8.レオ、精霊を感じる(後)
「精霊様!?」
魔力のように強烈な光ではない、けれど充分に眩しい光が周囲を満たすのに、学生たちがどよめく。
「なんだ!?」
「眩しい……!」
と、その「眩しい」という単語がすぐ後ろ――オスカーの居る辺りから聞こえた気がしたレオは、ぎょっと肩を揺らした。
「えっ、すみません!」
あわわと慌てながら手をほどき、後ろを振り返る。
皇子のようにデリカシーの無い真似を、自分だけはすまいと誓っていたのに、まさかの失態であった。
(や、やべ! 照らしちゃった!? 俺っつか、金の精霊様が、オスカー先輩の真実を照らしちゃった!?)
と、集中が途絶えたのがいけなかったのか、はたまた単にそういうタイミングだったのか。
一度膨れ上がったように思われた光は、しゅんと静かに収束してしまう。
後には、昼なお薄暗い聖堂と、興奮した面持ちでこちらを見つめる学生が残された。
「あなた……」
呆然と少女を見ていたナターリアは、はっと我に返ると、興奮に顔を赤らめた。
「すごいわ……! 光の精霊を顕現させたというの!?」
「え?」
もちろんレオは怪訝な顔だ。
自分は光の精霊などを呼んだ覚えはない。
愛を込めてお呼び申し上げたのは、誰も信じていないがきっとこの世のどこかにいるに違いない金の精霊様である。
しかし、レオが何かを言い返す前に、身を乗り出したオスカーや近くに座っていたロルフ、級友達までもが、一斉にレオの手を取ったり振り回したり抱きついたりしてきたので、彼は一旦口を噤んだ。
というより、反論を聞きとってもらえなかったというのが正しい。
「――今のは確かに光の精霊の気配だった」
と、そこに、おもむろにグスタフ導師が近付いてくる。
彼は、傲岸不遜な顔付きに、更に険しい色を乗せて、尋ねてきた。
「レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ。光の精霊を呼んだのは、おまえか?」
奇跡を喜ぶどころか、まるで厄介事を前にしたかのような、剣呑な声。
それに少々びびりつつ、レオは正直に答えた。
「……いえ。違う、ます」
繰り返すが、自分が呼んだのは輝ける金の精霊様だ。
「レオノーラ……?」
「何を――」
周囲は怪訝そうに眉を寄せるが、いち早く少女の意図を悟ったアルベルトははっと目を見開いた。
グスタフも少しばかり瞠目し、微かに笑って問う。
「――へえ。なら、光の精霊を呼んだのは、誰だ?」
問われたレオは、ちらりと周囲を見回して、解答を探った。
(ええと、誰だろ? この辺で光ったから、この辺の生徒だよな)
残念ながら、先程の輝きは金の精霊様ではなく、光の精霊によるものらしい。
ということは、自分以外の誰かの詠唱に反応して、光の精霊とやらが顕現したのだろう。まったく、尊い金の精霊様のごとき顕現の仕方をするとは、まぎらわしく傍迷惑な精霊である。
(あっ、そういやビアンカ様が来て来て言ってたな)
たどたどしい口調で光の精霊に呼び掛けるビアンカを横目に見ながら、「幼い感じで誘いかけるとは、なかなかの技巧者よ」と密かに感嘆したことを思い出し――マッチ売りの際に、孤児院の年少組はよくこの手を使う――、レオは告げた。
「ビアンカ様、思います」
「なんですって?」
驚きの声を上げたのは、他ならぬビアンカだ。
確かに彼女は光の精霊に呼び掛けていたが、本人自身が全く手ごたえを感じていなかったのだから。
「レオノーラ、あなた一体――」
「さすがだね、ビアンカ」
ビアンカが眉を顰めて反論しようとしたのを、滑らかな声が遮った。
アルベルト兄皇子だ。
一体何を、と怪訝な表情を隠しもしない妹姫に、彼はゆっくりと告げた。
「さすがは、
その言葉に、ビアンカははっと息を飲む。
学生の前で、あまり皇女だとか皇子だとかの身分を強調しない彼が、あえてそう言ってみせた意図を、彼女もようやく悟ったからだった。
(膨大な魔力を持ち、光の精霊を呼びおおせる精霊力まで持ち合わせるのが、一侯爵令嬢であってはならない――)
いくらレオノーラ・フォン・ハーケンベルグの登場によって、紅薔薇派・白百合派といった派閥闘争が収束したからといって、貴族令嬢の社会は、時に男性のそれを上回るほどに閉鎖的で硬直的だ。
ただでさえ、学院のマドンナとなりつつあるレオノーラが、強大な精霊力をもって「精霊の愛し子」の地位に祭り上げられ、令嬢達の序列を乱すことがあってはならなかった。
(レオノーラは、そのことを弁えて、「精霊の愛し子」という栄誉を、わたくしに譲ろうと言うの……?)
光の精霊のような至高霊を呼び出せたならば、それだけで尊敬に値する出来事だ。
それを、功名心にはやることなく、冷静に第一皇女に捧げようとは――到底、齢十二の少女にできることではなかった。
ビアンカは唇を噛む。
自分は一体、どれだけ魂を磨けばこの少女に追い付けるのだろう。
そこには感嘆があり、憧憬があり――そして、抑えきれない悔しさがあった。
また、年下の少女に嫉妬する自分への、嫌悪も。
「レオノーラ……わたくし……」
アルベルトの発言を受けて、周囲も「なんだ」という声と共に、今度はビアンカに尊敬の視線を投じはじめる。
やがて聖堂に居る学生たちが、こぞってビアンカの名を称えだすのを耳にして、ビアンカはきゅっと両の拳を握りしめた。
「わたくし……ごめんなさい……」
本当は、少女に捧げられるべき栄誉なのに。
この歓喜も、ひたむきな尊敬の視線も、目の前の無欲な少女を飾ってこそふさわしいものなのに。
本当に、自分が光の精霊を呼び出したのだったら、どんなにかよかったことか――。
悔恨と自己嫌悪に泣き出しそうになっていたビアンカの手を、その時そっと少女が握り締めた。
「ビアンカ様、なぜ? 謝る、涙、まったく必要ありません」
少女は、本当に心から不思議そうな、邪気のない顔をしている。
その表情に、心臓の強張りがふと解れたような感触を覚え、ビアンカはおずおずと少女を見つめた。
「レオノーラ……?」
「光の精霊、呼んだの、ビアンカ様です。間違いありません」
そんなはずがない。
だが、少女の凛とした声でそう言われると、不思議とそれは真実であるかのように響いた。
少女は、悲壮な表情を浮かべていたビアンカの頭をぽんぽんと撫で、「いい女、泣きません」と悪戯っぽく微笑む。
「ビアンカ様、『精霊の愛し子』なのです。本当に。ね?」
そう言って、最後に首を傾げられて、ビアンカはぐっと唇を引き結んだ。
まるで、人には見えない真実を告げるかのような、力強い、言葉。
「……そう、ね」
自分はけして、「精霊の愛し子」などではない。
けれど、彼女がそう言うのなら、それを演じられるように努力しよう。第一皇女として、少女の姉として、誰からも憧憬の視線を向けられるように。
悲壮な決意を固めるビアンカをにこやかに見守りながら、レオは内心で溜息を落とした。
(はああ。……やっぱ、こんなすすけた守銭奴の詠唱じゃ、精霊様も現れてくんねえよなあ)
先程周囲が光った時は、もしや自分にも精霊力が、と期待しただけに、実は落胆の大きいレオだった。
だが、もし自分が金の精霊なら、黒髪の守銭奴の祈りよりも、やはり金髪のセレブ美女の祈りの前に姿を現すと思う。
だってその方が気分が上がるし、きっと寄付やお供えも豪華であろうから。そしてそれは、光の精霊であっても同じことだろう。
(世知辛いけど、そういうもんだよな、世の中って)
その点、ビアンカは金貨色の髪も魔力も精霊力も持っていてすごい人だ。
(ま、自分だけ精霊召喚できちゃった、ってだけでうるうる謝ってきちゃうくらい、泣き虫だけど。でもやっぱ、ビアンカ様はしょっちゅう俺にもいろんな施しをしてくれる、徳の高い人だしな)
情けは人のためならず。
やはり、精霊に愛されるにはそれ相応の善行が必要なのだろう。
とはいえ、換金性の無い精霊を呼び出すために、日々誰かに物を奢ったりできるかといえば、答えはノーだ。
早々に精霊力に見切りをつけたレオは、やはり馴染みの俗世――差し当たっては陣・ウォータービジネスに身を投じることを再度決意し、忙しく思考を巡らせはじめた。
***
生徒達が去り、すっかり人気の無くなった、聖堂。
夕陽が徐々に闇に取って替わられる時間、行儀悪く前の長椅子に足を引っ掛け、頭の後ろで腕を組んで座席にもたれこむ男がいた。
鋭い眼光に通った鼻筋、彫りの深い横顔がどことなく猛禽類を思わせる――グスタフである。
彼は、腕を組み直した際にがさりと紙が音を立てたのに気付くと、緩慢な動作で袖口を漁り、そのゆったりとした布地の合間から、ばさばさと紙の塊を引っ張り出した。
薄桃色、または上質な白、さもなくば花柄。
すべて、女子生徒たちから押し付けられた「愛の手紙」である。
贅も趣向も凝らされたそれらの手紙を、しかしグスタフは一顧だにしない。
花形職の騎士である彼にとって、このようなアプローチを食らうのは日常茶飯事であり、心を動かす類のものではなかった。
ついでに言えば、大人の駆け引きを存分に経験してきた彼からすれば、幼女の域を出ぬ学生からの誘いなど、苦笑か嘲笑の対象でしかなかった。
とはいえ、彼女たちとて腐っても貴族令嬢。
誘いそのものは児戯のようだとはいえ、無下に断っては後々厄介なことになる、ということは承知はしている。そしてまた、彼女たちがその事実を武器に、強引に迫って来ているということも。
「ふん、面倒な」
顔は幼くとも、彼女たちとて
「敬虔にして静粛な学徒」が聞いて呆れる、と白けた思いで口許を歪めたグスタフは、その発想からある人物のことを思い出した。
恐れ多くも座席の背に引っ掛けた足をぶらぶらと揺らしながら、誰ともなく呟く。
「――……レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ。無欲の聖女、ねえ?」
彼の脳裏に過るのは、昼の講義で目の当たりにした光景である。
温かみのある、けれど神聖な光。
紛れもない光の精霊の気配。
それは、当代一とも讃えられる聖騎士のグスタフをもってすら、気配しか感じ取れない至高の存在だった。
「……聖女気取りのクソガキかと思っていたが……」
続く言葉を、彼は飲み込んだ。
貴族を中心に、やれ皇子の恩人だ、無欲の聖女だと持て囃されているレオノーラ・フォン・ハーケンベルグ。
だが、教会――それも聖騎士たるグスタフから見る少女像は、それとは大きく異なる。真逆と言ってもよかった。
なぜなら、聖騎士団が秘密裏に調査を進め、自浄的に断罪しようとしていたハーラルトの陰謀を、仰々しく世間に知らしめるような格好で暴いたからだ。
結果、教会は必要以上に粛清の嵐に巻き込まれて信頼を失った。
パンの配給は止まり、それぞれの聖堂が掲げる精霊への祈祷は中断され、世間は少しずつ不満と淀みとを凝らせはじめている。
その不満は時に暴力の形を取り――
グスタフは短く息を吐き出して、先程の手紙とともに座席に放り投げていた書類を握りつぶした。
無残にひしゃげた紙には、「死亡届」の文字が見える。
それは帝国法に則り、火災等を被った住居に籍を置く人間が、一ヶ月以上見つからなかった際に、親族が提出しなければならないものであった。
「姉貴……」
グスタフは、もう一つ――こちらは丁寧に折りたたまれている紙を懐から取り出し、祈るようにそれを額に押し当てた。
質素な便箋には、ところどころ涙の跡を滲ませながら、女性の筆跡でびっしりと文字が連ねられていた。
消印は、雪割月 五日。
あと二週間、彼女が見つからなければ、グスタフの姉――クリスティーネは死亡したことになる。
手紙には、教会の謀反を知って暴徒と化した民衆が、聖堂に詰めかけて略奪行為を働き、聖堂付き導師である彼女を罵ったことが書かれていた。
そして、それに怒りを覚えた自分にはもはや導師たる資格はない、炎の精霊に身を捧げる――つまり、炎に身を投じて、自死する、ということも。
ことのほか水の精霊に愛され、気難しいと評判の「湖の貴婦人」の助精まで得た高位導師ながら、あえて辺境の教会でパンを焼いて配っていた変わり者の姉。
その彼女が、まさか火事で死亡するなど、本来なら水の精霊が許さないことだ。
だが、グスタフの主精――火の精霊が色を好むのとは異なり、水の精霊は純潔を好む。
そんな水の精霊が、クリスティーネを見殺しにしたのだとすれば、それは――。
グスタフは「くそっ」と小さく罵り、頭を振った。
(――まだだ)
まだ早い。
レオノーラ・フォン・ハーケンベルグは、たしかに自らの責任を自覚して教会に絵を寄贈したり、光の精霊を呼び出しかけるような――そして分を弁えてその栄誉を皇女に譲るような、高潔な精神の持ち主のようだが、それをもって彼女の行為を受け入れるには、グスタフを取り巻く状況は複雑すぎた。
はたして、ハーラルトの禍に際し彼女が取った行動は、聖女気取りの自己顕示欲がもたらしたものだったのか、それとも本当に心からの善意がもたらしたものだったのか。
「……見極めさせてもらうぜ」
後者なら、まだいい。
だが、もし前者であったなら――。
グスタフはぐしゃぐしゃに握りしめた死亡届を、無意識に呼び起こした炎で燃やし消した。