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28.レオ、想われる(後)

「なんですって……!?」


 ナターリアは咄嗟に胸元を押さえる。そのドレスの下には、以前彼から授けられた、龍徴の金貨が下がっていた。


 二人はしばし見つめ合っていた。

 どちらも何も言わなかった。


 やがて、ナターリアが低い声で問うた。


「……本気ですか?」

「ああ」


 アルベルトの答えは、それだけだった。

 とその時、


「失礼いたします。明日の下級学年の校外学習の件ですけれど――」


 軽やかなノックと共に、ビアンカが入室してきた。

 彼女は張り詰めた場の雰囲気に言葉を切り、眉を寄せて二人を見遣った。


「……どうかなさって?」


 その言葉に、止まりかけていた時間が流れだす。

 アルベルトはいつものように滑らかな仕草で「いいや」と妹姫に笑いかけ、ナターリアもまた小さく唇を噛み締めてから、何事もなかったかのように彼女に向き直った。


「――政務について意見を戦わせていただけですわ。ビアンカ様こそどうなさったのです? 生徒会室までいらっしゃるなど」


 下級学年長であるビアンカには、本来生徒会室に踏み入る権限も用件もない。

 ナターリアがそのことを暗に指摘すると、彼女は不機嫌そうに紙の束を持ち上げた。


「ですから、申し上げているでしょう? 明日の、下級学年の校外学習について、その行き先を報告にきたのですわ」

「行き先? わざわざ、校外学習のですか?」


 ナターリアが目を瞬かせたのは、下級学年のみで完結するそれらの行事は、特に共有の必要もない案件だからだ。

 行き先や内容は下級学年を受け持つ講師達が決めるものであるし、特に生徒会の関与を求めるものでもない。


 首を傾げる従姉に、ビアンカはちょっとばつが悪そうに唇を尖らせた。


「……まあ、わたくしも過剰とは思うけれど。ちょっと、レオノーラの様子に、気に掛かるものがあったから」

「レオノーラの?」


 眉を寄せたのはアルベルトである。

 少なくとも兄が関心を寄せてくれた気配を感じ取り、ビアンカは少しほっとしたように続けた。


「ええ。ついさっきまでレオノーラとお茶をしていたのだけれどね、いよいよ明日は校外学習ね、みたいな話をしていたら、あの子、急に顔を曇らせたのよ。なんだか、すごく行きたくなさそうで」

「レオノーラは、屋外に出るのが嫌いなのかしら?」


 外出を億劫がるのは、箱入りの女子生徒にはままあることだ。

 ナターリアが首を傾げると、ビアンカは「そんなはずないわ」と首を振った。


「あの子、休み時間とか、放課後とか、どうやら安息日も、しょっちゅう構内を散歩して回っているようだもの。木々を見たり、池の水に手を浸したり……すごく自然が好きみたいだから、外出が嫌なはずはないわ」


 厳密には、茂みの奥に光る小銅貨や、池に泳ぐ食べられそうな魚を物色しているのだが、傍から見れば自然と戯れる少女は、人の世に舞い降りた精霊のようにしか見えなかった。


「だいたい、あの子ったら、授業でもなんでも、いつも一生懸命じゃない。気乗りしなそうにしているところなんて、わたくしは一度しか知らないわ――魔術発表会の、朝の様子しか」


 アルベルト達ははっとした。

 カイに伝え聞いたところによると、自らの命を危険に晒すことになった魔術発表会のその日、少女はいつになく憂鬱そうにしていたのだという。

 それはまるで、己の不吉な未来を悟ってしまったかのように。


 ビアンカは心配そうに眉を下げた。


「わたくしが事情を尋ねても、『なんでもない』と答えるばかりで。しかも、『時間が無いから』といって、焦ったように立ち去ってしまったのよ。そんなことされたら、気になるじゃない」

「――わかった、ビアンカ。それで、今年の行き先はどこなんだ?」


 だからこうして兄皇子達に、報告という名の相談をしにきたのだと匂わせたビアンカに、皇子は素早く問い掛ける。

 ビアンカはほっとしたように頷くと、持参してきた用紙の一枚をテーブルに広げた。


「ここですわ。コルヴィッツの森。リヒエルトから……馬車だと二日くらいかしら? 転移陣で行くから関係ないけれど」


 用紙には、リヒエルトおよびその近辺の地図が描かれていた。

 彼女が指差したのは、学院からはるか北。二つほど大きな川を越えた先にある、広大な森林地帯である。

 森の奥には人を拒むような険しい山脈が連なっているために、人々がその森に踏み入ることは少なく、地図上でもその一帯は曖昧な記述しかされていなかった。


「……辛うじて人里との距離は、遠すぎないという程度だが」

「これ以上近くても校外学習になりませんし、遠くては危険すぎますわね」


 二人がそう言うのは、「校外学習」において、生徒達は主に魔術の演習を行うからである。

 学院では展開できない、たとえば爆発や洪水を引き起こすような術でも、人里離れた森の奥地であればそれができる。

 とはいえ、あまり大胆に自然を破壊しては精霊の怒りを買うので、それを宥めるための導師を引き連れていくのが常であったが。


「例年は、校外学習などと言っておきながら、せいぜい一、二時間魔術演習をした後は、ピクニックに社交、といった形でしょう? わたくしも、何があるというわけではないのだけど、どうも胸騒ぎがして……。下級学年長としてわたくしも引率はしますが、レオノーラにつきっきりというわけにもまいりません。学院の行事である以上、カイも参加できないわ。だから……」


 不安なのだと言いかけて、ビアンカは口を噤んだ。


 辛うじて「あくまで下級学年長からの報告」といった態を装ってはいたが、ここまでくると、それも難しい。

 彼女は観念したようにちょっと唇を噛むと、


「……わたくし、レオノーラが心配なの。助けてくださいませ、お兄様、ナターリアお姉様」


 素直な懇願を目に浮かべて、二人を見上げた。

 もとより、それが下級学年長からの公式な申し入れであれ、妹からのお願いであれ、真剣に耳を傾けていたアルベルトたちだ。

 彼らは間髪入れず、「もちろん」と請け負った。


「ですが、ビアンカ様。レオノーラが何かに巻き込まれようとしているのなら、尚更、彼女が何を考えているのかを聞き出した方がいいでしょう。やはり、直接尋ねてみなくては」

「そうだな」


 ナターリアが指摘すると、アルベルトも素早く相槌を打つ。

 しかし彼は少し間を置くと、


「……ビアンカ。君からレオノーラにもう一度、問い質してみてくれないか」


 妹姫にそう告げた。

 これまでの彼なら、自らが尋ねようと言い出す場面だ。

 不思議に思ったビアンカは、軽く首を傾げて兄皇子に尋ねた。


「なぜ? わたくしが聞いても教えてくれなかったのよ。お兄様が尋ねた方が、レオノーラは答えてくれるのではないかしら」

「いや、そんなことはないよ」


 アルベルトが苦笑するのを、ナターリアは無言で見守る。

 彼が本当はどれだけ少女の身を案じているか――同時に、どれだけその逸る心を抑え込んでいるかが、彼女には手に取るようにわかった。


 意図はわからぬものの、なんとなく逆らえないものを感じたのか、ビアンカは「そうかしら」と引き下がる。

 しかし、彼女は何かを思い付いたように顔を上げた。


「ただ、うまいこと今日中に捕まえられるかしら。あの子、スハイデン導師のもとに向かったのよ。何か相談したいことがあると言って」

「――なんだって?」


 アルベルトの低い声が響く。

 その険しさに驚いたナターリアは、「どうなさって?」と彼に尋ねた。


「ああ……いや」


 何事か考えるように顎に手をやる。

 しかし、一瞬の後、どこか覚悟を決めたかのような表情を浮かべると、彼は素早く踵を返した。


「少し、出掛けてくる」

「お待ちになって! どこへ行かれるのですか?」

「聖堂へ」


 導師に会いに行った少女のもとへ駆けつけるということだ。

 まるで、危機が迫っているとでもいうような皇子の態度に、女性陣は怪訝な思いで首を傾げた。


「学生が導師に相談に行くことの、何に問題があって? スハイデン導師は、態度こそ乱暴だけれど、市民貴族の隔てなく、親身に相談に乗ってくれると評判でしてよ?」

「少々軽薄にすぎる気もいたしますが、それはそれで、女子生徒も夢中になっているようですし。男子生徒もこっそり剣を教えてもらうなどして、兄のように慕っている者も多いと聞きます」


 そう。

 粗野だが男らしく堂々とした雰囲気を持つグスタフは、これまでの学院講師には少なかったタイプの男性として人気を博しつつあるのである。


 貴族であろうと軟弱な男子生徒は容赦なくこきおろし、色気を出して言い寄ってくる高慢な女子生徒は、うまく言いくるめて追い払う。

 不躾な発言も目立つが、一方では、弱者が縮こまっているのを見逃さず、どんな些細な泣きごとであっても、とことん付き合ってくれるともっぱらの評判だった。


「あら、その夢中になっている女子生徒って、ナターリアお姉様のこと?」

「な……何を仰るの!? わ、わたくしはあのような乱暴な殿方、ちっとも素敵だとは思いませんわ!」

「あらあ、そうですの?」


 二人は何やら別方向に盛り上がっているが、アルベルトはそれには注意を向けず、ただ眉を寄せた。

 彼が目にした、少女への態度からは、想像のつかない評価だったからだ。


 しかし、


「……いや。スハイデン導師が聖騎士に相応しい人物なのだとしても、レオノーラに対しては違うかもしれない」


 アルベルトにはある確信があった。


「クヴァンツ先輩からの情報が事実なら、彼は、レオノーラを憎んでいるかもしれないのだから」

「憎んで……?」

「どういうことですか?」


 穏やかでない単語に、ビアンカやナターリアも、恋愛話を放り投げて問い質す。


 アルベルトは、情報収集に長けたロルフからもたらされた情報を、二人に掻い摘んで伝えた。

 少女に対する導師の行動に怒ったロルフが、その人脈と情報収集能力を活かして調べ上げた結果だ。

 初めてそれを聞いた時は、アルベルトもオスカーも、ロルフの行動の素早さに驚くとともに、状況の複雑さに顔を顰めたものだった。


「スハイデン導師のお姉様が、『パン窯の聖女』……?」

「暴徒化した市民に、襲われたかもしれないですって……?」


 話を聞いた二人が、さっと青褪める。アルベルトは険しい顔のまま頷いた。


「ああ。スハイデン導師は、密かにハーラルトの野望を食い止めるために動いていた。しかし、それに先んじる形でレオノーラがその陰謀を明かし――結果として、市民感情の悪化を招いた。彼はそのことを、恨んでいるのかもしれない」

「そんな……」


 ビアンカは、そのアイスブルーの瞳に困惑と怒りを滲ませる。


「ハーラルトの陰謀が、まさかそんな形で……。でも、それでどうして、レオノーラが恨まれるの? そんなの、逆恨みだわ!」


 きっぱりと言い切った妹姫に、アルベルトはほのかに苦笑した。


「その通りだ。だが……ビアンカ。例えば君が誰かの行動がきっかけとなって命を落とすことがあったとしたら、僕だって、その誰かを、恨まずにはいられないかもしれない」


 そう言って、ビアンカの頭を軽く撫でる。

 ビアンカはぐっと言葉を詰まらせ、押し黙った。


「――とにかく、何かがあってはいけない。様子を見に行かなくては」


 空気を変えるように腕を振り、そう話を結んだ皇子は、今度こそ踵を返し、長い足で聖堂へと向かいはじめる。


「わ、わたくしも行きますわ!」

「わたくしも」


 ビアンカとナターリアは、一瞬顔を見合わせた後、慌ててそれに続いた。

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