところがそこに、


「レオノーラ! 乗馬服姿なんて初めて見たけど、とても素敵ね!」


 帝国第一皇女・ビアンカ殿下が盛大に抱きついてきた。


 彼女もまた、長い金髪を美しくまとめあげて、シャツとパンツにロングブーツという装いに身を包んでいる。

 見慣れぬ姿ではあったが、快活な服装も勝気な彼女には似合っていたので、レオは「ビアンカ様こそ」と無難に返しておいた。


「ふふ、今日の演習はね、あなたはわたくしと同じ班よ、レオノーラ。一日よろしくね」

「え」


 思わずぎょっと目を見開く。

 昨日お茶をしていた時には、「同じ班になれなくて残念だわ」と嘆いていたから、すっかり油断していたのに。

 下級学年長に張り付かれては、こっそり授業を抜け出す計画が、一気に難しくなってしまう。


「な、なぜ、ですか?」

「なぜって。もちろんあなたを守るためですわ。昨日の様子も気懸りだったし……なにせ今日はあの最低導師も一緒なのですもの。下級学年長の権力を濫用するのはいかがなものかと躊躇っていたけれど、もはや四の五の言っていられないわ」


 睫毛が触れあいそうなほどぐっと顔を近付けられ、レオは顎を引いた。


「さ、最低導師から、守る……?」

「ええ! 安心してちょうだい、レオノーラ。あの男を、あなたに一歩たりとも近付けはしないから。ふん、クズ(・・)タフめ!」


 鼻息荒く宣言しているビアンカにレオは首を傾げたが、ちょっと考えて、ようやく合点がいった。


 恐らくビアンカは、渾身の刺繍を施した魔術布を放り投げられたことで、レオが侮辱されたと思っているのだ。


「あ、いえ、あの、別に、私、グスタフ先生のこと、気にしていないと、いいますか……」


 むしろ感謝しているといいますか。


 しかし、レオが言い切る前に、ビアンカは「もう!」と叫び、レオをぎゅうぎゅうと抱きしめてきた。


「あなたったら、どうしていつもそうなの!? 悲しい時は、悲しいと仰いなさい!」

「え……」


 繰り返すが、魔術布の返却を望んでいたレオからすれば、グスタフの行動はむしろありがたいものだったのだ。

 そもそも、繊細な乙女心を持っているわけでもない彼からすれば、たかが布を放り投げられたくらいで、そこまで悲嘆にくれなくてもいいように思われた。


 しかし、ビアンカに逆らえない気迫を感じたレオは、ひとまず「あ、はい」とそれに従った。


「ふん、あの男、しきりとこちらを窺っているわね。あの顔……少しは反省しているようだけれど、今更謝罪を寄越すつもりかしら。そうはさせなくってよ」


 義侠心厚き皇女殿下は、ぎゅうぎゅうと抱きついたまま、レオの背後にいるらしいグスタフを睨みつけている。

 レオとしては、むしろ一緒に湖探索に出かけたいくらいの思いではあったのだが、その恨みの籠った声音に、ひとまず彼女の機嫌が収まるまでは、グスタフに接近しない方がいいであろうことを悟った。


(ま……まあ、後で声掛ければ、大丈夫だよな?)


 そういえば、昨日は気が急くあまりクリスの紹介もできていなかった。

 グスタフは相当切羽詰まっていたようなので――やはり、年頃の男が精霊祭に独り身というのは辛いのだろう――、できれば早めに彼女との繋ぎを作ってあげたい。

 金儲けのことで埋め尽くされた脳内の、ほんのわずかな余白に、「できればグスタフ先生と話すこと」とメモしたレオは、ビアンカをやり過ごし、演習を抜け出すタイミングを窺った。


 ――のだが。


(く……っ、なんという計算外……!)


 一時間後、レオは草原の片隅で、読みの甘い自分を殴ってやりたいような思いを噛み締めていた。


「ビアンカ様、ご覧くださいませ! わたくし、閃光の魔術を身に付けたのですわ!」

「まあ素敵。色も鮮やかね」

「ビアンカ様、俺……いえ、私は、筋力を増強する魔術を研究しているのです。どうぞこの上腕二頭筋をご覧ください!」

「まあ立派。僧坊筋もこなれているわね」


 帝国第一皇女にして下級学年長のビアンカに接近したがる生徒は後を絶たず。


「レオノーラちゃん、見てくれ、君の映像記録の魔術にインスパイアされて、帝国史を自動編纂する立体映像記録術を編み出したんだ!」

「……わあ……」

「レオノーラ、わたくしの魔術もご覧になって! 炎に特化して、獣の肉ならば一瞬で焦がすほどに温度を高めましたのよ!」

「……これからの、行楽シーズン、重宝しますね……」


 ついでに、その隣に座らされているレオにも、もれなく話しかけてくれてしまうのである。


 関心を避けるべく、なるべく草原の隅に移動してきたつもりだが、それでも人の波は途切れることなく、同じ班の生徒ばかりか、隣の班までもが合流してくる有り様だ。

 ビアンカ歓び組の皆様は、彼女の歓心を買おうと派手な魔術の披露にこれ努め、ついでにレオにも感想を求めてくるものだから、一向に抜け出す隙が見つからない。


(お貴族様の校外演習って、もっとユルいもんじゃねえのかよ!)


 おかしい。

 事前情報では、生徒達は適当に魔術を一、二時間披露した後は、気の合う者同士で固まって社交に勤しむという話だったのに。

 なぜこんな、ガチな天下一武闘会のような様相を呈しているのだろう。


 ――レオは、普段話しかける機会の少ない他学年の生徒たちが、ここぞとばかりに麗しの侯爵令嬢にアピールを試みているのだとは、まったく思いもしなかった。


(くそ、時間がねえのに……!)


 校外学習は、日没までだ。

 今はまだ昼前ではあるが、最悪の場合三つの湖を巡らねばならないことを考えると、少しでも早く抜け出したかった。


 いっそ、こっそりではなく堂々と、森の中に駆け込んでしまおうか。

 いや駄目だ、そんなことをしたら、下級学年長のビアンカに連れ戻される。これで彼女は、責任感の強い人間だから。


 同様の理由で、「授業よりも金儲けを優先したいから、フケさせてください」と彼女に打ち明けるのも躊躇われた。一喝される将来しか見えない。


 そわそわと森の奥を見つめていると、それに気付いたビアンカが隣から怪訝な眼差しを寄越した。


「どうかして、レオノーラ? 先程からそわそわと森の方を見て」

「いえ……、少々、気になる、ことが……」


 気もそぞろといった様子で、吸い寄せられるように森の奥を眺める少女に、ビアンカは金の眉を顰めた。


「それは……昨日から、あなたが気にしていたことですの?」

「え?」


 少女が紫の瞳を瞬かせる。

 ビアンカは彼女の腕に触れて、まっすぐとその視線を捉えた。


「結局わたくしは、あなたが何を懸念しているのか聞けていないわ。……ねえ、教えてちょうだい、レオノーラ。あなたは、今日、何が起こると思っているの?」

「え……」


 困惑したように瞳を揺らした少女に、ビアンカは言葉を重ねた。


「ねえ、これでもわたくしは下級学年長よ。魔力だって――皇族としては少ないけれど、それでも他の貴族令嬢に比べれば多い方。お兄様には敵わないかもしれないけれど、でも、わたくしにだって、頼って……?」


 ビアンカはこれで、必死だったのだ。

 今度こそ、少女を守らねばという使命感に燃えていた。


 昨日から少女が、何を不安に思っているかわからない。

 昨日の内に聞き出そうと思っていたのに、グスタフの一件があったせいで、うやむやになってしまっていた。

 グスタフとのやり取りで、少女が何か、この森で「湖の貴婦人」とやらを探そうとしていることは察せられたものの、それが誰で、なぜなのかも把握できていないのだ。


 兄皇子に聞こうにも、なぜか彼は昨日から王宮に向かったらしく会えずじまいで、醜態を見られたナターリアにも、ばつが悪くて尋ねられなかった。

 まさかグスタフに聞き出すわけにもいかず、ビアンカはべったりと少女に張り付いてその動向を見張りつつも、内心ではやきもきしていたのである。


「本当のことを言えば、わたくしも先程から何か、ちょっと不穏な気配を感じているの。自然が猛々しすぎるというか、風の香りがいつもと違うというか……もちろん、ここは森だから、当たり前なのだけれど……」


 ビアンカたちが座っているのは、草原の中でも一番森に近い場所だ。

 背後には鬱蒼と木々がそびえ、頭上にもその枝を大きく張り出している。

 草原の真ん中に立てられている旗は小指の大きさに見える程度。なだらかな草原に集う多くの生徒たちとも離れ、声も届かないくらいである。


 王宮と学院――帝国の中心で育ったビアンカは、実はこのような剥き出しの自然に免疫が無い。

 そのためなのだろう警戒心が、彼女を一層不安に駆り立てていた。


「もしあなたが、何か不吉なことを見通しているというのなら――」


 ビアンカが身を乗り出した、その時。


「きゃああああっ!」


 先程強力な炎を出すと息巻いていた生徒が、突然腰を抜かしてその場に倒れ込むのが見えた。


「どうしたの!?」

「火が……っ、火が……っ!」


 彼女たちの前に広がっていたのは、目を疑うような光景だった。

 女子生徒が出したと思しき炎が、渦を巻く突風に吹き上げられ、禍々しい火柱を出現させていたのである。


「何をしているの! 早く消火の呪文を唱えなさい!」

「と、唱えているのですが、き、消えなくて……!」


 制御を失った炎に、女子生徒が焦燥を浮かべて叫ぶ。

 ビアンカは素早く立ち上がって、炎に向かって手をかざしたが、彼女が術を行使するよりも早く、その耳に響く声があった。


 ――無礼者め。

 ――この地を何と心得る。


「――……え?」


 とても人の声帯から紡がれたとは思えない、風の唸りのような、地響きのような、声。

 ビアンカは咄嗟に周囲を見回した。


「誰!? 誰ですの!?」


 ――ほう、我々の声が聞こえるか?

 ――これは、珍しいこと。


 理解を超える現象に、ビアンカは一瞬呼吸すら忘れて眉を寄せる。

 呆然と立ち尽くす彼女の腕に、


「ビアンカ様……?」


 その時少女がそっと触れた。


 ――御方様は、未だご機嫌が優れぬ。これなる娘を、慰みに連れていくのもよいかもしれぬなあ。

 ――さよう。湖の貴婦人に捧げられれば、人の子としても名誉なことであろうよ。


「湖の、貴婦人……!?」


 その間にも続いていた、何者かの「会話」を聞き取り、少女が大きく目を見開く。

 それでビアンカは、はっと我に返った。


「レオノーラ! あなたにも聞こえているのね!?」

「え、あ、はい……!」


 レオは肩を揺さぶられる勢いで問われて、慌てて頷いた。

 聞こえているというか、ビアンカの腕に触れた途端聞こえてきたのだが。


(えっ、なになに今の!? 空から聞こえる声……。文脈的にも、これってもしや、精霊の声か!?)


 金の精霊の存在を信じ、今日にいたっては水の精霊に会いに行くつもりですらあるレオだが、特に高位導師でもない彼が、「何もない空間から声が聞こえる」などという経験をするのは初めてだ。

 やべえ、俺精霊の声聞いちゃった、すげえ! といった、大変今更な感想を抱きながら、レオはビアンカに肯定を返した。


「聞こえ、ました。湖の貴婦人のもと、連れていくと」


 ――おや。この黒髪の方も、我々の声が聞こえるようだ。

 ――ほう。では、二名とも連れて行こうか?


 その展開に、レオは大きく目を見開く。

 興奮を抑えきれず、思わずビアンカの服の裾をきゅっと掴んでしまった。


(何そのおいしい展開! 俺のことも案内してくれちゃうわけ!? タダで!?)


 理由はよくわからないが、なんだか湖の貴婦人の無聊(ぶりょう)を慰める役割に任命されたらしい。

 精霊の力でひゅっと湖まで運んでくれるということであれば、これに勝る幸運はなかった。

 三つある湖を探索する手間も、時間も省ける。

 カネに置き換えれば、一体どれほどの価値があることか。レオの胸は高鳴った。


「だ、大丈夫よ、レオノーラ。わたくしが、そんなこと、させないわ……!」


 一方で、怯えた少女がきゅっと裾を掴んできたものと思ったビアンカは、その手を上から包むように握り返しながら、悲壮な覚悟を決めた。


 機嫌が優れないという「湖の貴婦人」。

 気を荒げた精霊のもとに、慰みに連れて行かれ、捧げられるというのは、即ち命を取られるということだ。

 そんな場所に、少女を連れていかせるわけにはいかない。


(導師は、レオノーラの方が湖の貴婦人を探しているような口ぶりだったけれど……)


 ふと昨日の聖堂でのやり取りを思い出し、ビアンカははっとした。


 もしやこの少女は、水の至高精霊が気を荒げているのを悟って、自ら犠牲になりにいこうとしていたのではないだろうか。

 他の生徒たちが巻き込まれないよう、先んじて湖に赴いて。


 少女の性格に照らせば、考えられないことではなかった。


(だめよ……! そんなこと、させるものですか!)


 ビアンカはぐっと手に力を込める。

 ハーラルトの陰謀を明かす際、少女が誰にも打ち明けず、一人攻撃に身を晒したことは、ビアンカの心にも大きな衝撃を与えていた。


 自分は彼女の「姉様」なのだ。

 もう二度と、彼女をひとり追い込むことなどさせない。


「無礼者! わたくしを誰と心得ます! 誰が、のこのこと連れて行かれるものですか!」


 ビアンカは握り締めた拳を、声の響いていると思しき上空に突き上げると、勢いよくそれを開いた。

 途端に、ごうっと風が唸る。


 ――何を……っ!


 巨大なつむじ風は、火柱を渦巻かせていた風をほどくような格好で吹き渡り、周囲に火の粉を飛ばしながら熱を弾き消す。


 火柱が抑えられたと悟った学生たちは、歓喜と安堵の色を浮かべながら、素早く状況を判じて行動を取った。

 ある者は遠くにいる導師や講師に助けを求めに走り、ある者は、先程ビアンカが攻撃した辺りに、魔力をぶつける。

 彼らは精霊の声が聞こえていたわけではなかったが、ビアンカや少女の言葉から、どうも二人が、害意ある精霊に連れて行かれそうになっていると理解したのだ。


 雷撃、爆撃、氷の(つぶて)

 上位貴族でない彼らの攻撃は、ビアンカのそれに比べれば児戯のようだが、それでも精霊力に比べれば荒々しく、そして数の利がある。


 ――人の子が、こしゃくな……!


精霊も多少はダメージを受けているのか、煩わしげな怒声が響いた。


 ――いっそ、こやつら、ひと捻りにしてしまおうか?

 ――おお。こやつらの方を、湖の貴婦人への捧げものとするか。


 穏やかならぬやり取りが持ち上がった瞬間、


「だめ、です!」


 素早く声を上げたのは、黒髪の少女だった。

 彼女はきっと上空を見上げると、凛とした声で言い放った。


「他のみんな、連れていく、なりません! 私、私を、連れていってください!」

「レオノーラ! 何を言っているの!」


 横でビアンカが慌てて少女の口を押さえる。

 しかし同時に彼女は、やはり、と確信していた。


 やはり少女は、湖の貴婦人やそれに連なる精霊が、校外学習の場で害意を向けてくることを予見し、他の生徒たちの代わりにそれを宥めようとしていたのだと。


(いやいやいや、そこは俺を連れてってくれよおおお!)


 勿論レオはといえば、タダ精霊乗車権を逃すものかと必死になっていただけだった。

 他の生徒と一緒に自分も連れていってくれるなら結構だが、――いや、やはり駄目だ。

 精霊が一度にどれほどの人数を運べるのか知らないが、やはり定員というものはあるだろう。

 レオは他の生徒とは異なり、確実に、切実に、貴婦人のいる湖に到達したいたのだ。


(物見遊山じゃねえんだよ! 俺のこれは、ビジネスなんだよ! そんな俺を差し置いてくれるなよ!)


 想いよ伝われ!


 そんな気迫が効いたのかどうか、精霊と思しき存在はやや考え込んだようだった。


 ――どうする、せせらぎの? この黒髪、なかなか愛らしい顔をしておる。

   一人で事足りるのならば、我らも運ぶ手間が省けるというものだ。

 ――そうだな、そよ風の。この黒髪、光の精霊とよく似ておる。

   貴婦人もきっと気に入られるだろう。


(ナイス、黒髪!)


 どうやら、光の精霊と同じ黒髪というところがお買い上げポイントらしい。

 レオは初めてレーナの艶やかな黒髪に感謝した。


 とはいえ、一体どうすれば精霊が自分を運んでくれるのかよくわからない。

 ひとまずレオはビアンカから体を離し、声の発生源と見定めた辺りに両手を伸ばしてみた。


「私を、連れて、行って」


 すると、ふわっと足元に風が吹き渡り、そのまま体が、くんっと持ち上がる。

 同時に、ゆらりとレオの周囲を水の膜が囲い、まるで透明な卵に閉じ込められたような格好になった。


(おおおお! すげえ!)


 未だ庶民感覚の抜けないレオには、魔力も精霊力も、立派な超常現象だ。

 そよ風の、とか、せせらぎの、とか呼び合っていたから、それぞれこの森に棲む風や水の精だろうかと、わくわくしながら、きょろきょろと周囲を見渡す。


 と、そこに、顔を蒼白にしたビアンカが、


「待って、レオノーラ……!」


 勢いよく両腕を伸ばしてくる。


(え、ちょ、それ触ったら割れるんじゃ!)


 レオがぎょっとしたのを読み取ったかのように、卵はふわりと上空へと飛翔しはじめた。

 だがビアンカは諦めない。


「待ちなさい……!」


 するりと腕を躱した卵を逃すものかと、勢いよく体をしならせ、飛び跳ねたのである。


 ――がしっ!


 果たして、令嬢らしからぬ運動神経の良さを見せつけたビアンカが、上空に持ち上がったレオの足に縋りついた瞬間。


 水の卵は、ぱしゃんと軽い音を立てて割れ――同時に、二人の姿が掻き消えた。

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