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27.レオ、想われる(前)

「四回目」


 そんな言葉と共に、繊細なつくりの磁器のカップを差し出され、アルベルトは俯かせていた顔を上げた。


 透き通るような赤い液色。

 彼が好きな紅茶だ。


「……ああ。ありがとう。四回目というのは?」


 ゆったりと室内に溶けだす香気の向こうでは、ナターリアが呆れたような顔でこちらを見ていた。


「ご自覚もありませんか? 溜息の数です」

「――……そう」


 ありがたくカップを手に取りながら、アルベルトは小さく肩を竦める。

 彼は沈んだ声で、「それは失礼」とだけ呟いた。


 二人が今いるのは、学院の最上階に設けられた生徒会室だ。

 皇族や上位貴族の子女が集うことの多いその場所は、作業部屋というよりは、優雅なサロンに近い。


 ふんだんに陽光を取り込む巨大な出窓、舞踏会場と見紛う巨大なシャンデリア、座り心地のよいソファに重厚なテーブル。

 ただ、壁の一面に配置された広い机と、その上に詰まれた書類の束が、彼らが執務に誠実に取り組んでいることの証というところだろうか。


 総じて優秀な生徒会役員達は、仕事を溜めることなどほとんどしない。

 そのため、部屋はきちんと手入れが行き届いているのが常だった。

 そして、その有能な役員達は皆、早々に仕事を片付けて退出しており、今この場にいるのは、アルベルトとナターリアの二人だけだ。


「どうしたのです、アルベルト様。そのように憂鬱そうになさって」


 見兼ねたナターリアが、自らの紅茶を注ぎ分け、アルベルトの横に腰を下ろした。


「執務中も、遠くを見て溜息ばかり。わたくし、アルベルト様は胞子を飛ばす菌類にでもなってしまわれたのかと思いましたわ」

「……ひどいな。ちゃんと今日の仕事はこなしただろう」


 アルベルトは苦笑するが、ナターリアは追及の手を緩めなかった。


「――レオノーラのことですか?」


 アルベルトは何も言わない。ただ、視線を逸らすようにして、静かに紅茶を啜った。


 だがそれでナターリアはいよいよ確信する。

 だいたい、この嫌味なくらいなんでも完璧にこなす従弟が思い悩むことといえば、あの美貌の少女のことくらいなものなのだ。


 ナターリアはカップをソーサーに置くと、空いた手でそっとアルベルトの手に触れた。


「アルベルト様。どうか話してくださいませ。何をそんなに思い悩んでいるのです?」

「……別に、思い悩んでなど」

「いらっしゃいます。どう見ても」


 きっぱりと言い切ると、今度こそ彼は苦笑を漏らした。


 国においては皇子として、学院においては生徒会長として、家庭では兄として。

 常にリーダーとして人を導く立場にある彼は、あまり弱音を吐くようなことはしないし、言ってしまえば、弱音を吐きたくなるような状況に追い込まれること自体、優秀な彼には少ない。


 しかし、だからこそ、彼の様子がおかしい時には、無理やりにでもわだかまりを吐き出させるのが、自らの役割だとナターリアは信じていた。


 さあ、と脅すように睨みつけると、とうとう皇子は苦笑を深める。

 彼はゆっくりとカップをソーサーに戻すと、少し考え、やがてぽつりと呟いた。


「――自分はつくづく至らないな、と」

「至らない……?」


 ナターリアは目を瞬いた。

 誰もが認める美貌と優秀な頭脳、帝国一番の身分に恵まれ、この世の全ての祝福をその身に受けたかに思われる人物には、ふさわしい台詞ではないと思われたからである。


「一体、何がですの……? あなた様は、帝国の誇る『精霊の愛し子』。文武両道、眉目秀麗、さすがは歴代の中でも誉れ高い生徒会長よと、アルベルト様を讃えぬ者は学院にいないほどではございませんか」

「よしてくれ。そんなの、おためごかしにすぎない。実際僕には愛し子というほどの精霊力など無いし、実際に誉れ高い生徒会長ならば、ハーラルトの禍など起こったものか」

「ですが、結果的には、今学院ではかつてないほど貴族と市民が調和して――」


 身を乗り出して反論したナターリアを、アルベルトは視線を逸らすことで躱した。


「――だが、その代償として、幼い少女を危機に追いやった」


 その苦々しい声に、ナターリアは目を見開いた。


「アルベルト様……?」

「……僕は、彼女を怯えさせてばかりだ」


 その「彼女」というのが、レオノーラ・フォン・ハーケンベルグを指しているのだということは明らかだった。


 アルベルトはふと口の端を持ち上げる。

 まさに自嘲といって差し支えない、暗く、苛烈な罪悪感に満ちた笑みだった。


「――この前の安息日、久々に下町に赴いてね」


 彼は、言葉を掻き集めるようにして話しはじめた。


 従者を通じて、レオノーラが雪花祭を前に下町の孤児院に向かうと知ったこと。

 身の安全が危ぶまれたため、自ら私兵を融通するよう申し出て、自分も駆けつけたこと。

 そうして、人だかりの中に、暴漢に迫られ、ナイフを握り締めた少女を見つけたこと。


「彼女は相変わらずだった。後ろに従者と女性を庇い、小さな手にナイフを握り締めて。相手を攻撃するのではなく、自分を傷付けて局面を切り抜けようとしていた。その姿を見て、僕は我を忘れるほどの怒りを覚えたんだ」


 もちろん、怒りの対象は、主には暴漢へだ。

 大切に思っている少女に、卑らしい言葉を浴びせ、当然のようにその下卑た腕を伸ばされるのが、堪らなかった。


 しかし同時に、アルベルトは少女に対しても、胸をかきむしりたくなる程の焦燥を覚えたのだ。


 なぜそんなことをする。

 なぜ自ら傷付こうとする。

 どうして、大人しく自分の腕の中で守られていてくれないのだ――。


「彼女の前では暴力行為など働くまいと思っていたのに、気が付けば相手の男の腕を捻り上げていた。そして、彼女にも言ってしまったんだ。なぜこんな危険な真似をする、いっそ閉じ込めてしまおうかと」


 ナターリアは目を瞬かせた。

 それはいけないことなのか、と、いささか疑問に思ったからだった。


 自らの愛読するロマンス小説に当てはめれば、それは結構キュンとくるシチュエーションだ。

 身内の欲目を差し引いても、これだけの美男に窮地を救われ、切なげに迫られたら、少女もちょっとはドキッとしたりしないのだろうか。


 普段封印している恋愛脳が、従弟には伝わってしまったらしい。

 アルベルトはナターリアの怪訝そうな表情を見て取ると、苦笑して首を振った。


「よく考えてみてくれ。彼女は、幼い時分から男の暴力に晒され、監禁されてきたんだ。そんな相手に向かって、閉じ込めるなど口が裂けても言ってはいけないだろう。――まあ、言ってしまった僕が指摘できる義理はないけれどね」

「…………!」


 ナターリアははっと顔を上げる。そして、唇を噛んで猛省した。

 すぐ二次元に当てはめてしまうのは自分の悪い癖だ。勝手に少女と従弟の恋愛物語をでっち上げ、自分に都合よく消費するなど。


「……わたくしも、自分が恥ずかしいですわ」


 消え入りそうな声で呟くと、皇子は「まさにその感覚だよ」と苦々しく微笑んだ。


「その言葉を聞いたときの、彼女の青褪めた顔といったら。本気で怯えていた。暴れもしたし、逃げようともしていた。……でも、それでも僕は、彼女を放すことができなかった。怖かったんだ。手を放すと、また、彼女が消えてしまいそうで」


 アルベルトは目を眇め、遠くを見つめるような仕草をした。

 視線の先にあるのは窓の外の光景だったが、実際彼が何を脳裏に浮かべているかは明らかだ。


 ――魔術発表会の日、抱きとめていたにもかかわらず、姿を消した、少女。


 あの日、アルベルトは、恐らく人生で初めて、純粋な恐怖と焦燥、そして、渇望という感情を知ったのだ。


「……いつもこうだ」


 やがてアルベルトは、片手で顔を覆った。


「彼女はまだ幼い。誰よりも守られてしかるべき、か弱い少女だ。僕は彼女を大切にしたいと――守りたいと思っているのに、気付けば、彼女を危機に追いやったり、怯えさせたり、その心を傷付けるようなことばかりをしている。彼女のこと以外なら、大抵はうまくこなせるのに、彼女のことだけが……いつも、うまくいかない。空回りしてばかりだ。見苦しいほどに」


 俯けた顔からは、表情を窺い知ることはできなかった。

 声は淡々としている。肩だって震えなどしていないし、もちろん涙など見えない。


 しかしナターリアは、従弟が泣いているように見えた。


「アルベルト様……」

「愚かだろう?」


 ややあって、皇子が手を下ろす。

 その端整な顔には、いつものような静かな微笑が浮かんでいた。


「前に、スハイデン導師が彼女の腕を取ったと知った時、僕は腹を立てた。けれど、結局僕だって、同じ穴の狢だ。彼女を前にすると、どうも僕は、平静でいられなくなる」

「……ですが、それはレオノーラを守ろうとしているからで――」

「方法が問題なんだ」


 スハイデン、の単語にちょっと眉を顰めたナターリアが、おずおずと反論すると、アルベルトはきっぱりとそれを退けた。


「方法?」

「そう。……今僕は、それを考えている」


 そして、だからこそ、悩まずにはいられないんだ。

 そう続けた皇子の意図が読めず、ナターリアは首を傾げた。


「どういうことですの?」

「そのままだ。彼女を守る方法。……すぐ人のために自分を傷つけようとする彼女を、閉じ込めるのではなく、怯えさせるのではなく、守る方法」


 謎かけのようである。ナターリアはその優秀な頭脳を巡らせ、従弟の思考をなぞった。


 すぐに自己犠牲に走る少女を守る方法。

 走りだす足を縛るのでなければ、どうやって?


「それはもしや――」


 ふと答えに行き着いた瞬間、アルベルトが頷いた。


「彼女が走り出す前に、彼女が助けようとしている人々を、救うんだ」

「人々を、救う……」


 皇子はすっと立ち上がり、そう、と呟く。

 彼は出窓に近寄ると、学院の壁の向こうに広がる市街の光景を眺めた。


「今回久々に町に下りて、この目で見て僕も気付いたよ。ハーラルトの禍の影響を受け、人心にも生活にも、荒廃の兆しが見えはじめている。特に、リヒエルト市内に水の精霊を掲げる教会が多かったぶん、水への影響が顕著だ」

「水、ですって?」

「ああ。まだ本格化はしていないが、水不足の予兆が見える。井戸の水も透明度が落ちているようだった。一時的なものかもしれないが、それであっても、このままでは精霊祭は寂しい物になるだろう。――トルペは、ふんだんに水を吸って育つ花だからね」


 ナターリアは表情を曇らせた。


 トルペの発育不良。

 それは、取るに足りないことのようでいて、政局に大きな影響を及ぼしうる事象だ。

 精霊祭はヴァイツ帝国最大のイベント。それを寿ぐトルペの花は五穀豊穣の象徴でもあり、それが毎年豊かに咲くことは、龍の末裔たる皇族が、精霊にも祝福された帝国の正統なる支配者であることを意味するのだから。


 教会と争いを構えた途端、トルペが咲かなくなったのでは、さてはハーラルトの禍も、一概に教会が悪いとは言えないのでは――皇族に何か問題があったのではないかと、人心が揺らいでも不思議ではなかった。


「聡い彼女のことだ。恐らくはそのことを考えて――いや、単純に、水不足に苦しむ人々を救いたいのかもしれないが、それで今度は奔走しているのだろう。だから彼女はあんなにも、水を召喚する陣に夢中になっているんだ」

「水を召喚する陣、ですか?」


 アルベルトは従姉に、彼がオスカー達と取り組んでいる陣の構想についてを掻い摘んで説明する。

 貴族社会のしがらみに詳しいナターリアは、すぐに表情を険しいものにした。


「……水の恵みが市民に行き渡るのは、素晴らしいことではありますが、慎重な交渉が必要ですわね」

「ああ」


 アルベルトも頷く。


 陣が流通する範囲の既得権益者への通達、許諾の獲得、水の精霊を讃える教会への説明。

 学生の彼らが勢いのままに走っては、即座に構想が頓挫するような障害物ばかりだ。


 実際、少女が先走って水の精霊から水を奪う陣を引いてみせた時、グスタフに見つかって強い怒りを買ったことを、彼はナターリアに説明した。


「オスカー先輩も、これが政治的に難しい交渉を強いる案件だと理解してはいるが、やはりそこは商人だ。乗り越えるべきものとして確信犯的に無視している。レオノーラは、恐らく気付いていない……というより、市民を助けたい想いが強すぎて、それが視界に入っていないんだろう」

「……彼女の年で、市民のために奔走したがること自体が奇跡ですわ」

「僕もそう思うよ」


 形の良い唇が、優しく緩められた。


 アルベルトは、窓の向こうの光景に、すっと目を細める。

 日が暮れはじめたリヒエルトの街には、人の営みを示す明りが、ぽつぽつと灯りはじめていた。


 ――アルベルトは、悩んでいた。


 オスカーにとって、市民仲間や家族に潤いをもたらす陣構想が善だとするなら、アルベルトにとって、本来それは真逆のものだ。

 既得権益者と言うと聞こえは悪いが、長らく治水を担ってきた貴族というのは、それ相応の功績が認められたからこそその座に据えられた、「忠臣」なのだから。


「アルベルト様は、帝国の第一皇子。帝国に忠誠を捧げてきた彼らの頭越しに、治水の分野に手を出すことがあってはならないと、お悩みなのですね?」


 ナターリアは思わしげに眉を寄せた。


 彼女自身、アルベルトの妃になるかもしれないからと、幼い時分から帝王学を施されてきた女性だ。

 朋友や家族にも例えるべき家臣を「裏切る」かもしれない行為が、どれだけ皇子の精神的負荷になっているかは、容易に想像ができた。


 が、その問い掛けに、意外にもアルベルトは「いいや」と答えた。


「――いいや、リア。違うんだ」

「え?」

「領分を侵すことがあってはならないと悩んでいるのではない。領分を侵さざるをえないことを、悩んでいるんだ」


 言葉遊びのような、答え。

 しかしナターリアは、瞬時に従弟の真意を読み取り、大きく目を見開いた。


「――アルベルト様は、……貴族の恨みを買ってなお、水を召喚する陣の普及を進めたいというのですか?」

「…………」


 アルベルトは、険しい顔をして窓の外を見た。

 そのアイスブルーの瞳は、すぐ下に広がる学院の光景でも、その先に連なる街並みでもなく、もっと遠くの景色を映していた。


「……荒廃の兆しは、下町に顕著だった」


 やがて彼は、その白皙の美貌をつらそうに歪めながら、ゆっくりと語りだした。


「皇地、貴地、平地。王宮から離れていくにつれ、上下水道ではなく井戸の数が増えていく。下町も外れとなると、井戸すら無い場所だってあった。腰の曲がった老人や、小さな手しか持たない子どもが、祭の日だというにもかかわらず、大きな桶を抱えて沼まで行き来するのを、僕は見た。沼に行ったら……ここ数日の日照りで水深が減り、濁ってもいた。精霊への祈祷が滞っているせいだ」

「…………」


 ナターリアは表情を曇らせる。

 この世の富を浴びるようにしながら過ごす彼女たちからは、想像もつかぬ世界。それには、安易な感想を呟くことすら、躊躇われた。


「僕とて、数字として水道の普及率を知らなかったわけではない。リヒエルトでいえば、ハグマイヤー卿が治水を長期計画のもとに進めていることだって知っている。だが、……あの現実を目の当たりにすると、それでは、間に合わないように思えたんだ」

「間に合わない……」


 言葉を反芻した従姉に、アルベルトは「そう」と頷いた。


「子ども、老人、病人、貧者。世界が歪む時、真っ先に被害を受けるのは最も弱き者たちだ。本来なら、彼らこそが、最も保護されてしかるべきなのに。禍は既に、人々を蝕んでいる。貴族の一人がそのことに気付く前に、既に十人の平民が害を受け、十人の平民が害を受ける前には、百人の弱者が命すら落としているに違いない」


 普段朗々とした響きを紡ぐ声には、焦燥が色濃く滲んでいた。


「この国で、皇太子の権限は呆れるほどに小さい。治水は学生ではなく、権限を持った貴族の責務だ。精霊に手を出すのは教会への侮辱だ。わかっているのに――僕は、彼らの動きをただ待つなんて、したくないんだ。この状況をどうにかしたくて、仕方がない」

「アルベルト様……」


 その悲壮な言葉に、ナターリアは静かに息を呑んだ。

 彼女の知る限り、従弟がそのように強く何かを望むのは、初めてのことだったのだ。


(いつも何事にも囚われなかった……いえ、そう努めていた(・・・・・)アルベルト様が……)


 帝国第一皇子。

 その肩書きが、アルベルトに何を強いてきたかを、ナターリアはよく知っていた。


 アウグスト元皇子の後釜。幸運の継承者。ハイエナ王の息子。


 人望の厚かったアウグストの「代わり」としてアルベルトが帝国第一皇子となったとき、彼はそう評されることが多かった。

 アルベルトの父が、突如として王位を受け継ぐことになり、それに伴い、公爵家令息でしかなかったアルベルトが次期皇子の座に据えられたからだ。


 当時彼は十歳。

 突然望まぬ重圧に晒され、周囲の豹変ぶりを目の当たりにした彼の苦痛たるや、どれほどのものだっただろうか。


 しかしアルベルトは、ただそれを受け入れ、実績を示すことで批判を抑え込んだ。

 精霊のごとき美貌も、明晰な頭脳も、鍛え抜かれた肉体も、もちろん天与の物ではあったろうが、彼はそれを磨き続けることで、地位を確立していったのだ。

 やがて周囲はすっかり陰口を叩いていたことすら忘れ、「完璧な皇子」と彼をほめそやすようになった。


 誰にも等しく微笑み、どんな物事にも等しく関心を向け。あまねく全てに優れた才能を示す彼は、まさしく完璧な皇子だ。


 しかし、それと引き換えに、恐らく彼は素朴な感情を失ってしまったのだと、ナターリアは思う。


 特定の誰かを想うこと。

 理性では抑えられぬ衝動を持て余すこと。

 拗ねたり、激怒したり、大泣きしたり、腹を抱えて笑ったり。そういうものたち。


 現にここ数年、ナターリアは、彼が我がままを言ったり、大笑いするところさえ見たことがなかった。


(でも……それを、きっと、レオノーラが変えたのだわ)


 ナターリアは確信する。

 思えば、あの無欲な少女と出会ってから、従弟は感情表現が豊かになった。


 年頃の少年のように浮かれたり、衝動のままに振舞って自己嫌悪に陥ったり。

 以前までは女性など、どんな美貌の持ち主に対してでも、微笑みという名の無関心をもって接していたのに。


 彼が弱者を救いたいと強く想うのも、同じ願いを持つ少女がいるから――そして、少女が過去、「弱者」の立場にあったからに違いなかった。

 アルベルトはきっと救いたいのだ。今の、そして過去の少女を。


「……愚かだと、思うかい」


 やがてアルベルトは、ぽつりと問うた。

 こちらを向く表情は、窓から差し込む夕陽が逆光となって、よく見えなかった。


「皇子の責務とはただ一つ、『皇子でありつづけること』だ。次期皇帝が確保されていると示し、民を安心させること。無難かつ優秀な皇子でありつづけ、いずれ確実に、皇帝に『なる』ことだ。それまで、皇子には個性も意志もいらない」


 彼はふっと笑みを漏らす。

 それは、紛れもなく自嘲の吐息だった。


「数年か、数十年か。このまま待って、皇帝となれば、こんな案件など一瞬で片付く強大な権力が手に入る。それまで待てばいい話だ。だが、……それが待てない。つくづく僕は、至らない皇子だ」


 すっと通った鼻筋や、高い頬骨。

 金の髪に夕陽を受ける様は、まさに貴族中の貴族、皇子の中の皇子といった気品に溢れている。

 ナターリアはその姿に、ふとアウグスト元皇子の姿を思い出した。典雅の貴公子として慕われていた、皇子中の皇子。


(もしかしたらアウグストお兄様も、そうだったのかもしれない……)


 アウグストは聡明だった。慈愛深かった。

 にもかかわらず、フローラに魅了され、禍を起こした。


 だがもしかしたらそれは、単に彼女を愛したからだけではなかったのかもしれない。

 彼はきっと、絶望していたのではないか。あるいは焦っていたのではないか。己の、皇子という生き物の、あまりの無力さに。


 そこに、フローラという少女が現れて、激しく心を揺さぶられた。

 自分でも何かができると、いや、何かしなくてはならないと強く思うようになった。

 そうして、暴走し、禍に呑まれた。


 だとするなら、今のアルベルトは、レオノーラという禍を前にした愚かな皇子そのものだ。


「……どうぞ、慎重な判断を。今のあなた様が陣の作成に協力すれば、貴族への裏切りも同じ。それこそ継承権の剥奪だってありえます。わたくしは、従兄弟が二人も禍に呑まれるなど、ごめんですわ」


 弱者に心を砕く在り方は、ナターリアだって尊いと思う。

 だが、感情のままにそれが許されるほど、彼らの立場は自由なものではないのだ。

 ナターリアは、応援します、と背を押したい気持ちと、お願いだからやめて、と手を取りたい気持ちの、ちょうど半々に引き裂かれそうになった。どちらも、アルベルトを想う心から生じたものだ。


 アルベルトは、すっと一歩こちらに歩み寄ってきた。


 夕陽の呪縛を逃れ、ようやく彼の表情が明らかになる。

 彼は、静かに微笑んでいた。


「――僕はね、リア。仮にこれが禍となるものだとしても、それを『レオノーラの禍』などと人に呼ばせるつもりはない」

「なんですって……?」


 ナターリアは思わず眉を寄せる。

 だが、その後彼が耳元に囁いて寄越した、ある「お願い」に、大きく目を見開き、更に大声を上げた。

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