10.レオ、水商売に手を出す(中)
「え……っ、え、え、……っ!」
やっべえ! という悲鳴は魔術に焼かれ、レオはびくりと肩を揺らした。
突如として出現した水は、ごうごうと音を立てて渦を巻き、ぎょっと空中を見つめているレオやオスカー達に襲いかかろうとする。
その勢いたるや、「濡れちゃった、てへ」くらいでは到底済まされないレベルだ。
(ぶ、ぶつかったら首の骨折れる……!)
「危ない!」
ぎゅっと目を瞑ったレオは、強く誰かに体を抱きしめられた。
いや、声でわかる。この朗々たる声は皇子のものだ。
恐る恐る瞼を上げると、左手にレオを抱きしめ、背中にオスカー達を庇った皇子が、右手を天空に向かって突き上げているところだった。
掌の先には強い光が凝り、それを円心としたドーム状に水が弾かれていく。
反転を打った水は、ドドド……と不吉な音を立てて床や椅子に流れ出た。
「レオノーラ! どんな陣を描いた!」
右手を掲げたまま、ぱっとこちらを向いた皇子に鋭い口調で問われ――どうやら彼は、これがレオのせいだということを瞬時に理解したらしい――、レオはたじたじとなった。
「え、ええと、水の精霊、囲う、円環と、幾何学模様の、…………!」
これです、とメモを見せかけて、レオははっとする。
――通常の染料で陣を描いたのでは、水を召喚した途端に陣が溶けて崩壊してしまう。
ふと脳裏にオスカーの発言がよぎった。
その通り。
メモ帳に鉛筆で走り書きした程度の陣は、撥ねた水滴にしっとり濡れて溶け出していた。
(のおおおおおおお!)
魔力の行使には、対象と手法の定義が必要。
つまり、
「く……っ」
アルベルトが焦ったような声を漏らす。
皇族の潤沢な魔力を以ってすれば、水の攻撃を無効化することは勿論可能だ。
が、水の召喚自体を止めるのは、やはり骨が折れる。純粋な魔力だけではなく、精霊の紋章までをも織り込んだ陣だからだ。
魔力と精霊力は、基本的に相容れないのである。
そんな事情はともかくとして、レオはとめどなく現れる水にただひたすら焦っていた。
(やべえ! やべえよ! これって弁償!? 弁償!?)
今のところ水を被っているのは、床と、せいぜい長椅子くらいだからまだいいが、このままどんどん水が出現して、たとえば宝飾品を、たとえば貴重な絵画を濡らしてしまったら、その損失額たるや一体――
(……し、死ねる……っ)
盛大な水漏れを引き起こしてしまった主婦のように、レオはその場に卒倒しかけた。
その時だ。
「何をしている!」
低い、腹に響くような声が耳朶を打った。
同時に、あれだけ暴力的に流れ込んでいた水が、まるで時間を巻き戻すかのように空中に向かって引き上げていく。
石造りの床に広がりつつあった水溜りも、しゅるりと音を立てるようにして虚空に消え、後にはぴちぴちと尾を打ちつける小魚数匹だけが残った。
(あ、池の水だったんだ……)
入学時に一通り、収穫採集が可能な自然は無いかを探索したレオだからこそわかる。
この、特別綺麗な水にしか棲まない小魚がいるのは、聖堂に最も近い東の池だ。
ラフに「水の精霊から水を頂く」陣しか描かなかったから、最寄りの池からかっぱらってきちまったのか、とか、じゃああの池には精霊が棲んでんのかすげえ、とか、益体もないことをつらつらと考え――自分がすっかり現実逃避しつつあることに気付いたレオは、はっと顔を上げた。
「あ……、せ、先生……」
そう。
大きく開け放たれた聖堂の扉の前には、ひどく険しい表情を浮かべた、グスタフが立っていたのである。
「――おまえら、何してた」
彼はぎろ、とこちらを睨みつけたまま、長い脚で近付いてくる。
物凄い迫力だ。
乱暴な仕草で振り払った掌に、僅かに水色の光がちらついているのを見て、どうやら先程の水は彼がどうにかしてくれたらしいとレオは理解した。
「は、ははは、すみません! これには事情が……!」
こうした事態に最も耐性があるらしいロルフが、一番に我に返り、へらりと笑いながら取り成そうとする。
だが、グスタフはレオが握り締めていたメモと、そこに描かれていた図の一部を見て、すぅっと剣呑に目を細めた。
「――……レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ。おまえか」
「…………っ」
その、地獄の取り立て屋もかくやといった迫力に、レオはひっと息を呑んだ。
(べべべべ弁償!? いいいいい慰謝料!?)
戦場の修羅のようなグスタフの睨みは、今までに受けたどんなガン飛ばし攻撃にも並んで、もちろん怖い。
だが、身に迫っているのかもしれない借金はもっと怖い。
思わず涙目になって震えていると、魔力を収めた皇子がすっと歩み出て、レオを背に庇った。
「――申し訳ありません。僕が彼女に、水を召喚する陣の、説明をしていました」
ぱっと皇子を見上げる。
どうやら彼は、この事態の責任を共に背負おうとしてくれているようだった。
(お、皇子……! あんた、超いい奴……!)
この時ほど彼のことが頼もしく、格好良く見えたことがあったろうか。
いや、ない。
慰謝料の脅威からレオを庇おうとしてくれている皇子は、この瞬間まさにヒーローだった。
オスカーやロルフも、口々に「彼女は悪くない」だとか、「我々が調子に乗っていた」だとかグスタフに説明しだす。
ハンナ孤児院ではここ数年すっかり兄貴分の地位にあって、弟分・妹分を庇うことはあっても、庇われることなど少なくなっていたレオは、当たり前のように援護射撃される境遇に、うっかり涙がこぼれそうになった。
(あったけえ……! あったけえよ、学院!)
歌って踊って咽び泣く貴族連中、などと思い込んでいて申し訳なかった。
彼らはあったかいハートを持った、孤児院の連中に引けを取らない素敵な仲間だ。
(俺、この人たちとなら、借金背負っても返せる気がする……!)
が、グスタフは感動に目を潤ませているレオの心情など勿論斟酌することなく、低い声で告げる。
「――つまり、おまえらのくだらねえ遊びを、調子に乗ったハーケンベルグが超危険事態にしちまったと、そういうことだな?」
「いえ、ですから――」
「レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ。来い」
眉を顰めた皇子が身を乗り出すよりも早く、グスタフはぐっとレオの腕を掴み、強い力で引っ張った。
「わ」
「グスタフ導師!」
バランスを崩して転びかけたレオを見て、皇子達が一斉に非難の声を上げる。
が、グスタフはなんら躊躇いもせず、片手でひょいとその体を肩に担ぎあげると、もう片方の手をぞんざいに振った。
「わめくな、うるせえ。こいつは説教だ。こんな事態にもかかわらず、呑気に女を庇ってるおまえらも大概だがな」
「導師……!」
(た、確かに……)
グスタフの発言に、担がれたレオはごくりと喉を鳴らす。
確かに、一新入生がやらかすのと、皇族や最上級生がやらかすのでは、事態の重みが異なろう。
自分のことを分別のつかない新入生と考え、庇おうとしてくれている三人の気持ちはありがたいが、やはりそんな彼らに頼るのは、いささかまずいように思われた。
「しかし……それであれば、我々も共に罰を。彼女だけを連れていくのはやめてください」
あったかハートを持った皇子が、しかしなおも粘ってくれる。
レオはその
(皇子……俺、あんたのこと誤解してたよ。いいよ、俺が悪いんだから、俺一人で行ってくるよ)
漢気には漢気で応えるべきだ。
たとえどんな慰謝料を吹っ掛けられようと、一人で立ち向かい、交渉し、なるべく額を下げて帰ってくる。それが男だ。
「皇子。いいのです。私、悪いです」
肩に荷物のように担がれたまま、それでも気品を失わず、凛と声を上げた少女に、グスタフを除く一同ははっと息を飲んだ。
彼女は紫水晶の瞳に、罪悪感と意志とを半々に滲ませ、迷いの無い口調で告げた。
「全て、私の責任」
そうして、ちょっと困ったように眉を下げて、ばつが悪そうに付け足す。
「――……巻き込む、すみません。庇う、ごめんなさい、ありがとうございます」
「レオノーラ……」
儚げでありながら、他者の擁護をきっぱりと拒む少女に、誰もが言葉を失う。
確かに魔術を暴走させてしまったのは彼女だったが、その根底にあるのは市民の救いになりたいという真摯な想いであるのに。
三人も年上の男がいて、彼女だけが罰を受けるなど、こんな不条理は無いのに。
そして、見るからに雄々しく獰猛そうなグスタフを見て、少女は涙すら浮かべて身を震わせていたというのに――。
大人しくグスタフに担がれ、懺悔室へと消えていく少女を、三人は自責の念を滲ませて見守った。
***
「さて」
懺悔室にレオを押し込み、粗末な椅子に放り出すように座らせたグスタフは、腕を組んで壁にもたれかかった。
小さな窓が取り付けられたこちら側の部屋は本来、導師一人が腰掛けるためのものだ。
狭い密室では、例え相手が立とうとも、大層な圧迫感だった――グスタフは長身なものだから、尚更。
「自分が何をしたか、わかっているか? ハーケンベルグ」
低い声で問われ、レオはぶるっと身を震わせた。
不用意に精霊の紋章を使った陣を引き、まあそれはともかくとして、聖堂をめちゃめちゃに破壊しかけた。
「はい……」としおらしく答えたレオは、精神的負荷に耐えられず、早々に弁償について切り出すことにする。
「危うかったです……。その、弁償を……?」
精霊布や絵画は、確かに浸水の危機に瀕してはいたが、実際に浸かるまではいっていない。
が、こういったものは、飛沫一滴が付いても即弁償、という類のものなのである。
恐る恐る問うと、グスタフは苛立ったように息を吐き出し、
「ああ? 弁償なんざどうでもいいんだよ」
と答えたので、レオはぱちぱちと目を瞬かせた。
(……え? いいの?)
ぽかんとするが、グスタフは苛立たしげに、
「不用意に精霊の領域に手を出しやがって」
と言い放つばかりだ。
額面通り、魔力持ちが精霊の領分――つまり教会の縄張りを荒らしたことに怒っているようにも見えるが、三人の先輩達により、直前まで「あったか漢気モード」に浸かっていたレオは、はっと顔を上げた。
(もしかしてこれ、「馬鹿野郎、金なんざどうでもいいんだよ、おまえが危険な目に遭ったことを俺は怒ってんだ!」ってやつ!?)
特に前半部分が琴線に触れるので、その手の台詞は、実はレオの「言われてみたい台詞」五年連続ナンバーワンだ。
レオは目を輝かせはじめた。
グスタフ。
単なる過剰に肉食系な導師かと思っていたが、なんとあったかい、そして気前の良い、熱血教師だろうか。
「あの……」
礼を述べようとしたレオだったが、しかし、グスタフがその長身をぐっと屈め、こちらを覗き込んでくる。
彼は低い声で尋ねた。
「改めて聞く。おまえの、狙いはなんだ」
「え……?」
距離の近さに若干顎を引きつつ、レオは眉を寄せる
グスタフはその琥珀色の瞳で、真っ直ぐと貫くようにこちらを見ていた。
「精霊の紋章と陣を組み合わせて、水を召喚し。今度は何をするつもりなんだ。悪戯にしては度が過ぎている。自在に水を操る聖女にでもなるつもりか?」
レオは困惑して口を噤んだ。
悪戯だなんて軽い気持ちではなかったし、聖女だなんて、そんなイタいポジションになったつもりも、なるつもりもなかった。
精霊の紋章にまで手を付けたのは、陣を使ったウォータービジネスを展開するという、れっきとした目的を叶えるためだ。
「その……水、商売を……」
言いかけてはっとする。
単語の選択を間違った。これでは夜のお姉さんが活躍する月光業界だ。
「いえ、水を、きれいな、飲む水です、それを、呼び出して、市民の皆、飲める、そういうことを、考えていました」
水は水でも飲用水の方ですよ、ということを強調しつつ補足すると、グスタフは遮るように「はっ」と鼻を鳴らした。
「やっぱ聖女気取りかよ」
その、あまり人の話を聞いてくれていなそうな様子に、レオは少々心配になった。
誤解されてはいないだろうか。
(は……っ! もしや、聖女じゃなくて、性女とか、そっち方向に!)
何せ彼は性騎士だから。
レオは、なんとか誤解を解こうと言葉を重ねた。
「水、行き渡る、皆、笑顔になります。幸せ、なります。私、それが、見たいのです。私、皆、笑顔にしたい!」
後ろ暗い企業に限って、理念にやたら「笑顔」やら「幸せ」といった単語を登場させたがるのは世の常である。
だがグスタフは何も言わない。
どうも反応が芳しくないのを感じ取り、レオは主張の方向性を微調整した。
「あの、ほら、ええと、水の精霊の助力を得る、皆、きっと感謝します。素晴らしい、となります。ハッピーですね!」
水の精霊の力を借りてウォータービジネスを展開すれば、利益を享受する人々は、助力してくれた精霊にきっとこぞって感謝する。
そうなれば精霊を讃える教会の権威も上がり、人々は幸せで、ついでにレオ達は儲かり、三方よしのハッピーエンドだ。
しかし、その欺瞞を感じ取ったのかどうか、グスタフはあからさまに軽蔑したような表情を浮かべると、
「――……もういい」
と手を振り話を打ち切ってしまった。「軽々しく助精なんて持ち出しやがって」と、聞こえない程の声量でぼそりと呟いて。
そうして彼は、屈み込んでいた身を起こし、琥珀の瞳に冷え冷えとした感情を浮かべて口を開いた。
「レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ。勘違いも甚だしいおまえに、この際だからはっきり言っておこう」
「え?」
「自己陶酔と傲慢に染まった助精など、クソくらえだ」
レオは呼吸三つ分ほど、黙り込んだ。
「…………え?」
聞き間違いでなければ、今、彼は。
(傲慢に染まった、女性?)
ナルシーで傲慢な女性などクソくらえと、そう言わなかっただろうか。
(え? ええ? 今そんな流れだっけ?)
水商売だなんて言ったからか、それとも彼が性騎士だからか。
なぜ突然女性の話になるかがわからない。
戸惑いを露わにしたレオを見て、グスタフは、「わからないようだな」と唇の片端を持ち上げ、ゆっくりと言葉を繰り返した。
「俺は、胸糞悪ィ助精なんざ、必要ないと言ったんだ」
(…………えっ?)
今度こそレオは思考停止状態に陥った。
「……え? ええと、……女性、必要、ないのですか?」
「は、誰もがありがたがって縋り付くと思うなよ。反吐が出る」
「……ええ?」
どうやら彼は、傲慢な女性が好みでないどころか、女性を反吐が出る程嫌っているらしい。
レオは困惑した。
「……え、なぜ、そんな……それに、先生、千人斬りの、性騎士、なのに……?」
「は! 聖騎士の誰もが助精を求めてるだなんて思うなよ。俺は自力で――この右手一つでここまで上り詰めてきた」
「…………っ!」
(えええええええ!? そ、それってつまり、先生って、童て……あぶぶばば、えええええ!? この顔、このキャラで!?)
ずっと己の右手に頼ってきたという衝撃の告白を聞いたレオは、心臓が飛び出すのではないかという程びっくりした。