24.レオ、禍の影響に悩む(後)
「え……?」
呆然とするレオと、さっと警戒心を滲ませたカイ。
そのどちらもの視線を受け止め、クリスは穏やかに笑った。
「これでも元導師よ。さすがに気付くわ。カイくん――従者さんだって、まさか彼女が完璧に平民に変装しているだなんて思わないでしょう?」
「それはさすがに……」
「え」
なかなかいい感じに擬態していたつもりのレオとしては、カイの相槌は少しショックだった。
「ふふ、そんなに警戒しないで。私、あなたになんら害意など抱いてないわ。そして、どうか、そんなに気に病まないで」
クリスは、台車の下に隠してあった自分用のパンの包みを開くと、その一つを手に取り、更に半分に割ってレオとカイに手渡した。「はい、おやつ」と言って。
火の精霊と懇意になって作り上げたというクリスのパンは、焼き加減が素晴らしい。
外側のこんがりとした焼き目に指を入れると、ふんわりと空気を押し返すように、白い中身が盛り上がる。
レオは渡されたパンをどうしていいかわからず、それを握り締めたまま、困ったように彼女を振り仰いだ。
チョコレート色の瞳は、温かな色を浮かべてこちらを見ていた。
「確かに、あなたがハーラルトの陰謀を、少しばかり大々的に明かしたが為に、教会は混乱したわ。信者の足は遠のいた。迫害を受けた所もあった。結果、精霊への祈祷が滞り、綻びは徐々に市民の生活にも現れはじめている」
「…………!」
(ええええ!? 市民の生活にまで!? そしてそれも俺のせいなんかああ!?)
レオは、その責任の重大さに心底慄いた。
びくりと肩を揺らしたところを、隣に座っていたカイが見て取り、「レオノーラ様、どうぞそのようにご自分を責めないでください」と宥める。彼はきっとクリスを睨みつけた。
「――お言葉ですが、クリス様。主人は誰よりも早くそれに気付き、このようにご自分を責めていらっしゃるのです。それを改めて突き付けるような真似はおやめくださいますか」
「え」
たった今クリスに突き付けられて、ようやく思い知った状態なので、勿論誰より早く禍の影響に気付けていたわけもない。
カイの発言に驚いて声を上げると、従者は「何もかもわかっている」というような笑みを浮かべ、おもむろに頷いた。
「我が主人は、いち早く市民生活への影響に思いを巡らせ、こうして自ら町に足を運び、人々に混じってその実情を体感しようとすらしているのです。それも、私が止めなければ、誰にも告げず、お一人で。本来なら、主人の責任の範疇ではないにもかかわらずです」
自分のただ金儲け愛を迸らせた行動が、どうやったらそんな風に解釈されるのかがわからない。
レオが何も言えないでいると、クリスが「どうか最後まで聞いてちょうだい」と苦笑した。
「私には責めるつもりはないと言っているでしょう。私の意見は、今カイくんが言った内容そのものよ。確かに禍の影響は大きかったし、そのスタートラインにいたのはレオちゃんだった。けれど、それはあくまでレオちゃんがそこに立っていただけよ。陰謀を企てたのはハーラルト導師が悪いし、暴徒化して教会を襲ったのはその市民が悪い。そして、簡単に覆る程度の信頼しか得られなかったのは教会の責任。私は、そう言いたかったの」
「クリスさん……」
ゆっくりと、事実を一つ一つ解きほぐすように言われて、レオは心臓を掴んでいた手が緩むような心地を覚えた。さすが導師、なんというカウンセリングスキルだろう。
クリスはもう一つパンを取り出すと、今度はそれを自分用にちぎった。
「――まあ、正直に言ってしまうとね、最初レオちゃんが
「そんなわけが……!」
カイが血相を変える。
が、クリスはふんわりと笑って、
「そう、違うわね。私も、彼女を見ていてわかったわ」
と頷くことでその反論を封じた。
彼女はちぎったパンを愛おしそうに手に乗せ、レオに向かって掲げてみせる。
そうして、しみじみと呟いた。
「レオちゃん――いいえ、レオノーラ様。あなたは、ただ、目の前の人を救おうと、いつも一生懸命なだけなのよね」
いいや、ただ、目先の金を掴もうと、いつも一生懸命なだけである。
だが、レオの困惑にもかかわらず、クリスはにっこりと笑うと、手にしていたパンを口に放り込んだ。ん、いい焼き加減、と呟いて。
そして、いつまで経っても食べようとしないレオの手を取り、その掌を包んでパンを握らせる。
彼女は、まさに慈愛の申し子のように、穏やかに微笑んだ。
「だから、あなたはなんら気に病む必要はないの。だいたい、あなたはまだ学生じゃない。よしんばあなたの行動が、ある側面から見たら先走ったものだったとしても、それが善意からのものである限り、大人はそれを責めてはいけないのよ。もし難癖付けて来る人がいたら、私に言いなさい。この青二才め! って叱ってあげるから」
「…………はい」
実際のところ、クリスがフォローしてくれるたびに、レオは自らの取った行動の罪深さを思い知らざるをえない状況なのだが、しかし彼女が本当にレオのことを慰めようとしてくれているのはわかる。
(なんか……大人だよな、クリスさんって)
賢者予備軍だというのに、世慣れた振りをして壁ドンしてくるエセ肉食系導師とは大違いだ。
(ん、いや? グスタフ先生にもこういう人を紹介してあげればいいんじゃね?)
クリスはあどけない顔立ちをしているので、正直年齢が読みにくいが、恐らくは二十代後半から三十代くらいなのではないかと思う。
そのくらいの年齢差で、人好きのする容貌に、穏やかな語り口、そしてこの包容力。
きっと彼女なら、グスタフが奇行に走っても、「あなたは悪くないのよ」と包み込んでくれる気がする。完璧ではないか。
レオはありがたくパンを頂きながら、脳内メモに、「今度クリスをグスタフ先生に紹介すること」と書き加えた。
それにしても、このパンは実においしい。
白く柔らかい中の部分は、まさに舌に吸いつくような、もっちりとした仕上がりだ。
貧乏性のレオはパンを小さく割ると、昼にもう少し食べようと一部を懐に仕舞い込んだ。
と、主人に倣ってパンを食べはじめたカイが、ちょっと言いづらそうに切り出す。
「――あの、差し出がましいとは思うのですが」
「なあに?」
「その、クリス様は水の精霊を守護に持たれていた方――かなりの高位導師とお見受けいたしました。そのような方が、こうして導師の職を辞されてしまってよろしいのでしょうか。先程クリス様ご自身も、市民生活に影響が出ていると仰っていたとおり、私から見ても、少々、特に水回りに綻びが現れているように思うのですが……」
遠慮がちな、しかし鋭い指摘に、クリスは「まあ」と目を見開いた。
「驚いた。あなたも既に異変を感じ取っているの?」
「いえ、最初に気付かれたのは、もちろんレオノーラ様ですが」
「えっ」
急に話を振られ、レオはびびった。
(み、水回りに綻び!?)
そんなもの気付いた覚えはない。
が、水、というキーワードで思い出された情報があり、レオは咄嗟にそれを呟いた。
「え……ええと、水不足、かもしれませんね。野菜、トルペ、とても高い……」
精霊が云々というよりは、金銭的観点から、その辺りのことは気になってはいたのである。
自信無げに語尾を弱めるが、しかし、クリスは一層驚いたようだ。
彼女は感心したように溜息を漏らすと、次いで困ったように唇を噛み締めた。
「まったく、本当に恐ろしいほど真実を見通しているのね。……その通りよ。リヒエルトには大きな川がある分、水の精霊を讃える教会が多かったでしょう? それがここ最近、それらの教会からの充分な祈祷が得られなかった結果、水の勢力が弱っているのよ。更に言えば、私の守精、湖の貴婦人とも呼ばれる水の至高精霊が、なんとかそれを維持してくれていたのだけど、ちょっと私が勢いのまま『やっぱ火の精霊の方がいい!』って火精をヨイショしてしまったものだから、彼女、すっかり拗ねてしまって……」
「えええ……」
前半はともかくとして、後半はどうなのだろうか。
勢いでそんな大事な精霊を蔑ろにしてしまったクリスもクリスだが、それで拗ねて、野菜の価格を高騰させてしまう湖の貴婦人とやらも、レオ的にはちょっとアレだ。
「クリスさん、湖の貴婦人、仲直り、しないのですか?」
レオはついそう尋ねてみた。パンは火の精霊に助けてもらって焼いているのだから、導師の職を辞したからといって精霊力が失われたわけではないはずだ。
ここはひとつ、水の精霊と再び懇意になっていただいて、それで野菜の価格を安定させていただいて、ついでに今度からは、事前に降雨量の予測推移だとかもインサイダーしていただければ、大変ありがたいのだが。
しかし、クリスはそれに、困ったように眉を下げた。
「うーん、それについては、弟や、仲間の導師に託したはずなんだけれど。それに、私も焦って呼び掛けてはみたのだけどね。ちっとも答えてくれないの。相当怒っているみたい。当然よね、彼女の御名を放棄してしまったのだから」
「ミナ?」
聞きなれない単語に首を傾げる。
クリスは「ああ」と片方の眉を引き上げて説明してくれた。
「精霊の真実の名のことよ。精霊が宿る場所に赴いて、御名を唱え、精霊に気に入ってもらえれば、その力を得ることができるの」
それを助精と言ってね、というところまで彼女は解説してくれていたが、レオはもはや聞いていなかった。
(つ……つまり、手つかずの湖や沼の精霊の御名を知って、気に入ってもらえれば、陣の水源をゲット……!?)
ここにきて、ウォータービジネスへの熱を滾らせていたからである。
レオはばっと顔を上げ、勢いよくクリスの両肩を掴んだ。
「そそそその、湖の貴婦人、きれいな、大きな湖、住んでいますか!?」
「え? それはもちろん」
(キターーーーー!)
レオは内心で快哉を叫んだ。
「私! 私も御名、知りたいです!」
はいっ! と挙手する勢いで申し出る。
けんもほろろに断られるかと思いきや、クリスの返答は、
「いいわよ」
至極あっさりしたものだった。
「私、諦めません! 本気です! だから――……え?」
勢い込んで捲し立てていたレオの方が、むしろかくんと転びそうな勢いだ。
「え、教えて、くれるのですか……?」
「もちろん。あなたのことは信用できるし、実際のところ、彼女のいる場所に赴いて、気に入られないことには、いくら名ばかり唱えても何が起こるわけではないもの」
「な、なるほど……」
もちろん、みだりに口に出すべき言葉でもないけれど、と補足した彼女は、ちょいちょいとレオを招き、そっとその耳に唇を寄せた。
「できれば一度で覚えてね? 彼女の名は――」
意外なことだが、レオはすんなりとその長い名前を覚えることができた。
精霊の最初の土地がエランド王国だからかもしれないが、要は古めかしいエランド語で「恵みある」だとか「真実の」といった形容が続いた後に、ちょっと長めの女性名が来るだけで、意味で覚えればそれほど苦ではなかったからである。
エランド語を教えてくれたブルーノと官能小説に感謝だ。
(メブキウル・シーゲリウス・ウズマキルケ・カーネリエント)
恵みある、真実の、豊かに溢れる、カーネリエント。
それが、レオに恵みをもたらしてくれるはずの、もう一人の「カー様」の名前だった。
御名は把握した。
では具体的な場所をと顔を上げた瞬間。
周囲の空気がざわりと緊張を孕むのと同時に、
「おうおう、もう閉店かあ?」
ドスの利いただみ声が三人の耳を打った。