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《後日談》 レオ、モデルになる(4)

(ち……っきしょー!!)


 レオは人気のない回廊を、全速力で走っていた。

 金貨を奪われた怒りで、全身はノルアドレナリンでこれ満ち、顔は真っ赤になって目も充血している。


 今の自分はさながら、ブルーノが以前教えてくれた「ナマハゲ」とかいう怪物もかくやの迫力であろうとレオは頭の片隅で考えたが、傍目には顔を赤らめ目を潤ませて走り去る純真な少女にしか見えなかった。


(やっぱりあのクソ皇子、なんか口実を作って俺を捕まえるつもりだったんじゃねえか!)


 そう、もちろんレオは先程のやりとりをそう解釈していた。


 彼は一度金貨を渡し、それを息のかかった画家に取り上げさせることで、レオに彼を攻撃させようとしたのだろう。

 レオからしてみれば、カー様を奪った悪者はゲープハルトの方だが、「金貨を受取ったことは誰にも言わないように」と言い含められていたので、カー様はもともと自分のものであると主張したところで、誰も信じてくれない――そういう筋書きに違いないのだ。


(なんたる陰険! なんたる陰湿!)


 やはりアルベルトは、自分とカー様を引き裂こうとしている悪の皇子、(ワル)ベルトで決まりだとレオは思った。


(だが、そうはさせるかってんだ!)


 皇子の真の狙いが分かった以上、おめおめとこの学院に留まりつづけて捕まるわけにはいかない。

 魔力の回復など待たずに、今度こそ脱出するのだ――カー様と共に。


 おいしかったタダ飯、かぐわしかったタダ茶、面白かったタダ授業やふかふかだったタダ羽毛布団、そして実入りのよかった内職に歯ぎしりする思いで別れを告げながら、レオは自室に駆け戻った。


 ――バン!


 勢いよく扉を開けると、まずは三重に施錠し、ついでにクローゼットをバリケード代わりに扉の前へと引きずっていく。


 学院復帰にあたって、孫娘の安全確保を侯爵夫妻が強く訴えたことにより、レオの部屋は他の部屋に比べて遥かに強固なセキュリティが敷かれていた。


 ――そのせいで、学院に駆けつけてきてくれたレーナやブルーノが、何度もレオの奪取に失敗していることを、本人は知る由もなかった。


「バリケード、よし! 次、銅貨コレクション、確認!」


 取るべき行動に見落としが無いようにするために、レオは自らに掛け声をかけ、きびきびと部屋を動き回る。


 脱走はもちろんするが、これまで貯めてきたへそくりを置いては行けない。枕の下に入れてあったサシェを素早く取り出し、昨晩数えた額が収まっていることを神がかり的な速さで確認すると、レオは「よし」とそれを袖口に押し込んだ。


 幸い、高額なものはこまめにハンナ孤児院に送りつけているため、部屋の中に金目の物はほとんどない。

 断捨離上手な自分にこっそりと拍手を送りつつ、そのままレオは窓際へと向かった。


 正攻法で扉から出たのでは、きっと悪ベルトに捕まるに決まっている。

 ならば、窓から脱出して、裏庭を突っ切って馬車寄せに向かえばよいのだ。


(そして……学院から出てくるゲープハルトをそこで迎え撃つ!)


 学院には基本的に馬車でしか来られない。つまり、そこで待っていれば、必ずゲープハルトはやってくるということだった。


 レオの寮の部屋は2階にあったが、このくらいの高さならなんとかなるだろう。

 いざ!と心の中で鬨の声を上げ、窓枠に足を掛けた瞬間、


「レオノーラ!」


 叫びとともに扉を素早くノックする音がして、レオはびくりと肩を震わせた。


 その拍子に、先程袖に押し込んだ小銅貨が跳ね、床に落ちてしまう。

 大切なへそくりを床にぶちまけるなんて、レオ的基準では目を覆いたくなる大惨事かつ超緊急事態だ。


「アライダ……!バルバラ……!」


 名前まで付けて日々愛おしんでいる小銅貨たちを、置いていけるようなレオではない。


 焦燥の色を含んだ視線をちらちらと扉に投げかけながら、急いで小銅貨を掻き集める。

 が、焦ったのが災いして、拾っている傍から次々と小銅貨たちが袖の外へと滑り出て行ってしまった。


(うわああああああ!)


 出発前に限って暴れ出す子どもたちを抱えた母親のような叫びを上げ、レオはてんぱった。


 と、厚い扉の向こうで皇子とカイが必死に話し掛けているのが聞こえてくる。


「レオノーラ……!ここを開けてくれないか。君にどうか詫びさせてくれ……!」

「レオノーラ様!お願いでございます!扉を開けてください!」


 どうやら皇子は、一度下手に出てこちらの懐に入り込む作戦らしい。

 カイには一言くらい別れを告げたかったが、自らの安全確保を優先したレオは、仕方なくそれを諦めた。


「レオノーラ……!すまなかった。事情も聞かず――いや、事情を把握しようとすらせず、一方的に君を責めるような真似をして……!」

「アルベルト様はけしてレオノーラ様を叱ったわけではございません!」


 捕まえられそうになった記憶はあるが、叱られた覚えはないので、レオは「はて」と一瞬首を傾げそうになったが、そんなことより小銅貨だと思い直し、せっせと床をさらった。


 一方、ドアに張り付いた二人は必死の表情である。


 強い自責の念に駆られているからというのはもちろん、これまでの彼女の行いを考慮すると、傷心の少女が何をしでかすか分からなかったからだった。


 悪意すら微笑んで受取っていた彼女。

 簡単に髪を、そして命をも差し出してしまう彼女。

 身を挺して庇うほど慕っている相手から声を荒げられたら、彼女は怒るどころか、自分を責めて自傷行為に走るのではないかと、そう思ったのである。


「レオノーラ!僕が全て悪かった!」

「レオノーラ様……!アルベルト様はレオノーラ様を大切に思っていらっしゃいます。信じてください!」


 ようやく小銅貨を拾い終わった。

 頓珍漢な熱弁を聞き流しながら、レオが今度こそ窓枠に足を掛けた、まさにその時、


「この輝く金貨が、その証ではありませんか……!」


 カイの必死の叫び――もとい、「金貨」の単語が、鼓膜の一番敏感な部分を震わせた。


「え……?」


 カイは今、「この金貨」と言った。

 まるで現在進行形で、彼が持っているかのように。


 思わず動きを止め、じっと扉を凝視しはじめたレオの姿が見えているかのように、カイが重要なワードを放った。


「この金貨を、いつも大切にされているではございませんか。それに、これにはレオノーラ様の母様の魂もきっと籠っております。どうかこの金貨をよくご覧くださいませ。どうか、どうか、早まった真似は――!」


 この金貨。ここ。よくご覧ください。


(カイが……金貨を持ってる……?)


 ゲープハルトに、奪われたのではなく――?


 アルベルト皇子ならともかく、カイに自分を騙す理由はないし、彼の性格上そんなはずもない。

 そのカイが金貨を持っているというのなら、本当に持っているのだろう。


(お……皇子の罠とか……?)


 もしや、弟分のカイまで買収されてしまったなんてことはないだろうか。


 レオは悩んだ。

 悩んだが、結局、


「本当、に……?」


 クローゼットを再度引きずり、三重の錠を解除し、扉を開けることにした。


 虎穴に入らずんば虎児を得ず。

 仮に罠だとしても、扉を開けないことには、金貨は手に入らないのだ。


「レオノーラ……!」

「レオノーラ様!」


 おずおずと少女が籠城を解いた瞬間、二人は安堵のため息を漏らす。

 が、扉近くまで移動されたクローゼットや、――何より、大きく開け放たれた窓を見て、さっと顔を強張らせた。


 もしや彼女は、このまま窓から身を投げるつもりだったのではないか――。


 不吉な考えが一瞬で二人の脳裏に過る。

 カイは金貨を握り締めたままぎゅっと少女の腕を掴み、皇子は彼女の前に跪いた。


「レオノーラ様……なんてことを……」

「僕のせいだ。レオノーラ、本当に悪かった」


 絞るような謝罪を、少女もすぐに受け止められるものでもないのだろう。 彼女は皇子と目を合わせず、じっと従者の手元を見つめ、静かに溜息をついていた。


「カー様……」


 ぽつりと呟いた後、少女は大事そうに金貨を取り上げ、ぎゅっと胸元に抱き寄せる。


 亡き母の面影に縋る彼女を見て、アルベルトは後悔に身を裂かれそうになった。


 先程少女は、「やはり、皇子は敵」と呟いていた。

 一度は仇敵の従弟であるアルベルトを赦す素振りは見せていたものの、だが、心の奥底ではやはり受け入れられないところもあったのだろう。当然のことだ。

 しかし、彼女はまだ金貨を持っていてくれている。

 龍徴を突き返されなかったことに僅かな勇気を得て、アルベルトは言葉を絞り出した。


「君が母君を誰より大切にしていることを知っておきながら、ゲープハルトの正体にも気付かず、君を責めるような真似をして、本当にすまなかった。君の彼への怒りは正当だ。それと知らず、彼を君と引き合わせてしまったこと、詫びのしようもない――」


 なぜか跪いて許しを請いだした皇子を見て、レオは訝しむような表情を浮かべた。


 どうやらゲープハルトが奪ったと思っていた金貨は、しっかりカイが持っていてくれたらしい。となれば、恥ずかしい限りだが、今回についてはレオの勘違いなのだろう。


 皇子は別に、レオから金貨を取りあげようだとか、捕縛しようだとかするつもりではなかったのだ。


(っていうかなんだ? ゲープハルトの正体って)


 母君云々の文脈が読めない上に、ねこばば画家・ゲープハルトの正体とかいうのがまた更に分からない。


 眉を寄せるレオの感情をどう読み取ったのか、皇子が自嘲気味に懺悔した。


「恥ずかしい限りだ。君はすぐに彼がアウグスト皇子だと見抜いてみせたのに、僕は彼が告白してくるまで、それに気付きもしなかった」

「……っ、……!」


(はああああ!? アウグスト皇子いいいいいいい!?)


 レオは絶叫し――かけて失敗し、びくりと肩を揺らした。


 皇子というからにはアレだ。偉い人だ。というか、先程会話でちらっと出てきた気もするが、フローラの禍に堕ちた皇子がそんな名前だったと思う――以降ヴァイツ帝国でアウグストを名乗る男子は居なくなったためだ――。


(え? なんで? なんで皇子が画家なの? いつの間にそんなことになってんの? ってか、え、皇子ってあんな感じの外見なのか!?)


 事態が飲み込めなすぎて、どこから突っ込んでいいのか分からない。

 というか、もしそれが真実だと言うなら。


(俺、思いっきり胸倉掴んで罵ったんですけどー!!!)


 しかも強盗、犯罪者呼ばわりだ。


 元とはいえ皇族相手に、暴行に名誉棄損。強盗が加わっていない分、対アルベルトよりまだましだが、それでもどんな罰が待っているかわからない。

 レオはその場でがくりと膝をつきそうになった。


(う……嘘だろ? なんかの冗談だよな? いや、カイも何も言わないし、これってほんと? ……な、なんでだよおおお……)


 なぜ自分はこうも死刑台に向かって突進するような真似をしでかすのか。

というか、なぜ皇族どもは揃いも揃って、平民を装って自分の前に現れるのか。いっそ名札でも付けておけばいいのに。


 青褪めて立ちつくすレオに、アルベルトが思わしげに告げた。


「気分が優れるような状況ではないと思う。今日のところは彼にも引き取ってもらって――」

「アルベルト様。そして、レオノーラ」


 だがその時、三人の背後から声が掛かった。

 ナターリアである。


 いや、彼女はその脇に、もう一人人物を伴っていた。


「お願いでございます。ゲープハルト氏――いえ、アウグストお兄様にも、詫びる機会をくださいませ」

「な……っ、……!?」


 レオは、金髪碧眼になったゲープハルトを見て「なんか顔だいぶ変わってねえ!?」と叫びかけ、案の定魔術に喉を焼かれた。


 なるほど。

 アルベルトと明らかに血縁を感じさせる彼は、どうやら本当にアウグスト元皇子だったらしい。


「ナターリア、それは……」


 動揺を隠せない少女を見て、アルベルトも眉を寄せた。

 彼女を責め立てた自分の謝罪だって受け入れがたいだろうに、そこに、母親を奪った張本人が詫びを寄こしても、感情の整理が付けられないというものだろう。


 だが、アウグストは制止する間もなく、床に跪き、深く首を垂れた。


「レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ様。このような謝罪で済むものとはもちろん思っておりませんが――誠に、申し訳ございませんでした」


 その声は低く、そして、ごく僅かに震えていた。

 それこそ魂の底から絞り出すような謝罪に、誰もが言葉を失ってしまう。


 レオもまた、盛大にパニックを引き起こしながら、男二人に跪かれている状況を見つめた。


(えーと、えーっと、なんだこれ、どうして俺が謝られてんだ。なんでこの人俺に低姿勢のままなんだ)


 大の大人に頭を下げられるような人生は送ってきた覚えがないし、むしろ謝るべきはこちらの方である。レオはあわわと視線を彷徨わせたが、アウグストの、


「あなたのおっしゃる通り、私が、クラウディアを……あなたの母君を奪いました」


 という絶妙なフォローで、ようやく事態を把握した。


(そ……そっか! この体(レーナ)の母親がフローラの禍で死んだことになってんだもんな。つまり、今の俺は被害者の子どもってことか)


 その間にも、アウグストの悲痛な謝罪は続いている。


「母君を陥れた私に、あなたが怒りを覚えるのはもっともなことです。卑怯にも、私は最初正体を黙ってすらいました。今さらどの顔をして、とお思いでしょう」


 金髪皇子な顔で謝ることにしたんですね、とは返しづらい雰囲気だ。


 というか、アウグストはやたらレーナの母(クラウディア)を殺した奪ったと悔いているが、実際の彼女は今日もパン屋でぶいぶいだ。しかも、貴族社会からの追放も、レーナの説明によれば本人の意志っぽい感じであったのを知っている。


(むしろ……。レーナみたいなやつの母親なら、それこそ、追放の機会を利用してちゃっかり下町で夢のパン屋を開いた、とか、そんな感じじゃねえのか……?)


 レオは困惑した表情のまま、そんなことを考えた。


 だとすれば、フローラの禍の真の被害者とは、自己実現を果たしたクラウディアではなく、思春期に恋しただけで無一文になってしまったアウグストの方である。似たような処分を受けたと言う宰相の息子や騎士団長の息子たちもしかりだ。

 きっと貯金やへそくりも多かったろうに、その全てを取りあげられてしまったら、レオなら生きる希望を無くしてしまうだろう。


 なんとなく実体が掴めてきた、フローラの禍・被害者の会。

 会の代表A氏はどこまでも沈痛な面持ちだった。


(いやいや。でも、レーナの母親を、一方的な裁判で学院から追い出したのは事実なんだろうし、この人も一応悪くはあるんだよな?)


 ちょっと気になってきたレオは、


「あなたは十三年前……何を、したのですか?」


 具体的な陳述を聞くべく質問してみた。

 するとアウグストは、深い後悔を浮かべながら、クラウディアの靴を奪い、裸足で学院からの通りを歩かせたことを告げた。


「……裸足で?」

「……はい」

「十七歳の、女性に?」

「……そのとおりです」


 自責の念で顔を歪ませるアウグストをよそに、レオは思わず「はあ?」と脱力しそうになった。


(なんだよ、そんなことくらいで?)


 下町でも最奥地になると、道の舗装が済んでいないため、あえて裸足で過ごしている人も未だ多い。

 それにクラウディアもクラウディアだ。当時彼女は確か十七歳。十七歳と言えば、ハンナ孤児院では最年長の部類だ。それが、ひとりでお家にも帰れずにどうするのだ。


(焼けた鉄の靴を履いて踊らされたとかじゃあるまいし、靴が無くて足が痛けりゃ、服を裂いてぐるぐるに巻けばよかったんじゃねえか)


 下町育ちのレオの発想はどこまでも逞しかった。


 レオは確信した。

 アウグスト元皇子、この人はなんか可哀想な人だと。


 呆れ半分、同情半分でレオが遠い目をしている内に、アウグストの懺悔はクライマックスを迎えつつあった。


「私の命で、それも今さら、罪が(あがな)えるとは思いません。ですが、もしあなた様が望むなら、この、命を……」

「――……いえ」


 さすがにレオも、無駄に罪の意識を背負ってきた男性から命を奪う趣味はない。


「あなたも……、とても、悩んできたのですね」


 むしろ、どちらかといえば、他人の自己実現に巻き込まれた者同士、彼と愚痴り合いたいくらいだ。


 しかし、贖罪すら拒否されたと思ったらしいアウグストは、一層深く首を垂れた。


「ですが、もはや私に残されているのは、この龍徴を除いては、命くらいしか――」


 そうして自嘲気味に彼が持ち上げたモノに、レオの目はくぎ付けになった。


「……!」


 レオの肩が揺れる。


(ぬほおおおおお!?)


 それはまさしく、レオの夢が具現化したような、柄が金でできた筆だった。


(こ、この照り輝き!この手にフィットしそうな滑らかなフォルム!カー様と同じ色なのに、また異なるこの趣深さはどうだ!!)


 金貨と同じ色。

 自らのその発想で、レオははっと青褪めた。


 ――なるほど、自分は先程、これを見て金貨を盗られたと思い込んだのかと。


(くそ、俺の自惚れ野郎!カー様を絶対に見分けられるなんて思っときながら、同じ色ってだけで勘違いしやがって!)


 レオは、うかうかと他の金とカー様を見間違えた自分を殴ってやりたかった。


 だが、この場合問題はそれだけではない。

 つまり、自分は、まったく無実のアウグストに詰め寄り罵ったことになるのだ。


 思い込みだけで人に殴りかかろうとしていた事実に、レオはがくがくと震えだした。

 いったい彼にどう謝罪すればよいものか。

 いや、元ロイヤルな彼は謝罪をさせてくれるだろうか。死刑だろうか。


(やべえよー!やべえよー!どうすりゃいいんだよー!)


 強張った顔で冷や汗を掻くレオだったが、アウグストは、特にレオを責める気はないらしい。

 それどころか、レオが無意識に握りしめていた金貨に視線をやり、切なげにこう告げさえした。


「あなた様は既に龍徴すらお持ちの様子。ひとりの人間が二つ持つには、龍の血は重すぎる。私には、詫びの印にこの龍徴を差し上げることすらできません」

「え……」


 その台詞に、レオの中の小さな守銭奴が、むくりと顔を上げた。


(アウグスト元皇子、もしや、さっきのこと怒ってない? むしろ、金の筆くれようとしちゃうくらい、フローラの禍のこと気に病んでるわけか……?)


 ごく、と喉が鳴る。


 レオは悩んだ。


 金の筆――というか軸部分だけでいいのだが――は、欲しい。ぜひとも欲しい。

 だが別に、彼の罪なんて大したことないし、そもそも彼から危害を加えられたのはレオではないため、慰謝料をぶんどる資格は無い。というか、詫びるべきなのはレオの方だ。


 ――でも、欲しい。


「なら……」


 かなり長い熟考の末、レオは恐る恐る口を開いた。


 ダブルで「龍徴」を持つことが出来ないというのなら。


「筆を取って、くれませんか……?」


 筆部分を取って、軸の部分――つまり、龍徴(絵筆)としてではなく純粋な金の塊として、自分にくれないかと思ったのである。


「――……!」


 一方、先程から固唾を飲んで二人の遣り取りを見守っていたアルベルトやナターリアは、少女のその言葉に大きく目を見開いた。


 アウグストの苦悩に満ちた告白を聞き、最初こそ強張った顔をしていたものの、途中から憐れむような表情を浮かべ。

 苦悩を分かち合う言葉を口にし、あまつ、償いを申し出た彼に熟考の末、告げたのは、「これからも筆を執ってくれ」という一言。


(なんという……)


 その崇高な寛容の心に、その場にいた誰もが、雷に打たれたかのような衝撃を受けた。


「い、今、なんと……」


 アウグストも、信じられないものを見たような顔をしている。

 しかし少女は、震えすらしている彼の手をそっと包み込み、もう一度同じ言葉を繰り返した。


「筆を取って、下さい」


 全てを赦し、気高い微笑みを浮かべる少女は、まるで光の精霊のようだった。

 水を打ったような静けさが辺りを満たす。


 やがて、


「あ……ああ……」


 夢にすら描いたことのなかった奇跡に、アウグストが両手で顔を覆う。


「あああ……!」


 一筋零れ落ちた涙は、あっという間に勢いを増し、とうとう彼はその場に崩れ落ちた。

 泣きむせぶアウグストの背を、ナターリアが優しく撫でる。


 なんという慈愛の言葉、奇跡の光景。

 運命の祝福すら感じさせるその瞬間、誰もが目を伏せ、少女と精霊の名を唱え祈った。


 そしてまたアルベルトは、改めて少女の寛容さに感じ入り、なんとしても彼女からの信頼を取り戻すよう、自らの振舞いを一層戒めることを胸に誓った。




 だから。


(命は差し出せても、金は泣くほど嫌かよ!)


 そりゃ気持ちはわからんでもないけどさ、と肩を落としたレオの姿に、誰も気付くことはなかった――




***




 ゲープハルト・アンハイサーは、大陸中の美術史に名を残す偉大な画家である。


 謎の多い彼の人生のうち、二十歳くらいまでをどのように過ごしてきたかは明らかになっていないが、生活苦の中描き上げた「ある農夫の祈り」という作品を皮切りに、彼は一躍画壇で時の人となる。


 その後も、「トマミュラー夫人の肖像」「フォーグラー博士の研究」など、観察眼に優れた風刺的な作品を次々と発表し、「忠告するクリングベイル夫妻」では、後に起こる帝国学院での革命未遂事件をも暗示した。


 しかし、彼の名声を決定的なものにしたのは、あるひとりの少女の肖像画――「金貨を捧げ持つレオノーラ」である。


 帝国学院内のギャラリーに至宝として収められたその絵は、ヴァイツ式美術文化の啓蒙に努めたベルンシュタイン商会によって、多くの複写が作られ、やがて大陸中の美術館や教育施設の美術室に飾られることとなった。


 「微笑」ともあだ名されるその絵の中で、少女は手の中の金貨に向かって微笑んでいる。


 不思議なことにその表情は、年頃の娘には、愛しい人を想ったはにかみに見え、生活に苦しむ者が見れば、憐れみを感じさせる悲しげな微笑に見えた。


 そして、欲望に囚われた心悪しき者には、あたかも金貨強奪を企むコソ泥のような笑みに見えるということで、人々はその絵画を前に、いつも襟を正したという――。

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