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26.レオ、ヤな男とタイマンを張る(後)

 人々のざわめきすら押しのけて、心地よく鼓膜を揺らす、美しい声。

 バステオも、少女も、カイ達も一斉に振り向く。


 視線の先には、黒髪に灰色の瞳をした、これといって特徴のない、平凡な青年が立っていた。


「……んだァ? おまえ」


 バステオが苛立ちも露わに威嚇する。

 青年は、いつの間にか野次馬と化していた人々の輪をするりと抜け、その顔に似合わぬ優雅な足取りでこちらに近付いてきた。


「――……まさか」


 カイがぼそりと呟く。その顔には、見る間に喜色が滲みだした。

 クリスは怪訝な顔で彼を見たが、彼女が問いを発するよりも早く、青年が動く。


「祭の場とはいえ、女性の前でそのような大声を上げるのはいかがなものか」


 彼はにこやかに、バステオに向かって首を傾げた。


「聞いた限り、彼女達は既にあなたに支払うべきものは支払っているようだ。無粋な真似はやめて、この場を去られては?」

「んだと、てめェ!」


 穏やかに取りなした青年の胸倉を、バステオが勢いよく掴み上げた。


 バステオは、その屈強な体格と膂力、そして残忍性を振りかざし、下町の一部を従えてきた男だ。刺青の施された剛腕で締めあげられては、細身の青年などたまったものではない。


 先程のヘルゲと同じく、激しく地面に叩きつけられるであろう未来を予測し、周囲は咄嗟に首を竦めたが――


「うわあああ!」


 聞こえたのはバステオの野太い悲鳴だった。


 一体何事かと見てみれば、青年はこともなげにバステオの丸太のような腕を掴み、それを捩じり上げている。

 彼がぱっと手を放すと、バステオは右腕を庇いながら、子どものようにどしんと尻餅をついた。


「ひ……っ、い、て、てめえ……っ」

「失礼、手が滑ったようで」


 脂汗を浮かべ、唾を飛ばして悪態を吐くバステオに対し、青年はどこまでも爽やかだ。


「汚い物をお目に掛けましたね」


 と周囲ににこやかに詫びすら入れている。


 美貌の少女に迫る凶悪な巨漢、それを鮮やかにこらしめた細身の青年。

 物語の王子様というには少々美形度が足りないが、観客の歓心を買うには充分な構図だ。

 内心でバステオのことを疎ましく思いながらも、暴力を恐れて手出しができなかった周囲の人々は、にわかに沸き立って青年に喝采を浴びせた。


「彼は……?」


 庇われた格好になったクリスは、戸惑いも露わにカイたちに尋ねる。

 あのような屈強な男の腕を一瞬で捻じ上げるなど、よほどの体術か――さもなければ魔術を行使せねば不可能だろうが、いかにも平凡な外見の青年が、無詠唱に近い状態でそれができるとは思えない。


「……ま、まさか……」


 一方、レオはといえば、愕然として目の前の光景を見つめていた。


 あの黒髪、あの灰色の瞳。

 二年前に下町で遭遇し、そして学院の歓迎会で門番に扮していた人物と同じ色だ。


 それに、二年前は見えなかったのに、今この目を通せば見える、魔力を示す淡い金色の光。


 横で、感極まった様子でカイが叫んだ。


「殿下……!」


(やっぱりいいいいいい!)


 レオは両頬を手で挟みそうになった。


 なぜだ。

 なぜヤツがここにいるのだ。

 ここは自分のホームなのに。


 黒髪の青年――に扮したアルベルトは、レオのその視線に気付いたのか、ふと振り向いてこちらを見た。

 が、すぐに表情を険しくして、つかつかとこちらに歩み寄ってくる。


(なぜに!?)


 皇子はいい人。のはず。

 特に恐れる必要など何もないはずなのだが、予想外の場所で会ってしまったことと、なんだかひどく禍々しいオーラを彼がまとっているせいで、レオはつい条件反射的に身を竦めてしまった。


「な、なぜ、ここ……」

「なんてことをするんだ、レオノーラ」


 しかし問いを最後まで言い切る前に、厳しい顔をした皇子にナイフ――いつの間にかお守りのように握りしめていたようだ――を取り上げられる。

 まさか商品をサーブしようとして叱られるとは思わなかったレオは、つい言い返してしまった。


「叱られる、ことでは、ありません。返す、ください!」


 だが、反論したのがいけなかったのだろうか。皇子はますます表情を険しいものにして、


「……これは、預かっておこう」


 奪ったナイフを懐に仕舞ってしまったではないか。


「おいちょっと待てやコラァ!」


 まるでレオの気持ちを代弁するかのように、バステオが叫び、同時に背後から皇子に殴りかかる。

 いや違う、彼はどこから取り出したのか、それこそ刃渡りの大きなナイフを握っていた。


 それはびゅっと風の唸りすら聞こえそうなスピードで、思わずレオも咄嗟に目を瞑ったが――、


 パシッ。


 ハイタッチするかのような軽やかな音と共に、皇子はそれを振り返りもせずに片手で受け止めたではないか。


「……ぐ、お」


 バステオの目が極限まで見開かれる。

 不思議なことに、細身の青年に片腕を取られているだけだというのに、彼は身動ぎひとつできなかった。


「……懲りない人だ。僕が今とても苛立っているのが、わからないと?」


(えええええ!?)


 うっすらと笑みすら浮かべ、静かに相手を恫喝しだした皇子に、レオは動揺を隠せなかった。

 苛立っていると彼は暴力に走るのか。

 ナイフを持ち出したバステオもバステオだが、彼は銅貨も目に入らないほど、パンを食べたがっただけなのに。


「なんだと……? おれはただ、そこの、俺の……ぐぅっ」

「あなたの? いつあなたのものになったのやら」


 低い声に、ぞくっと背筋が凍る。

 それはバステオも同様だったらしく、彼はびくりと体を硬直させると、


 ――ぐきょっ。


「――うわあああああ!」


 次の瞬間、右腕を押さえて蹲った。


「関節を外しただけで、大袈裟な」

「ひ……っ!」


 皇子は呆れたように呟くが、レオからすれば充分悲鳴を上げるに足る事象である。


(な、なんか! 今、変な音聞こえた! ぐきょっつった!)


 グループ内では、こういった荒事はもっぱらブルーノの担当だ。

 免疫のないレオが真っ青になってガクガクしていると、皇子はちょっとばつが悪そうに口の端を歪めた。


「すまない、レオノーラ。怖い思いをさせたね」

「…………っ!」


 いやほんと。本当にそのとおりです。レオは心の底から訴えたかった。


 思わず、皇子が思わしげに伸ばしてきた腕を払ってしまう。

 しかし、そうすると、彼は眉を寄せてレオの顎を取った。


(なぜ! ここにきて! 顎クイ!!)


 壁ドンとか顎クイとか、そういった一連の恥的行動からは卒業したのではなかったのか。成長したのではなかったのか。


 しかし、アルベルトが僅かに顔を寄せ、


「だが君だって約束してくれたはずだ、もうこのようなことはしないと」


 つらそうな顔で囁いてくる。

 それで、レオは遅ればせながら彼の意図を悟った。


(俺が約束破って、また人から金貨強奪したって思われてるーっ!?)


 レオが皇子と交わした覚えのある約束は一つだけ。

 二度と金貨泥棒など企むな、ということだけだ。

 そう、その時も壁に押さえこまれて恫喝されたのだった。確かあれは、ビアンカと共にオスカー主催の「茶会」に招かれた、その帰りの時だった。


(いやいやいや、俺、奪ってねえよ!? 誰からも金貨、もらってねえよ!?)


 今回レオがしたのは、人様から適正に――いや、ちょっとばかり割高に、銅貨を頂戴したことだけだ。まさか、銅貨も貰ってはいけないというのか。


「や、約束、破って、いませんよ!?」

「何を言うんだ。まさか、わかってすらいないのかい?」

「よく、見てください! 前回とは、状況も何も、まったく違――」


 違うじゃないですか、と言いかけて、レオは口を噤んだ。

 皇子が、その冴え冴えとしたアイスブルーの瞳を眇めたからだった。


「……君は、何もわかっていない」


 彼は、見ようによっては切なそうな表情すら浮かべて、先程取り上げて懐に仕舞ったナイフの柄をそっと撫でた。


「どうか、もうこんなことはしないでくれ。そうでないと、……こんなことを言いたくはないのに、君を閉じ込めたくなってしまう」

「…………っ」


(どええええええ!?)


 勿論皇子は状況を一瞥して、少女がまたも人を庇うために自らを傷つけようとしたと理解し、怒っているわけであったが、当然ながらレオの解釈は違った。


(俺には、パンをスライスして銅貨を稼ぐことすら許されねえのか!?)


 レオからすれば、ちょっと柄悪く商品を求めてきたお偉いさんに、ひとまずパンを与えて――まあ少し水増しを企んだわけだが――、うまいこと取り入ろうとしただけだ。

 それを皇子が割って入って、妨害した。

 しかも、機嫌が悪いからという理由で、男の関節を外して。


(なんで!? なんでなんで!? 皇子の機嫌次第で、あるいはちょっと調子乗って金儲けしただけで、俺も監獄送りになっちまうの!? 俺の身の安全って、そんな砂上の楼閣なみに脆いもんだったわけ!?)


 最近では皇子もすっかりいい奴だと思いかけていたが、この数分の彼はもはや意味不明だ。

 凶行の動機というか、地雷がまったく読めない。

 彼の傍で、その機嫌を損ねずにいつづけることなど、到底できないように思われた。


(それってつまり……身の安全をキープしつづけることが、できねえってわけで……)


 レオは真っ青になりながら、頭の片隅でレーナに詫びた。


 彼女の言うとおりだ。

 この身は全然安全圏に逃れてなどいなかった。

 こんな状態でどう彼女に体を返せばよいのだ。


 レオがあうあうと青褪めている間にも、更に不穏なやり取りは続く。

 腕を押さえたバステオが、


「て……めぇ、俺にこんな真似して、ただで済むと思ってんのかァ!」


 と怒鳴ると、皇子は煩い羽虫がいたとでもいうように振り返り、


「やり返すなら、今してみては? ただし、命を懸けてどうぞ」


 至極どうでもよさそうに言い放ったのだ。


 確かに、この町になんのしがらみもない皇子が、バステオの機嫌を損ねてもなんら害はないことはわかるし、はっきり言ってバステオなんて目じゃないくらい皇子が強いのもわかる。

 だが、それがわかりすぎて、怖かった。

 本当に、小指一本動かしただけでちょんっと彼の首を刎ねてしまいそうだ。


 結局バステオはその辺の力量差を見極めたらしく、「くそっ、覚えてやがれ!」などとステレオタイプの台詞を叫んで這いずるように去っていった。

 呆然と後を見守っていたヘルゲも、ぺこぺここちらに頭を下げながら去っていく。

 ゾンネベックの将来が心配である。


(待ってくれえええ! 俺も一緒に連れてってくれええええ!)


 だがどちらかと言えば、レオは彼らと一緒にこの場を走り去ってしまいたかった。


 まるで台所の黒い悪魔のように忽然と現れて、機嫌が悪いからというキレる若者みたいな理由で人の関節を外す男と一緒にいるなど、恐ろしすぎる。

 しかも、彼はレオが不当に銅貨を稼いだと、ぷりぷり怒っているようなのだ。


「……っ、……っ、…………!」


 恐怖と焦燥で、レオは訳の分らぬことを叫びながら腕を逃れようとする。

 が、もちろんそれらの言葉は発音されず、ますます拘束を強められる結果に終わり、彼はもはやパニックに陥っていた。


 横では、興奮と感動も露わなカイが、


「まさか皇子殿下自ら駆けつけてくださるなんて……!」


 だとか叫び、「どうかここではアルと呼んでくれ」などと窘められているが、そんな会話が耳に入るレオではない。


 ハーケンベルグ家の護衛だけでは飽き足らなかったカイが、従者ネットワークを通じて皇子にまで私兵を用意させたこと。

 それでも心配に駆られた皇子が下町に繰り出て、人だかりに気付いた結果奇跡の遭遇を果たしたこと。

 二人の会話によく耳を澄ませていれば、それらの経緯が理解できたはずだったが、もちろん今のレオにそんな余裕はなかった。


「あの……」


 そこに、状況にすっかり取り残されていたクリスが、おずおずと話しかけてくる。


「助けていただいて、ありがとうございました。ただ、その、彼女、すごく怯えているみたいなのですけど……」


 遠慮がちに指摘され、皇子は「ああ」と頷く。

 彼はひょいと、まるで重みを感じていないような仕草で、レオを横抱きに抱え上げた。


「…………っ!」


(ひいいいいいいい!)


 この時の、レオの恐怖たるや。


 至近距離に麗しのご尊顔が迫ったことに、己の死期もいよいよ迫ってきたことを悟り、レオは冷や汗を滲ませた。


「ああああの……っ、は、放し……っ」

「手荒なところを見せて、怯えさせてしまったね。だが、これ以上は見ていられない。今日はもう、学院に帰ろう」

「な……っ」


 なんでなんすか。どうしてそうなるんすか。俺の声が聞こえていますか。


 言いたいことは様々あったが、喉に詰まったそれらの言葉は、残念ながら皇子達の耳には届かなかった。


「カイ。彼女はこのまま、僕の馬車で連れて行こう。悪いが君は孤児院に連絡をつけてくれるか?」

「もちろんでございます! 当家の馬車は代替え品を用意しようとしていたところでしたので、大変助かります。主人をどうぞよろしくお願いいたします」


 目の前では、カイがうかうかと騙されて、レオのことを置いていこうとしている。

 この光景はどこかで見た。まるでデジャビュだ。


「ああ。確実に部屋まで送り届けよう」


 皇子がにこやかに請け負う。

 それはあたかも死刑宣告のごとくレオの耳に響いた。


(しし死んだ姿でじゃねえよな!? ちゃんと、生きた姿で返してくれるんだよな!?)


 いよいよ死の気配を嗅ぎ取った脳が、勢いよく走馬灯の上映を始める。

 やり残した案件が、凄まじい速さでレオの脳裏をよぎっては消えていった。


(待ってくれよ、まだ俺、暴言封印の魔術すら解いてもらってねえぞ……! レーナに陣の構造だって聞きてえし、残り数時間でもうひと稼ぎしてえし、エミーリオたちの儲けもどうだったか聞きてえし、あっ! 湖の場所! てか、クリスさんとパンビジネスの仲介!)


 クリスが例の教会の導師だったと知った時、実はレオは、レーナと繋ぎを付けてやろうと頭の片隅で企んでいたのだ。

 もう少し打ち解けてからと機を窺っていたが、このままではそれもならずに、この縁が流れてしまう。湖の場所だってまだ聞けていないのに。


 他の案件は、レーナと連絡さえ取れれば何とかなる。

 だがとにかく、クリスとの繋がりだけは今確保しなくては――!


「さあ、行こう」

「や……! は、放し……!」


 じたばたもがいてみても、案の定皇子の腕はびくともしない。

 彼はカイ達に「失礼」と断り、そのまま颯爽と歩きはじめたので、とうとうレオはクリスの方に顔だけ向けて、渾身の力で叫んだ。


「クリスさん! お願いです! ハンナ孤児院、レオという、男の子に、連絡、取って……! いえ、今、カイと一緒に、行ってください!」


 とにかく、クリスをレーナに会わせるのだ。

 後はレーナがうまいこと、彼女との縁を維持してくれることを祈る他ない。


 クリスは、「え? レオちゃん? え? レオくん?」と目を白黒させているが、もはや詳細を説明する余裕などなかった。


「とにかく、お願いです! とても大切な、未来、掛かっているのです! だから、お願いです!」


 皇子の腕の中でなんとか身をよじり、金儲けの足がかりを逃すものかと渾身の力で叫ぶ。


「それと……」


 ひとしきり商売関連のダイイングメッセージを告げおおせた後、レオはくしゃっと顔を歪めて、本音を叫んだ。


「助けて――!」


 なぜか結果は、皇子が腕の力を込めただけに終わった。

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