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12.レオ、タダ飯にありつく(前)

 その日、授業を終えたレオが寮に帰ろうと教室の扉を出ると、いつもは自室で控えているカイが、満面の笑みで立っていた。


「お疲れ様でございます、レオノーラ様」

「あれ、カイ。どう、しましたか」


 珍しい従者の登場に、レオがきょとんとして尋ねると、カイは恭しく一通の手紙を差し出した。


「こちら、ハンナ孤児院からでございます。お礼の手紙のようです」

「あ」


 ハンナ孤児院の名に、小さな唇がほんのりと笑みの形を作った。


「ありがとう。部屋でじっくり、読みます」

「かしこまりました」


 主人が喜びの表情を浮かべたのを見て、カイもまた心を弾ませた。


 今日も麗しい主人のそばでは、いつも周囲がこっそり耳をそばだてている。高貴なる少女には似つかわしくない孤児院という単語が聞こえたことに、幾人かが首を傾げたのを見て、カイはそれとなく声を張り上げた。


「レオノーラ様がお送りになった高価なドレスや布地、保存食などは、どれも孤児院の子どもたちに大層喜ばれているとのことです」

「ああ、……はい」

「おひとりおひとりに名前まで記されて……このようなことは未だかつて一度もなかったと、院長も感激していたようでした」

「……カイ」


 レオノーラ様は、こんなに幼くていらっしゃるのに、孤児院に寄付までしているんだぞ、しかも偽善などではなく、孤児一人ひとりに宛てるほどの丁寧ぶりなんだぞ、とカイがアピールしていると、当の主人がそれを止めた。


「あまり、言わないで」

「申し訳ございません」


 恐らく、美徳は隠れて行うものという信念の持ち主である主人は、カイのそのような態度を恥ずかしく思ったのだろう。

 カイは内心少しだけ不満に思いながらも、どこまでも奥ゆかしい方だと声を潜めた。


「危ない、危ない……」


 一方、ぼそりと呟いていたレオは、自分の横領があまり大っぴらになってはいないかと冷や汗を掻いていた。


 そう。

 レオは、孤児院に寄付などしたつもりは全くない。この学院から脱走した後の未来の自分に、金品に替えやすそうなものや保存が利きそうなものを送りつけているだけなのである。


 しかしながら、ハンナ孤児院には「全ては平等に分けよ」という院長の堅固な方針がある。

 そのため、自分にだけ送ったのでは漏れなく何十分の一しか手元に残らなくなってしまうので、仕方なく、自分には不要のドレス辺りを、適当に他の孤児仲間に割り振っておいたのだ。金貨を模したブレスレットと、ニシンのオイル漬けは、絶対に死守する所存であった。


 さて、そんな風に、学院からの脱走に向けて着々と準備を進めているレオであったが、一つだけその計画の遂行を妨げる存在があった。


「レオノーラ!」

「わ」


 がばっ!と背後から勢いよく抱きついてきた、ヴァイツ帝国第一皇女様である。


「久しぶりね、レオノーラ。もう十二時間以上顔を見ていなくてよ。あら、今日のドレスも素敵ね、安定のサバラン、安定の薄墨。ねえ、わたくしがプレゼントしたドレスはいつになったら着てくれるのかしら」

「あ……」

「まあいいわ、あなたの気持ちを尊重するって決めたんだもの。さ、今日も行きましょ、もう授業は終わったのでしょう?」

「え……」

「あら、魔力の実地研修が残ってる? いいわよ、そんなの。あなたも苦手で、乗り気ではないのでしょう? そうよね、町にいたのでは縁がなかったはずだもの。あなたったらなんでもできるのに、そういうところで可愛げがあるのね。いいわ、いいわ、魔力なんてわたくしが教えてあげるもの」


 レオが一音節しか発せないでいる内に、どんどん話が進んでいく。


 ビアンカは一体何がそんなに気に入ったのか、ナターリアとの一件があってから、こうしてべったりと放課後のたびに纏わりついてくるのだった。


 もとより魔力に全く興味のないレオは、研修をさぼるつもりではあったのだが、その分自室で内職に精を出すつもりだったので、ビアンカに時間を取られては製造計画が狂ってしまう。困り顔をしていると、見兼ねたカイが割って入った。


「恐れながら、ビアンカ様。我が主人は、この後予定が入っておりまして……」

「予定?」

「はい。このように、さる方から手紙を頂戴しておりますため、ゆっくりと読む時間が欲しいのです。まだ読み書きに不慣れな主人ゆえ、本日ばかりはお時間を頂戴できませんでしょうか」


 ビアンカの機嫌を取るためとはいえ、主人を「読み書きに不慣れ」などと貶しめるのは忸怩たる思いではあったが、カイはそんな感情を気取らせることなく、滑らかに言葉を紡いだ。

 いつもビアンカに連行され、疲れた顔で遅くに帰ってくる主人を、今日こそ解放してもらおうと教室まで乗り込んできたのである。ここでしくじってはその努力も水の泡だった。


 しかし、ビアンカはかえって興味を強めてしまったうえに、しぶとかった。


「あら、どなたからのお手紙? わたくしの知らない人? 目上の方なのかしら。ならわたくしが手取り足取り、淑女らしい手紙の書き方を指導するから――あなた、カイと言ったわね、もう下がってよろしくてよ」

「そんな……」


 すっかり主張が裏目に出てしまった格好のカイは、眉尻を下げた。

 と、その時である。


「さすがは下級学年長のビアンカサマ。後輩思いでいらっしゃる。そのお優しい心を、少しばかり庶民の先輩にも分けていただくことはできませんかね?」


 滑舌のよい軽やかな声が、その場にいた全員の耳をくすぐった。


 おどけた表情を浮かべて、仰々しく礼を取る人物を見て、はっとビアンカが顔を強張らせる。


「……ロルフ・クヴァンツ。最上級生のあなたが、下級学年の校舎に何用でしょう」


 固い声でなされた問いに、しかし相手はあくまでもにこやかに答えた。


「お茶会の、ご招待に」

「お茶会ですって?」


 ロルフは笑みを絶やさない。彼がもともと細い目で笑顔を浮かべると、まるで狐のようだった。


「さようでございます。ドーリス、という名に心当たりはお有りで?」


 ビアンカの肩がぴくりと揺れた。


「……有るも何も、わたくしの侍女の名前だわ」

「ええ。まあ、正確には、『元』侍女ですけど」


 不思議なことに、二人は声を荒げることもなく会話しているだけだというのに、まるで見えない火花が周囲に飛び散っているかのようだった。


「その『元』侍女のドーリスですがね、随分ビアンカ様にお世話になったみたいなので、僕たちも彼女の――何て言うんですかねえ、兄貴分として? おもてなしさせていただけないかと、まあ、こう思った次第でして」

「結構ですわ」


 道化師のようなおどけた誘いを、ビアンカは固い表情で断った。


「もてなされる理由が、わたくしには有りませんもの」

「おや、ドーリスへの仕打ちについてご自覚もないと?」

「存在もしないものをどう自覚せよと仰るのです。それ以上変な言いがかりをつけるようなら――」

「お兄サマに、言いつけますか?」


 いやに毒のある言い回しだった。


 ロルフはこれといって特徴のない平凡な顔に、奇妙なすごみのある笑顔を乗せた。


「さすがは、お兄サマが大好きなビアンカサマだ。喧嘩の仲直りもお兄サマと一緒なら、お茶のお誘い一つも彼無しには引き受けられないのですね。まあ、それならそれで、僕たちは一向に構いませんとも」

「無礼な――!」


 鋭く叱責を飛ばそうとしたビアンカだが、傍らの少女がきょとんと自身を見上げているのに気付き、声を潜めた。


「……仰る意味はわかりませんが、いいでしょう。お茶に招いてくださると言うのなら、それに(あずか)ることにしますわ」

「おや」


 ロルフは意味ありげに片方の眉を引き上げた。狐のような目を更に細めて、不思議そうに会話を見守っている少女を見る。


「――なるほど?」


 何を思ったか、ロルフはおもむろに、少女に向かって片手を差し伸べた。


「レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ。君も一緒に来ないかい?」

「ロルフ・クヴァンツ! 何を言っているのです! わたくしが行くと言っているでしょう。彼女には手出しをしないでちょうだい!」

「おお怖い、怖い。初めまして、レオノーラちゃん。僕はロルフ。君だって仲間はずれは嫌だよね? 僕とおいでよ。そうしたら――」


 狐の瞳が、きれいな弧を描く。


「おいしいお菓子と、素敵なショーが楽しめるよ」


 その「ショー」とやらの内容が、ろくでもないものであることは誰の目にも明らかだった。


「ロルフ・クヴァンツ!」

「クヴァンツ様、恐れながら――」


 ビアンカやカイ、それに、美貌の少女が巻き込まれようとしているのを見過ごせなかった良心ある周囲が、ロルフを止めようとする。だがそれを、当の本人が遮った。


「行きます」


 凛とした声音に、誰もがはっと彼女を振り返る。


「ビアンカ様、おひとりでは、ショー、つまらないでしょう。なので、私も行きます」

「レオノーラ!」

「レオノーラ様!」


 いたぶる相手は多い方がいいだろうと言ってのけた、少女のその豪胆さに、ロルフの目がきらりと輝いた。


「おやおや、レオノーラちゃんは随分勇ましいんだねえ」


 思いとどまるよう声を掛ける周囲を振りきり、ロルフがビアンカと少女の腕を掴む。

 怒りに頬を染めて引き離しにかかったカイを、しかし彼はひらりとかわした。


「おっと、従者くんはお留守番だ。今回のお客様は女性限定なものでね」

「何を――!」

「カイ、来ないで」


 いよいよ激昂した従者に、少女がぴしりと言い放つ。その声には威厳が溢れていた。


「私、一人で大丈夫です。カイ、部屋に、いてください」


 幼い、それも女性である主人の迫力に、カイは一瞬言葉を呑んだ。


「しかし……」


 命令に従うべきか悩む。しかしその隙を突くように、ロルフがぱちんと指を鳴らすと、


「わ」

「な、なんなの!? 離しなさい! 離しなさいったら!」


 どこからか大量の学生たちが現れ――恐らくは、ベルンシュタイン一派だろう――、カイの主人とビアンカは連れ去られてしまった。


「レオノーラ様!」


 叫べど、到底追いかけて間に合うものでなければ、一人で立ち向かえる相手でもない。


 カイは「なんてことだ……」と呟いた後、きっと視線を上げ、頼るべき人物を探しに急いで踵を返した。




***



(あー……)


 レオは後悔していた。


(わかってたよ。もしかしてそうなる可能性はあるとは思ってたよ。でもさ、そうならない可能性もあると信じてたのに)


 隣には、怒りに青褪めるビアンカ。目の前に置かれたのは、異臭を放つスープ状の何か。


 レオはげんなりとしながら、しくったなあと内心で溜息をついた。


 ロルフと名乗る男に「お茶会」とやらに招待され、真っ先にレオが思ったのは、もちろん「タダ飯にありつける!」ということだった。


 レオだって一応、二人のやり取りが不穏なものだというくらいは察していたが、お貴族様の応酬と言うのはどうも取り澄ましているせいで、ロルフが本気でビアンカを害そうとしているのか、それとも嫌味っぽくお茶を振舞おうとしているだけなのか、いまいち判断がつかなかったのだ。


 それでも、レオはロルフの恨みを買った覚えなどない。

 本人からも重ねて「おいしいお菓子をあげる」と言われたので、一応「ビ、ビアンカ様だけじゃ寂しいだろうから行くんだからね! 本当は不本意なんだからね!」という態を装いつつ、安心して誘いに乗ってしまった次第である。

 本当においしいお菓子が振舞われる場合に備えて、カイを下がらせ、自分の取り分を多くしようとしてしまったのは、もはや条件反射だ。


(おいしいお菓子って、本気で思って出してるわけじゃねえよな? これって嫌がらせだよな?)


 あからさまに不味そうなもてなしの一皿を、レオは懐疑的な目で見つめた。


「どうした? 遠慮せずに食べたらいい」


 そう声を掛けてきたのは、癖のある黒髪に、甘い藍色の瞳が特徴的な青年だ。

 ロルフ達が占拠している第二食堂――第一食堂が皇族や上位貴族専用で、ここ第二食堂はそれ以外の人たちが使うようである――の最奥に置かれた椅子に腰掛け、組んだ足の上に肘をついてこちらを見ている。

 彼は、オスカー・ベルンシュタインと名乗った。


 ロルフに連れられたレオたちは、有無を言わせず古びた食卓に着かされ、壁沿いにぐるりと生徒たちに囲まれているのである。

 さすがに下町のごろつきのような輩はいないが、それでも体格の良い上級学年の男子生徒や、恨みのこもった目で睨みつけてくる女生徒に囲まれては、居心地はよくなかった。


「ああ、それとも喉が渇いたか? なら紅茶を。ベルンシュタイン商会謹製の茶葉だから、きっとおいしく召し上がってもらえるだろう。淹れ方によっては少々渋くなるが、切れの良い後味が、魚や肉の生臭い後味を消してくれると評判でね」


 オスカーが軽く手を上げると、ビアンカの背後に控えていた少女――ドーリスというらしい――が、紅茶を注いだ。


 カップにではなく、皿の上に。


「な……!」


 ビアンカが息を呑んだ。その美しい顔は怒りに青ざめている。


「なんという……!」

「おや、お気に召さない?」


 近くの壁に腕を組んでもたれかかっていたロルフが、にっこりと笑いかけた。


「だったら、残せばいい。それともドーリスに叩きつけるかい? いつものように」

「あなたたち、こんなことをして許されるとでも……!?」

「それはこちらの台詞だ、ビアンカ・フォン・ヴァイツゼッカー」


 激昂するビアンカを、オスカーが遮った。野性味のある瞳がきらりと光り、震えるしかできない獲物を正面から睨みつける。

 しかしそこには、アルベルトとはまた異なる男性的な魅力があり、レオはなんとなく釈然としない思いに駆られながら、この学院のイケメン比率について思考を巡らせていた。


「最近の皇族や上位貴族の行動は目に余る。気に入らないことがあれば物を投げつける権利は、俺たちには無いとでも? 皇女だからといって許される考えではないな」


 オスカーは薄い唇をふ、と引き上げた。


「持て余す魔力を施すことすらしない皇族ならば、尚更だ」

「施さない……?」


 ビアンカは困惑気に眉を寄せる。しかし、オスカーは充分とばかりに、話を切り上げてしまった。


「さて。ビアンカ皇女殿下におかれては、我々市民の心づくしの品を、召し上がっていただけるのかな? またも拒絶されるようなら、我々の心は悲しみに張り裂けてしまうだろう」

「そんな……」


 食堂にいる誰もが、顔色を失ったビアンカのことをにやにやしながら見守っていた。


(うーん、俺って完全に巻き込まれてるよな)


 一方レオはといえば、オスカーとビアンカの遣り取りを聞きながら、冷静に状況を判じていた。


 ビアンカがドーリスという庶民出の侍女をいじめた。

 ドーリスはオスカー達、ベルンシュタイン一派に縋った。

 で、オスカーは相棒のロルフに命じてビアンカを連れてきて、衆目環視で嫌がらせをしようとしている、今ここ。


 どう考えても、レオがこの茶番に付き合う必要はなかった。


(でもなー)


 レオは静かに、ついでとばかり自分の前にも置かれた皿を見つめた。


 先程から異臭すら放っている、ドロドロとしたこの一品。

 ドーリスや周りの生徒たちが、目の前でぐちゃぐちゃと魚やら生菓子を混ぜた結果出来上がったものだ。


 だが、そのドロドロが作られる過程をつぶさに観察していたレオは思った。


 素材は、高級であると。


(土台の生クリームは、つんときれいに角が立った仕上がりといい、元の色味といい、ヤギじゃなくて牛の乳を搾ったものに違いねえ。突っ込まれた魚は、俺の大好物の鰊のオイル漬けに、あと生の鮭。刺身で食べられるってことは、相当新鮮な奴だな。それに、実の大きいドライフルーツに、バターたっぷりのデニッシュ、レモンケーキ、ブルーチーズ……。高級食材の玉手箱と、まあ、言えなくもない)


 生クリームに生魚が突っ込まれている時点で、常人の神経ではかなりアウトだったが、レオは真剣だった。


 さすがはベルンシュタイン商会の跡取り息子。嫌がらせにも金が掛かっている。

 下町でも、ベルンシュタインの名を冠した商品は多く流通しているので、できればオスカーとはお近づきになりたいなどと思ったレオであった。


(よく考えろ、俺。ピンチをチャンスに変えるんだ。できることならちょっと、いや、結構、いや、かなり、別々に食いたかったところだが、冷静になって見方を変えれば、胃の中で混ぜる手間を省いてもらったとも言える。そうとも、労力を削減できたんじゃねえか)


 レオは冷静にとち狂っていた。


(胸に手を当てて考えろ。俺が求めているのはおいしい食事か? いやちがう、無料の食事だ。おいしいとは何か? それはタダで手に入るという喜びがもたらす感情だ。つまり――)


 俺は、これを食いたい。


 心頭滅却すれば火もまた涼しいように、突き抜けた金銭欲の前には五感すらも無と化す。

 それをできるのが、レオという人物だった。


「おやおや、皇女殿下、怖い顔だ。兄上がいないと心細いか? ならば、年下の友人にでも縋るといい」

「ちょっと、オスカー」


 黙考するレオをよそに、オスカーはビアンカの弱点を鋭く見破り、獲物を追い詰めに掛かっていた。

 基本的に可愛い子が大好きなロルフはそれを咎めたが、強い制止ではない。彼らにとって、レオノーラ・フォン・ハーケンベルグもまた、にっくき上位貴族の枠に入りうる人物だったのだ。


「どうする、皇女殿下? ハーケンベルグ嬢に代わりに食べてもらおうか? あなたが年端も行かない友人に、自分の所業の後始末を押し付けるというのなら、俺たちはそれでもいい。うっかり、そのことを方々で噂してしまうかもしれないがね。人の口に戸は立てられない以上、仕方のないことだ。そうだろう?」

「そんなこと、させませんわ……」


 ビアンカは勇ましくもオスカーを睨みつけたが、スプーンを握る手は、怒りを上回る恐怖で震えていた。

 皇女として甘やかされて育ってきた彼女は、強い悪意に晒されたことも初めてならば、このように醜悪な食べ物を口にすることも、また無かったのだ。


「レオノーラには、手出しなど……。ここは、わ、わたくしが」

「――なら、いただきます」


 誇り高き皇女として、また下級学年長として、妹のように気に掛けている少女を守ろうとしたビアンカだったが、しかしその悲壮な決意は、当の本人によって破られた。


 隣を見れば、彼女の幼い友人が、まさにスプーンを口に運んでいたのである。


「レオノーラ……!?」

「ぶふぉ」


 相当まずかったのだろう。少女が噎せる。だが、よく噛んで飲みこむと、彼女は表情を元に戻して、黙々と食べ続けた。


「レオノーラ! およしなさい! レオノーラ!」


 だが、スプーンを操る小さな手は止まらない。


(ま……っ、……ずくない、うん、まずくない、まずくないったら! まずくないぞ!)


 レオは、周囲のざわめきすらシャットダウンして、目の前の食事に集中していた。


 大丈夫。問題ない。ちょっとばかり、甘くて苦くて酸っぱくて塩辛くて生臭いだけだ。分解して味わえばよいのだ。


(例えばほら、このぬるつく食感の向こうに感じる鮭のふくよかな旨味。生臭さという闇に一条の光のごとく差す、爽やかなレモンの酸味。どれもこれも、下町ではご縁のないものばっかりだ。高い。高いぞ。金の香りと贅沢の味がする)


 味覚を金銭に置き換えただけで、レオはそこに恍惚の喜びがあるように思えた。


(だいたいほら、孤児院でも、食事当番がブリギッテの時は、大体こんな感じだったじゃねえか。楽勝だぜ)


 規律の厳しいハンナ孤児院では、食事当番が料理を大失敗した時でさえも、それを残すことは許されていなかった。

 また、紳士は淑女に優しくあれ、というのが院長の確固たる指針であったため、見栄えが悪ければ味付けを、味付けが悪ければ食材の鮮度を褒める、といった具合に、男子諸氏は常になんらか褒め言葉を口にしなくてはならなかったのである。


 ちなみに、ブリギッテという少女がシチューを消し炭にした時には、皆一様に皿の柄を褒めたものだった。


「ごちそうさまでした」

「レオノーラ……!」


 青ざめるビアンカをよそに、レオは一滴も残さずに完食した。


「は……。驚いたな。あんた、よほどお育ちのいい舌を持ってるようだ」


 驚いたように呟いたのはオスカーだ。


 彼本人でも最初の一口で投げ出すような品を、表情も変えずに食べきった少女を見て、藍色の瞳に珍しく動揺が走った。


「レオノーラちゃん、大丈夫!? ほら、水、水!」


 ロルフに至っては、自分たちがしたことだというのを棚に上げて、水まで差し出してくる始末だ。

 ドーリスをはじめとする面々も、すっかり度肝を抜かれた様子で、気遣わしげな視線を向けてくる。レオはありがたくタダ水を頂戴した。


 ごくごくと喉を潤していると、じっとこちらを見つめてくるオスカーと目が合う。

 てっきり感想でも求められているのかと思い、


「……ええと」


 レオはいつもの癖で、何か褒め言葉を捻りだそうとした。


「素材がどれも一級品でした」

「――おい、正気か?」


 オスカーも呆れ顔、というか、何か怖いものを見たような顔である。


「いえ、ええと、その、……お皿が」


 さすがにコメントに説得力がないと反省したレオは、咄嗟に秘技・皿の柄褒めを繰り出そうとして、失敗した。


 無地の皿だったのである。


「……その、お皿で、食べられるって、いいですね」


 結局、初めて原始人が文明に触れたかのような、よくわからない発言になってしまった。


「誰かが、私のために、よそってくれる。お皿で食べる。素晴らしいです」


 もはやヤケクソである。

 だが、そのヤケクソ発言に、ビアンカがはっと息を呑んだ。


「レオノーラ、あなたって子は……!」

「どういうことだ?」


 主旨をつかみ損ねたオスカーが眉を顰める。だが、その問いに答えが返ることはなかった。


「ここで何をしている!」


食堂の扉が蹴破られるように開き、アルベルト皇子が登場したためだった。

サブタイトルを修正しました。

アクロバティックだった誤字を修正しました。

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