15.レオ、髪を譲る(前)
丸一日の休養を経て、すっかり体調の回復したレオは、次の日から精力的に授業に取り組むことにした。
もとより得を何より愛し、無駄を何より嫌うレオである。
これまでは魔力の授業など無用の長物と切り捨てて内職ばかりしていたが、レーナの訪問をきっかけとして、その認識は百八十度変化。となると、必要な知識・技術をタダで提供してくれる魔力の授業というのは至極ありがたい存在になったわけで、必然、レオはクラスの誰よりも真剣に授業に取り組むようになっていた。
どうやらレーナの体は相当スペックとして優れているようで、学べば学ぶほど知識は染み込み、鍛えれば鍛えるほど魔力は膨れ上がっていく。
とはいえ、入れ替わりの魔術を再度行使するのに、どれだけの蓄えが必要となるのかわからなかったため、レオはひたすら魔力の修業に打ち込んだ。
これほど頑張ったのは、真冬の教会の池で、沈んだ賽銭拾いをした時以来である。
「やあ、レオノーラ。最近、随分一生懸命授業に取り組んでくれているね」
魔力の授業を受け持つ、ハーラルト導師にそう話し掛けられたのは、レオが魔力の小テストで三連続で首位を取った時のことだった。
「ハーラルト、先生」
「はは、僕の名前を覚えてくれているんだ? 光栄だな」
「もちろん、です。先生の名前、忘れたことなど、ありません」
授業に出るようになる前は、ハーラルトへの興味など毛程もなかったレオだが、今は違う。
彼はレオに無料で重大な知識をもたらしてくれる恩師であり、ついでに言えば、パンの配給日情報をもたらしてくれるありがたい人物である。
レオはその後、時折魔力の水晶を出現させては、配給情報をレーナにリークしていた。
記録を拾う時に「パンの配給日について」と指定すれば、その単語に反応した部分だけが再生されるため――そうするのは、レオなりの配慮を働かせたのと、再生に使う魔力を少しでも抑えたいためである――、プライバシーの侵害は、たぶん、恐らく、あんまりは、していないと思うレオである。
「うーん、君がそうなったのはごく最近のような気もするけど、まあ喜ばしいことだからいいかな」
そう言って頷くハーラルトの微笑みは、精霊の愛する美徳だと言われる、慈愛の心を体現したかのようだ。
さすが若くして高位導師に昇りつめただけあって、春の穏やかな日差しを思わせる彼の微笑みの前では、いかなる凶悪犯も涙を流して許しを乞うと言われている。
無数のねこばば遍歴と、金に汚い性分の持ち主であるレオも、なんとなく引け目を感じてしまう程であるので、間違いない。
(いや、引け目っつか、怖えんだよな、教会ってのが)
実はレオは、なかなか朗らかな良い声を持っているということで、孤児院近くの教会付き導師に目を付けられ、少年合唱団に誘われたことがあった。
「高い賃金がもらえる」という甘言に唆され、のこのこと導師に付いていったレオは、危うく男性の大切な部分を切り落とされるところだったのである。
手術台に括りつけられていたところに、ブルーノが駆けつけてくれなかったら、一体今頃どうなっていたことか。
(う、うおぉぉぉぉ、思い出しただけで、さ、寒気が……)
その後ハンナに泣きついたら、珍しく激怒してその導師を吊るし上げた挙句、もぎ取れるだけ慰謝料をもぎ取ってくれたため、なんとなくいい思い出として処理されつつある事件だが、やはり植え込まれた教会への警戒心は簡単に消えるものではなかった。
「どうしました?」
「い……イエ……」
ぶるっと震えた姿を見て、ハーラルトが心配そうに表情を曇らせたので、レオは片言でごまかした。
彼は導師だが講師なのであって、リヒエルト教会の人物ではない。心の中で何度もそう言い聞かせながら。
「大丈夫ならいいんだけど。数週間前までは授業も休みがちだったようだし、無理をしないようにね。――まあ、無理をするなと言っている傍から提案すべきではないかもしれないんだけど。ね、レオノーラ」
ハーラルトはそっと屈み込み、春の草原のような色の瞳を優しく細めた。
「君さえよければ、来週から、魔力の上級クラスに参加してみないかい?」
「上級クラス?」
「ああ。学院では、一定以上の魔力を持つ生徒たち限定で、特別な魔力の授業を提供しているんだ。不公平感を持たせないよう、生徒にはあまり周知していないんだけどね。参加者は……そうだね、皇族とか、公爵家とか、その辺かな。身分で区切っているわけではけしてないんだが、それくらい膨大な魔力を持つ生徒たちのみに許された授業だ」
特別。限定。皇族とお近づきになれる。
人によっては目の色を変えるであろう提案だが、権力者から――というより皇子から距離を置きたいレオとしては、むしろ迷惑極まりない内容であった。
「いえ、結構、です」
「おや。どうしてだい? 魔力に興味がありそうだったのに」
「いえ、まあ、その……」
魔力には興味がありますが、皇子に接触して命を危険に晒したくないんです。とはなかなか言えたものではない。
「もしかして、出自のことを気にしているのかい?」
言い淀んでいるレオを見て何を思ったか、ハーラルトがそっと肩に手を置いてきた。顔を覗き込む両の瞳には、真摯な光が浮かんでいる。
「よく聞くんだ、レオノーラ。この学院では、誰もが一介の生徒に過ぎない。君がどのような過去を送ってきたのであっても、皇族や上位貴族と机を並べることについて、誰も異議を唱えることなどできないんだよ」
「はあ……」
見当違いの熱いフォローに、レオは小さく頷くしかなかった。
そもそも、下町出身ということに負い目を感じるような人物であれば、ムエルタの花を送りつけられた時点で学院から脱走しているに違いない。
黙り込んでしまった美貌の少女に、ハーラルトは困ったように微笑んだ。
「まったく……君は、自分の価値を知らなすぎるね。今や、アルベルト皇子やビアンカ皇女だけでなく、ナターリアやオスカーといった学院での主要人物が、ことごとく君を追い掛けていると、専らの噂なのに。まあ、オスカーはまだ大人しいほうかな?」
「え」
レオは青ざめた。
アルベルトによる包囲網が、そんなにも広範囲に布陣されているとは知らなかった。まさか、皇子が妹や従姉に助太刀を仰いだのであろうか。ビアンカやナターリアとは、まあまあうまく付き合っている認識であっただけに、もしそれが真実なら大ショックである。
驚きに固まっているレオに、ハーラルトは優しく話しかけた。
「まあ、突然の話では決められないかもしれないから、よく考えて返事をおくれ。きっと、とても君のためになる環境だと思うしね」
授業以外は学院内の教会にいるので、答えが決まったら教えてくれとハーラルトは告げ、「他言しないように」と念押ししてその場を去っていった。
「う……うう……」
レオは、心配性な従者が駆け付けるまで、捕縛と処刑の恐怖に晒されて立ちすくんでいた。
***
「えーと、ここ、かな……?」
翌日。
熟考を重ねてある結論に辿り着いたレオは、ハーラルトを探して学院内の教会を尋ねていた。
朝な夕なに鐘を鳴らす立派な教会に、足を運んだのは実は入学以降初めてのことである。繊細な彫刻が施された柱や、巨大な精霊布が掛けられた祭壇をつい習性で値踏みしてしまい、レオはそんな自分をはっと戒めた。
(いやいやいや、今日ばかりは金のことを考えてる場合じゃねえんだ。ハーラルト先生に縋りついて、うまいこと協力を取り付けなきゃならねえんだから)
そう。
レオは考えに考え、とうとうこの学院を抜け出すことにしたのだ。
そもそも、レーナとの契約の要件は満たしている以上、レオにこの学院に留まり続ける理由はない。
なんとなくここまで居付いてしまったのは、単に学院での内職の実入りがよく、朝昼晩タダ飯にありつけ、無料で授業が受けられ、身銭を切ることなくビアンカにお茶を振舞われ続けてきたからだけであった――要は、居心地が良すぎて抜けだせなかったのだ。
しかし、アルベルトが密かに身内を使って自分を包囲しようとしていると知っては、そんな悠長なことはしていられない。一刻も早く学院から逃亡する必要があった。
とはいえ、脱走するにしても、リヒエルトまでの地図やら当面の生活用品の手配やら、準備が必要であるし、それを弟分――とレオとしては思っている――カイに相談するわけにはいかない。
また、脱走に失敗して皇子の前にしょっ引かれでもしたら、それこそ元も子もないのである。脱走は完璧に、一度で決める必要があった。
(そのためには、学院に詳しそうな先生に、抜け道やらなんやら教えてもらわないと……)
ハーラルトに目を付けたのは、教会の人間にしては話が分かりそうだったし、あれだけ穏やかな人物であれば、レオの話にも丸めこまれてくれるのではないかと期待したからである。
「――……こを、……うかお願いです……!」
「――……が、……は……できないんだ」
と、祭壇の脇にある懺悔室――厚い板で組まれた簡易の個室である――から、声が漏れてくるのが聞こえた。放課後すぐの時間を狙ってきたのだが、どうやら先客がいたらしい。
(片方は、立場的にもハーラルト先生だよな? もう一人は誰だろう……)
男性と思われるその人物は相当興奮しているのか、叫ぶような音量になっている。
「どうか、カ……を助けてください! 俺の大切な、……なんだ!」
厚い板越しにもはっきりと耳に飛び込んできた声を聞いて、レオははっと目を見開いた。
低く、どことなく色気を含んだ声。
(オスカー先輩……?)
それは、先日食堂で耳にした、オスカー・ベルンシュタインのものに違いなかった。
張りのある声には、彼らしくない焦りと苛立ちが滲んでいる。ものの興味を覚え、レオは何の悪気もなくぺったりと扉に耳をくっつけた。
「……願いです、金なら……くらでも支払う!」
「……から、……スカー。……しいが、導師で……える精霊力には限りがあるんだ。……力なら話は違うんだが……」
文脈を手繰り寄せ、オスカーの懇願をハーラルトが心苦しそうに退けているようだと察する。
恐らく「金ならいくらでも払う」と言ったのであろうその台詞に、流れ弾を受けた格好のレオの胸はきゅんと高鳴りそうになったが、頭を振り払って聞き耳を澄ませた。
「くそ……! いつも……だ! どうして……! 先生、どうにかなりませんか。どうか、カ……を……!」
(か? か、なんだ? 何て言ってるんだ?)
オスカーは所々、激情をかみ殺すように声を潜めるので、彼が何を願っているのかが聞き取れない。レオは唇をすぼめ、一層ぐりぐりと扉に耳を押しつけた。
「俺の……カミ……を、どうか救ってください……!」
(髪いーっ!?)
どうやら男前のオスカーは、ハゲの恐怖と闘っているらしいと聞き、レオはぎょっと肩を揺らした。
(え? え? なになに? オスカー先輩って薄毛予備軍?)
ふさふさした黒髪からは、そんな予兆をまったく感じなかっただけに、レオは眉を寄せた。
いや、しかし、髪が減っていく恐怖は、男にしか分からない。女子がどんなに痩せていても「太った?」と言われるのを恐れるように、どんなにふさふさしている男性でも、「減った?」と尋ねられるのはひどく恐ろしいものなのだ。
「……スカー。いつも堂々としている……みが、そんなにも追い詰め……るなんて」
「……たり前です……! カミ……は、俺の、命そのものなんだ……!」
どうやらオスカーは、隠れハゲであり、かつ残りの髪の存亡をひどく気にしているらしい。
やがて、ハーラルトが嘆息する気配がした。
「……せめて、……族の髪の毛一本でもあれば……」
レオは目を剥いた。
(え? ええええ? ハゲ頭に一本だけ、移植するってか?)
枯れ山に佇む一本松のような光景――しかも、その下の顔はオスカーだ――を想像して、レオは慄いた。ハーラルトは、真面目くさった口調でいったい何を提案しているのだ。
「……いつらが、……の程度の施しもするわけ……とくらい、先生も知ってるだろう」
「オスカー……」
絶望に塗り込められたような独白に、ハーラルトがそっと寄り添う気配がした。
導師は「どうか希望は捨てないでくれ」と一言告げると――彼もなかなか酷なことを言うと思ったレオである――、しきりに詫びながら立ちあがった。恐らく、翌日の授業か教会関係の仕事が待っているのだろう。
衣擦れの音に慌てて耳を離したレオだったが、幸いハーラルトはもう一方の、懺悔室の奥にある扉から出て行ったようだ。鉢合わせすることはなかった。
しかし、ほっとする間もなく、
「あ……」
がちゃりとノブの回る音がして、今度はオスカーが出てきた。
サブタイトルを修正しました。