《後日談》 レオ、モデルになる(3)
唖然とするアルベルトとナターリアに向かって、ゲープハルト――いや、アウグストは静かに笑みを浮かべた。
「驚かせてしまって、申し訳ございません」
その言葉で、皇子がはっと我に返る。
冷静さを取り戻した彼の行動は素早く、即座に周囲を見回して人払いがされていることを確認すると、唯一の部外者であるカイに視線をやり、これらのやり取りは他言無用であることを合図した。
勘のよい従者はすぐに頷いてみせたが、彼はむしろ主人のことが気がかりそうだ。ドレスをぎゅっと抱きしめたまま、今にも扉に向かいたそうにしている。
それを見たアウグストが、手短に告げた。
「アルベルト皇子殿下。私が言うのも差し出がましいようですが、今は私の正体について事情を聞き出している場合ではないかと」
「ですが――」
「私の正体を――クラウディアを死に追いやった犯人であると見抜き、にもかかわらずあなた様から責められて涙していた少女を、誰かが探しに行かなくてはなりますまい」
冷静な指摘に、アルベルトはさっと顔を強張らせた。
その通りだ。
少女の先程の悲痛な叫びの意味をようやく理解した皇子は、彼女に対して自らが取った行動を思い返し、自分のことを殴ってやりたくなるような衝動を覚えた。
「私には追いかける資格すらございません。どうぞ、あなた様が」
アウグストがそのように添えると、皇子は申し訳なさそうにひとつ頷き、
「レオノーラ……!」
少女を追い掛けに、カイを伴って部屋を飛び出て行った。
足音が遠のき、再び沈黙が立ちはだかる。
やがて、強張った面持ちで、ナターリアが切り出した。
「アウグスト、お兄様……」
「今の私には、そのように呼んでもらえる資格などありませんよ。――立派なレディに成長しましたね、リア」
アウグストは寂しげに微笑むと、かつて年下の従妹に呼び掛けていた愛称をそっと口にした。
ナターリアとアルベルトは従姉弟であるが、アウグストとナターリアもまた、従兄妹なのである。
ナターリアの母はアルベルトの父の姉であると同時に、アウグストの父の妹であり、彼女は年の離れた兄である前皇帝と仲良く付き合っていた。
ナターリアとアウグストもまた十三歳離れているため、付き合いもあまり深くはなかったが、それでもナターリアには、物心がついてからアウグストに学院を案内してもらったのを覚えている。
穏やかで、理知的な年上のお兄さんという印象だけがあったため、彼がフローラの禍に堕ちた時には、「まさか」と思ったものだった。
なんと言葉を掛けたものかと悩むナターリアに、アウグストが深く頭を下げた。
「――先程は、この場所から早く出て行きたかったあまりに、他人を装っていたとはいえ辛辣な態度を取って申し訳ありませんでした」
「そんな……。それは、アウグストお兄様には当然の……いえ、あの……。どうぞ、私に敬語など使わないでくださいませ」
ナターリアは戸惑う。しかし、アウグストは「いいえ」と静かに首を振るだけだった。
「私は今や、一介の画家に過ぎません。ここが身分を問わない学院の中で、かつあなたが学生という身分だからこそ、私はこうして跪くことも無くお話しできているのです。先程の失礼な呼び掛けも、どうぞご容赦を」
「アウグストお兄様!」
「今はゲープハルトです」
彼は穏やかに、しかし主張を曲げることなく繰り返した。
その柔らかな物腰に、ナターリアはかつての従兄の面影を思い出す。
そう、彼は、かつての帝国第一皇子。文武に優れ、禍が起きるまではその将来を期待されていた青年だったのだ。
「未だに……皇子としてのお兄様を偲ぶ声も、宮廷にはあると聞きます。そのお兄様が、なぜ画家などに……」
「ナターリア様。お気遣いはありがたいですが、思い違いをされてはなりません」
「え……?」
ゆっくりと、子どもを諭すように言われ、ナターリアは目を瞬かせた。
「そのような意見の持ち主というのは、どのような方なのでしょう。彼らはこう言ったのではありませんか? 後に皇帝となる者が、臣下の娘を一人追い払ったくらいで、継承権すら剥奪されるのはおかしいと」
ナターリアは記憶を探って、頷いた。
ある一側面だけ見れば、アウグストは、野望を持った女に騙されて貴族の子女、それも皇女でも公爵令嬢でもなく、武勲で成りあがった侯爵令嬢を学院から追い出したにすぎない。
そのたった一度の過ちで皇位を剥奪され、それこそ身一つで宮廷を追い出されたことを嘆く声も多かったのだ。
「気付きませんか、ナターリア様。彼らは私自身のことを案じたのではなく、そこに張り付いて甘い汁を吸おうとしていた第一皇子が、そのような末路を辿ったことを嘆いているのです。そして、彼らはまた傲慢でもある」
「傲慢……」
「そう。か弱い女性が、無実の罪で詰られ、温かな部屋を追い出され、純潔を散らしたことが、どれほど恐ろしかったことでしょう。そして彼女はまた命すら散らしてしまった。彼女を襲ったという夜盗は私ではありませんが、そうなるきっかけを作ったのは、一方的に彼女を裁いた私たちです。私が、彼女を殺した」
アウグストは握った拳に僅かに力を込めた。
「無実の弱き女性を陥れる男は罰されるべき。それは、その男が皇帝の長男であっても、たとえ農夫のもとに生まれた六男であっても、等しく守られるべき法なのです」
「それはもちろんですわ。ただ、お兄様がクラウディア様に下された罰とは、本当はそんなに重いものではなかったのでしょう?」
「――……いいえ。一般の貴族令嬢には充分ひどい仕打ちだったでしょう。私は、フローラの靴に針を仕込まれたという妄言を信じて、クラウディアに裸足で家まで帰るように命じたのですから」
そう、「身一つで学院を追い出された」というのは誇張で、アウグストはクラウディアを退学に処した際、その靴だけを奪ったのであった。弱者が身に受けた痛みを、その肌で知ってもらうために。
そうでもしなければ、当時フローラに煽動されていた学生たちが、退学だけでは納得せず、彼女を襲いかねないという事情もあった。
ただ、アウグストとしては温情を施したつもりが、不幸にも彼女は道の途中で襲われてしまったのである。
「首都の治安を信じていた私の責任です。まさか、彼女が夜のうちに出発するとは思わなかったし、あのような場所に夜盗が現れるとも思いもしなかった……。ひとり夜道を歩いていた彼女は、どれほど辛い思いをしていたことか……」
実際には、クラウディアは盗んだ馬車で走り出す十七の夜をそれなりに満喫していたのだが、真実を知る者は残念なことに――または幸いなことに、この場にはいなかった。
「引き替え、身一つなどと言いながら、龍徴も持たされたまま宮廷を出て、数年放浪生活を送ったくらいで、このように画家の端くれとして身を立てることのできた私は、幸運なものです」
「お兄様……」
悔恨を滲ませて告げるアウグストに、ナターリアはそっと眉を寄せた。
従妹の悲しげな表情を見て、アウグストは空気を変えるように手を振った。
「フローラの本性を見抜けなかったことを、私も反省しましてね。それからは観察の魔力をひたすら鍛え続けたのですよ。風刺画もその一環です。真実を見通すと名高いハーケンベルグの瞳には遠く及びませんが、どうでしょう、なかなかだと思いませんか?」
微笑みに虚勢の色は無く、ただ敬虔に贖罪の祈りを捧げ続ける導師のような、澄んだ感情が映り込んでいるだけだった。
ナターリアは、彼本人を差し置いて自分が悲しみの表情を浮かべることはできないと感じ、「そうですね」と静かに頷いた。
「ハーケンベルグと言えば……レオノーラを初めて見た時には魂が抜けるかと思いました。彼女は、幼いころのクラウディアに瓜二つだ」
「そうですの?」
「ええ……。ですが、幼いせいか、クラウディアのような――なんと言いましょうか、妖艶さのようなものはありませんね。どちらかといえば、色を感じさせない少年のようです」
ナターリアは「まあ」と目を瞬かせた。
「そうですか? それなら……それは、彼女が、恋も知らない、穢れなき乙女だからかもしれませんわね」
密かにロマンス小説を愛読する彼女の言葉選びからは、時々耽美なかほりが漂うのが特徴だ。
ただ、アウグストは僅かに首を傾げると、
「どうでしょう」
と呟いた。
「え?」
「彼女からは、時折――何と言うのか、強い情念のようなものを感じました。それが何かまではわからないのですが……」
答えは飽くなき金への妄執である。
しかしそれとは別に、ナターリアにはぴんと閃くものがあった。
「――わたくしにはわかりましたわ、お兄様。彼女……レオノーラは、きっと、恋をしはじめているのです」
「恋? ああ……言われてみれば確かに、そういった凄まじく強い感情のような気もします」
アウグストは納得したように頷くと、改めてナターリアに向き合った。
「であれば、先程の皇子とのやりとりは、一層彼女には堪えたことでしょう。私も、許されるとは思いませんが、彼女に一言であっても詫びることができればよいのですが……」
ナターリアは少女のことを思い、咄嗟に返答に悩んだ。
母を詰り、追い詰め、直接手を下したわけでないとはいえ、命を奪うきっかけを作った相手だ。自らが傷つけられても無頓着なのに、「母様」のこととなると目の色を変える彼女であるからこそ、アウグストを許してくれるかと問われれば自信はなかった。
それでも、と。
ナターリアは、ゆっくりと頷いた。
「彼女なら許してくれる、とは申しません。そう申すのは傲慢だと、今のわたくしにはわかりますもの。ですが、恐らく、アウグストお兄様の謝罪を聞き届けることは、彼女ならしてくれるのではないかと思うのです」
「…………」
アウグストはしばらく、何も言わなかった。
しかしぽつりと、
「……そんなことが起こるのなら、それは奇跡だ」
独白のように呟いた。
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