《後日談》 レオ、モデルになる(2)
レオは、紹介された画家の名前を照合するのに、しばしの時間を要した。
(ゲープハルト? ゲープハルト。ゲープハルトって……誰だっけ?)
しかしやがて思いだす。
そうだ、以前ナターリアにタダで鑑賞させてもらった絵の作者である。
「初めまして」
なんとなく、「その節はどうも」という気分になってレオは挨拶したが、相手は答えない。
彼は、
「…………」
何事かを小さく唱え、その場で呆然としていた。
先程まで必死になって彼のご機嫌取りをしていたナターリアは、ぽかんとした顔で立ち尽くすゲープハルトを見て、納得の面持ちで頷く。
レオノーラ・フォン・ハーケンベルグは、見慣れた自分たちとて時折魂が取られそうな心持ちのする、美貌の少女だ。
そんな彼女を、しかも飾り立てた姿で初めて見ようものなら、精霊の名を唱えて祝福せずにはいられないのだろう。
「お待たせしました。こちらが、今回肖像画の依頼をしているレオノーラ。ポーズ等は自由に指定していただいて構いませんので、彼女の魅力が存分に伝わるよう、全力を尽くしてください」
アルベルトが告げると、ゲープハルトは我に返ったように目を見開き、「は……はい」と小さく頷いた。
だが、なかなか動こうとしない。
先程までは険しい顔で、話が違う、学生など描くつもりはないと言い放っていたというのに、少女に見とれて言葉も紡げなくなっている画家に、ナターリアはやれやれと肩を竦めた。
「アンハイサー様。先だってのお約束の通り、彼女がキャンバスの前に立てるのは今日だけですわ。どうぞ、筆をお取りになってくださいな」
「は……はい」
相変わらず心許ない返事を寄こす彼を、無理やり少女の傍に近付けていく。
上から下までじっくりと美貌の少女を眺めると、ゲープハルトはようやく、元の調子を取り戻しはじめたようだった。
「……初めまして、レオノーラ嬢。画家のゲープハルトと申します。あなた様の魅力を存分に引き出し、不世出の作品ができあがりますよう力を尽くしてまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
「……はあ」
レオは曖昧に頷いた。
自分の読みが正しいならば、あまり正確に描かれても困るのだ。
(――いや、待てよ)
かなり正確に描かれたとなれば、それもそれで裏をかく材料になる。今度脱走する時には、その肖像画と異なる印象に変装すればよいのだ。
というか、この期に及んで今さらこの場から逃げられる気もしない。
(ピンチはチャンスに、って言うしな。ええい、ままよ!)
座右の銘となりつつあるハンナの教えを胸で唱え、レオはむんと口を引き結んでキャンバスの前に立った。
「――お待ちください」
だが、キャンバス越しに眼光を飛ばしていたゲープハルトは、困ったように眉尻を下げた。
「それはあなたの、本来の姿ではありませんね」
「え」
本来の姿というか、本来の体でないところのレオは、ぱっと顔を上げた。
ゲープハルトは目を眇め、じっとこちらを見ている。
その長身が、よくよく見ると淡い光に覆われていることに気付き、レオは再度はっとした。
(……なんかこの光、見覚えがあるぞ……!?)
そう、それは、以前歓迎会で挨拶をした時に、アルベルトの周囲を覆っていた燐光だ。
なぜ光るのかは分からなかったが、光る皇子はヤバい奴だったから、光る画家もヤバい奴なのかもしれない。
歌い出したらどうしよう、と思って息を殺して見守っていると、彼は思いもよらぬことを口にした。
「――脱いでいただきましょう」
「なんだって?」
これには、レオよりも早く、周囲で見守っていた皇子たちが反応した。
「私が持つのは、虚飾を暴く観察の魔力。その魔力が、この装いは彼女に相応しくないと告げています。レオノーラ嬢には――そうですね、ガウンもごてごてとした宝石も必要ない、もっとシンプルな装いがよいでしょう」
「あなたも魔力持ちだったのか。道理で……」
アルベルトが納得気な表情を浮かべて頷いたのは、もちろん彼にもゲープハルトを覆う、変装の魔術の光が見えていたからだった。
なぜ画家が、魔力を使ってまで変装する必要があるかは分からなかったが、散々有力者相手に風刺画を撒き散らしてきた経緯があるのだろう。
「確かにその方が、『無欲の聖女』には相応しいかもしれませんわね」
ナターリアも納得して頷くと、本人の意志はそっちのけで、レオはガウンや宝飾品の類を脱ぎ去ることになってしまった。
画家の指示で、裾を膨らませたパニエも取り去ってしまうと、いまだ体の膨らみの少ない少女は、精霊のように性別を感じさせない存在に見える。
ゲープハルトはしばし首を傾げていたが、
「まあ、……これくらいなら、よいでしょう」
最終的に何か妥協したらしく、ひとつ頷いた。
納得していないのはレオの方である。
状況が飲み込めないまま、あれよあれよと服を剥かれ――たのは中身が男だからまあよしとしても、首から下げていた金貨まで取り去られてしまってはかなわない。
金貨の重みを感じられない首元は、まるで紐を縛っていない財布のように心許なかった。
かといって、ゲープハルトの前で「
レオの知る画家なんて大抵がその日暮らしだ。金貨と聞いたらふと魔が差して、何かの拍子にねこばばを試みるかもしれないだろう。
紐のついた金貨は、今のところ主人に付き添いやってきたカイが保管してくれている。
(カイ!頼んだぞ! 無くすんじゃねえぞ!)
強い意志を込めて懇願の視線を飛ばすと、従者はなぜか頬を染めて俯いただけだった。
それから、数時間。
レオは画家の指示のまま、立ったり座ったりはにかんだりを繰り返していた。
無料で絵を描いてもらうのは結構だが、こうも長時間カー様と離れていると、もはや禁断症状が出そうだ。
特に、先程からよほど出来栄えが気になるのか、服を抱えたままのカイがちょこちょこと身を乗り出してキャンバスを覗き込むので、その拍子にカー様が零れ落ちはしないかと、レオはひやひやし通しだった。
(特に、さっき一回転んでたしなー。あの時、間違っても落としてないよな?)
足元が不如意になった従者は、あろうことか絵筆入れに乗っかるような形で盛大に転んでしまったのである。レオは咄嗟に
「大丈……、っ!」
金貨は大丈夫かよ、と駆け寄りかけて、久々に魔術に喉をやられていた。
画家の命である筆に乗っかられた形のゲープハルトは、慌てて筆入れを取り上げていたが、すっかり疑心暗鬼に陥っているレオにとっては、その動きすら怪しい。
もしや、いつぞやのレオのように、「何かの拍子にうっかり落ちてしまった」金貨を「拾い上げて渡すつもりだったけれども何かしらの事情のせいで叶わず、やむなく自分が持っておくことに」決めたりはしていないかと、気が気ではない。
もはやポージングすら気もそぞろで、鷹の目モードで絵筆入れ辺りを中心に睨みつけていたレオは、
(……ん? んんんんんんんっ!?)
筆入れの布のごく僅かな隙間から、見慣れた金色が輝くのを認めて、かっと目を見開いた。
「カー様……っ!?」
突如として立ち上がり、勢いよく画家の胸倉を掴み上げた少女を、アルベルトたちはぎょっとして見た。
「レ、レオノーラ?」
「て……っ! よくも、カー様を……!」
突然叫び出した少女は、滑らかな頬を真っ赤に紅潮させて、相手を締め上げようとしている。
ゲープハルトも驚愕の態だ。
「え……!? な……っ」
「なんて、ことを! 返……、……っ! 返して!!」
だが、少女は叫びながら、ただゲープハルトを揺さぶっている。
放っておけばそのまま馬乗りになりそうな彼女を見兼ねて、慌てて皇子が割って入った。
「レオノーラ? 一体どうしたと言うんだ。客人に対する態度ではないな」
「この人は、カー様、奪いました! 犯罪者!」
勢いよく振り返った少女が、鬼気迫る表情で叫ぶ。
アルベルトは困惑の表情を浮かべ、ひとまず少女をゲープハルトから引き剥がしに掛かったが、彼女は激しく暴れはじめた。
「返して!」
「こら……っ、レオノーラ! 暴れるんじゃない!」
これまで見たことのない少女の錯乱ぶりは、アルベルトたちを大いに困惑させた。
彼らから見れば、少女が画家を凝視しはじめたかと思ったら、いきなり不当な言いがかりのもと、罵っているようにしか見えなかったのだ。
だが、レオからすればもちろん事態は異なった。
彼は確かに見たのだ、くたびれた筆入れの布の隙間から、毎日愛でている、あのとろりとした金色が輝くのを。
(俺が金の色味を見間違えるもんか! あのぴっかぴかの黄金色は、間違いなく俺のカー様だ!)
怒りで頭が真っ白になったレオは、制止も聞かずに暴れまくる。
痺れを切らした皇子は、「レオノーラ!」と叫び、その腕を掴んで拘束した。
「痛……っ!」
だが、力の加減を間違ったらしい。
強い男の腕力で腕を掴まれた少女は、小さく叫んでその場に尻餅をついた。
「す、すまない」
慌てて皇子が手を差し伸べると、少女はきっと鋭く皇子を睨み上げる。
今まで少女のそのような怒りに満ちた視線を浴びたことのなかった皇子は、困惑して眉を寄せた。
「一体どうしたというんだ、レオノーラ。落ち着いて、訳を話してくれ」
「訳、話している場合……! その犯罪者、逃げる前に、捕まえないと……!」
独白のように呟くと、すぐさま立ちあがって再びゲープハルトに襲いかかろうとする。
すっかり困惑した皇子は、仕方なく再度彼女の両の二の腕を掴み、
「レオノーラ!」
と叫んだ。
鋭い一喝に、少女の肩がびくりと揺れる。
恐る恐る顔を上げた、その中の瞳には、怯えの色があった。
「やはり……?」
「え?」
紫の瞳を潤ませて、少女が唇を震わせる。
「あの人、悪いのに、私を、捕まえますか……?」
僅かに紫水晶の瞳が潤むのを見て、アルベルトは胸をかきむしりたくなる程の罪悪感を覚えた。
「先程から、一体何を言っているんだ、レオノーラ。落ち着いて、まず事情を……」
「分かりませんか? それとも、皇子は、あちらの味方?」
何を思ったのか、少女は暗い声で、
「皇子は、やはり、敵……」
と呟いた。
「レオノーラ?」
原因不明の焦燥感に駆られたアルベルトが、再三少女の名前を呼ぶ。
しかし彼女は、
「離して!」
思いもかけない強い力でアルベルトの腕を振り払い、その場を走り去ってしまった。
「レオノーラ!」
皇子は眉を寄せたまま立ち尽くす。
だがそこに、「皇子」と呼び掛ける声があった。
すっかり胸元のシャツを乱したゲープハルトである。
「ああ……。このたびは誠に申し訳ございません。我が学院の生徒が――」
事情も分からなかったが、ひとまず詫びの言葉を告げようとすると、
「いいえ」
当の本人がそれを遮った。
「悪いのは私の方なのです」
「え?」
申し訳なさそうに瞳を曇らせる画家に、皇子は思わず聞き返す。
ゲープハルトはしばし視線を彷徨わせていたが、やがて何かを決意したかのように、おもむろに床に転がっていた筆入れを取り上げた。
「……できれば黙っておこうと思いましたが」
どうか、ご内密に――
小さな呟きとともに取り出されたのは、一介の画家が持つには不相応な、黄金の軸を持つ絵筆であった。
「金の筆……?」
ナターリアが不思議そうに首を傾げる。
だが、次の瞬間、彼女ははっと目を見開いた。
「その漂う魔力……まさか!」
「はい」
ゲープハルトは、髭に覆われた顔を静かに伏せた。
「これは私の、龍徴です」
「な……っ!」
同じく金の龍徴を持つアルベルトが、珍しく言葉を失う。
二人の若き皇族に見つめられたゲープハルトは、いかつい顔に自嘲めいた笑みを浮かべ、そっとヴァイツ語を唱えた。
「――変装の、解除を」
眩い光が走り、現れたのは、金の髪にアイスブルーの瞳が眩しい男性。
アルベルトとの明らかな血縁を感じさせる彼こそは――
「私は、彼女の母の
十三年前の生徒会長にして元 第一皇子、アウグスト・フォン・ヴァイツゼッカーであった。
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