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2.レオ、打ち明ける(後)

「お話?」


 突如として真剣な雰囲気を漂わせ出した主人に、カイは首を傾げかけ、ついではっとした。

 もしや、過去のことを告げてくれるのではないかと思ったのだ。


「それは……レオノーラ様の、学院にいらっしゃる前のお話でしょうか」

「…………! はい、その通りです」


 なぜわかるのだ、と言いたげに瞠目した主人を見て、カイはごくりと息を呑んだ。

 とうとう、少女が自ら過去に触れようとしてくれた。それは即ち――カイのことを信用してくれたということに他ならなかった。


 カイはこんな状況だというのに沸き上がる歓喜に戸惑った。

 今は信用を喜んでいる場合ではない、主人の話に耳を傾けるのが先だ。


(でも……どうしよう、嬉しい)


 込み上げる感情をこらえきれず、カイはつい少女の両手を取った。


「レオノーラ様!」

「あ、はい」

「僕……いえ、私は、レオノーラ様の味方でございます! どうぞこのカイに、なんなりとお話しくださいませ!」


 熱が籠りすぎたのか、主人は少々顎を引いている。つい両手にも力が入りすぎていたことに気付き、カイは慌てて手を離した。


「も、申し訳ございません!」

「あ、いえ……」


 主人はそう言ってくれるものの、彼女は男性が怖かったはずだ。カイは自らの至らなさを猛省しながら、慌てて言葉を紡いだ。


「申し訳ございません。その、どうか私のことは、男であるとか、そういう風にお考えになるのではなく、一従者としてご覧ください」


 男としてではなく。

 そう言い切るのは、さすがにカイとしても少々躊躇いがあった。


 美しい主人を前にして、見とれてしまうことなどざらにあったし、さすがに不敬な思いを抱くことは自らに固く禁じているものの、どうしても、淡い想いが胸に兆してしまうことは、あったから。


 その欺瞞(ぎまん)を見抜いたのか、少女が美しい紫水晶の瞳を揺らしたので、カイは胸の痛みに気付かぬ振りをしながら言い繕った。


「はは……あの、信じられません、よね。ですが、私の、レオノーラ様に捧げている忠誠は本物です」

「ええと……」

「その、時折こうしてつい手を取ったりしてしまいますのは、その、なんでしょう、そう、初恋の名残のようなものなのです」


 自らの想いを根底から否定するのは躊躇われ、かといって生々しい言葉を当てはめるのも避けたかったカイは、「初恋」という甘酸っぱい響きにぱっと縋りついた。


「は、はつこい……!?」

「さようでございます。そう、大変恐れ多いことながら、私の初恋はレオノーラ様なのです。その無欲で慈愛深い姿に、私はすっかり心奪われてしまったのです」


 少女はぎょっと目を剥き、「え、え、え」と口をぱくぱくさせている。

 カイは、主人をそのように慌てさせたことに少しだけ満足を覚え――同時に、それ以上の切なさをやり過ごしながら、「ですが」と続けた。


「初恋とは、ほんの一時胸に過る、淡く儚いもの。恋情は溶けて消え、今となっては忠誠心だけが残りました」

「そ、そういう、ものです、か……?」

「そういうものでございます」


 きっぱりと言い切ると、少女は黙り込んだ。


(や……やべえ……)


 レオは呆然とした顔の下、盛大に焦っていた。


 なんということだ。

 かわいい弟分が、うっかりレーナの美貌にやられちまっていた。


(い、いつだ!? はっ……そういや、会ったばっかの時、やたら見とれてたりナルシーに笑いかけてきたりしてたな。アレか! アレなのか!)


 幸い今ではその呪いは解けているようだが、しかしカイの告白は、レオの方針を大いに転換させるに足るものだった。


(つまり俺が今正体をバラしたら、こいつ、初恋の相手は男だったって現実を背負って、これからの人生を歩んでいくわけか!?)


 レオは想像してみた。

 もし、自分の好きだったお姉さんが、実は男だったら――いや、実際のところレオは恋などしたことがないので、その例えではいまいちピンとこないが、それなら例えば、今握りしめている金貨が、実は金の塗装を施しただけのクソの塊だったとしたら――


(いやだあああああああ!)


 レオはざっと青褪めた。


 駄目だ。そんなの、生きる希望を無くしてしまう。耐えがたい苦痛だ。

 弟分にそのような苦痛を味わわせるなど、到底できるわけもなかった。


(だ……だめだ、カイにだけは、絶対言っちゃだめだ……!)


 この秘密は、墓まで持って行かねばなるまい。

 わずか一瞬のうちに決意を固めたレオは、カイに、


「遮ってしまい申し訳ございません。その、お話というのは……?」


 と水を向けられ、しどろもどろになった。


「え! ええと、その、あー……」

「学院にいらっしゃる前のお話ですよね?」

「いえ、前、と言いますか、あの」


 どうしよう。何を話せばいい。

 おもむろに切り出すに足るような、何か重要な話題――


(そうだ!)


 レオは閃いた。


「あの、私の、正体、お話ししたいのです」

「正体、ですか?」

「はい」


 中身が男だということは話せないが、カイが時折言う「無欲で慈愛深い」云々というのは、この機会にきっぱり否定しておこうと思ったのである。


「私、無欲、慈愛、違います。とても、とても、欲張りなのです」

「え……?」


 カイは首を傾げる。

 苦笑まで浮かべたその姿は、どちらかと言えば発言を端から信じていないようであった。


 レオはなので、今日も今日とて胸元に下げたカールハンツライムント金貨を握り締め、自分がいかに業突く張りであるかを一生懸命説明した。


「私、例えば、カー様、大好きです。誰かにあげる、お断りです。昔からです。無くす、一生根に持ちます。カー様、ずっと、傍にいてほしい。カー様だけがほしいです。他、全然いりません」


 金と他の何かを提示され、どちらが欲しいかと尋ねられたら、きっとレオは二つを天秤に掛けることすらせずに「金!」と即答するだろう。

 それほど、自分はドライな人間なのだ。金に魂の全てを捧げている自負すらある。

 それを、無欲だなんだと言われては、尻のすわりが悪くて仕方なかった。


「レオノーラ様……」


 カイは、幼い主人が切々と、母だけが傍にいればいい、他には何も要らないと訴えるのを聞き、危うく涙を浮かべそうになった。


(クラウディア様を亡くされたことを、一生忘れず――喪に服すということか。美貌も、明晰な頭脳も、女性としての栄華も全て手に入れようとしているというのに、唯一欲しいという母君だけが永遠に手に入らないとは……精霊も、なんとひどいことを……)


 なにより、母の温もりがほしいという、ささやかすぎる願いを以って自らを「欲張り」などと称する少女のことが、カイは痛ましくてならなかった。


「レオノーラ様、私は……!」


 カイは自らの性別を、この日初めて呪った。


 なぜ自分には筋張った腕しかないのだろう。

 なぜ自分は、彼女を怯えさせる男に生まれてしまったのだろう。


 もし、自分にふくよかな腕と、柔らかな女性の体があれば、自らの孤独の深さすら知らずに微笑んでいる目の前の少女を、ぎゅっと抱きしめてあげることができるのに。

 彼女が何より求める、母の温もりに近しいものを、きっと捧げられたのに。


「私は……女性に生まれたかった……!」

「え!」


 唐突な弟分の叫びに、レオはぎょっと肩を揺らした。


(な、なんか、こじれた!)


 「初恋の相手は男」事件は、避けられたはずなのに。

 身を震わせて俯く従者を、レオは呆然として見守った。




***




 一方。

 手紙を待ちわびていた侯爵家に激震が走ったのは、その日の夕方のこと。


 仕事の早い従者が早速少女の発言をあますことなく書き連ね、羊皮紙五十枚に及ぶ超大作を脱稿した一時間後のことだった。


「――……ぐ……ぅっ!」


 屈強と堅固の代名詞として語られることの多いハーケンベルグ侯爵は、手紙に血走った目を走らせるなり、胸を押さえて蹲った。


 侯爵の横で、ハーブ入りの茶を嗜んでいたエミーリア夫人が――孫娘についての手紙を読む際は、せめて肉体だけでも落ち付けるためにこうして鎮静作用のある茶を飲むことにしている――ぎょっとして立ち上がる。

 彼女は、


「あなた!?」


 と叫び、夫の肩に縋りついた。


「どうしたのです!? あの子に何が!?」


 もはや彼女の心配の対象は、夫の体調ではなく孫娘の安否である。

 しかし、その不敬に二人ともまったく気付くことなく、侯爵はむしろ恍惚とした表情を浮かべ、震える指で手紙の一部を指し示した。


「エミーリア……これを……」

「なんですの!? ここに何が……まあ……。…………まあ……っ」


 エミーリア、撃沈。

 侯爵夫妻は、しばしの間、夫婦仲良く絨毯に(うずくま)った。


 異様な事態に緊張を走らせた執事や侍女が、一体何事かと二人に駆け寄ってくる。

 カイの父たる執事長・フォルカーは、恍惚のハーケンベルグ老侯に許可を取って手紙を検め、現状を瞬時に理解した。

 そこには、「レオノーラ様は侯爵閣下と結婚したいと仰り、また大奥様を師と見定めている」といった内容が、大変ドラマティックに描写されていた。


 フォルカーは、息子や主人と同じく蹲りかけたが、長年にわたって鍛えた鋼の自制心で、なんとか胸に手を当てる程度で踏みとどまる。

 その後、手紙は興味を隠しきれない侍従侍女に次々と回し読みされ、自制心に富む者と富まぬ者を見分ける試金石の役割を果たした。


「私の……私の墓碑には、この一文を刻んでくれ……」

「なんということを仰いますの。墓にはわたくしも入りますのよ。二文とも刻んでくださらなくては嫌ですわ」


 やがて息を吹き返した侯爵に、エミーリアがそっと寄り添う。

 二人はしばし余韻を味わうように目を閉じた後、どちらからともなく切り出した。


「エミーリア。レオノーラ宛ての茶会や舞踏会の招待状だが」

「ええ、燃やして捨てましょう」


 さすがは社交界でもおしどり夫婦と名高い二人。まさに阿吽の呼吸である。


「ああ。レオノーラは私たちの大切な孫娘だ。下賤の輩どもが集まる催しになど」

「おめおめと姿を晒せませんわね」

「なに、マナーとておまえが躾けてくれるなら安心だ。デビュタントも済ませぬ雛よ、などとは」

「けしてわたくしたちが言わせますまい」

「そうとも、レオノーラはいっそずっと独身のまま――」

「それは嫌ですわ」


 しかし、その呼吸が突如として乱れた。


「え……?」


 侯爵が呆然と寄越した視線を、エミーリアは笑顔で受け止めた。


「それは、嫌ですわ」


 小柄な夫人からは、戦場の修羅のような気迫が滲み出ていた。

 侯爵はぴり、と首筋の毛が逆立つのを感じる――手強い敵を前にした時の、本能的な反応だった。


「な、なぜだエミーリア。レオノーラは私と結婚すると――」

「寝言は寝て仰ってくださいまし。老いらくの恋にも程がありますわ。行き届いた社交辞令と妄想は、きちんと区別されてあらねば」


 きっぱりと妄想と切って捨てられ、侯爵は顔色を失った。


「し、しかし」

「わたくしはね、クラウス」


 夫人が、その穏やかな若草色の瞳に、真摯な光を湛えて言った。

 夫を名で呼ぶのは、彼女が重要なことを告げる時の癖だ。


 侯爵が視線を受け止め、続きを促すと、彼女はすっと息を吸い、一息に叫んだ。


「あの子が結婚し、生んだ子どもを、この手に抱きたいのです――!」


 なんということはない、今回に限っては身勝手なわがままの宣言であった。


「ひ孫か……」


 しかしその威力は、浮かれた侯爵をまた別の方向に浮かれさせるほどのものではあった。


 彼はぐ、と口を引き結び、まるで戦局を占うかのように虚空を睨む。


 孫娘をどこぞの馬の骨になどやりたくはない。

 しかし、彼女が生む子どもは確かにこの手に抱きたい。


 ひとしきり唸った後、侯爵は「して、どうするつもりだ?」と妻に問うた。


 これまでのレオノーラ宛ての誘いを全て断り、かつ未デビューの誹りを避け、同時に納得のいく結婚相手を用意する。

 しかし、どうやって――?


 茶会などの貴族的な催しは全て夫人任せにしてきた侯爵は、具体的な方策が浮かばなかったのである。


「――わたくしに、考えがございます」


 物問いたげな視線を向けられても、夫人の貫禄は小揺るぎもしなかった。

 彼女は小柄な体をしゃんと伸ばし、淑女の鑑のような仕草で夫に笑いかける。


「招待をお断りするには、それなりの理由が必要。伯爵家のご招待をお断りするには、侯爵家の茶会に出席するからと答え、侯爵家のご招待をお断りするには、公爵家の舞踏会に出席するからと答えるのが、貴族社会の常識にございますわね」

「あ……ああ」


 人生の大半を戦場で過ごしてきた侯爵には初耳だったが、逆らえぬ気配を感じ、彼は素直に頷いた。


「ですので、いっそ、最高権力者からのお茶会を仕立て上げ、レオノーラはそれにのみ出席するということにしてしまえばよいのです」

「最高権力者……?」


 侯爵は眉を顰めた。

 ヴァイツ帝国の最高権力者といえば、それは。


「そう。――皇帝陛下ならびに、皇后陛下でございますわね」


 エミーリアは、こともなげに言ってのけた。


「皇帝皇后両陛下主催の茶会。それであれば、レオノーラは、ごくごく少人数の茶会に一度出席するだけで、馬の骨の視線を集めることもなくデビュタントを済ませられ、最高の箔が付き、かつ、最良の婚約をも見込めます」


 エミーリアがそう言うのは、皇帝がセッティングする茶会、つまり見合いならば、相手は必然皇子となるからである。


「なんだと……!?」


 侯爵はかっと目を見開いた。


「エミーリア、それではおまえは、あの皇子にレオノーラをくれてやろうというのか!」


 学院で生徒会長を務める彼が、大切な孫娘をおめおめと危機に晒したことを、侯爵はけして許してなどいない。

 夫人だってその彼を上回る勢いで烈火のごとく怒っていたというのに。

 ここにきて突如変心したかに見える彼女に、侯爵は衝撃を隠せなかった。


「まあ、嫌ですわ、あなた」


 ころころと笑うエミーリア夫人は、夫の咆哮など歯牙に掛けぬ様子である。

 彼女は、ある種の迫力さえ漂わせ、艶然と言い切った。


「少なくとも、馬の骨の中では多少の気骨があるのは事実。先日の一件はわたくしとて許せるものではございませんが、殿下もまだ十七歳、わたくし達でしっかり仕上げることもまだまだ可能ですわ」


 それに、と、皺すら優雅な夫人が、一見した限りでは優しげな笑みを浮かべる。


「親が調えた『婚約』なんて、学生の裁判で簡単に『破棄』できてしまうようなものですもの。なんらか婚約が解消される事態が起こったとして、結果的に(・・・・)皇子殿下が虫よけの役割に終始してしまったとして、誰に責められるものでも、ございませんわねえ?」

「エ、エミーリア……」


 侯爵はぶるっと身を震わせた。自軍の数十倍の敵勢を前にしてもたじろがなかったという侯爵は、この日久々に恐怖という感情を味わったのである。


 ハーケンベルグ侯爵夫人、エミーリア。


 人一倍愛情深く、人一倍誇り高い彼女は、普段隠している獰猛な爪を、今まさに孫娘の為に取り出したところであった。


 目先の舞踏会を避けんがために、最大級に厄介な茶会を引き寄せてしまったことを、幸か不幸か、この時のレオはまだ知らなかった。

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