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0.プロローグ

 ――今までの、私たちの献身は何だったというのでしょう。


 文字を綴った便箋の上に、ぽたりと涙が落ちた。


 ――ただ、役に立ちたかった。皆の顔に満ち足りた微笑みが浮かぶ様を見たかった。

   そこには、精霊の名にかけて、一片たりとも汚れた気持ちなど無かったの。


 彼女はふと手を止める。

 そうして、粗末な机に置かれた燭台の、頼りなげに揺れる炎を、じっと見つめた。


 簡素な空間である。


 木だけで組まれた狭い建屋に、擦り切れた絨毯。小さな寝台に、シンプルな作りの机と椅子。

 机には、燭台と水を注いだ古ぼけたグラスしかない。

 窓には風除けと防寒を兼ねた厚手の精霊布が掛けられ、それがこの部屋の唯一の彩りであった。


 彼女は、自らの手を見下ろしてみた。

 ある時はペンのインクにまみれ、ある時はパンを焼くための粉に埋もれた、働き者の手を。

 娘時代には白く美しかったその手は、今、少しだけ乾燥が目立つようになってきた。


 やがて彼女は、両手で目尻を乱暴に拭い、再びペンを執った。


 ――いいえ、本当は、認められたかったのかもしれない。

   だから、今、私はこの、胸が張り裂けそうな悲しみと、向こう見ずな衝動を抑えられずにいるのだわ。


 そう、と彼女はひとつ頷いた。

 私は、もはや導師に相応しくないのだわ、と。


 ――憤怒、傲慢、強欲。精霊が嫌う悪徳の内、三つをもまとってしまった私は、もはやこのまま生きていく資格などありません。

  だから、私は、


「火の精霊に、この身を捧げます……」


 ぽつんとした呟きは、無人の部屋にひっそりと響いた。

 彼女は、その小さな唇で、言葉を噛み締めるように何度もそれを唱えた。


 火の精霊に捧げます。火の精霊に捧げます。

 火の精霊に、この身を捧げます。


 すると不思議なことに、机に置かれていたグラスの中で、たぷんと静かに水面が揺れた。

 それはまるで、彼女の宣言に戸惑って、水が身を震わせているかのようだった。


 水面の動きに気付いた彼女は、悲しそうに眉を下げ、グラスの縁をそっと撫でた。

 そうして、静かな声で、


「ごめんね」


 と囁いた。俯くと、下ろしたままだった金茶色の髪がはらりと肩から零れる。


 ――力強い炎が、きっと私の魂を焼き、穢れを払い、鍛えてくれることでしょう。

  そうしていつか生まれ変わり、あなたにまた会えると、信じています。


 彼女はペンを握る手にぎゅっと力を込め、書く速度を上げた。


 ――大好きなあなた。私のかわいい弟。あなたを置いていく愚かな姉を許せとは言いません。

  でもどうか、困窮した人々を恨まないで。

  そしてどうか私の代わりに、湖の貴婦人の名を寿ぎ、人々に彼女の助精が行き渡るように心を砕いてちょうだい。

  あなたに、彼女の名を託します。

  つんとしているけれど、本当は寂しがり屋の、かわいい私の主精にして友人、湖の精霊の御名(みな)は――




 手紙を最後まで書き終えると、彼女は勢いよく立ち上がった。


「――……さあ!」


 まるで、声が震えるのすら許さないというように、ぎこちなく朗らかな声で自らに話しかける。


「これ以上の涙は禁止よ、クリスティーネ!」


 そうしてその勢いのままくるりと踵を返すと、振り返ることもせずに、手紙だけを握り締めて部屋を歩み去っていく。


 残された机の上では、先程まではたしかになみなみと注がれていたはずの水がグラスから消え失せ、代わりに、輪郭を大きくした燭台の炎が、左右に激しくその赤い体を伸ばしていた。

 炎は伸縮を繰り返しながら蝋燭を溶かし、その大きく膨らんだ先端がちらりと机の一部を掠め――やがて、置きっぱなしだった便箋の残りを伝い、静かに机全体に広がりはじめた。


 ヴァイツ帝国暦一〇〇八年。


 分厚い雪雲に塗り込められていた空に、ほんの少し春の兆しが見え隠れしはじめた、雪割月 五日のことだった。

第2部を開始しました。

ストックがあるうちは、さくさく投稿できればと思います。

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