《閑話》 レオとブルーノによる読み聞かせ 「ヘンゼルとグレーテル」
ある、寝苦しい夏の夜。
ハンナ孤児院では、耳障りな蚊の音に顔を
「痒ーい!」
「かゆい、かゆい、かゆい!」
「おかしくなっちゃうよー!」
悲鳴を上げるのは、アンネやマルセル、エミーリオといった、お決まりの年少組だ。
まだ幼く肌の弱い彼らは、ヤブ蚊の恰好の餌食となって腕にいくつかの噛み跡を作っていたが、実のところ、そこまで痒いわけではない。
それでも大袈裟に叫んでいるのは、そうすれば今日ようやく読み聞かせ当番が回ってきた彼らの兄貴分・レオが、「仕方ねえなあ」と言って構ってくれるからだった。
「ほんとおまえら、狙われやすいよなぁ。ほら、腕出してみろよ。爪でばってんしてやるから」
高価な塗り薬を、蚊の噛み跡くらいには使えないが、その分手間なら掛けてやれる。レオは一人ひとりの腕を検めると、きゅっきゅっと腫れた箇所に爪痕を付けてやった。
と、そこに、
「おい、今日、これでいいか」
ぬっと絵本片手に現れたのは、もちろんブルーノである。
蚊の存在など欠片も感じさせない涼しげな表情をした彼は、きゃあきゃあと騒いでいる子どもたちを見て軽く眉を上げた。
「蚊くらいで、大袈裟な」
その言葉に、レオはおいおいと唇を尖らせる。彼は絵本を受け取りながら、
「蚊の一匹で伝染病だって広がるんだぜ。そんな言い方すんなよ」
と、今日も表情筋を死に絶えさせた友人を
「ってかおまえ、今年一回も刺されてないよな。やっぱ蚊も人を選ぶんかね?」
「ああ。蚊除けの草の汁、服に絞っている。レオ、お前にもやろう」
そう言ってポンと差し出されたのは、青っぽい草の汁が染み出した、小さな木綿の袋だ。ブルーノは心なしかドヤ顔をしている――無表情なのにドヤ顔とは、一体どういうことなのだろう。
それを見た子ども達は、一斉に非難の声を上げた。
「ブルーノ兄ちゃん、ずりー!」
「私たちにも、ちょうだいよ!」
「りえきどくせん、はんたい!」
一方、放り出された木綿袋をしげしげと眺めていたレオは、くんと臭いを嗅いでから顔を顰めた。
「うえ、俺、これダメだわ。くっせ」
そう言って子ども達に、「おまえらは使えよ」と袋を放り投げる。
臭いと言い放たれた恰好のブルーノは、動きを固めて黙り込んだ。
「臭いんだって。ぷぷ」
「ブルーノ兄ちゃん、くっせ」
子ども達はニヨニヨと笑みを浮かべる。
アンネが「レオ兄ちゃんが使わないなら、私達も使わないわ。臭いのとか、やだし!」とトドメを刺したところで、ようやく読み聞かせが始まった。
「えーと、今日は『ヘンゼルとグレーテル』か。これ読むの、久々だなあ」
「読んで読んでー!」
「レオ兄ちゃん、早くよんでー!」
沈黙するブルーノをよそに、子ども達はご機嫌だ。
レオはうだるような熱気の中、ぺらりとページを捲り、語り出した。
「昔々あるところに、ヘンゼルとグレーテルという仲のよい兄妹がいました」
親を含めた四人の家族は、森で木こりをしながら生計を立てている。しかしある時集落全体を飢饉が襲い、一家はその日の暮らしもままならなくなってしまった。追い詰められた両親は、やがて口減しを考え始める――
冒頭からヘビーな描写に、子ども達は一様に顔を曇らせた。
孤児院にいる彼らは、大なり小なり複雑な背景を抱えている。その多くが親との縁に恵まれなかった子ども達だ。
捨て子、みなしご、親との死別に継子いじめ。童話でありがちな設定は、ほとんどが彼らの地雷である。
しかしそれでも、子ども達はこの読み聞かせの時間を楽しみにしていた。レオの語る物語は、どれも生き生きとした、あるいは刺激的な教訓に溢れたものばかりだったからだ。
そう、子ども達は、レオの話は絵本に書かれている内容と異なるのではないかということを察してもいた。
しかし、いや、だからこそ、彼らはずっとずっと、レオに読み聞かせをしてもらいたいと願うのだ。
兄妹が両親に置き去りにされた所までを読んだレオは、子ども達がいつもより言葉少なであることに気付き、心持ち声を張り上げた。
「森に置き去りにされたと気付いたグレーテルはしくしくと涙を流しましたが、その時、兄のヘンゼルが言いました。『顔をお上げ、僕のかわいい妹よ。この偉大なる兄・ヘンゼルに考えがある』」
台詞もちょっと盛ってみる。このくらいの脚色はご愛嬌だ。
案の定子ども達は「何?何?」と目を輝かせはじめる。レオはうむと頷くと、自分に出せる最もダンディーな声で見得を切った。
「ここに来るまでの間、集めていた白い小石を一つずつ落としてきたんだぜ……。ふ、これを辿れば、俺たちのねぐらに帰れるってわけさ、子猫ちゃん」
もはや途中から口調も一人称もキャラも変わっている。だが、その辺りに柔軟な子ども達は、ヘンゼルの機転に快哉を叫んだ。
「ヘンゼルかっけー!」
「ぼく、ヘンゼルにならだかれてもいい!」
「ヘンゼル、イケメン! レオ兄ちゃんみたい!」
ヘンゼルと一緒に持ち上げられた形のレオは、心持ち鼻の穴を膨らませて続きを読んだ。
「そうして無事に帰ってきた二人に、両親はびっくり。しかし数日後、彼らはほとぼりが冷めた頃を狙って、再度二人を置き去りにしてきました。すっかり油断していたヘンゼルは、手持ちの小石もありません」
そこで仕方なく、持たされた白パンをちぎって目印にしようとするのだが、飢えた小鳥に啄ばまれ、あえなく目印は消滅してしまうのだ。
「…………」
あっけなく幕を閉じたヘンゼル無双時代に、子ども達はアンニュイな笑みを浮かべた。
「うわあ……この、なんか詰めのあまいところまで、レオ兄ちゃんそっくりだね……」
「もう、だいめいも『レオとグレーテル』でいいんじゃないかな」
率直かつ辛口な子ども達に、ハンナ孤児院の兄貴分を自認するレオはうっと言葉を詰まらせた。
「る……るせえ!兄ちゃんがいつも完璧だと思うなよ! 空回りしてもその努力を認めてやれよ!」
兄ちゃんというのは大変なのである。
さて、帰宅という選択肢をあえなく失った兄妹は、しばらく森を歩き彷徨い、やがて甘い匂いにつられてある場所にたどり着く。
「二人が顔を上げた先には、大きな大きなお菓子の家がありました」
いよいよ前半の見せ場だ。
お菓子の家を詳しく描写しようとページをめくったレオは、しかしすっかりその場面の絵が擦り切れていることに気付き「あちゃー」と声を上げた。
おおかた、腹を空かせた孤児院の子ども達が、お菓子の家の絵を舐めまくったのだろう。信じられないことに、彼らは時々本気でそのような無謀を働くのだ。
「おかしのいえ!どんないえ!?」
「どんな家ー!?」
「そうだなあ……」
当然ながら、エミーリオ達は興味津々である。
レオは仕方なく、自らの思う理想のお菓子の家を語ってみることにした。
「えーと、まず、全体的に金を基調としていてだな」
「――黄金色のお菓子、というものからいい加減発想を解放したらどうだ」
と、ようやく衝撃から立ち直ったらしいブルーノがぼそっと呟く。
のっけからダメ出しを食らったレオは、むっと唇を尖らせた。
「んだよ、素敵だろ? キラッキラの黄金御殿。壁も金なら床も金、暖炉に炎を灯せば、金色の粉を吹いて燃え盛るんだぜ!」
「家を語る基本がわかっていないな。物件を提示する時には、間取りと面積、方角、築年数、せめてこの辺りは押さえておくべきだろう」
「ああん? じゃあ、みんなで住める5LDK2階建て、延べ床面積150㎡越えの、南向き築浅物件だよ!これでいいか!」
ちなみに、金運を司る西側の壁は黄色く塗ってある。以上がレオの物件に望む条件である。
「菓子はどこに行った」
「高齢者の増えた今日日の世相を反映して、堅固で快適な石造りの家に改修したんだよ、文句あっか」
なんということでしょう。耐久性とシームレス性に問題のあった菓子の家は、堅固な石造りのバリアフリー物件に。
だが、もはやそれは童話の家ではなかった。
しかしレオ教育のよく行き届いた子ども達は、精霊がごとき慈愛深い笑みを浮かべ、
「レオ兄ちゃんがしあわせなら、ぼくたち、それでいいよ」
「うん。レオ兄ちゃんが言うなら、それがお菓子の家だわ」
「わあ、へやの隅々から、レオ兄ちゃんの思いやりと、金の甘いにおいがするや」
口々に同調してみせたので、ブルーノは一旦引き下がった。
「……子ども達に気を遣わせてどうする」
「ん?」
基本的に都合の悪いことは聞こえないようにできているレオの耳は、幼馴染の呟きを華麗にスルーした。
「さて。ヘンゼルとグレーテルはふらふらと部屋に入り、そこここに漂う甘い香りを堪能していましたが、そこに、
魔女の登場である。
不法侵入を咎められるかと警戒した二人だったが、しかし魔女はそれをせず、兄妹にご馳走を振舞ってもてなしてくれた。それも、連日だ。
グレーテルは魔女によくなつき、手伝うようになったが、兄のヘンゼルは不審に思い、ある日魔女に真意を尋ねてみた。
「すると魔女は、ヘンゼルに聞こえないような小さな声で、『ふん、本当は、おまえらを太らせて食べるためさ。別に施しなどではないわ』と呟きました」
「なんだツンデレか」
「ただのツンデレなまじょか」
現実的なハンナ孤児院の子ども達にとって、そこにどのような目的があろうと、ご馳走を振る舞い飢えを癒してくれた時点で、魔女はいい人決定である。
施さぬ善意の人よりは、施す悪意の人。子ども達にそう叩き込んできたレオもまた、異なる観点から「この魔女、大したヤツだよな」と感心しながらページをめくった。
もし自分が人喰い魔女だったとして、近い将来喰らうためとはいえ、自らの食い扶持を減らしてまで子ども達を食べさせることができるものだろうか。この魔女は、実に優れた計画性と自制心を持った、投機に優れた人物と思われた。
「ガリガリに痩せ細っていたヘンゼル達が次第にふっくらとしてくると、魔女はそれを確かめようとしました。しかし、魔女は目が悪かったので、自分で見て確かめることはできません。そこで、魔女は彼らに腕を差し出させ、それを握りしめて太さを確かめました」
「子どもの手を握る……なんだ、魔女は子どもが好きなのね」
「ただのこどもずきな魔女か」
もはや完全にいい人フィルターの掛かった子ども達には、魔女のどんな行動も微笑ましく映ってならなかった。
だが、この時点で魔女を疑いだしたグレーテルは、咄嗟に鶏ガラを握らせる。
兄妹はまだまだ痩せたままだと思い込んだ魔女は、嘆かわしげに「まったく、なんてことだ!もっと、もっと、お食べ。もっと、もっと、太るんだよ」と告げるのだ。
「魔女ったら、心配症ね」
「まじょ、やさしー!」
子ども達はニヨニヨしている。
しかし、それでいよいよ疑いを深めたグレーテル。
このまま太った暁には魔女に食べられてしまうと確信した彼女は、ある日、
「『ねえ、おばあさん。竃の火ってどう見るのかしら』。そう尋ねたグレーテルに、魔女は呆れたように答えました。『ふん、バカな子だねえ。竃に身を乗り出すだけじゃないか。ほら、こうやってさ』そう言って魔女が竃に体の半分を突っ込んだとき、グレーテルは背後からそっと両手を伸ばし――」
「だめえええええ!」
「はやまるな、グレーテルうううう!」
「そいつは、たんにツンデレなまじょだ!」
すっかり魔女に肩入れしている子ども達は、グレーテルの暴挙に一斉に叫びだした。
「ヘンゼル! ヘンゼルはなにをしてるんだ!」
「早くグレーテルを止めて!」
「むじつの魔女の死をゆるすな!」
その勢いに、レオは気圧される。
残念ながら次のページで、魔女は焼き殺され、兄妹は宝物を手に入れて家に帰るのだ。
「あー……と、物語自体はだなあ」
やむなく、あくまでも童話だからということを強調して続きを読もうとすると、それまで黙っていたブルーノがすっと手を上げ、おもむろに口を開いた。
「――今にも竈に魔女を突き飛ばそうとしていたグレーテルの、その両腕がふと止まった。彼女は思ったのだ。目が悪いとはいえ、その分人一倍気配に聡い魔女。にもかかわらず、なぜ彼女はこうして、自分の暴挙に気付かず背を向けているのだろう、と」
突如として始まったミステリー調の語りに、レオははっと顔を上げた。そして、素早く幼馴染に目で頷く。たったそれだけのやり取りで、二人は完全に意志を疎通し合った。
――魔女を殺してはならない。
レオはもはや絵本から顔を上げ、持てる全ての想像力を注いで言葉を紡いだ。
「その時、竈の中を覗いたまま、魔女がぽつりと言いました。『どうしたんだい、グレーテル。馬鹿な子だねえ。私をちょいと押せば、それで済む話じゃないか。この家だって、おまえたちのものだよ』と。その、何もかもわかっているかのような、しわがれた深い声に、グレーテルははっと息を呑みました」
ごく、と子どもたちも息を呑む。
突如としてヒューマンサスペンスの様相を呈してきた物語に、彼らはすっかりのめり込んでいた。
「『おばあさん……あなた……』。グレーテルは両手を震わせたまま、相変わらずこちらに背を向けた魔女を見つめた。そしてその時、彼女のうなじの辺りにある、十字型の痣の存在に気付いた。それは、ヘンゼルにもグレーテルにもあるのと同じものだった。グレーテルは、かつて兄がこう語っていたのを思い出す。『よくお聞き、グレーテル。これは、我が一族のみに現れる神聖な痣。これがある限り、僕たちは血で結ばれた家族だ』。つまり――そう、この魔女の正体こそは、二人の実の母親だったのだ」
「えええええええ!?」
衝撃の展開に、子どもたちは一斉に声を上げた。
ここに来てトンデモ設定をぶち込んできた幼馴染に、しかしレオはかけらも動揺することなく滑らかに応じる。
「実は、二人を森に捨て置いた親は偽物。本物の母親は、引き裂かれた子どもを探しながら、こうして森の奥の家で一人時を過ごしていたのでした。魔女――いいえ、心労のあまり老婆の姿となった母親は、疲れたように笑って言いました。『何をしているんだい、グレーテル。かつておまえたちを守れなかった、愚かなこの私を、どうかひと思いに殺しておくれ』」
「グレーテルは、持っていたナイフをからんと取り落とし、その場にくず折れた。『できない……! そんなこと、私には、できない……!』」
殺害方法はナイフではなく、竈への突き飛ばしではなかったのか。
だが、もはやそんな冷静なツッコミができる人物などこの場にいなかった。こちらの方がそれっぽいから、それでよいのである。
レオは厳かに続けた。
「その時、どこからか現れたヘンゼルが、そっとグレーテルの肩に手を置きました。『おやめ、グレーテル。もうこれ以上、苦しまなくていいんだ。たしかに僕たちの過去は変えられない。だが、僕たちには真っ白な未来がある。母さんと僕たち、三人で過ごす、最高の未来が』」
「なんかヘンゼルが、いいとこ全部さらってった!」
「こいつ、ただ飯を食らってぶくぶく太った、ただのトドなのに!」
「キャラも定まってないわ!」
ご都合キャラのヘンゼルに、子どもたちは非難の意を示したが、幸いなことに展開そのものには満足のようである。レオは安心して続けた。
「こうして、グレーテルは魔女、もとい母親に謝り、三人は和解して、一緒に暮らすことにしました。心労の取れた母親は若返ってボンキュッボンの美女になり、兄妹もまた、家を奪って相続税を払うよりもずっと安く、この快適な家で暮らすことができるようになりました」
「どうわのせかいにも、そうぞく税ってあるんだねー」
レオの願望が色濃く反映されたクライマックスに、マルセルがぼそっと呟いた。
「砂糖もない、蜂蜜もない。けれど、いつも三人の明るい笑い声が絶えないその家は、傍を通るだけで何か甘いものを食べたような気分になります。人々はやがて、三人の住むその家を『お菓子の家』と呼ぶようになりました」
レオはぱたんと絵本を閉じ、とうとう物語を締めくくった。
「森の奥の、小さな家。お菓子の代わりに、ぎっしりと甘く楽しい思い出を詰め込んだその家には、今日も太陽の光が降り注ぎ、小鳥たちの陽気な
「完」
子どもたちは、しばらく余韻に浸るように目を閉じると、やがてその場に立ち上がり、顔を紅潮させて惜しみない拍手を贈った。
「ブラボー! ブラボー!」
「じょじょうてきなラストといい、かんぺきだね!」
「よかったわね、魔女!」
子どもたちは暫くの間、やんややんやと大盛り上がりしていた。
と、
「――……レオ?」
珍しく黙り込んでいる友人を見て、ブルーノが眉を寄せる。
「どうしたんだ?」
「ん? ……やー」
ぼんやりと絵本の表紙を撫でていたレオは、ぽつんと答えた。
「十字型の痣とかってのは、俺には無い発想だったなー、と思ってさ」
「…………」
「いやほら、もしそういうのがあったらさ、やっぱ俺も、いつか母親に会えるって期待してたんかなー、とかさ。なんか……羨ましい、っつーわけでもないけど、なんだろ」
レオは、臍の緒がついたまま孤児院の門の前で見つかった子だ。
――通常であれば、せめて名付けと洗礼くらいまでは済ませてから孤児院に預けるものなのに。
レオ、だなんて、あだ名のようなありふれた名前しか持たないのは、孤児院の中でも彼くらいのものだった。
「はは、わり、何言ってんだろな。痣なんてあっても無くても、生涯年収に違いはねえのに」
「レオ兄ちゃん……」
夏の熱気の中に、ふと静かな空気が広がりかける。
だが、それをかき混ぜるように、さっとエミーリオが立ち上がり、何を思ったか急にレオの腕に爪を立てはじめた。
「……てっ! なにすんだよ、エミーリオ!」
痛みに顔を顰めたレオに、エミーリオはずいっと、自らの腕を差し出した。
「レオ兄ちゃん、おそろいだよ!」
その小さく細い腕の、蚊の噛み跡の上には、爪で付けられた十字型のへこみがあった。
――そして、レオの腕にも。
エミーリオの意を汲んだアンネもマルセルも、次々と腕を差し出した。
「そうよ、おそろいよ! おそろいの、十字の跡よ!」
「ぼくたち、かぞくだね!――ブルーノ兄ちゃんはのぞいてだけど!」
にこにこしながら、「ね!」と声を揃える子どもたちに、レオは胸の奥が熱くなるのを感じた。
「おまえら……」
なんだか、とてもいい場面である。
しかし、そういう局面になるといつも美味しいところをかっさらっていくのが、ブルーノという男であった。
彼はじっと自らの腕を見つめると、思い付いたように口を開いた。
「――レオ。エランドには、簡単に刺青を入れる方法が、ある。おまえが望むなら、揃いで入れるか?」
「え?」
レオは目を瞬かせた。
やはり年頃の男としては、海賊王を目指したり、仲間同士で揃いの刺青を入れたりというのは、なかなかそそるものがあるのだ――金ほどではないにせよ。
「まじ? 簡単にできんのか?」
「ああ。今晩中にでも、無料でできるぞ」
一番よく効くワードをちらつかされ、レオの関心がぐらりとそちらに傾いていく。
――このままでは、今夜もレオ兄ちゃんを奪われてしまう。
そう悟った子どもたちは、そこから驚異の連携巻き返しプレーを見せた。
エミーリオがアンネに素早く目配せし、小さく頷いたアンネは即座にマルセルの尻を叩き、マルセルはがばっとレオに抱きついたのである。
「レオ兄ちゃん!!」
「ぐ」
押し倒すような勢いで抱きつかれ、レオはくぐもった悲鳴を上げる。だがそこに畳みかけるように、三人は攻勢を掛けた。
「ぼくたち、さびしい!」
「レオ兄ちゃんがしょんぼりしてるのを見て、私たちも寂しくなっちゃった!」
「一緒にいてくれなきゃ、やだよう!」
秘技・どこまでもストレートな泣き落としである。
はっきり言って子どもたちにとっては、顔も覚えていない母親のことよりも、今晩、大好きなレオ兄ちゃんが傍にいてくれることの方がよほど重要だった。
なので、三人は実の母親を盛大に踏み台にし、さめざめとレオに縋った。
「ぼく……ぼく、ママのこと思いだしちゃった」
「わたしのママ、レオ兄ちゃんと同じ、鳶色の髪に鳶色のひとみだったの!」
「僕のママも! 僕たち、レオ兄ちゃんがいっしょじゃなきゃ、きょうは眠れないよう!」
甘やかされるよりも甘えられる方にずっと弱い、兄ちゃん気質のレオにとって、これは何よりも有効な攻撃である。案の定レオは、
「おまえら……」
ころりと騙されると、何やら真剣な顔をしてブルーノに向き直った。
「わり、ブルーノ。それはまた今度にしてくれ。今夜は俺、こいつらと一緒にこのまま寝るわ」
「なんだと……?」
ブルーノは呆然とし、子どもたちは内心でガッツポーズを決めた。
こうして、この夜、珍しく年少組はブルーノに完全勝利を収めたのである。
***
「ありがとう! みんな、ありがとう!」
レオが枕を取りに行っている間に、三人の間では簡単な祝賀会が執り行われていた。
エミーリオがまるで群衆に向けるかのように、方々に手を掲げて礼を述べる。
彼はやがて「うむ」と頷くと、勝利演説を始めた。
「今回は、レオ兄ちゃんの『頼るよりも頼られたい』という性格をついた、我々の完全なる勝利である!」
「イエーイ!」
「ヒューヒュー!」
アンネもマルセルも喝采を送る。
ただし、就寝時間ということと、あんまり騒ぎすぎてはブルーノに睨まれるということを考慮し、それは小声であった。
「この勝利は、大人にとっては小さな一勝だが、我々年少組にとっては偉大なる一勝である! 我々はー、これからも! 年下という利点を最大活用しー、更なる勝利をもぎ取ることを! ここに、誓う!」
エミーリオはノリノリだ。
彼は最後にびしっとマルセルを指差し、「本日の敢闘賞は、マルセル! 君に捧げる!」と叫ぶと、マルセルはエアーでグラスを掲げるふりをし、ぷはっと何かを飲み下したような声を上げた。
「ちょーきもちー!」
と、そこに、枕を抱えたレオが「何やってんだ、おまえら」と呆れ顔で戻ってくる。
三人は満面の笑みでそれを出迎えた。
「ねーねー、レオ兄ちゃん、えほんよんでー!」
「『どっちの銅貨ショー』してー!」
「『守銭奴検定』でもいいわよ!」
つい先程まで、「ママ……」と目を潤ませていたとは思えないはしゃぎっぷりである。
しかし、子どもたちが笑顔でいるに越したことはないと思っているレオは、それをさして怪訝に思うでもなく、「あー? おまえらが起きてられればな」と答え、ちゃきちゃきと寝る準備を進めた。
子どもたちは知っている。
どんなに口では気乗りしない素振りをみせていたとしても、レオ兄ちゃんは最後まで付き合ってくれるということを。
うだるような、夏の夜。
子どもたちのフィーバーナイトは、まだ始まったばかりであった。