25.レオ、ヤな男とタイマンを張る(前)
ぱっと顔を上げ、慌てて台車の陰から立ち上がったのは、もちろん顧客第一主義を掲げるレオである。
彼はさっと客の身なりを検分しつつ、申し訳なさそうな顔を浮かべた。
「せっかく、いらしたのに、申し訳ございません。当店の商品、完売しておりまして」
表面上は懇切丁寧に、しかし相手の姿に内心では舌打ちを漏らす。
斬りつけられて潰れた片目、上等な仕立てのシャツにズボン、しかしながら捲った袖から覗く、禍々しいほどに巨大な刺青。
三百六十度、どの角度から見ても紛うかたなき、ヤのつく自由業のお偉いさんでいらっしゃった。
(俺の記憶が正しけりゃ、こいつ、リヒエルトん中でもタチの悪い組織の、ナンバーツーくらいじゃなかったっけか)
下町ではヤの勢力図が大変複雑に展開されていて、隣の店とこちらの店で仕切りの組織が違うこともあるし、それが一日で入れ替わることだってある。
それを常に把握しておくことは、下町で生き残る秘訣の一つだった。
レオが見たところ、このいかにも凶悪そうな御仁は、純粋な暴力と法外なみかじめ料で店を支配することで悪名高い、ゾンネベックという組織の右腕ではなかったか。
(んでだよ、さっきみかじめ料、クリスさんが届けたじゃねえか。さては儲けすぎたから、追加で徴収に来たか?)
クリスやカイも慌てて立ち上がり、さりげなくレオを庇うようにしながら閉店の旨を伝えるが、相手は「うるせえ!」と地面が揺れるくらいの大声で叫び出した。
「俺の相手は今、そこの嬢ちゃんがしてんだよ! 外野は黙ってろや!」
恫喝に芸はないが、その分、冷酷に睨みつけてくる貴族とはまた異なる迫力がある。
こういった遣り取りに明らかに慣れていないのであろう二人は、びくりと体に緊張を走らせた。
厄介者にやって来られてしまった近隣の店の主人達も、びくっと体を震わせつつ、それでも見ずにはいられないというように、ちらちら視線を送ってくる。
(ちょーっと下がっといてくれな、お二人さん。ご近所さんも、すんませんね)
レオは、身をすくませている二人をすっと掻き分け、再び強面の客の前に立った。
この手のことなら、二人よりは下町育ちのレオの方が慣れている。最初に対応してしまったのも自分なのだから、最後まで窓口になるのが責任というものだろう。
低姿勢に、けれど、必要以上に怯えずに。
「失礼、いたしました。どのような、ご用件で?」
レオが冷静に尋ねると、目の前の男は醜悪な笑みを浮かべた。
「ヘルゲの奴から聞いたぜえ。このパン屋、随分人気らしいじゃねえか。俺達も、もうちょっと分け前に与りてえと、そう思ってよお?」
「バステオの旦那! 俺は、そんなつもりで言ったんじゃありません! どうか――……ぐぅっ!」
ヘルゲ? とレオが内心で首を傾げた次の瞬間には、その疑問は解決した。
凶悪面の男――バステオというらしい――の足元に取り縋るように這い
だがバステオに盛大に蹴り飛ばされ、地面に体を丸めて呻きだす。周囲の客が悲鳴を上げた。
(なるほど……でも、やべえな)
レオは瞬時に状況を理解した。
恐らく、ヘルゲというこの男は、握手の興奮も冷めやらぬまま、クリスのパン屋が活況であることを組織内で話したのだ。
そして、その儲けに目を付けたバステオが、追徴金を課しにやって来た。
白昼堂々取り立てに来る辺りセンスが無さすぎるとも思うが、何せ悪名高いゾンネベックの連中だ。完売して店が去ってしまう前にと、急いでやって来たのだろう。
(くそ……っ、せっかく稼いだ銅貨を巻き上げられちまうのか!?)
これぞ最大級の非常事態、大ピンチだ。
どうにかしてこの状況を切り抜けねば。
レオは拳にこっそりと力を込め、慎重に言葉を紡いだ。
「……どうか、落ち着かれて、ください。このような、ささやかな店です。あなた様に、ご満足いただける、支払いなど、できるはずも、ございません」
実のところ、稼ぎとしてはかなり堅調だし、銅貨をもう数枚差し出すことも可能だった。
が、誰がそんな馬鹿正直に儲けを差し出したりするだろう。
しおらしく、眉を下げて伝えたが、しかしバステオはにいっと笑うと、目に好色な光を浮かべた。
「ささやか? とんでもない。この店には、知れた額の銅貨よりずっと光り輝く、どえらい宝物があるじゃねえか」
周囲が息を呑む。
この凶悪な男が、光り輝く美貌の少女を気に入ったらしいことは、誰の目にも明らかだった。
現に、バステオの舐めるような視線は、無遠慮に少女を見回すと、ある一点に執拗に注がれた。
男物のシャツに隠された、まだ色を感じさせない胸元。
繊細な鎖骨と、恐らくはお守りか何かを吊るしているのだろう金の鎖が覗く、その白い肌に。
「膨らみこそ目立たねえが、その張り。何より美しさ。滅多にねえ上物だ」
「…………っ!」
カイ達が一斉に気色ばむ。レオも咄嗟に胸元を押さえ、さっと青褪めた。
(こいつ……! カー様の存在に気付いてやがる!?)
銅貨より光り輝く、胸元を飾る存在。
それがカールハインツライムント金貨を指していることは明らかだ。
服の上からでは膨らみなど分からなかったろうに、鎖の張りだけで金貨だと見抜いてみせるなど、これは相当な目利き、重度の貨幣愛好者に違いない。レオは焦った。
「ど……、儲けの銅貨を、お支払い、しますから……!」
「ああん? 今ここで銅貨なんざ選ぶ奴がいるかよ」
レオとしては断腸の思いで銅貨の支払いを申し出たのだが、もはやバステオは金貨にしか興味が無いようだった。それはそうだろう。逆の立場なら、レオでもそうだと思うから。
「断らねえほうが身のためだぜ。なあに、大切にしてやるよ。毎日この手で可愛がって、ふかふかの布団に寝せてやるぜ?」
「…………!」
日夜磨いて、一緒の布団に寝るところまでレオと一緒だ。やはり貨幣愛好者の行動は必然的に似るのだろう。
こんな状況でなければ友情だって生まれたかもしれないが、レオは彼に金貨を譲るつもりなど、勿論無かった。
(なんてことだ……! くっ、一体、護衛の者たちは何をしているんだ……!)
一方で、大切な主人に迫った危機に青褪めたカイは、険しい目つきで周囲を見回した。
この周辺には十人近くの護衛が潜んでいるはずだ。こんなピンチなのに、なぜ誰ひとりやって来ないのか。
(だめだ、我慢なんてしていられない! ここは僕が……!)
荒事は護衛の管轄であったし、素人のカイが下手に暴れて、かえって少女を危機に追い込む恐れもあった。
しかし、カイにはこれ以上、大切な主人が貶められるのを見ていられなかった。
ただでさえ男が怖いという少女なのに、バステオとかいう凶悪な男に舐めまわされるように見られ、先程から青褪めている。
胸元を押さえ、それでもきっと相手を睨みつけている辺り、その精神力の強さには感服の一言だったが、内心では恐怖に竦んでいることだろう。
「ああ、楽しみだなァ? 白く柔らかい、吸いつくような感触を今日にでも堪能できるかと思うと、よだれが出そうだぜ。これでも俺は『商品』は大切にする男だ。安心してくれていいぜ?」
下卑た言葉に、全身の血が逆流しそうな程の怒りを覚え、カイが無謀にもバステオに殴りかかろうとしたその時、その腕を小さな手が掴んだ。
「カイ、待って!」
他でもない、大切な少女である。
彼女は、ちらりとクリスの方に視線をやると、カイに小さな声で囁いた。
「クリスさん、これから、この街で、商売していくのです。事を、荒立てては、いけません」
「しかし……!」
この期に及んで他人の心配など。
少女がそういった性格の持ち主だということは理解していたが、それでもカイは叫ばずにはいられなかった。
だが、少女自身も困惑したように首を傾げている。
彼女は、
「思っていたのと、違うこと、あるかもしれません。もう少し、話、聞いてみないと」
とあくまでも相手の善性に期待するかのような発言を寄越した。
「レオノーラ様、しかし……!」
カイは言い募るが、もはや少女は聞く耳を持たない。
じっと相手を美しい瞳で見据え、何か考えているようである。
(なんだこの人、カー様狙いじゃなかったのか)
レオはといえば、「白く柔らかい」だとか「商品」だとか言ったバステオの言葉を聞き、ようやく自分が勘違いしかけていたことを悟った。
いくらなんでも、金貨をそのように表現する人間はいない。
(じゃあなんのことだ?)
しかし、では一体彼が何を狙っているのかといえば、困惑するばかりだ。
フツメンとして過ごしてきたレオには、金関連で揉めたことはあっても、性的な対象として男に迫られたことなどない。この凶悪面のおっさんが一体何を考えているのか、よくわかっていなかった。
ついでに言えば、バステオも美少女の前ということで多少格好を付けたのだろうか、気取った言い回しを選んだこともいけなかった。
レオが翻訳を手掛けてきた「たわわ文庫」では、女性の二つの膨らみについて、そのように迂遠で優雅な表現をする作者などいなかったのである。
(ええと、俺の懐のあたり見てるのは確かだよな。で、カー様じゃなくて、白くて、柔らかくて、よだれが出そうな「商品」……おお!)
そっちか。
レオはようやく、彼が、自分の懐にしまってある、クリスのパンを狙っているのだと理解した。
金貨よりは目立つが、それでも生地の張り方からパンだと見抜くなんて、やはりなんという目利きだろう。
――レオは、この世の中には、未だに膨らみに乏しい胸に欲を募らせる変態がいるなどとは、考えもしなかった。
「あなたは、クリスさんから、みかじめ料として、パン、受け取りました。それで、満足できない、言うのですね?」
「こんなお宝を知っちまったのに、誰が満足できるかよ。俺はなァ、飢えてるんだ」
レオは確信した。
間違いない。
バステオはみかじめ料代わりに受け取ったパンに味を占めて、もっと食べたいと考えているのだ。飢えた人間は手段を選ばない。
てっきり難癖付けて、金貨を巻き上げるつもりかと疑ってしまったが、その素朴な欲求に思い当たってレオは胸を撫で下ろした。
なんだ、追徴分としてパンをねだるなんて、凶悪な面をしたただの食いしんぼうではないか。
思えば最初の一声も「もう閉店か?」だったし、彼は相当パンを食べるのを楽しみにしていたのだろう。
さすがにパンを一緒の布団に寝かせるという発想はレオには無かったが、妹分は大切にしているキャンディーをよく布団に持ち込んでいるから、もしかしたらそういう性癖もこの世にはあるのかもしれない。
(いやでも、さすがに一度懐に入れたパンをやるのは、ちょっと……)
それに、銅貨なんて目じゃないくらいパンを欲している人物に、そんな僅かな量を差し出すわけにもいかないだろう。
幸い台車の下には、自分達の昼飯用のパンをまだいくつかストックしていたはずだ。
(ひとまずそれを差し出して……あ、いや、それだけじゃ少なすぎるから、サンドイッチにして渡すか?)
パンだけで渡すよりは、水増しになるはずだ。
申し訳ないが、先程から様子を窺っているだけで助けてくれない周辺の店にも、ちょっとばかり巻き込まれてもらおう。
「……わかりました。少々、待つ、ください」
レオはひとまずパンを切ろうと、鞄を手繰り寄せ、先程仕舞った商売道具――ナイフを取り出した。
途端に目の前の男がぎらりと目を光らせる。
「何考えてんだオラァ! いっちょまえに、歯向かう気かァ!?」
「レオちゃん!」
「レオノーラ様!」
クリスやカイもぎょっとしてこちらを振り向く。周囲も一斉に悲鳴を上げた。
「てめえ! この俺に切りかかろうなんざ百年早いぜ」
バステオがドスの利いた声で脅しつける。
レオはちょっとびびって、ぎこちなく笑みを浮かべた。
「そんな、つもり、ありません」
「ああん!?」
「切るのは、『商品』、の方です」
その発言を聞いて、顔色を失くしたのはカイ達だ。
彼らには、この汚らわしい男に触れられるのを嫌がった少女が、自らを傷付けて「商品価値」を下げようとしているとしか思えなかった。
少女はいつだってそうだ。
悪意を信じず、どのような行為にも優しさを見出して、それに縋って。
危機に追いやられたら、人を傷付けるよりも、自らを犠牲にすることの方を選ぶ。
(だめだ……!)
カイの脳裏に、トラウマとなりつつある光景がよぎった。
魔術発表会の当日、鏡の前で憂鬱そうにしていた少女が、静かに自分に話しかける姿だ。
彼女はその真実を見通す紫の瞳で、真っ直ぐにこちらを見つめて言った。自分が去っても悲しまないでくれ、忘れてくれと。
(そんなこと、もう二度と……! 僕はもう、二度と、レオノーラ様を失いたくなんかないのに……!)
ナイフの刃を素手で握り締めてでもいい、とにかく彼女を止めなくては。
そうやってカイが、勢いよく少女に向かって腕を伸ばした、その瞬間。
「穏やかでないね」
闇に射す一条の光のような、朗々たる真っ直ぐな声が辺りに響いた。
まおう が あらわれた!