23.レオ、禍の影響に悩む(前)
二人は、あっさりと言い切ったクリスに驚きを隠せなかった。
導師といえば、幼いころから専門の宗教学校に通い、帝国学院とはまた異なる一流の教育を施された、カースト上位のエリートだ。
賢者のような称号を得て教会のトップに君臨する者と、町の聖堂を管理する者では、だいぶ権力に濃淡は出るが、それでも一介の町人に比べれば段違いで高位の身分に属することに違いない。
にもかかわらず、自分を単なるパン屋のように言うとは。
「え……? 導師……!? 『だった』……!?」
「失礼ですが、クリスさん……いえ、クリス様は、先日の暴動に巻き込まれたので?」
動揺のあまり言葉を詰まらせる主人をよそに、従者の方は丁寧かつ大胆に、クリスの事情に切り込んでいく。
クリスはちょっとばつが悪そうに、「まあ、ね」と頷いた。
「ハーラルトの禍ってあったでしょう? あれで、すっかり一部の市民の皆様が怒り狂ってしまって。『パンを配って俺たちのご機嫌取りでもしたつもりか、ふざけるな』って、石を持って乗り込んできたのよね」
「それは、大変でしたね……」
概要を知っているらしいカイは神妙に相槌を打っているが、横で聞いていたレオは「え……?」と体を硬直させた。
(暴動って、パンの量を巡ってじゃなかったのか……!?)
慌ててレーナとの会話を思い返すが、確かに彼女は量がどうのとは言っていなかった。
「皇族の方々って、皆一様に眉目秀麗でいらっしゃるし、膨大な魔力を持ってらっしゃるし、いわば帝国中の絶対的君主にして憧れでしょう? それに仇なすような真似をした教会のことが、相当許せなかったみたいなのよね。多くは教会通いをやめてしまったし、一部のロイヤルファンに至っては、得物を握り締めてレッツ討ち入り、みたいな感じで」
困ったものよね、と頬に手を当てるクリスに、レオはさあっと青褪めた。
(ハハハハーラルトの禍の余波が、そんな形で……!?)
レオとしては、うっかり成り行きでハーラルトの野望を打ち砕いてしまっただけで、その後誰もレオの前ではその話をしないので、なんとなく過去の、自分とは関係ないものと思っていたハーラルトの禍。
まさかそれが、現在進行形で目の前の人を苦しめていたとは。
(そ、それってつまり、クリスさんがエリート導師やめちゃったのって、俺のせい!? 俺が、あんな形でハーラルト先生の野望を暴露しちゃったせい!?)
いや、もちろん企む方が悪いとは思うのだが、レオもあんな、世間に喧伝するような形でそれを暴露してしまったのだから、原因の一端があるといえばあるだろう。
今頃になってようやく、自分が引き起こしたことの影響の凄まじさに思い至り、真っ青になっているのを、カイが横では痛ましそうな視線で見つめていた。
「あ、あの、暴動って、その、具体的に、どんな……」
レーナによれば、フスハイム教会は火事に遭ったはずだ。
もしや、教会憎しの思いで暴徒化した市民が、そのせいで聖堂に火を放ったのだとしたら――レオはいよいよ、クリスにどう詫びていいかわからない。
「え? だから、市民の一部の方々が、物凄い形相で夜の聖堂に乗り込んできて」
それで火を放ったのだろうか。
「聖堂内に、他の導師が誰もいないとわかるや、竈で明日のパンの仕込みをしていた私のもとにやって来て」
それで竈を爆発させたのだろうか。
「そうして彼らは――」
レオは泣きそうになって続きの言葉を待った。
彼らは彼女を殴ったのだろうか。石を投げつけたのだろうか。焼き殺そうとしたのだろうか。
もしそうだとしたなら、これまでのうのうと過ごしてきた自分は、一体どう償えばよいのだ。
クリスは過去の光景を思い出すように目を伏せると、ぎゅっと自身の両腕を抱きしめて、低い声で告げた。
「私に言ったのよ。『おまえの焼いたクソまずいパンなんて、食えるもんか』って」
レオは、んっ? と思った。
(え? そこ?)
いやいや、その後に火を放ったのかもしれない。
神妙な面持ちをキープして耳を傾けたが、しかしクリスが語るところの「暴動」のクライマックスはそれであるらしかった。
「私もついかっとなって言い返したのよ、そんなのひどい、あなたたち、いつも美味しいといってパンを食べていたではないの、と。でも彼らはせせら笑って――心底馬鹿にしたような顔だったわ――、こう言った。『タダだから食ってただけだよ。でなきゃ、誰がこんな、水っぽいパンなんて食うか』」
「…………」
レオとカイは、「えええ……」といった様子で眉を寄せた。
語り口はシリアスなのに、内容は単なる口げんかだ。そして、パンが水っぽいとはこれいかに。
クリスは、ふっと自嘲するかのような笑みを刻み、
「確かに、私の守護精霊――主精は水の精霊だったから、彼女がついサービスしすぎて、水の分量が多すぎることもままあったし、焼き上がったパンがちょっとふやけることも多々あったわ。けれど、その分しっとりと吸いつくような感触が楽しめるからと――私、自惚れていたのよ。傲慢だった。にもかかわらず、人々に褒めてもらおうと強欲な心に囚われ、事実を指摘されて激怒し……。精霊が嫌う悪徳を三つもまとった私は、もう……導師たる資格などないわ」
それはもしや、「傲慢」「強欲」「憤怒」のことなのだろうか。
こんなにちんけな悪徳、他に聞いたことなかった。
「も……もしや、それで、導師を……?」
「そうよ」
重々しく頷くと、クリスはじっと自らの掌を見つめた。
「私、泣いたわ。自分を責めたし、一瞬人々を恨みそうにもなった。でも思ったの。『クソまずいパン』と思われていたなら、『超おいしいパン』を焼けるようになればいいじゃない。水っぽいのがいけないならば、水の精霊とはちょっと距離を置いて、火の精霊にお世話になればいいじゃないのと。そうして
(ええええええ!? そっち方向に決意すんの!?)
斜め上に駆け上がっていったクリスの決意に、レオは仰天した。
ちなみに、エミーリオ達に「バザーにレオの居場所はない」と突き付けられ、「ならば違う方法で稼いで彼らを見返してやろう」と決意した辺り、二人はどこか根っこで繋がったような発想の持ち主であったが、互いがそれに気付くことはなかった。
「あの、暴徒化した市民に、聖堂に火を放たれたのでは……?」
カイが恐る恐る尋ねると、クリスは「え?」とさも驚いたように聞き返す。
「なあに、それ。彼らは一通り罵ると、私に対してはそれですっきりしたのか、他の導師を探しに去っていったわよ」
「え」
カイが念の為、フスハイム教会が火事に遭ったことを知っているかと尋ねると、彼女は目をまん丸に見開いて驚愕していた。
なんでも、思い立って教会を出奔してからは、穀倉地帯に赴き小麦の視察をしたり、各地のパン屋を転々として武者修行に打ち込んだりしていたせいで、その辺りのニュースを全く把握していなかったらしい。
「フスハイム教会は、今や廃墟のようになっているようですよ」
「ええっ!?」
「導師、失踪、ということ、なっているようです」
「ええっ、私、パン屋になりますって、辞表を残したのに!」
そこでクリスははっとした顔になった。
もしかして、と彼女が語り出した内容を総合すると、その場で火の精霊を選び取るような発言をしたために、消し忘れた蝋燭の火が「調子に乗って」聖堂中に広がり、辞表ごと燃やしてしまったのではないかとのことだった。
しかも、いきなり浮気された格好の水の精霊が拗ねて、それを消してくれなかったのではないか、と。
「…………」
途中まで、かなり思い詰めて話に聞き入っていたレオは、総じて残念な展開に、何やら肩透かしをくらったような気分になった。
(なんなんだ、精霊が調子に乗るって……拗ねるって……)
思っていたよりずっと人間味溢れる彼らの姿に、親近感を通り越して呆れを感じそうだ。
遠い目をしだしたレオをよそに、クリスはぐっと眉間にしわを寄せる。
「でもやっぱりおかしいわね、失踪扱いだなんて。辞表は焼けてしまったのだとしても、弟にも手紙を出したのよ。導師をやめて、パン屋になるべく修行しますって。後のことをお願いねって」
確かに、ヴァイツ帝国では、親族が手続きを取らないと失踪扱いにも死亡扱いにもならない。
弟とやらがその手紙を読んでいるのなら、クリスが失踪扱いになっているのは奇妙だった。
「手紙、ちゃんと、投函、しましたか?」
「やあねえ、ちゃんと出したわよ」
確実に届くよう、郵便員に念押しまでしたと彼女は言う。
ならば、何か行き違いがあって、内容が誤解されてしまったとかであろうか。
「ちなみに、具体的には、なんと、書いたのですか?」
「そのままよ? 一部の方々に詰られてショックだった、でも言われてみればその通りで、私にはもう導師の資格はない。だから、火の精霊にこの身を捧げて、魂から鍛えてきますと。新たに生まれ変わって、また会える日が来るのを信じてる、後は頼みますって」
「そ、……っ!」
それじゃまんま遺書じゃねえか! とレオは叫びかけ――喉を焼いた。
自分達は、クリスのパンに対する情熱や決意を予め聞いていたからいいものの、一般には、「火の精霊に身を捧げ」「魂を鍛え」「生まれ変わる」と言ったら、「焼身自殺して」「魂を浄化し」「新たなる生を受ける」としか捉えられないだろう。
弟が受けたであろう衝撃を思うと、涙すら浮かびそうだ。
「ク、クリスさん、たぶん、それ、誤解……!」
「クリス様。恐れながら、弟君はそのお手紙を遺書として読まれたのではないでしょうか」
双方向から指摘されても、クリスはきょとんと「え、なんで?」という顔をしている。
レオはつい、
(ったく、そんな言葉足らずだから周りに誤解されるんだよ!)
と心の中で盛大にツッコミを入れてしまった。
もしレーナがその心の呟きを聞いていたなら、「あなたにだけは言われたくないわよ!」と叫びだしていたことだろう。
「……ひとまず、弟さん、もう一度手紙出す、または会う、した方がいい、思います」
「そう?」
クリスは相変わらずきょとんと首を傾げている。
その呑気さに脱力しながらも、一方ではレオは胸を撫で下ろした。彼女がそこまで深刻な目に遭ったのではないということなら、それに越したことはない。
(いや……でも、クリスさんが大丈夫だったってだけで、教会自体は、ハーラルトの禍で相当ダメージ、受けたってことだよな……)
その全ての責任がレオにあるわけではないが、やはり罪悪感はあった。
寄付がもらえなくなったらどんなに辛いだろう。給料無しに働くなんて、精霊だって嫌だろう。
レオの大事なタマを二度にわたって奪おうとした教会は恐怖の存在だが、しかし、彼らが長きに渡ってパンの配給をしてくれていたことは事実だ。
レオがあんな風に暴露などしなければ、もっと頭のいい大人が、うまいこと秘密裏に処理していたかもしれないのに。
レオは顔を曇らせた。
「――レオちゃん? どうしたの?」
「……いえ。ちょっと……」
罪悪感がパないだけです、とは言えず、レオは俯いた。
一応孤児院の外では貴族令嬢の身分を隠しているつもりなので、ここで「実は自分、禍のある意味当事者で」だとか言いだせるはずもない。
しかし、クリスは二、三度瞬きすると、ふと柔らかな笑みを乗せて、こう告げた。
「……あなたが悩むことではないわ、レオちゃん。……いえ」
レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ様。
その静かな声に、レオは思わず顔を上げる。
周囲の雑踏が、一瞬遠退いたような気がした。