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《閑話》 レオ、歌う(4)

 義理の娘(アデイラ)孫娘(レオノーラ)による「歌のプレゼント」――実質的には歌唱王決定戦――に大いに盛り上がった一同は、すぐさま椅子やテーブルの向きを変え、巨大なケーキ台すら厨房に引っ込め、暖炉のすぐそばに簡易の舞台を設けた。


 もはや主役のはずのエミーリアなんてそっちのけの勢いだ。

 だが、そのエミーリア自身が先頭切って指示を飛ばしているのだから、それでよいのだろう。


 ついでに光の差し込む位置を調節してスポットライト代わりに、ならば衣装も着替えて歌姫らしく華やかなものに、と、使用人たちもどんどん前のめりになってくるのを見て、レオは顔を引き攣らせた。


(――や、やべえ、なんか異様に大ごとになってきた……)


 せっかくだからと、門番や、厨房で待機していた料理人たちまで侯爵が呼び寄せた結果、今や目の前には屋敷中の人々――総勢百人近いギャラリーが集まっている有り様だ。

 広々としていた食堂も、さすがに黒山の人だかり状態になっていた。


(身内での歌の披露なんて、ちょっと席を立ってその場で歌う、くらいでよくねえ!? プレゼントといい、なんでこの人たちは、やたらとスケールをでかくしねえと気が済まねえんだよ!)


 自分だってかなりスケールのでかい贈り物をしてしまっていたことにはついぞ気付かず、レオはそんなことを思った。

 まったく、自分のみすぼらしいプレゼントの補填になればと思って引き受けたのに、予想を遥かに超える辱めだ。


(が、こうなりゃもう仕方ねえ……。ピンチをチャンスに、だ)


 やたらフリフリひらひらした桃色のドレスに着替えさせられてしまったレオは、暖炉の前に立たされるや、覚悟を決めた。


 そうとも、これは自分のリサイタルなどではけしてない。単に、作詞した歌詞のデモ演奏だと思えばよいのだ。


 レオはこの機会に、先ほどまで作っていた詞を披露して、そこで得た感想をもとにブラッシュアップを加えるつもりだった。


 幸い、歌詞はどんな曲にも当てはめやすいよう、七五調に仕上げてある。メロディーはひとまず、最近習った賛美歌のものを使えばよいだろう。

 要は、替え歌だ。


「レオノーラ、どうしたの。そう緊張しないで。さあ、素敵な歌を聴かせてちょうだい」


 いろいろ考え込んでいると、アデイラが淑やかな声でそう言ってくる。

 優しい彼女は、たとえレオが失敗しても事態を回収できるようにと、前座の地位を譲ってくれたので――実際には彼女は、相手を先攻にすることでウォーミングアップの時間すら奪おうとしただけだったのだが――レオはアデイラの胸を借りるような気持ちで、肩の力を抜いて口を開いた。


「……それでは、歌います」


 小さく告げた、次の瞬間。


 部屋に響き渡りはじめた歌声に、誰もがはっとしたように目を見開き――そして、恍惚の表情を浮かべた。



   光あれ

   凍てゆるむ空 にじむ月

   仰ぎ眺むる 人の子の

   てのひらに落つ 黄金(こがね)のしずく



 まるで、すっと大地にしみ込んでゆく(さや)かな湧水のような。いや、夜空に淡い光を放つ、白い月のような。


 透明で、気高い声は、その歌詞の意味とともに聞く者の心に深く入り込み、また同時にそれを激しく揺さぶった。


「なんてきれい……」


 誰かがぽつんと呟く。

 それ程に美しい歌声だった。


 メロディー自体は、讃美歌を元にしているようだ。

 だが、聞き古したその旋律に、耳慣れない歌詞が乗るだけで、歌はまるで異国の調べのように響いた。


「詞はレオノーラ様が考えられたのですよ」


 カイがこっそり近付いて、エミーリアに耳打ちすると、夫人は感に堪えないように頭を振って、小さな溜息を漏らした。

 そうして、孫娘の紡いだという歌詞に耳を澄ましている内に、夫人はあることに気付く。



   震え、伸ばした指先に

   返るは 冷えた 光のみ



 てっきり光の精霊を讃える歌とばかり思っていたが、そうでもないようだ。

 震えながら伸ばした指先に、そっと冷えた輝きだけを返してくる――


(まさか)


 夫人ははっと目を見開いた。


 少女は他にも、「そのぬくもりを求め」であるとか、「どうか傍に」だとかを、切々と歌い上げる。

 それらを聞いて、エミーリアは確信した。


(光の精霊に、母親を――ディアのことを、重ねた歌詞なのだわ……!)


 歌詞で描かれる情景はこうだ。


 (こご)える人の子の掌に降ってきた、金色の輝き。

 無垢なる信徒――つまりこれは少女自身のことと思われる――は、そのきらめきを讃え、空に向かって腕を伸ばす。

 が、月は冷えた温度を伝えてくるのみ。信徒はその存在を恋しがり、祈りを捧げ、やがて夜空へと舞い上がって、輝きのもとへと吸い寄せられていく――


 曲の後半で、少女がとうとう比喩も使わずに、



   カー様 カー様

   ああ どうかお傍に



 と繰り返し歌いあげてみせたとき、エミーリアは涙があふれ出すのを堪えられなかった。


 なんと痛ましい。なんと切ない。


 夫人を筆頭に、歌詞の真の意味を理解した面々が、次々と泣き崩れる。

 それはまさに、涙無しには聞くことのできぬ、今は亡き「母様」への哀悼歌であった。


(――……な、なんなのよ、この子……っ、この歌……!)


 そしてまた、最初は頬杖をついて聞いていたアデイラもまた、胸から湧き上がる感情をいよいよ無視できなくなってきて、焦っていた。


 はっきり言って、技巧ならばアデイラの方が上だ。

 声だって、透き通るようと言えば聞こえはよいが、彼女からすれば華に欠けるように思われた。


(なのに……どうして、涙が溢れてくるの……!?)


 いや、答えはわかっている。

 歌に込められた切実なる想い。ひたむきな、母親への愛情が、アデイラの高慢な心をも揺さぶってみせたのだ。

 聞くだけで、抱きしめてあげたくなるような、大丈夫だよと慰めてあげたくなるような――


(いいえ、あたくしはそんなこと、思うはずもないわ!)


 だって自分は、少女のことなど大嫌いなのだから。


 アデイラは、溢れる涙と、湧きあがる感情の正体に戸惑い、小さく「失礼」と呟いて席から立ち上がった。

 あいにくハンカチを持ってき忘れてしまった。涙を拭き、鼻をかむには、使用人に声を掛けなければならない。


 が、その使用人たちといえば、皆食い入るように少女を見つめるばかりで、次期侯爵夫人のアデイラが立ち上がったというのに、こちらには見向きもしない。


 アデイラはむしゃくしゃしながら壁際に近付き、いっそ飾られている花瓶でも叩き落としてやろうかと手を振り上げたが――


「アデイラ様」


 その時、背後から声が掛かった。


「んまあ、カイ」


 彼女のお気に入りの元従者、カイである。


 久々に近くで話す彼は、相変わらず美しい金髪に、あどけない青い瞳をしていて、それを見ただけで彼女は心がほぐれるのを感じた。


「どうぞ、こちらをお使いくださいませ」


 しかも彼は、恭しくハンカチを差し出してくる。

 やはり出来た子だ。こうでなくてはならない。


 アデイラはにわかに浮き立ち、盛大に鼻をかんだが、それを返そうとすると、しかしカイは静かに首を振った。


「どうしたの、カイ?」

「アデイラ様」


 彼はその整った顔をぐっと近付けて、囁くようにして告げる。

 もしやいつものように、優しく慰めてくれるのだろうかと、アデイラはきゅんと胸を高鳴らせたが、続いた言葉は予想外のものだった。


「レオノーラ様の過去を、ご存じですか」

「――……は……?」


 ご存じもなにも、早くに母を亡くし、下町で育ったところを侯爵夫妻に引き取られたというのは、屋敷中のだれもが知っている情報だ。

 一体なにを、と怪訝な思いで眉を寄せると、カイは、暖炉の前で歌う少女に愛おしげな眼差しを送りつつ、一転、アデイラには厳しい表情を浮かべた。


「――レオノーラ様は、下町で育てられた。そのことは、アデイラ様とてご存じのことと思います。ですが、侯爵閣下や大奥様が隠していらっしゃる、その詳細――レオノーラ様が、虐待に遭って日々を過ごしてこられたことを、ご存じですかとお聞きしているのです」

「え……?」


 穏やかでない単語に、アデイラの心臓がどくりと跳ねた。

 カイはつらそうに目を伏せると、静かに告げる。


「レオノーラ様は、精霊をも恐れぬ卑劣の輩に目を付けられ……、ときに食事を抜かれ、ときに暴力を振るわれ、ぼろ布一枚をまとわされたきり、日も差さぬ牢獄のような場所で鎖に繋がれていたのです」

「なんですって……!?」


 衝撃の告白に、アデイラは思わずぎょっと目を剥いた。

 あの美しい少女に、そんなにも壮絶な過去があるとは、想像だにしなかったのだ。


 だが――そう。


 細すぎる手足や、たどたどしい言葉遣い。自己否定にすら聞こえる謙遜の台詞。まるでわずかな愛情に縋りつくような態度。


 言われてみれば、少女には、それ(・・)を匂わせる符号はいくつも散りばめられていた。


 カイは視線を上げると、鋭くアデイラを睨みつけた。


「レオノーラ様のためだけの、清潔で安全な空間。温かな衣服。それらを、私たちはどれだけ心を砕いて用意してきたことでしょう。なのにアデイラ様。あなたは、古びた馬車にぼろ布のような古着を送りつけてきた。それがどれほど罪深いことか、あなたにはわかりますまい。更には聞くに堪えない暴言に、やたらとレオノーラ様を試すような真似まで……。ですが、それすらも笑って受け流すレオノーラ様と、あなたでは、もはや比較にもならないこと、そろそろお気付きになってはいかがですか?」

「…………」


 アデイラはなにも言えなかった。


 いつもあどけなく振舞っている従者が、その従順さをかなぐり捨てて向けてきた冷徹な視線と、そして彼が告げた内容に、彼女は言葉を失うほど衝撃を受けていたのだ。


「――……そん……な……」


 少女がそんな過去の持ち主だったなんて。


 あの可憐な微笑みは、歓心を買うための計算に基づくものなどではなかった。

 少女は、羽をむしられるような苦しみを経てなお、その気高く柔らかな心を失わず、どのような試練にも穏やかに笑んで対峙しているというのだ。


 呆然と、歌う少女を見やる。

 彼女は全てを包み込むような笑みを浮かべ、母への想いを謳い上げていた。


「そのハンカチは、差し上げます」


 カイが、冷え冷えとした声で告げる。彼は更に、「そして」と続けた。


「それが私からの、あなたへの最後の忠誠です」


 言い放つや、美しい姿勢で踵を返していく。

 彼は今回、とうとう最後まで「僕」とは言ってくれなかった。


 アデイラは、言葉もなくその場に立ち尽くす。


 ぼんやりと向けた視線の先では、少女が曲を歌い終え、一瞬の間の後、盛大な拍手を送られていた。

 そのあまりの大音量に、彼女はちょっとびっくりしたように目を見開き、すぐに照れたような笑みを浮かべる。


 そうして、「恥ずかしい」というようにぱたぱたと手で顔を仰ぐと、周囲をその大きな瞳で見まわし――、


「あっ! アデイラ様!」


 アデイラを見つけてぱっと笑顔になった。


「次は、アデイラ様の、番です! どうぞ!」


 そして無邪気に、アデイラに歌えと勧めてくるではないか。


「――……え?」

「私の後、アデイラ様です。前座、終わりました。真打ち、どうぞ!」


 呆然とするアデイラに対し、少女はにこにこと言い放つ。

 そこに、なんの敵意もないことを見て取り、アデイラは戸惑った。


 つい数分前までだったら、その笑顔だって少女の手口に違いないと決めつけていただろう。だが、今のアデイラにはわかる。


 この少女は、本気で笑いかけているのだ。

 少女の過去をえぐり、最低な方法で傷付けたアデイラに。

 なんのわだかまりもなく、心から。


 それは一体、なんという器の大きさ。

 ――そして、なんという、自分との差であろうか。


(この子は……なんて……)


 ひどい過去を持つ子どもをいたぶっていたことへの苛烈な罪悪感。横たわる圧倒的な差に対する憧憬と、絶望。敵わない自分への自己嫌悪。

 そんなものがぐちゃぐちゃに入り混じる。


 ――これが、常に社交界の華であったクラウディアの子と、残りかすである自分の、差なのか。


 珍しく、不満を言うでもなく、どなり声を撒き散らすでもなく固まっているアデイラを、一体どう解釈したものか、少女は笑顔で近付いてきて、暖炉の前へと背を押してきた。

 すっかり舞台に押しやられた格好のアデイラは、落ち着かなく視線を彷徨わせる。


 歌は得意だ。この場だって、少女を打ちのめすつもりで設けた。

 だが、あんな美しい発表の後に、このように乱れた感情のままで、ろくに歌えるとも思えなかった。


「さあ、アデイラ、歌ってちょうだい。あなたの歌を聞くのは、久しぶりね」

「ああ、楽しみだなあ」


 だが義母や夫は、にこにことこちらを見ている。

 アデイラはそれでもしばらく口をぐっと引き結んでいたが、夫が心底嬉しそうに、


「さあ、アデイラ。君が思うままの歌を、聞かせておくれ」


 と言ってきたのを聞いて、はっと顔を上げた。

 思うままの歌。


(――……なによ)


 その言葉が引き金となって、心から想いが溢れだす。

 湧きあがる感情のままに、彼女はやけくそになって口を開いた。



   よくお聞き、坊や

   あんたに言っておきたい ことがあるの



 冒頭を歌いだした途端、全員がぎょっと目を見開くのがわかる。

 それはそうだ。これは、かつてアデイラがお忍びで下町の酒場に行った時に聞いた歌。

 貴族が聞いたことなどあるはずもない、下世話であけすけな、恋の歌なのだから。


 ぽかんと口を開けだした一同を見て、アデイラは愉快になってきた。

 いや、愉快だと、思おうとした。



   そのウィスキー色の瞳で 一体誰を見ているの

   グラスの向こうにいるのは あたしだけなのに



 ありのままの感情を歌って聞かせろなど、よくも言えたものだ。

 だってもしアデイラが思ったままを歌ったならば、こんな風に、下品な歌になる。

 次期侯爵夫人としてまったく相応しくない、下品で、下世話で――みじめな歌に。



   不実で 傲慢な ウィスキー色の瞳

   あの女は もう二度と

   あんたの前に 来やしないのに



 アデイラには兄がいた。次期伯爵に相応しいと誉れの高い、よくできた兄が。

 おかげでなにかと要領の悪い彼女は、生まれたときから「ブルクハルト()の残りかす」だった。

 一度だって満足に、周囲の視線を集めたことなどなかったし、それに癇癪を起こすようになると、次第に周囲から敬遠されるようになっていった。


 唯一の例外は、歌っているとき。

 どれだけ感情を爆発させようが、喚こうが、歌にしてしまえば、周囲は素晴らしいと褒めてくれた。夫だって、それで彼女を見初めてくれたのだ。


 ディートリヒとの結婚が決まったとき、彼女は嬉しかった。

 残りかす同士の結婚よという心ない陰口も聞こえたが、だからこそ自分たちはわかりあえるのだと信じていた。少なくとも夫にとっては、自分は唯一の女性なのだからと。


 しかし蓋を開けてみれば、夫は妻を置いて、どこかへ出かけてばかり。

 自分が豪遊しようが、その辺の男にしなだれかかろうが、にこにこするだけでなにも言ってこない。

 恐らく彼は、自分のことなど、どうも思っていないのだと、それで気付いた。


 エミーリア夫人。

 淑女の鑑と称される彼女に憧れて、最初こそ、アデイラは頑張ったのだ。

 しかし、ことごとく空回りし、失望の溜息を漏らされるばかり。


 そして彼女はやがて気付いた。自分が誰と比べられているのか。


 ――亡くなった、社交界の薔薇・クラウディア。

 永遠に超えることのできない相手と、比べられているのだと。



   ねえ、見て あたしを見て あたしだけを見て

   抱いてよ 強く強く 抱いてほしいの



 みじめだった。


 ようやく「残りかす」から変われたと思ったのに、自分はやっぱり「残りかす」のままだった。

 誰も自分を見てくれはしない。皆の視線は自分をすり抜けて、兄や、居もしない死人に向けられている。



   ねえ、お願い

   なんでもするわ



 だからアデイラは、やけになった。

 思うさま食べて太ったし、派手な色ばかり身にまとったし、きれいなものを集め、感情を隠すこともやめた。なんでもした。


 そうやって自分を慰めていないと、毎日泣き暮らすことになりそうだった。

 それだけは、嫌だった。


「――だから……あたしを、見て……っ」


 アデイラの小さな瞳から、つっと涙がこぼれた。


 でも、もう、無理だ。


 見て、誰とも比べないで、と子どものような癇癪を起こし、あげく無力な少女を酷い方法で傷付けた。

 彼女が向き合ってきた過去に比べ、自分の葛藤のなんとちっぽけなことか。

 にもかかわらず、自分は、そのちっぽけな悩みすらいまだ処理できずにいる。


 歌の途中で、わあっと顔を覆い泣き崩れたアデイラに、屋敷の面々は戸惑った。

 彼女の歌には、最初こそ度肝を抜かれたが、それが偽らざる彼女の弱音だということは、誰の目にも明らかであった。歌の形をした悲鳴に、誰もがはっとし――だからこそ、泣きはじめたアデイラにどう接してよいのか、わからなかったのだ。


 しかし。


「――アデイラ様……!」


 その膠着(こうちゃく)を、少女の可憐な声が破った。

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