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16.レオ、髪を譲る(中)

 至近距離で向き合う形となったレオに、オスカーがさっと顔を強張らせた。

 興奮の余韻が残っているのか、目の縁が赤い。


「レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ。……聞いていたのか?」

「え、あ、は、その……はい」


 咄嗟にごまかそうとして、しかしどうあっても切り抜けられる自信がなく、レオは視線を逸らしながら頷いた。

 オスカーが薄い唇をくっと持ち上げた。


「……は。いい趣味だな」

「その……! すみません、誰にも、言いませんから……!」


 普段ならすかさず、弱みをネタにタダ飯の一つも強請れないかと頭を巡らせるレオだったが、瞬時になされた計算がその案を棄却した。


 オスカーはなんといってもベルンシュタイン商会の跡取り息子。

 できれば心証を良くしてお近づきになっておきたい人物だし、野生の獣めいた迫力を持つ彼が怒ると、か弱い少女の体でしかないレオなどサクッと殺られてしまいそうだ。

 それに、同じ男として、ハゲネタが非常にセンシティブな問題であることは理解できたからである。


(ど……どうしよう。慰めた方がいいのか? そういうのは髪が後退してるっていうじゃない、先輩が前進してるってことなんです! とかそんな感じで)


 レオは悩んだが、それよりも早くオスカーが口を開いた。


「……ふん。いいさ、どうせロルフや仲間内は知ってることだ」

「え……っ!?」


 オスカーハゲ問題は、どうやら共有済み事項であったらしい。

 レオはそれでも小揺るぎもしない友情にたじろいだ。自分なんて、先程からオスカーの頭部が気になって仕方ないというのに。


(み……見た感じでは全然ふさふさだよな。どこだ? どこに予兆があるんだ? M字型に来てるとか? それとも全体に薄くなってきてるのか? まさか、ヅ……)


 不吉な単語を思い浮かべかけた瞬間、まるでそれを読み取ったかのようにオスカーが呟いた。


「俺たちが苦しむのを見て、楽しいか」

「え!?」


 レオは目を白黒させた。咄嗟に「そんなつもりは毛頭ございません」と答えかけて、慌てて言葉を選び直す。

 過敏になっている人に対しては、髪周りの単語は極力避けた方がいいだろう。人間、キレると何をするかわからないのだから。


「そんな……そんなこと、ありません」

「どうだか」


 レオの努力の甲斐もなく、オスカーは短く切り捨てる。しかし何を思ったか、彼はじっくりとレオを見下ろしてきた。


「――なあ、おまえ。レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ」


 上背のある彼がそうやって立つと、かなりの迫力だ。ぐっと顔を寄せられて、アルベルトとはまた異なる、男らしく整った容貌に、レオの胸が早鐘を打った。――主に、殺られるのではないかという恐怖で。


 無意識に後ずさった分は、オスカーの大きな歩幅ですぐに埋められた。

 とん、と踵が張り出した壁に当たる。

 もう後がなかった。


「俺は、おまえのことを気に入らないでもなかったんだ。この前のことを、謝ろうと思うくらいにはな」

「え……」


 この前ってなんですか、食堂でのことですか。気に入るってほんとですか、でもどうして過去形なんですか。

 聞きたいことは山のようにあったが、とん、と頭上の壁にもたれかけられた肘の迫力に、それは敵わなかった。


「だが、所詮おまえも上位貴族――今や、な。この美しい髪一筋すら、傷つけることは許さないんだろう?」


 すっ、と髪を一束掬われて、レオはのけぞりそうになった。


(俺の髪が狙われてるうううう!?)


「か、かかか、髪が、欲しい、ですか!?」

「当たり前だ。おまえとて、その価値を知らないわけはないだろう?」

「で、で、ですが、先輩、も、結構な量を、お持ちと……!」


 オスカーは苦々しげに吐き捨てた。


「はっ! おまえらに敵うものか。微々たる量を、教会に高い金を払って増幅してもらい、ようやく延命に充てている状態さ」


 レオは思わず遠い目をしそうになった。


 オスカーの髪の残量は、もはや風前の灯状態なのか。全く気取らせないヅラってすごい。

 そしてハーラルトは金を受け取って薄毛治療をしているのか。意外にあくどい。


「か、か、髪くらいなら差し上げますが」

「嘘をつけ。おまえらはいつもそうだ。これ見よがしに、俺たちの欲しい物をぶら下げながら、手を伸ばすとそれを打ち払う。上位貴族の、それも女の、髪をそうそう傷付けられるわけないだろう?」


 レーナが言っていたところの、「髪は命そのもの」というアレだろうか。


 しかし、レオはまったく毛量に頓着する性質ではないので――なにせ、魔力の影響でこの髪はすぐに伸びてくると知っている――、ちょうど鬱陶しく思っていたところだし、そこまで欲しがられているなら、髪などばっさり提供して構わなかった。


「わかりました」

「は。今度からは、できもしないことを大口叩く前に――」

「このくらい、いいですか?」


 オスカーが苛立たしげに上体を起こした隙に、レオは脇をすり抜けて、祭壇に飾ってあった聖剣を手に取った。


「は?」

「これくらい、充分ですか?」


 ザクッ――


 艶やかな黒髪を無造作に一つかみにし、耳の下辺りで剣を動かす。意外に切れ味のよかったらしい聖剣は、滑らかにレオの髪を切り取った。


「――な……っ」


 オスカーがぎょっと目を剥く。珍しいことに、彼は二の句が継げずにいるようだった。


「おまえ……!」

「足りない、ですか?」


 レオはことりと首を傾げた。なにせ鬘の作り方には明るくない。恐らくこれだけの長さがあれば足りると踏んだのだが、不十分だったろうか。


「何を――! おまえほどの上位貴族なら、きっと一筋で充分だったのに……!」


 二の腕をがしりと掴まれ、揺さぶられたレオは目を回しそうになった。


「いえ、だって、それはさすがに……」


 さすがに足りないだろう。


「オスカー先輩。差し上げます」


 人体から断ち切られた髪というのはどこか不気味なものである。

 両手にあまる大量の髪を、さっさと相手に押し付けると、返品してほしくなかったレオはセールストークを重ねることにした。


「先輩と私、よく似ています。だから。大丈夫です」


 髪質は明らかに違うがそこは丸っと無視し、同じ黒髪だということだけ強調してみる。大丈夫、きっと鬘にした時も違和感はないはずだ。――たぶん。


「大切なもの、失いたくない気持ち、わかります。大丈夫。希望、捨てないで」

「レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ……!」


 残りの毛、というのをオブラートで包んで表現したのがよかったのか、オスカーはとうとう頬を紅潮させ、レオのことを抱きしめてきた。

 さすが最上級学年、年齢も上だし体格も大きいせいで、息苦しい。


 しかし、抱きしめる両の手が細かく震え、頭に埋めてきた頬が熱いことから察するに、相当感動しているようであるので、レオは抗議を差し控えた。

 きっと、ハゲの恐怖というのはそれだけ凄まじかったのだろう。


「感謝する……! 感謝する、レオノーラ……!」


 やがて身を離したオスカーが、両肩に手を置いて顔を覗き込んできた。甘い藍色の瞳が、少し潤んでいる。

 そこまで感謝されるようなことをした自覚のないレオは、少々引きながら「いえ、どうも……」と頷いた。

 クールな先輩だと思っていたが、意外に感情表現が大袈裟なのだろうか。


「どう礼をしたらいいか……」


 圧され気味のレオだったが、「礼」の言葉にはっと我に返った。


(図らずも、ベルンシュタイン商会の跡取りに貸し一つゲット……!)


 自分にとっては全く無価値なもので対価を得る――それに気が咎めるどころか、得したぜ! と無邪気に喜ぶのがレオクオリティだ。

 えらく自分に感謝しているようであるオスカー相手に何を強請るか、猛然と頭の中の計算機をいじくり倒していたレオだったが、はっと顔を上げた。


(あぶねえ、今はそんなことしてる場合じゃなかったんだってば)


 そう、自分はアルベルト包囲網から脱出する手筈をつけるために、教会に赴いたのだった。こうして目先の欲に囚われてばかりいたら、いつまで経っても学院を出られない。


 すぐに「カールハインツライムント金貨をおおお」と唱えそうになる口を意志の力でチャックし、レオは慎重に言葉を紡いだ。


「……それなら、私に、協力、くれますか?」

「協力……?」


 突然の申し出に、オスカーが怪訝そうに首を傾げた。

 レオは「はい」と頷く。

 そう、もとはハーラルトの助力を得ようとしていたのを、ターゲットを変えることにしたのだ。


「私、どうしても、この学院、すぐに出ていかなくてはなりません」

「出ていく? なぜだ?」

「……リヒエルト、向かいます」


 どこまで事情を話したものか、レオは悩んだ。できれば、「こんなセレブな学院馴染めないから、あたし下町に帰っちゃうんだから!」くらいのニュアンスで相手に伝わってくれればよい。


 オスカーはすっと目を眇め、優秀と評される頭でいくつもの可能性を素早く吟味したようだったが、結局、リヒエルトに下りたい理由を問うことはしなかった。


「……わかった。それに協力すればいいんだな?」

「はい!」


 思いの外簡単に合意を得られたことに、レオの顔がぱっと輝く。


「地図、ください。学園からリヒエルトの。できれば、かかる日数分の、その……」

「わかった、路銀も手配しよう。事情はわからないが、口の堅い宿もいくつか」


 できる商人そのものの手回しのよさに、レオの機嫌は急上昇した。


「出ていく、とは言ったが。リヒエルトに向かった後、学院に戻ってくるつもりはあるのか?」


 それはオスカーなりの、真意を探るための質問だった。しかし、単純に路銀は片道がいいか往復がいいかを問われたものと思ったレオは、


「ええと、戻ります!」


 ちゃっかり往復料金をせしめることにした。

 なに、戻るつもりだったのが戻れなくなることはえてして起こりうるものだ。


「そうか……」


 オスカーが、心なしか安堵したような表情を浮かべる。しかしレオはまったくそれに頓着することなく、来るべき脱走計画に向かってわくわくと胸を躍らせていた。


(ラッキー! 予想外に安全かつ贅沢に脱走できそうだぜ!)


 なんといっても、身銭を切ることなく移動できるというのが素晴らしい。


 諸々の手配に一週間ほど掛かる、であるとか、もし秘密裏の脱出を考えているなら、ちょうど二週間後の魔術発表会の時がよい――学院外から多く参観者が来るからだ――といったオスカーのアドバイスを、レオはうんうんと素直に聞き入れた。


 と、さすが裕福な商家の息子らしく、「それだけでいいのか」と聞いてくれるオスカーに、レオは調子に乗って、もう一つだけ頼みごとをすることにした。


「オスカー先輩。お願いです」

「なんだ」

「理由、聞かないで、私のこと、信じてくれますか」


 わずかに瞠目した相手の手をそっと取り、レオは心を込めて告げた。


「どんなに尊敬された、正しく見える人がいても、その人より、私のことを、信じてくれますか」


 具体的には、口のうまいアルベルトがどんなに巧妙に自分を捕まえようとしてきても、どうか自分に味方して逃がしてほしいと言いたい。


 オスカーはしばらく何も言わず、レオの瞳を見つめていたが、やがて、


「――わかった。胸に刻もう」


 了承してくれた。救世主ならぬ救毛主には、並々ならぬ敬意を払ってくれるようである。


 レオはほっと安堵の息を漏らし、「よかった」と呟いた。


「レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ」


 呼ばれて顔を上げると、真剣な光を宿した藍色の瞳と目が合った。


「改めて、先日はすまなかった。おまえは、噂に違わない――いや、人が噂する以上に、高潔で無欲な人物だ。そんなおまえを、俺は辱めるようなことをした」

「ああ、いえいえ」


 むしろ、レオとしては、激まずとはいえタダ飯を頂戴しただけだ。


 お気になさらず、と首を振ると、オスカーは目を丸くした後、ふっと微笑んだ。かなり珍しい分、なかなかの威力である。


「まったく……。奴らが夢中になるわけだ」

「は?」

「いや」


 独白のつもりだったらしく、オスカーは繰り返してはくれない。

 手にした黒髪を握り直すと、


「妹が回復したら、ぜひ会ってやってくれ。きっと喜ぶ」


 なぜか唐突に妹の話題を振り出した。


「はあ……?」


 気に入った相手には家族を紹介する、そういう商人の習慣なのかもしれない。

 いずれにせよ、ベルンシュタイン商会と伝手が増えるのは大歓迎のレオは、曖昧に頷いた。


「では、悪いが失礼する。籠った魔力が消えぬうちに、カミラと医魔術師に会わなくては」

「え……?」


 何か不思議な単語を聞いた気がしたレオは、目を瞬かせた。


「諸々の手配が済んだら連絡しよう。きっと満足いただけるよう万端整える」


 オスカーは手の中で艶やかに横たわる髪に、そっと口づけを落とした。


「――この髪に懸けて」


 そうして、さっさと教会を出て行ってしまう。

 後には、寒々しく細い首を晒し、その場に立ち尽くすレオだけが残された。


「……カミラ? 医魔術師?」


 もしかして、髪の話ではなかった……?


  一瞬、そんな考えが浮かんだレオだったが、最後にオスカーが残した「髪の誓い」を思い出して、それを振り払った。あんなにも髪に固執していたのだから、やはり髪関係に違いない。


「……ま、いっか」


 期せずして、学院を出ていく手筈は整った。

 後はオスカーが支度を済ませ、連絡をくれるのを待つだけだ。


 さっぱりした髪を満足げに撫でながら、レオは鼻息も荒く教会を出た。


 情けは人のためならず。


 たまにはいいこともするもんだな、などとニヤつきながら。

後編は明日の朝投稿させていただきます。

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