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21.レオ、下町で輝く(中)

「本当に、どうもありがとうねえ」

「いえいえ。こちらこそ、お礼、言いたいのです」


 おっとりと頬に手を当てて述べる女性――彼女はクリスと名乗った――に、レオは満面の笑みをもって答える。


 レオは今、台車を簡易販売台に改修し、飾り付けを行っているところであった。


 なんでもクリスは、この東地区にやってきたばかりのパン職人であるらしい。

 なんとか雪花祭でパン売り場を確保できたはよいものの、いかにして販売するかのノウハウを全く持っておらず、難儀していたそうだ。

 東市の中でも、一際辺鄙な場所だということだけは辛うじてわかったので、ひとまず早く来て、何か準備を、と無謀な程の量の商品(パン)を持ち込み、右往左往していたら、そこをレオに話し掛けられた、とそういうわけである。


 大量の、かつ価格が高騰しつつある、パン。

 しかも店主は商売に不慣れで、明らかに売り子を必要としている。


 ウィン・ウィンの関係が築けそうな予感を嗅ぎ取ったレオの、そこからの行動は素早かった。


 まずはカイのためにパンを分けてもらい、介抱。そしてクリスにはお礼をしたいからと言って接近し、親切ごかして色々とアドバイスを行った。


 例えば、ここら一帯の親分にみかじめ料代わりのパンを差し入れることを勧めたり、周囲の競合店情報を教えたりというのがそれである。


 そうして、クリスが感謝と尊敬の念を向けてきた辺りで、バイトの話を持ちかけ、快諾をゲット。売上の三分の一を譲ってもらうという破格の条件で二人は手を取り合ったのである。

 ちなみにカイには、体調が本格的に回復するまで、台車の陰で仮眠(スタンバイ)を命じた。


(ありがとう精霊! ありがとうカー様!)


 レオは金の精霊と金貨に感謝の祈りを捧げつつ、いそいそと手を動かした。

 パンであれば、窯を持たないハンナ孤児院の商品ともバッティングしないし、何より堅実な稼ぎが見込める。

 目標額もなんとか稼げそうだった。


(んー、清潔感を損なわないために、花弁が落ちないように飾り付けて、と……)


 粗末だが大きな台車は、側面の板を外し、車輪を固定して傾かないようにしたら、がっしりとした販売台になる。

 そこに、パンと引き換えに近くの花屋や手芸屋からかっぱらっ……頂戴してきた花や布で飾り付け、華やかな雰囲気を演出した。


 外した板の一部は、隣で出店していた串焼きのおっちゃんに頼んで鉄板の角を貸してもらい、こての要領で押し付けて焼き文字を作る。わずか数分で、レトロな木作りの看板が出現した。


 センスが光るゼロ円工房第二弾、田舎風ウッディーパンワゴンは、視線の動きも客の導線もとらまえた、なかなかの出来である。


「まあ、見事なものねえ……!」


 あっという間に現れた、郊外の有名パン屋もかくや、といわんばかりの空間に、クリスはチョコレート色の瞳をまん丸に見開いた。


「本日のお客様は、非日常、求めているので、あえて都市(シティ)風ではなく、田舎の、緑豊かなパン屋さん、イメージしてみました」


 レオは、守銭奴七つ道具の一つ、布切りばさみを鞄に戻すと、クリスににっこりと笑いかけた。


「クリスさんのパン、とても素朴で、温かな雰囲気、特徴ですので、きっと、相性がよいと思います」

「嬉しいわ」


 クリスが照れたように微笑む。

 取りたてて物凄く美人、というわけでもないが、その表情はほっと人の心を緩める魅力を持っていた。


「レオちゃんは、手先が器用なのね。私、パンは焼くだけ焼いてきたけど、どうしたものかさっぱりわかっていなかったから、本当に助かったわ」


 彼女はレオのことを、レオちゃんなどと呼ぶ。

 これは、名を尋ねられた時、レオと答えていいかレーナと答えるべきか、それともレオノーラと名乗るべきかをついレオ自身が悩んでしまい、「レオ……です?」と曖昧に答えたのが原因であった。


 クリスは、この明らかに高貴な美貌を持った目の前の人物が、どうやらこの場では偽名を使いたがっていると解釈したのだ。

 しかし、百歩譲っても少年には到底見えない。

 なので、レオ、という偽名は受け入れても、少女に呼び掛けるようにちゃん付けにしたと、そういうわけであった。


(レオちゃんは……きっと、いいえ、間違いなく、レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ侯爵令嬢、よね?)


 そのわかりやすすぎる偽名に、思わずクリスは内心で苦笑を漏らす。

 変装しているつもりなのだろうが、美貌はまったく隠せていない。


 周囲は「なんか男装しているものっすごい美少女」くらいにしか見ていないようだが、自分のような、元とはいえ教会でも高い地位にいた人物ならば、一発で正体を見破ってしまうことだろう。


(忌まわしき野望を打ち砕いた、黒髪、紫瞳の美しき乙女。そんな人物など、そうそう居ないはずだもの)


 しかし不思議なことに、少女の正体に下町の住人は気付いていないようだった。


 それは、下町に潜む卑劣漢に少女の足取りを掴ませないよう、侯爵家が総力を挙げて、その人相について下町でデマを流しまくった結果、果たして「レオノーラ」の髪色は黒なのか金なのか、瞳の色は紫なのか青なのか、すっかりわからなくなってしまっていたせいだったのであるが、割と最近まで教会に籠りきりだったクリスは、そのことを知らなかった。


 クリス――いや、元教会付き導師・クリスティーネは、くるくると楽しそうに働く少女を横目に、ふと笑みを浮かべる。


 彼女にとって、この少女との出会いは大いに予想外で、しかし好ましいものであった。


(ふふ、まさかの縁よね。こんなところで彼女と出会うなんて。侯爵令嬢が一体下町で何をしているのかしら? 労働を厭わず、さっきなんて従者を甲斐甲斐しく介抱して)


 襲撃に遭った教会の人間の中には、きっかけとなった少女を恨む者もいると聞く。

 が、そんなもの、クリスからすれば逆恨みもいいところだ。だいたい、日頃の行いがよければ、いくらハーラルトが謀反を起こしたとはいえ、直接関係のない教会は襲われないはずなのだ。

 それが襲撃に遭ったということはつまり、民が不満を募らせていたということで、禍は単なるきっかけだったというにすぎない。


 クリスのいた教会もまた、彼女以外の導師がてんで無能者の集まりで、その点が民の苛立ちを買ったと理解しているため、彼女はレオノーラ・フォン・ハーケンベルグを恨みなどしていなかった。

 禍を引き起こしたのはあくまでハーラルトだし、かっとなって暴走したのは、あくまで市民の一部だ。


 まあ、心ない暴言にはちょっと泣けたし、人生計画も大いに変わったが、そこはそれ、彼女が自分で決めたことである。


 それでも、もしも少女が自らの功績を鼻に掛け、教会の野望を食い止めたのは自分だと吹聴して回るようならば、ちょっと締めてやろっかな、くらいのことは、彼女も思ってはいたのだが――


(なんだか、そんな素振り、全然ないしねえ)


 さっきから少女がしていることといえば、衣服が汚れるのも厭わず台車の前に跪き、愛嬌たっぷりに周辺の店から物品をせしめ、一生懸命この即席パン屋を盛り立てようとしていることくらいである。

 クリスは、「ハーケンベルグ侯爵家令嬢」の思いもしなかった人となりに、清々しさすら覚えた。


「あと、クリスさん。大切なこと、聞きそびれて、いたのですが」


 それに、この少女はどうもヴァイツ語が流暢でないようである。

 先程から、感情が昂ぶるような場面になるたびに、びくりと肩を震えさせるのも気になった。


 美しいが、シャツから覗く手足は華奢すぎる。

 彼女が最近になってハーケンベルグ侯爵家に引き取られた、ということは、導師時代に辛うじて聞いていたが、その当時ですら、なぜかそれ以上についてはどのような情報も得られなかったのである。


 明らかな情報操作の気配。

 もしかしたら彼女の過去は、庇護者が躍起になって隠そうとするほどには、穏やかでないものなのかもしれない。


 女性ならではの勘と、長年導師として磨いてきた観察眼で、クリスはうっすらとそんなことを思っていた。


「クリスさん?」

「え? ああ、ごめんなさい、何かしら」


 二度名前を呼ばれ、ぱちぱちと瞬きをしながら振り返る。

 視線の先では男装の少女が、商品のパンを恭しく掲げ持っていた。


「このパン、私達、いくらで、お売り申し上げますでしょうか」


 過剰なくらいに敬意あふれる態度だ。

 ちょっと噴き出しそうになりながら、クリスはそこではたと目を見開いた。


「……決めてなかったわ」

「えっ!?」


 目の前の少女が、心底びっくりとしたように聞き返す。それに少々のばつの悪さを覚え、クリスは言い訳を口にした。


「ごめんなさいね。その、私、値段を付けるのが苦手というか、実際のところ、パンを、お金と引き替えに売ったことがなくて」


 彼女が長らくしてきたのは、教会の窯で大量のパンを焼き、ひたすら市民に配ることだ。

 あえて対価を挙げるとするならば、それは信仰心とか感謝の気持ちとかであって、生々しい貨幣などを受け取るのは、導師として禁じられていた。

 寄付は寄付として、導師を介さず直接教会に払い込まれていくのである。


今回訳あってその環境を捨て、パン職人に華麗なる転身を遂げてはみたわけだったが、こうして自らの作った「商品」を「販売する」というのは、実は初めてであった。


「売ったことが、ない……」


 一方でレオはといえば、クリスの発言に大変驚いていた。

 レオ的観点からすれば、人はなぜ商品を作るかといえば、それは金を儲けるためであって、売りもしないためにパンを焼くなどというのは狂気の沙汰――とまではいかないが、相当な奇行のように思われたためである。


(いや、でも、見習いだから店では売らせてもらえないとか、そういうことか?)


 台車いっぱいもあるパンを焼く実力の持ち主なのだから、きっとそこそこの腕前と経験の持ち主なのだろうと踏んでいたのだが、どうやら外れたらしい。


 まあ、それはそれで、新米パン職人の情熱パン、みたいな切り口で売り込めばいっかと割り切ったレオは、早速値付けの具体的なアドバイスに移ることにした。


「ですが、無料というわけ、いきません。いくらで売るか、決めませんと」

「そうねえ……」


 クリスはといえば、困惑顔だ。

 確かにその通りだと思うのだが、物々交換ならまだしも、自分が作ったものを、金という生々しい価値に置き換えるのは、ちょっとした抵抗感があったのだ。


「あまり高くなくて、いいと思うわ」

「…………え?」

「だってほら、なんだか、変哲もないパンに高値を付けるのって、ちょっと……傲慢な気がするじゃない」


 なんとなく、この少女なら分かってくれるのではないかと思ってそう告げると、彼女は意外にも、きっと眦を釣り上げて、


「クリスさん。それは、違います」


 と言い放った。


「え……?」

「それは、違います」


 思わずきょとんと聞き返すと、少女は、諭すようにもう一度同じ言葉を繰り返した。


 諭す――そう、そのゆったりとした、しかしどこか逆らえない迫力が滲む様は、まるで説法を述べる高位導師そのものだ。クリスは無意識に喉を鳴らした。


「クリスさん。この世の中に、価値のないものなんて、ありません」


 少女は紫水晶の瞳に真摯な光を浮かべると、美しい声で真実の言葉を紡ぐ。


「一粒の宝石であれ、一枚のパンであれ。物であれ、人であれ。ミミズだって、オケラだって、アメンボだって、この世の全て、素晴らしい価値、あるのです。全て、大切な、大切な、世界の宝物なのです。それを遣り取りする、その時に、対価を頂く。当然のことです。それを否定する、それは、それこそが、傲慢です。その瞬間、クリスさん。あなたは、その価値を、否定したこと、なるのです……!」


 話している内に興奮してきたのか、少女の白い肌がほんのりと上気し、宝石のような瞳は潤みだした。

 つかえながら、しかし懸命に伝えようとする少女に、そしてその言葉に、クリスは雷に打たれたような衝撃を覚えた。


 ――この世の全てには価値がある。全ての存在が、精霊の祝福を、光の恵みを授かりし、世界の宝物である。


(精霊教の基本理念と、まったく一緒だわ……!)


 早くに両親を亡くしたクリス達姉弟は、老齢の導師に引き取られて育てられたのだが、少女の発言は、その高位導師が繰り返し説いてきた内容とまったく同じものだった。


(そんな……この年で、教義の真髄を理解しているだなんて)


 クリスの衝撃は、ある意味では正しい。

 レオが信奉する金の亡者教においては、この世のありとあらゆるものは有価性を帯び、適正な価格で遣り取りされるべし、というのが真髄だからである。


 彼女が呆然と立ち尽くしている間にも、少女の説法は止まらなかった。


「このパンは、クリスさんが作りました。これは、クリスさんの作った、世界です。この中には、小麦、水、塩、クリスさんの手、重い台車、パン窯の火……いっぱい、いっぱい、詰まっているのです。どうか、それを、無視するようなこと、言わないで」

「レオちゃん……」


 レオとしては、もちろんクリスに高値を付けてもらいたかった。

 このパンという名の商品(せかい)には、原材料、加工賃、運送費に燃料費、そういった諸々のコストがぎゅっと詰まっている。どうかそれを跳ね返すだけの、いや、できればそれ以上の価格を付けてもらって、一緒にがばがば儲けを出したかったのだ。


 渾身の説得は幸い通じたらしく、こちらを見つめるクリスの瞳には、強い光が滲みはじめている。

 彼女は深く頷くと、


「わかったわ」


 おもむろに答え、静かに目を閉じた。


(この世に祝福と恵みを見出し伝えるのは、導師の本懐。このひと塊のパンに詰まった価値を、私が認め、人々に示してみせる……!)


 パンという名の世界を象りし、彩り豊かな原材料(エレメンツ)。その声に耳を傾け、その想いに寄り添い、そして――クリスはすっと目を開けた。


「ひとつあたり、小銅貨、六枚で……!」


 それは、ちょっとお高めのパン屋において、ドライフルーツやクリームを乗せた菓子パンに冠されるような額だ。


 クリスとしては大胆に出たつもりだったが、少女は優しく笑っただけだった。


「クリスさんが、そう望むのならば」


 ――あなたが、そう望むのならば。


 それは、聖書において、光の精霊が人類に初めて光を授けた時に口にしたとされる言葉である。


 帽子に隠されているものの、黒く艶やかな髪に、美しい顔。

 光の精霊のような少女が、その聖言を紡ぐ様子に、クリスは宗教画を仰ぎ見た時のような胸の震えを覚えた。

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