11.レオ、絵画を鑑賞する(後)
「『忠告するクリングベイル夫妻』、一番、魅力的と思います」
「え……?」
言った途端、ナターリアが大きく目を見開いた。
アルベルトやビアンカも同様である。なぜか一様にぎょっとした周囲を怪訝に思いつつも、レオは「ど、どうして……?」と問うナターリアに考えを述べた。
「夫妻の服、靴、シンプルです。けれど、後ろの畑、丘、とても豊かです」
そう、守銭奴レオは、もちろん背景の土地まで金額査定に含めたのである。
「小麦、よく垂れています。羊も、とてもふくよか。広い広い土地、素敵です」
これだけ質も量もよい小麦や羊を育む土地であれば、勿論高く売れるだろう。それは、小さな宝石や、くたびれた本の比ではない。
もっと大きくなったら、土地の投資にも手を出してみたいレオであった。
「そ……、そんな、どうして? フォーグラー博士の方だって、珍しい書物がたくさん詰まっているわよ!」
皇女が戸惑ったように声を掛けてくる。だが、レオは答えにくい思いを噛み締めながら首を振った。
「いえ、あの。エランド語のタイトル、少々、問題あるます……」
「タイトル?」
ビアンカやナターリアには分からないらしい。どうしたものかと口を噤んでいると、ややしてアルベルトが言いづらそうに説明した。
「いや、ナターリア、ビアンカ。これはエランドの、……春書だ」
「なんですって?」
「しゅんしょ? それってなんですの?」
ナターリアは絶句し、ビアンカは首を傾げた。
アルベルトは、「まあ、主に男性向けに書かれた、恋愛の指南書のようなものかな」と曖昧な説明で茶を濁したが、それもそうだろう。レオだって、「乱されて……濡れる人妻と緊縛の夜」といったタイトルの本の内容を、妙齢のご婦人方にうまく説明できる自信などない。
そう、文化に優れたエランド王国は、また官能小説の分野も発達していたのであった。
「そんな……。では、なぜあなたはそれが分かったというの、レオノーラ?」
「ええと。エランド語、習いました。単語、繋げました。それで、なんとなく」
誰も気にしてはいないのだろうが、一応「別に卑猥な単語が得意なわけじゃないですよ、なんとなく、雰囲気で分かっただけですからねー」といった姿勢を強調しておく。
もちろん嘘だ。高値で雇ってもらえるエロ本の写本屋職にありつきたいばかりに、幼馴染に頼み込んで故郷の言葉を教えてもらったレオは、もっぱらスラングとエッチな単語が堪能である。
「単語を繋げた……それだけで……」
「入学したばかりなのに、もう……?」
カリキュラムからして、少女が学院でエランド語を習い始めて、まだ数週間。にもかかわらず、おおよその文意を掴めると言い放った彼女に、その場の誰もが圧倒された。
「そう……。ではあなたは、私の意図していたとおりに、いえ、それ以上に、これらの絵の意味に、ちゃんと気付いていたのね」
やがて我に返ったナターリアが、隠しきれない興奮の色を滲ませて呟いた。
「いずれ衰える容色も、書斎に閉じこもったこれ見よがしの――あまつ欲に染まった教養も、王妃となる者には何の意味もなさない。王配の器に求められるのは、国を一番に愛する心よ。この豊かな土地があってこその、わたくしたちなのだから」
「ナターリアお姉様……」
ビアンカは、従姉の思想に感嘆の声を漏らした。もともとアルベルトを慕って彼女が正妃候補に挙げられているのではないとは知っていたが、そこまでナターリアが国のことを大切に想っているとは、考えもしなかったのだ。
「ご覧になって。黄金色に色づいて、重く穂を垂れる小麦。穏やかに草をはむ羊たち。貴族の装いなど質素で構わない。彼らの真の財産は、背後に横たわるこの豊かな土地なのだから――」
ナターリアは少女に向き直った。
「これが、ゲープハルトが題名に託した、『忠告』ということなのだとわたくしは思っているわ。常に胸に刻んであれ、と」
絵のモデルは、わたくしの両親なのよ、と照れくさそうに伝えるナターリアに、しかしレオはことりと首を傾げた。
「うーん……」
「どうしたんだ、レオノーラ?」
「ああ、いえ」
なんでもない、と打ち消そうとしたレオを、再度アルベルトが促した。
「何かな? 気になったことがあるなら、僕たちにどうか教えてほしい」
「……あの。少し、おかしいなと」
レオはおずおずと告げた。自分以外は気にならなかったようなので、自信がなかったのだ。
「人が、いません」
「え?」
「人?」
怪訝そうに聞き返した面々に、レオは一つ頷いて説明した。
「羊、いっぱいいます。でも、毛を刈る人、誘導する人、いません。羊ふわふわで、毛刈りの時期なのに、おかしい。小麦も、いっぱい実っています。所々、刈られて束になっています。でも、収穫する人いません。昼なのに。おかしい」
アルベルトが真っ先に息を飲んだ。
ついでナターリアもはっとしたように顔を上げる。
「豊かな土地。きれいな土地。でも夫妻しかいない。なぜ?」
少女の潤んだ紫の瞳が、真っ直ぐに二人を射抜く。その中には、確かに真実の光があった。
「忠告……。そういうことか」
皇子が蒼白な顔で呟くのを、レオは「ようやくわかったか」といった表情で見守った。
まだ分からないといった顔をしている妹姫に向かってアルベルトが説明するのを、レオは並行して内心で得意げに解説した。
(ふつーこんだけ広い農地には、うぞうぞ働き手がいるんだよ。俺らもよく最盛期には駆り出されたもんだぜ)
「これだけ豊かな大地を維持するためには、多量な人手が必要なんだ。僕も視察で初めて知ったことだが、本来、昼の、それも収穫期の農地には常に大量の人員が溢れている」
(そうそう。でもそれをあえて描かないで、他の絵と同じ額を請求したってのは、やっぱアレだな)
「それをあえてゲープハルトが描かず、『忠告』と題したのは――」
(ずばり、ぼったくりだな!)
「我々が、国民を風景としてすら捉えていないことへの風刺だ」
レオは、ん? と思った。
てっきり、人を何人も描く手間と絵具を惜しんだと踏んだのだが、なんか違うらしい。
「風刺……」
「ああ。ナターリアが言うように、豊かな土地は我がヴァイツ帝国の財産。だがそれを生み出しているのは――つまり、真の財産とは、国に住む民たちだ」
アルベルトはふと顔をしかめた。
「だが、我々はそれをわかっているはずなのに、つい忘れてしまう」
「豊かな土地にばかり目を奪われて、その先の人を見ず――」
「だから、『忠告』……」
神妙な面持ちで頷く三人をよそに、レオはぽかんとしていた。
(なんか……盛大に外したぜ……)
まさか、ナターリアに「あんた、ぼったくられてまっせ、へっへ」と教えてやるつもりだったとは、口が裂けても言いだせる雰囲気ではない。
ややして、青ざめたままのナターリアが、くるりとレオに向き直った。
「お礼を言うわ、レオノーラ。わたくし、この絵のことをすっかり分かっているつもりになって、偉そうに、見当外れの解説までして……すっかり、ゲープハルトの忠告する傲慢に溺れていた。恥ずかしい限りだわ」
「いえ……? いえいえ……?」
レオなんて、現在進行形で絵の趣旨をよくわかっていない。
後ろではアルベルトが、
「ゲープハルトがこのタイミングでこういった忠告を表現したということは、それなりの意味があるはずだ。モデルとなったクリングベイル領で反乱の兆しがないか、調べさせよう」
とかなんとか言っているが、そんなきな臭い話を自分たちはしていたのだったっけ、という感じである。
と、ナターリアが突然レオの両手を握りしめてきた。
「さすがは、真実を見通すハーケンベルグの瞳。あなたを試そうなどとしたこと、どうか許してちょうだい」
そして、おもむろに膝を折ると、握った両手を額に押し当てて、臣下の礼を取った。
「レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ。あなたが、この国の頂点に立つ女性の資格を持っていることを、わたくしは認めるわ」
最も正妃に近いとされていたナターリアが跪いたことに、周囲がざわめく。
「え……? はあ?」
「今はまだ環境も変わったばかり。心が追い付かないことも多いでしょう。けれど、覚えておいて。きっと今に、帝国じゅうの誰もが、あなたの姿を追い求めるようになる」
「はあ……」
目を白黒させるレオを置き去りにして、ナターリアはすっと立ち上がった。
「アルベルト様。先程仰ったように、ゲープハルトの真意はそこにあるかと。わたくしも、自領で民の不満が溜まっていないか、調査してもらうように掛けあってまいります」
「ああ。僕が立ち入るよりは、君を介してお父上に調査してもらった方がスムーズだろう。頼む」
「かしこまりました。それでは、失礼を」
男女の、というよりは、すっかり上司と部下の会話である。
もとより、自分以上にふさわしい人材がいたら、なんとしてもアルベルトとくっつけようと企んでいたナターリアは、最後に会心の笑みを少女に向け、その場を去っていった。
後には、改めてハーケンベルグの紫瞳の価値を感じ入るヴァイツゼッカー兄妹と、一連の遣り取りにすっかり興奮している学生たち、そして、
「はあ……?」
未だぽかんと口を開けている、レオが残った。
***
「おーい、いたいた、オスカー!」
小柄な男子生徒が覗き込むと、オスカーと呼ばれた青年はふ、と閉じていた目を開いた。
「ん……ロルフか」
「なんだ、また授業サボってたのかよ。いい加減成績ヤバいんじゃないか?」
というかヤバくなれ! と叫ぶ男子生徒――ロルフは、オスカーが常に首位の成績を維持し続けていることを知っている。不公平だとぷりぷり怒る友人を尻目に、オスカーはくあ、と一つ欠伸をした。
「んなわけねえだろ。あんなユルい授業、出なくたって猿でもわかる」
「おま、月の無い夜道には気を付けろよ! 俺が刺すから!」
「犯人自ら予告してどうする」
冷静なつっこみをくれながら、オスカーはその場で伸びをした。
野生の獣のようなしなやかな体を伸ばし、目を閉じてぐるりと首を回す。
再び開いたその瞳は、夏の夜空を溶かし込んだような深い藍色だった。鋭い目つきと、癖のある黒髪が特徴的な、野性味ある精悍な青年である。
「おまえ、よくこんなとこで寝られるよな」
呆れたようなロルフの指摘に、オスカーはひょいと逞しい肩を竦めた。
「この通路か? 床こそ固いが、昼寝にはうってつけだ。人も滅多に通らないし、照明も温度も適度に保たれてるしな。――まあ、今日はそうでもなかったが」
節くれだった長い指が、こん、と床を叩く。濃藍の瞳の先には、つい先ほどまで話題の中心となっていた、三枚の絵画があった。
「ん? なんだよ、おまえ、ちゃっかり今日の『絵画事件』に居合わせてたのかよ!」
オスカーの口ぶりから、彼がその場に居合わせたことを悟ったロルフが驚いて叫んだ。
どうやら、ヴァイツゼッカー兄妹とナターリア、そして新入生の少女との間に起こった一連のやり取りは、早くも「絵画事件」と名付けられ生徒の間で広まっているらしい。
「居合わせたっつーか、人がいつもの場所で寝てたら、奴らが勝手に話しはじめたんだよ」
「いやいや、立像と立像の間で健やかに寝てんじゃねえよ」
噂好きのロルフは即座に言い返しつつも、渦中の現場に居合わせていたオスカーのことが羨ましくてならないようだ。
「いいなー。レオノーラちゃんが、あの鼻持ちならないナターリア嬢を快刀乱麻するところを目撃したわけだろ。見たかったなー」
「快刀乱麻の使い方が違う」
お調子者の友人に指摘するその声は、いつもの彼らしくぶっきらぼうで淡々としている。だが、その口許には、ほのかな笑みが浮かんでいた。
「……『忠告』の意味を汲んだか」
「ん? なになに? 今なんて?」
聞き逃したらしいロルフに、「いや」と短く告げる。
「レオノーラ・フォン・ハーケンベルグになら、接近してみてもいいかもしれないな」
その呟きに、ロルフははっと顔を引き締めた。
「……それじゃ、ようやく許可してくれるってわけか?」
「ああ。ハーケンベルグ侯爵家は家族の団結が強いうえに、皇族兄妹が彼女に興味を持っているようだから、今までは様子見と思っていたが……彼女なら、頭ごなしに庶民側の俺たちを迫害しようとはしないだろう」
「やったぜ! 麗しのレオノーラちゃんに話し掛けたいってやつは、俺の他にもうぞうぞいるんだ。ま、その役目は譲らねえけどな!」
ロルフは両手を大きく天に突き上げた。
「しっかし、随分突然の方針転換だな。おまえにしては珍しい」
「なに、俺も気になっただけさ」
アルベルトの端整な面差しとはまた違う、けれど男らしく整った顔が、ふと笑みを刻む。
「ベルンシュタイン商会の跡取りとして、ゲープハルトの作品にはたびたび触れてきたが、今までで誰ひとり――特に貴族連中で、あの『忠告』の意味を正しく読み取った奴はいなかった」
彼女なら、あるいは。そう呟いたオスカーに、ロルフは相槌を打った。
「そうだな」
「それはそうと――ロルフ。おまえこそ、俺に用があるんじゃなかったのか」
「ああ」
ひょうきんな言動が特徴的なロルフは、しかし、表情を真剣なものに改めると、低い声で告げた。
「男爵家のアメリアが、俺のところに泣きついてきた。なんでも、妹のように付き合っている従妹がビアンカサマの侍女をしているらしいんだが、ひどい扱いを受けているらしい。今日なんて、顔に向かって化粧道具を叩きつけられたと」
「子どもの喧嘩だな。捨て置け」
「いや、それが、化粧道具に入ってた落ちにくい顔料が顔に当たって、運の悪いことにべったり頬が黒く汚れてしまったんだと。で、アメリアの従妹も女の子なもんだから、どうか落としてくれってビアンカサマに泣きついたんだが――そんなの、魔力を使えばちょちょいのちょいだろ? でも、けんもほろろに断られたらしい」
オスカーは顔を顰めた。
「……施し程度の魔力の行使すら拒否か。お貴族様らしい」
「ああ。まさにそれが問題だ。もともとアメリアは話を大きくする癖があるうえに、この手の話は誇張されやすいもんだが、それを差し引いても、魔力行使拒否は、俺たちの逆鱗だ。――そうだろ?」
「…………」
藍色の瞳が、すっと不穏に細められた。
「くだらないキャットファイト程度なら、おまえは放置しろって言うんだろうけどさ。これはちょっと耳に入れとかないと、と思って、報告しにきたわけ」
「……そうだな」
低く、短い相槌。
オスカーは立ち上がった。
「ロルフ。ビアンカを呼び出せ」
「あいよ。だが、ビアンカサマはいつもお取り巻きと一緒だ。単身だけ誘導するのは難しいかもしれないぜ?」
「構わん。一人二人くらいなら一緒に連れてきてしまえ」
友人に向かって、彼はくいと口の端を持ち上げた。
「俺たちの『お茶会』に、いとも尊きビアンカ様をお招きするところを、ぜひとも見てもらわなくてはな」
まるで、獰猛な獣のようなその笑みに、ロルフは「おお、こわ」と呟いた。
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