4.レオ、絵画を贈られる(後)
そんな二人を見て、ふと笑みを漏らしたのは、ナターリアである。
(本当に……レオノーラの影響力は、すさまじいこと)
彼女は相変わらず沈黙を守ったまま、静かに紅茶に口づけた。
ビアンカは、ヴァイツ帝国の栄えある第一皇女。
少女から女性へと脱皮を遂げつつあるその姿は薔薇に例えられるほどだし、凛とした佇まいや潔い言動は、皇女たるに相応しい。
しかし、対等な友人を作れてこなかった環境が、彼女を少々、いや、なかなかのわがままな性格に仕立てあげてしまい、ナターリア達はそれに頭を悩ませていたものだった。
(けれど、レオノーラが、そんなビアンカ様を変えてしまった)
今ビアンカは、初めて自分を見つめ直し、また、友情を捧げられるのを待つのではなく、自ら他者へと愛情を注ごうとしている。
それは、とてつもなく大きな変化だと思われた。
(変化と言えば、アルベルト様も、ですわね)
正直、先程の発言にはナターリアも驚いた。
第一皇子という身の上から、誰より完璧たることを求められ、自らもそれを目指している彼が、よもや「自分が取るに足りない人間と思える」などと言い出すとは思わなかった。
無欲の聖女、レオノーラ。
彼女が無意識的に及ぼす影響は、一体これからどれ程になるのか。
唯一わかっているのは、それが望ましいものであるということだけだった。
「ビアンカ様、そろそろ手をお放しになりませんと。レオノーラが窒息してしまいますわ」
折を見て切り出すと、ビアンカははっと拘束を解き「ご、ごめんなさい! レオノーラ!」と慌てだす。
その様子を苦笑して見守りながら、ナターリアはすっと立ち上がり、おもむろにキャンバスを引き寄せた。
「さて、レオノーラ。これをご覧になって」
「え?」
呼び掛けると、顔を紫色寸前にまでしていた少女が、息を荒げながら振り向く。
その潤んだ水晶のような瞳ににっこりと微笑みかけながら、ナターリアは説明した。
「あなたに見せたかったものとは、これよ。ゲープハルト氏の最新作」
「ゲープハルト、さんの……?」
「ええ。小作品ですが、と謙遜していたけれど。急に筆が騒いで、慌てて描き上げたものだから粗も目立つけれど、あなたに受け取ってほしいそうよ、レオノーラ」
ゲープハルトは、普段は丁寧に描き込んだ風刺的な作風で知られる画家であったが、小ぢんまりとしたそのキャンバスには、普段の彼の画風とは掛け離れた、荒々しい筆致である風景が描かれていた。
画面のほとんどを覆うのは、躍動感をもって描かれた群衆だ。
ある者は快哉を叫ぶように両手を天に突き上げ、またある者は隣の人間と肩を組んでいる。
ほとんどが鑑賞者に向かって背中を向けている格好だが、彼らからは抑えようのない歓喜の色が滲み出ていた。
その群衆に視線を導かれるようにして、画面上部に描かれているのは二人の人物。
彼らは、どうやらバルコニーのような高台に佇んでいるようだった。
一人は、高らかに右手を掲げた青年。
すらりとした長躯に白いサーコートをまとわせ、陽光に金色の髪をきらめかせている。
その、遠目であってなお秀麗とわかる容貌。
間違いなく、アルベルト皇子であった。
そして、そんな彼の隣に佇む、小柄の人物は誰かと言えば――
「…………っ!」
(なんdchくぃうkこsdpうvyb……!?)
レオは、内心ですら盛大にどもるほど動揺した。
簡素ではあるものの、純白のドレスに身を包んだ、黒髪の少女。
紫の瞳を潤ませ、アルベルト皇子の左手に背を支えられるようにして佇むのは――レオノーラ・フォン・ハーケンベルグであった。
「まあ……!」
横から覗きこんだビアンカがうっとりとした溜息を漏らす。
「なんて素敵な絵! わたくし、今、ぞくっとしましたわ!」
「わわ、わ、私も、盛大に、鳥肌が……!」
レオは、いまだ収まらぬ震えにあうあうと口を開閉させた。
(な、ななな、なんなんだよ、この不吉な絵は……!)
死刑囚に着せるような簡素な白い服。
勝利を謳うように掲げられた皇子の片腕。
さりげなく、けれどしっかりと背に回されたもう片方の腕。沸き立つ群衆。
レオの目には、金貨強奪がばれて皇子に捕まり、衆人環視で処刑されようとしているシーンにしか見えなかった。
「タイトルは未定だけれど、『金貨王の勝利』、または『金貨王の凱旋』で悩んでいるそうよ」
「…………っ」
題の意図としては、強奪犯死ね、ということだろうか。レオはざっと青褪めた。
「こ、ここ、これは、どういった、意味合いで、ゲープハルト、さんは……!」
しどろもどろで問うたレオに、ナターリアはおっとりと答えた。
「それが、手紙によれば、珍しくこれは寓意画ではないと言うの。ふと天啓に導かれて、わずか一日で描き上げたのですって」
そうして、思わせぶりにウインクを寄越す。
「ゲープハルト氏が持つのは、虚飾を暴く観察の魔力。ハーケンベルグの紫瞳が、時に未来を予知してみせるように、彼のこの絵もまた、何か将来を予言しているのかもしれませんわね」
「…………!」
レオは今度こそ、魂がごりりと音を立てて抉り取られるのを感じた。
「あら、でもそれなら、衣装にももっとこだわってくれればいいのに」
隣では呑気にビアンカが口を尖らせている。
彼女としては、見ようによっては結婚式を挙げているようでもある二人が、婚礼衣装と言うには簡素な服を身にまとっているのが不満であった。
(死装束の描写を徹底しろってことかよ!)
ビアンカの呟きを聞き取ったレオは、がんと頭を殴られたような衝撃を受けた。
つい先程までネー様宣言をしていたというのに、その同じ口で、もっと囚人のリアルを描けとは、なんという変わり身の早さだろう。これだから女性は恐ろしいのだ。
「ふふ、でも、そんなの些細なことね! もしこれが本当に実現したら、わたくしは本当にレオノーラの姉様になるのだわ!」
「あら。別にこれが結婚式だとは、ゲープハルト氏は言っておりませんわ。単に凱旋式に、たまたま居合わせただけかもしれないではないですか」
「まあ、何を仰るの! 戦争もない今日日、凱旋式などあって? それに、これってきっと王宮ですわ。お兄様はともかくとして、王宮に、学生のレオノーラがどうして来る用事があると言うの? きっとこれは、二人の結婚式よ! わたくしはそう思うことに決めたわ!」
ビアンカたちがうきうきと何か言っているが、もはや白い砂と化したレオの耳に届くものではなかった。
「それで、レオノーラ。彼は、この絵をあなたに捧げたいと言っているの。よかったら、受け取ってくれないかしら? ……レオノーラ? どうしたの?」
ナターリアに肩を揺さぶられ、意識を飛ばしていたレオははっと我に返った。
「え、ええと……?」
「大丈夫? この絵を、受け取ってくれないかと尋ねたのだけど」
当代きっての名画家・ゲープハルトの絵画を捧げられて断る人物などいない。
しかし、レオはきっぱりと、
「だめです!」
と叫んだ。
こんな禍々しく不吉な絵を、受け取れるはずもなかった。
(なんて恐ろしい……。これは、不幸を呼び込む禍の絵だ。こんなくっきり人が描かれてたら転売も出来やしねえし、孤児院に送りつけても――だめだ、レーナに殺される。だいたい、こんな不吉な絵、俺の網膜に刻みつけられる前にさっさと処分しちまわねえと……!)
ゲープハルトめ。
一時期は金の筆までくれかけたいい奴だと思ったのに、時間を置いて精神攻撃してくるとは、なんという悪人だ。
さては、泥棒呼ばわりしたことを根に持っているに違いない。
レオは内心で、悪虐の画家・ゲープ
「だめ……? では、どうすると言うの?」
「学院の、ギャラリーに……いえ」
レオは咄嗟にギャラリーに絵を押し付けかけ、即座にその考えを棄却した。
だめだ。
あそこは確か学院の入口に近い。玄関に縁起の悪い物を置くと、金運がダダ下がりしてしまうのだ。
守銭奴にはよくあることだが、レオは割と風水の類を気にする人間であった。
(まずは……そうだ、お祓い! お祓いしてもらおう! 恐ろしい未来の実現を防ぐんだ!)
そこでレオは、ばっとナターリアの手を取って懇願した。
「お願いです。この絵、教会に、預けてください……!」
「教会にですって……?」
困惑したのはナターリアだ。
小作品とはいえ、購入したら金貨十枚は下らないゲープハルトの絵画を、学院に寄贈すると言う少女の発言にも驚いたし、それ以上に、かつて少女を害そうとした教会に預けようとは予想外だった。
「レオノーラ、本気なの? 正式に預けるとなれば、教会はきっと返しはしないわ」
「願ったり、です!」
教会は、先だっての禍を償うために、いくつかの聖遺物や精霊布を除き、ほぼ全ての宝飾品や貴重品を皇家に差し出している。
かつてはギャラリーと並ぶほどに絵画がひしめいていた学院内の聖堂も、今やその白い壁を晒している状態で、そんなところにゲープハルトの絵を差し出そうものなら、彼らがけして手放そうとしないことは明らかだった。
「私ではなく、教会、持っていてくれる、これ以上の喜び、ございません!」
少女は、美しい容貌に切実な表情を浮かべて言葉を重ねる。
その差し迫った物言いに、ナターリアはふと閃くものがあった。
(もしや……レオノーラは、困窮した教会の現状を憂いているのかしら)
不遜にも、汚らわしい野望の下に学生を煽動し、帝国に仇なそうとした教会の罪は重い。
それはハーラルト一人の命で償えるようなものではなかった。
今や学生たち、いや、禍を知る帝国中の人々は教会に不信の目を向け、距離を置いている有り様だ。
しかし同時に――それによって、真に敬虔なる教会の導師たちが献金や寄付を失い、困窮しているのもまた事実。
もしこの絵が寄付されたならば、飾るのであれ売り払うのであれ、教会にとっては一つの救済となることは間違いないだろう。
この心優しき少女は、正義を推し進めた一方で、咎無くして断罪に巻き込まれた彼らを見過ごせず、救いの手を差し伸べようとしているのだ。
「……わかりましたわ。あなたが、そう言うのならば」
まったく、齢十二とは到底信じられない読みの深さ、そして懐の広さである。
どうかアルベルト皇子の治世は、彼女のような妃に支えられていてほしいと、改めて思いを強くしたナターリアは、忠誠を捧げる臣下のような面持ちで深く頷いた。
「でも、教会に寄贈するとなると、今の場合、どなたにお渡しすればよいのかしら?」
そう問うてきたのはビアンカだ。
彼女は首を傾げると、
「ハーラルト元導師が去った今、この学院で教会の人間と呼べる人物はいないわ」
現実的な指摘を寄越す。
ナターリアはそれに頷くと、
「ああ……まさに今日、新たな導師が着任されることになったところです」
生徒会ならではの新情報をもって答えた。
「まあ、新たな導師ですって? よく見つかったものね」
「皇帝陛下直々のご下命だそうです。わたくしも、名字だけしか知らされていませんけれど、この……なんと言うのでしょう、難しい状況にある学院付き教会でもやっていけるような、鋼の精神の持ち主、という観点で選ばれたらしいですわ。陛下の勅命――つまり、絶対的な裁量権と共に」
「あら。では、相当自制心に富んだ、厳格な方なのね。それ程の裁量を持つなんて、ご高齢の方かしら?」
ビアンカは興味津々だ。
一方、この不吉な絵をどうにかしてくれるのであれば、老人だろうが少年だろうが、厳格だろうが緩かろうが一向に構わなかったレオは、
「なら、私、これから、聖堂、行ってきます!」
即座に宣言した。
善は急げだ。
「まあ……今、これから?」
「はい。善、急ぎます。救い、早い方がよいのです」
レオとしては、自らに対する救済を急いだにすぎなかったが、その言葉で自分の考えが正しかったと確信したナターリアは、「そう」と重々しく頷いた。
「そういうことでしたら。わたくしもこの絵を仲介した以上、見過ごせません。どうぞ一緒に向かわせてくださいませ」
「ナターリアお姉様、ご予定は……?」
ついビアンカがむむっと指摘するが、ナターリアは取り合わなかった。
少女が早々にビアンカのわだかまりを解決してしまった以上、更に彼女と少女を二人きりにしてやる必要もない。
「あら。わたくしだって、レオノーラと一緒にいたいですわ」
にっこりと、あえてストレートに言い放つと、ビアンカはぐっと黙り込み、「……わたくしも、一緒に行って差し上げても、よくってよ」とだけ呟いた。
まだまだ、完全に素直になるには時間が掛かるらしい。
ナターリアはやれやれと苦笑を刻み、急いた足取りでキャンバスを抱え去ろうとする少女と共に聖堂に向かった。