18.レオ、着飾る
「さあ、できました。素晴らしくお似合いですよ」
一時間以上に及ぶ身支度を終え、カイがようやく解放宣言を唱えたので、レオは早くも倒れ込みそうになる体を叱咤し、鏡を覗き込んだ。
鏡台に映るのは、世にも美しい精霊のような少女だ。
艶やかに
ドレスは、潤んだ紫の瞳が映える、光沢のある藤色で、ところどころサファイアと金糸の刺繍で装飾が施されている。白く細い首を飾るのは、ドレスを邪魔しない繊細な意匠のレース飾りだ。
しかし、一目で一級品とわかる宝飾品をも押しのけて、圧倒的に人の目を引くのは、それらをまとった少女本人だった。
零れそうなほど大きな瞳に、長い睫毛。普段からしっとりときめ細やかな肌は、ほんのわずか紅が差されるだけで、少女とは思えぬ艶をまとった。
魔術発表会の場で、誰より注目を集めるであろう主人の姿に、カイは仕事も忘れてうっとりと見入る。
奇跡のように美しい少女が、自分の仕える相手だということが誇らしかった。
「本当に、お美しいです、レオノーラ様。学院でも……いえ、帝国内でも名を轟かすお三方から宝飾品を贈られるなんて、それだけでも類を見ない名誉ですが、その宝飾品が霞むくらいのお見事な着こなしで」
そう、髪飾りはビアンカ、首飾りはナターリア、そしてドレスはアルベルトから贈られたものだった。
国内外の貴族に存在をアピールできる魔術発表会。
その装いをプロデュースするということは、その人物を後見しているという証明にもなり、かなり重要な意味のある行為である。にもかかわらず、
「……恐ろしい」
彼らの厚意は、レオにとっては脅威、または迷惑でしかなかった。
そもそもレオは、外から人が多く出入りするこの魔術発表会の機を利用して、学院から脱走しようとしていたのだ。
当然発表会などブッチしようと思っていたため、ビアンカが嬉々として「レオノーラ、当日はわたくしの傍にいなさい」と指示――もとい誘ってきたとき、「出ません」と断っていたのだが、それがどうしてこのようなことになったのか。
レオが導き出した答えは当然一つ。
アルベルトの指示で、発表会に出席せざるをえない環境を作り出し、脱走を妨げるために違いない。
現に、皇族御用達の金文字が入った衣装箱を見て、カイは有頂天になり、以降今日まで衣装合わせだ化粧のリハーサルだとレオを一日たりとも自由にしてくれなかった。
しかも。
金香る一級の宝飾品に埋もれた自身の姿を見て、レオは遠い目になった。
転売しようにも、ご丁寧に全て名前か家紋の刺繍入りで、売った途端に足が付くものばかりだ。金にならない高級品ほどレオを苛立たせる存在はない。
至上の存在、しかも三人から宝飾品を貢がれながら、それに舞い上がるでもなく「恐れ多い」と表情を険しくする主人を見て、カイは改めてその無欲さに感じ入った。
(レオノーラ様が永くクラウディア様の喪に服し、華美なドレスを贈られても全て孤児院に寄付してしまっているのは周知の事実。それでもお三方とも、なんとかこの日くらいは華やかな装いをと思われたのだろう。けれど、それに驕ることなく、ご自身を律されるレオノーラ様の佇まいはどうだろう)
一方で、年頃の少女らしからぬその無欲さが、少々寂しいとも思う。
実は、魔術発表会に出席しないと公言した少女に対し、誰よりも心を痛めていたのはカイだったのである。
学生たちが魔力を披露する様子を視察する、という名目で、各国の王侯貴族が一堂に会するこの発表会は、実質的には帝国を挙げての見合いの場のようなものだ。
事実、多くの生徒たちは魔術の研究などそっちのけで、発表会の後の懇親会に向け、ドレスの選択やらダンスの練習に余念がない。
そんな中にあって、誰もが羨む美貌を持ちながら、カイの主人が欠席を宣言したのは、自身の難しい境遇に配慮したからに違いなかった。
レオノーラ・フォン・ハーケンベルグは、下町の出。禍に堕ちた悲劇の令嬢の娘。
もはや学院の誰もそのように蔑む者はいないというのに、本人だけがそれを気に病み、周囲に迷惑を掛けまいと常に身を慎んでいる。
あるいは、生徒たちが徐々に自身に熱狂しつつあるのを感じ取っているからこそ、かつてその熱狂の末に命を落とした母を偲び、思い悩んでいるのかもしれない。
(ご自身に厳しすぎるレオノーラ様だからこそ、多少強引にでも連れ出してくれる人物がいて、本当によかった)
カイはこっそりと笑みを漏らす。
主人の少女が「出席しない」と宣言した時には、本人の与り知らぬところで大騒動が起こったのである。
まずはビアンカがショックを受け、珍しく同性のナターリアに泣きついた。彼女は、「出席しないのはふさわしい装いが出来ないからだろう」と考え、従姉と共謀してドレスを贈ることにしたのだ。
同時に、学院きっての美少女が発表会に出席しないかもしれないと知った男子生徒たちは、一様にモチベーションを低下。このままでは発表会の開催――即ち自らの晴れ舞台の確保すら危ぶまれると踏んだ令嬢たちは、こぞってビアンカ達の動きを支援した。
ところがここで、愛らしいシフォンのドレスを着せたがるビアンカと、本人の意思を尊重し、落ち着いたサバランを着せたがるナターリアの間で、諍いが勃発。
一時的にタッグを組んだだけであった二人は見る間に歩調を崩し、発表会の三日前には学院全体に緊張状態が走るほどになってしまった。
睨み合いを続ける二人の隙を突く形で、鮮やかにゴールを決めてみせたのが――誰あろう、アルベルト皇子である。
彼は微笑みを浮かべて少女の部屋を訪れると、恐縮に青褪める彼女を言いくるめ、藤色のドレスを手に取らせることに成功したのである。
紫が基調とはいえ、装飾は金糸に青い宝石。
それが意味するところは明らかであった。
「ふふ……。薄墨のサバランを脱ぎ捨て、美しいドレスをまとって舞踏会に。レオノーラ様のことを、『灰かぶり姫』のようだと言う者も、学院には多いようですよ」
髪のごく微細なニュアンスを仕上げながら、カイが満足げに呟いた。
「灰かぶり姫?」
「はい。ヴァイツ帝国に古くから伝わる童話ですが……レオノーラ様はご存じありませんでしたか?」
「いえ、知っています」
レオは眉を寄せた。
孤児院に寄贈された絵本で読んだことがあるので、辛うじて大まかな筋は知っている。
確か、暖炉の灰の中からでも金目の物を見つけ出すことのできる凄腕の女スリが、仲間の導師の力を借りて舞踏会に侵入。かぼちゃを馬車に、鼠を御者に仕立て上げるイカサマ錬金術を皇子相手に
ぼろぼろに破れた絵本を、レオ的な解釈で繋ぎ合わせて読んでいたので、もはや「灰かぶり姫」というよりは「業つくばり姫」といった内容になっていた。
もちろん正規の物語は、皇子に見染められて女性のスターダムを駆け上がるサクセスストーリーなのだが、レオはそんなことを知る由もない。
「お……皇子につかまっ……」
恐るべき未来の暗示を見た気がして、レオは盛大に青褪めた。
表情を強張らせた主人に気付き、カイが苦笑する。
「皇子に見染められることを、喜ぶより恐れ多いと思われるレオノーラ様の謙虚さは美徳ですが、あまりに無欲に過ぎますよ。最近ではレオノーラ様を『無欲の聖女』と呼ぶ者もいるそうですが――もしかしたら、そちらの方がレオノーラ様には合っているのかもしれませんね」
無欲、の単語に戸惑ったような顔をした主人に、カイは「自覚もあられないのだ」と嘆息してしまう。
不遇の環境を恨まず、嫌がらせをも笑って受け止め。自分に向けられるどのような悪意にも感謝してしまう。
天与の美貌と聡明な頭脳を持ちながらも、それに驕ることなく身を慎み、捧げられる贈り物は全て寄付し、果てには女性の命である髪まで、庶民に同情して譲り――これほど懐が深く、また欲のない人物を、カイは他に知らなかった。
最後まで丁寧に整えていた髪を、ちらりと見遣る。
二週間前ばっさりと切られてしまった黒髪は、潤沢な魔力のお陰ですぐに長さを取り戻し、今では肩甲骨を軽く覆う程度にまでなっていた。
それでも元の長さには及ばないので、最近ではアップスタイルにして編み込み、変化に気付かれないようにしている。
ただ幸か不幸か、細いうなじを晒した主人の姿は、幼くありながらもどこか艶めいていて、これまで以上に男子生徒の視線をくぎ付けにしてしまっていた。
「さあ、レオノーラ様、お時間です。僕はなるべくお傍で控えておりますが、不埒な者が不用意に近付かないとも限りませんので。どうぞお気をつけて、お早めにお戻りください」
最後に念押しすると、幼い主人は、
「単に魔術の発表会、なぜ不埒な者……?」
いまいち理解できないというように首を傾げている。
自身の魅力に疎い彼女は、この魔術発表会やその後開かれる舞踏会を、額面通り、授業の一つや懇親会としか受け取っていないのだろう。
ここは一つ丁寧にご説明差し上げるべきかとカイが身を乗り出した時、ふと少女が真剣な面持ちになり、名を呼び掛けてきた。
「カイ」
「はい」
真実を見通すというハーケンベルグの紫瞳に見つめられ、思わず上擦った声を出してしまう。カイは己の未熟さを恥じた。
「カイ。私は、あなたを、弟のように思います」
「え!」
突然の告白に、カイは大きく飛び上がってしまった。
敬愛する主人からそのように目を掛けてもらっていたなど、これに勝る栄誉はない。
弟、という点が少々引っ掛かりはしたが、それを上回る喜びがカイの全身を浸した。
しかし、
「あなたと離れる、もしもですが、もしもそうなったら、とても辛いです。カイも辛いでしょう。泣くかもしれません。怒るかもしれません。ですが、そうなったら、私のことを、忘れてください」
つかえながら、懸命に言葉を紡ぐ主人を、カイは「レオノーラ様……?」と戸惑って見遣った。
なぜそのような不吉なことを言うのか、理由がさっぱりわからない。
「大丈夫。悪いことの後、必ずいいことがあります。だから、悪いことは、早く忘れてしまうのがよいのです。わかりましたか?」
レオとしては、本日をもって行方をくらます気満々であるので、ちょっとばかり罪悪感を抱いているカイ相手に、「俺がいなくなっても落ち込むなよ、っていうか犬に噛まれたとでも思ってさっさと忘れてくれよな!」と言葉を掛けたつもりであった。
だが、傍から聞いたら、それはさながら、戦地に赴く前の兵士が諭すような内容でしかない。
強い不安に駆られたカイは、
「レオノーラ様、一体何を――」
何か決意を固めているようである主人に問い質そうとしたが、間の悪いことに、ちょうどその時扉を叩く音があった。
「支度は済んだかな、レオノーラ?」
ドレスの贈り主にして帝国第一皇子、アルベルトである。
式典の主催者ということだけあって、普段はシンプルな装いを心がけているのであろう彼も今日ばかりは盛装し、華やかな美貌が一層際立っていた。
白を基調としたチュニックに、所どころ金をあしらったサーコートを羽織り、輝く金髪やアイスブルーの瞳と相俟って、まさに物語の中の王子様といった出で立ちである。
カイは嫉妬を覚えることすら忘れ、惚れ惚れとするような皇子の男ぶりに、思わず息を飲んだ。
主人の方を見てみれば、色事にとんと疎い彼女もさすがに皇子の魅力に当てられたようで、食い入るように立ち姿を眺めている。
ただ、やはり目を合わせることには恥じらいがあるのか、少し視線を下げ、アルベルトの胸元辺りを見つめているのが微笑ましかった。
「――なんて美しい」
アルベルトの方も、着飾った主人の美しさに驚いたらしい。理知的な青い瞳に、素直な称賛の光を浮かべている。
カイは、精霊のように美しい二人が見つめ合う様を、密かに興奮して見守った。
「ドレスもよく似合っているね。白い肌に繊細な紫が映えて、とても神秘的だ。今日一日君をエスコートする栄誉を得た僕は、きっと帝国一の幸せ者だろう」
「……お、おおお恐れ多いことで、ござ、ございます」
慣れぬ言い回しをしたせいか、盛大にどもる様子すら愛らしい。
憧れの皇子を前に、すっかり緊張してしまった主人を見て、カイはいったん事態の追及を諦めることにした。
(ありがたくも栄誉なことに、今日は一日皇子殿下がレオノーラ様をエスコートしてくださる。レオノーラ様が先程何を考えていらっしゃったかわからないけれど、皇子殿下がお傍にいらっしゃる以上、滅多なことは起こらないだろう)
そう、男性が式典の前にドレスを贈るということは、即ち当日のパートナーに名乗りを上げたということに他ならない。
カイの主人はかくも幼くありながら、発表会の観覧とその後の舞踏会で帝国第一皇子のエスコートを得るという、史上類を見ない快挙を成し遂げているのである。
主人の魅力に改めて感じ入っているカイの前では、アルベルトが少女に向かってすっと手を差し伸べていた。
「さあ、それでは行こうか。今日はハーケンベルグ侯や奥方も出席されると聞いている。君の晴れ姿を見て、お二人ともさぞ喜ばれるだろう」
「は……はひ」
手を取るレオの心境はといえば、もはやドナドナされる牛のそれだ。
最後の最後まで「逃がさんぞ」とアピールしてくる皇子に、もう心がぽっきり折れそうである。
(くっそー、皇子に見張られると脱走が難しくなんのに……)
脱走決行日という名の発表会を指折り数えていたレオなだけに、直前になってのアルベルトからのエスコート志願は、もちろん脅威以外の何物でもなかった。
なんとか拒もうとしたにもかかわらず、直接部屋までやってきた皇子に見事に言いくるめられ、気付けばこのような状況になっていたのである。
(いや、大丈夫だ。落ち着け、俺)
レオは、もう何度となく胸中で唱えてきた呪文を繰り返した。
なぜか必要以上に親身になってくれたオスカーが、学院からの脱走ルートを教えてくれたから――なぜ彼は、ああも発表会当日の脱走にこだわっているのだろう――大丈夫。
そして皇子のタイムスケジュールにやたら詳しいオスカーが、皇子の関心が他に逸れるタイミングを教えてくれたから――というかなぜ彼は皇子のスケジュールを把握しているのだろう――大丈夫。
後は、脱走する時にレオが欲をかいて、余計な行動を取らなければ、スムーズにこの学院から抜け出し、リヒエルトに戻れるはずだ。
余計な行動。
(例えば、これ見よがしにぶら下がっている金貨を、頂戴したいなー、とか)
レオはちらりと皇子の胸元に再び視線をやりかけ、慌ててぷるぷると首を振った。
普段は服の下に潜めている金貨を、今日の皇子はなぜか勲章のようにしてサーコートの胸元に飾っている。
いや、もちろん装飾性にも優れた金貨だけに、まったく違和感はないし、むしろセンスがいいとも思うのだが――
(目に毒なんすけどっ)
なにぶん、レオには刺激が強すぎた。
以前レオが強奪したのとはまた異なる金貨のようだが――なにせ一点の曇りもなくピカピカに輝いている――、それが、絶妙な塩梅で胸元にぶら下がっているのである。
(なんなんだよ、その縫い止めるでも埋め込むでもない絶妙なぶら下げ具合! 触れなば落ちん感じが、一番金の亡者ゴコロをくすぐるんだよ! 触れなば落ちん、触れなば落ちん……いや、ほんと、ちょっと触ったら落ちちゃったりして)
レオ的に、縫いとめられている金貨を奪うのはアウトだが、「何かの拍子に」「うっかり落ちてしまった」金貨を「拾い上げて渡すつもりだったけれども何かしらの事情のせいで叶わず、やむなく自分が持っておくことにする」のはアリである。
全然オッケーである。
むしろ、そうなれと心底願っている。
だが、欲を掻いて金貨に触れた結果、それを証拠として皇子に捕まってしまっては、どどめ色の牢獄生活が待っているだけである。
(罠か? 罠なのか? 罠なんだな? その手には乗らねえぞ? ……乗らねえったら!)
罠でもいい、ちょっとだけ見たい触れたい抱きしめたいと思うのは、人間の性であろうか。泣けてきそうだ。
結局レオは、脱走を優先する生存本能と、それを凌駕しようとする金銭欲との間で、発表会場までの道中悶え苦しむことになるのだった。