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10.レオ、絵画を鑑賞する(前)

 万人に向けて微笑むものの、一人だけに対してはけして心を動かさないことで知られるアルベルト皇子が、入学早々レオノーラ・フォン・ハーケンベルグの部屋を訪れたことは、学院内で瞬く間に噂となり、様々な憶測を呼んだ。

 たとえそれが、過激な行動を取った妹について詫びるためだとわかっていても、である。


 その日を境に、少女が物言いたげな視線を皇子に向けることが増えたのも、その原因だった。

 ただ、少女はその美貌とは裏腹によほどつつましい性格なのか、直接皇子の視線を捉えようとはせず、彼の胸元辺りをこっそりと窺っているくらいのことしかしない。そのいじらしさのためか、周囲はやっかみというより、微笑ましい気持ちをもって二人を見守っていた。


 一方で、そんな二人に穏やかでない視線を向ける者たちもいた。


 一つは、庶民出の侯爵家令嬢を取りこまんとしていた、オスカー・ベルンシュタインの一派。こちらは、ビアンカと少女の対立を機に動き出そうとしていたのを、皇子の謝罪と和解によって出鼻を挫かれてしまい、振り上げた拳をむりやり下ろすような形でなりを潜めていた。


 そしてもう片方は、


「恋という熱病には困ったものね……」


 自室で、大量の本に囲まれながらそっと呟く公爵家令嬢――ナターリア・フォン・クリングベイルである。


 彼女は、徐々に冷めつつある紅茶を一口啜ると、静かに溜息をついた。

 従者も侍女も下がらせてしまったため、彼女のそばには、山と積まれた本や巨大な本棚しかない。妙齢の女性というよりは、学者か政治家のような厳しい表情を浮かべて、ナターリアは思案気に虚空を見つめた。


「レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ。彼女は、皇子にとって――いえ、ヴァイツ帝国にとって、益となる者か、仇なす者か、どちらかしら」


 彼女が考えているのは、もちろん大切な従弟であるアルベルトと、最近彼が気にかけているらしい少女のことである。


 アルベルトが、妹ビアンカの行いを謝罪するために、少女の部屋を訪れたのは二日前。その日、生徒会の仕事で会った彼は、これまでになく明るい顔をして少女のことをナターリアに語ってみせたのである。


(彼があんなに他人のことを話すのは、久しぶりだったわね)


 ナターリアは思った。


 彼女の従弟は、その優れた容貌と如才ない身のこなし、そして金貨の祝福によって、すり寄ってくる者が後を絶たない。だが、常に過剰な注目と媚びた視線を浴びてきた彼は、ここ最近、すっかり素の感情を見せることをやめてしまっていたのだ。


 愛するより多く愛される者は、他者から向けられる好意にさほど価値を見出せなくなり、次第に人に関心を持ちにくくなっていく。アルベルトはその典型で、穏やかな笑顔の下には、いつもひんやりとした無関心を湛えていたのを、ナターリアは感じ取っていた。


 それがどうだろう。


 少女の部屋を訪れた後、彼はまるで初恋を覚えたばかりの少年のように、瞳を輝かせて彼女の人となりを語り、その後も何くれとなく彼女に目を配っているようなのである。


 もちろん、政治的なまでに万人に等しく接するアルベルトだけに、今のところは彼の変化に気付いている人物はほとんどいない。だが、ナターリアは、彼に兆しはじめている淡い恋の予感を、それとなく感じ取っていたのであった。


(身分的には問題ないわ。ヴァイツの剣にして盾、ハーケンベルグ侯爵家の令嬢。美貌は言わずもがなだし、マナーも、下町育ちというのが信じられないくらいよく身につけている。皇子の言葉を信じるならば、心根も素晴らしいのでしょう)


 しかし、とナターリアは眉を寄せた。


(庶民出の女子生徒が、第一皇子と恋仲になる? まるで、フローラの禍の再来ね)


 一側面を見れば、そうなる。

 その場合、かつてのクラウディアの役割を演じるのは自分になるのであろうとも思った。


 だが、クラウディアと異なり、ナターリアは別にアルベルトに恋情を抱いているわけではない。彼女はむしろ、意外にも周囲の人間に恵まれていない従弟が、いつか真に信頼できる相手を見つけ出してくれることを願ってすらいた。


 とはいえ、いや、だからこそ、彼に近付く女性に厳しい審査の目を向けてしまうのは、仕方のないことである。


(レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ……)


 ナターリアは、知的な鳶色の瞳をふっと細めた。


「見極めさせてもらうわ」



***



 ビアンカは、回廊の向こうから優雅な足取りで向かってくる美貌の少女の姿を認めて、大きく深呼吸をした。


「この前はごめんなさい、この前はごめんなさい……大丈夫、言えるわ」


 いつもは勝気な表情を浮かべている瞳も、今日ばかりは緊張のために目尻が下がっている。

 彼女は、先日自分が追い詰めてしまった少女――レオノーラ・フォン・ハーケンベルグを回廊に呼び出し、謝ろうとしているところだった。


 正直なところ、これまでビアンカが年下の、それも自分より身分の低い相手に謝罪の言葉を口にしたことなどない。仲直りなど、する必要もなかったからだ。


 だが、あの日自分が仕出かしてしまったことの重大さを、少女の従者に突きつけられてからというもの、ビアンカはひたすら苦い後悔を噛み締めていた。少々わがままなところがあるだけで、彼女はもともと年齢と身分に見合った、高潔で真っ直ぐな心の持ち主なのである。


「ビアンカ様」


 はたして、少女が回廊の、ビアンカが指定した場所に訪れた時、しかしビアンカは不甲斐ないことに硬直してしまった。


「ありがとうございます!」


 今日も薄墨のドレスに身を包んだ少女が、なぜか満面の笑みを浮かべて礼を寄こしてきたからだった。


「ありがとう……?」

「そのサシェ。持っていて、くださって」

「え? ああ」


 白い指先が指す方を見て、はっとする。ビアンカは無意識のうちに、兄皇子から渡されたサシェを握り締めていたのだ。サシェといっても小ぶりで刺繍も美しいので、最近では寝室だけではなく、どこに行くにもお守りのようにして持ち歩いている。袋からは、まるで少女の醸し出す雰囲気のように、甘く柔らかな香りがしていた。


「これ……兄からもらったわ。その、どうもありがとう」

「いえいえ。ビアンカ様、持ってくださる。私、とても幸せです」


 レオはそれがもたらす経済効果を思ってにたりと微笑んだ。


 そう、アルベルト皇子に手渡した時の読み通り、皇族がサシェを持ち歩くことのブランド効果は絶大で、お陰さまでレオの手持ち在庫は全て完売、想像以上の利益を得ている。しかも完売のおかげで更にプレミア効果で値が釣り上がっているので、様子を見ながら増産すれば、まだまだ稼げるだろう。笑いが止まらないとはこのことだった。


「あなたという子は……」


 そんなレオのゲスな思惑など想像もしないビアンカは、いじめまがいのことをした相手を恨むでもなく、手作りのサシェを貰ってもらったと喜ぶ少女の姿に、深く心打たれていた。気が付けば、少女の両手をぎゅっと握り締めていたほどだ。

 そして、


「ごめんなさい。先日は、本当に悪いことをしたわ。どうか、わたくしのことを許して」


 謝罪の言葉はすんなりと口をついてきた。


「許す……? ビアンカ様、何もしていません。逆に、私、もらってばかりです」

「何を言うの! ああ……でもいいわ、あなたの考えはお兄様から聞いたし、わたくしが悪かったということをあなたに認めてもらいたいがために呼び出したわけではないもの。わたくしが、あなたをこうして呼び出したのはね、レオノーラ。あなたが派閥のようなものが嫌いだというなら、その……」


 早口で告げてから、ビアンカは唇をきゅっと引き結んだ。この手のことは勝手がわからないし、ひどく気恥ずかしい。


 ビアンカは、緊張で強張る顔を逸らしながら、叫ぶように言った。


「わたくしと、その、友達になって……あげてもよろしくてよ!」


 まるで青春の一ページのような光景に、通りがかる生徒は固唾を飲んだ。


 ――ビアンカ様、微妙に言い回しが……!

 ――レオノーラ様、どうか察してあげてください!


 皇女が年下の侯爵家令嬢に友情を求めるという異常事態を、しかし周囲は自然に受け止めている。それどころか、少女がそれを断りやしないかと、ひやひやしながら見守る有り様だった。


「はあ……」


 レオはぱちぱちと目を瞬かせる。


 下町育ちのレオにとって、友情とはわざわざ宣言して育むものではなかったが、別にビアンカと友人になったところで損をするわけではない。

 なんといっても、ビアンカと自分とでは住む世界が異なりすぎて、交わる気もしなかったので、「友達になりたい」という申し出も、きっと冗談かドッキリだろうと、あっさり処理したのである。


「はあ……。では、あの、よろしくお――」


 お願いします、と続けようとしたレオの言葉を、しかし、


「レオノーラ!」


 明朗な声が遮った。

 本日も金髪が陽光に眩しい、アルベルト皇子である。


「お兄様……」

「アルベルト皇子……」


 振り返ったレオは、複雑な表情を浮かべた。アルベルトはレオにとって、サシェを宣伝してくれるありがたい恩人であり、狙っている金貨を持っている将来のカモであると同時に、レオの社会的生命を終わらせるかもしれない危険人物である。

 レオは彼を目にするたびに、はにかんで揉み手でもすればよいのか、近寄って付け込めばよいのか、はたまた怯えて逃げればよいのか分からなくなる。

 結局今日も、逡巡を含んだ目付きで、じっと彼の胸元に掛かった金貨を見つめることでしかできないでいた。


 金貨を奪ってから学院を出たい。だがさすがに命は惜しい。難しい問題である。

 もはや、学院生活の趣旨をすっかり不健全なものにすり替えていたレオだった。


 と、その時、アルベルトの陰からすっと歩み出た人物がいた。


「ごきげんよう、ビアンカ様。そして――レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ」


 素っ気なく束ねた亜麻色の髪と、知的な鳶色の瞳が特徴的な、アルベルトの従姉。

 ナターリア・フォン・クリングベイルである。


「ごきげんよう、ナターリアお姉様。お兄様も、どうしてこちらへ?」

「どうしてもこうしても。おまえがレオノーラを呼び出したと、僕のもとに真っ青になった従者が掛け込んでくるものだから、心配して駆け付けたんじゃないか」

「まあ! なぜ従者がお兄様のもとに掛け込む必要があるの?」


 憤慨したビアンカに、ナターリアがぴしりと声を掛けた。


「おわかりではございませんか、ビアンカ様。ここ数日、ビアンカ様はそわそわするあまり、侍女や友人に当たり散らしたというではありませんか。そんな状態のあなた様が、年端も行かないレオノーラを再び呼び出したとなれば……」


 ビアンカはぐっと言葉を詰まらせた。


「そ、それは……。でも、わたくしはこの子に謝ろうとしただけよ。それに、当たり散らしてなどいないわ!」

「ご自覚すらありませんか」


 ナターリアは溜息をつき、ロイヤルな会話にすっかり取り残されている少女に向き直った。


「申し遅れましたね。わたくしは、クリングベイル公爵家の娘、ナターリア。アルベルト様とともに、この学院の生徒会を務める者です。ビアンカ様は下級学年長ですが、もし彼女に相談しにくいことがあったら、どうぞわたくしたちに直接相談なさってね」

「ナターリアお姉様!」


 淡々と告げられた内容に、ビアンカが叫んだ。

 アルベルトは怒れる妹を宥めるものの、しかし彼女の味方には付こうとしない。その姿を見て、レオは素早く人間関係を察した。


 身分的にはアルベルトやビアンカがナターリアよりも上。ただし、アルベルトはナターリアに一目置いているし――そういえば二人は従姉弟なのだと誰かから聞いた――、ビアンカも年上のナターリアに逆らえないようだ。


 誰に媚びを売るか素早く当たりを付けるのは、下町で生き抜く秘訣である。

 レオはにっこりと笑みを浮かべると、


「ありがとうございます、ナターリア様。私こそ、申す、遅れました。レオノーラと申します。あと、こちら、手作りのサシェです。ナターリア様に使っていただける、とても嬉しいです」


 最敬礼をして、ちゃっかりナターリアにすり寄った。ついでにサシェも押しつける。


「まあ、きちんとしたご挨拶ができるのね、レオノーラ。それに、このサシェもとてもいい香り。アルベルト様がお持ちなのと同じね? わたくしも欲しかったの」


 にこりと笑みを浮かべるナターリアは、さすがアルベルト達の血縁だけあって、整った顔立ちをしていた。プロモーション役の美女が増えそうな予感に、レオはいよいよ上機嫌だ。


 脳内でサシェの追加生産について皮算用を始めていたレオだったが、ナターリアはふと「今思い付いた」というように、ぱんと手を合わせた。


「ねえ、レオノーラ。まだお時間は有って? この回廊の奥、こちらの通路は、ちょっとしたギャラリーになっているのよ」

「ギャラリー?」

「そう。皇家にも縁の深い、様々な絵画や宝飾品を展示してあるの。ちょっと扉があるせいで入りづらいけれど、生徒は誰でも自由に見ることができるのよ」


 彼女が指し示したのは、回廊の奥にひっそりと佇む鉄扉だ。全体に華美な装飾が施されているが、ぴたりと閉じられているため、人の出入りを拒んでいるようにも見える。そのせいでそこを探索対象から外していたレオは、「宝飾品」と聞いてぴっと守銭奴センサーを働かせた。


 頂戴できるものは転がっていないかもしれないが、「お宝」とつくものは何でも大好きだ。無料で貴重品を眺め倒すことができるのも、大変好ましい。


「行きます!」


 即座に答えたレオだったが、難色を示したのはヴァイツゼッカー兄妹の方だった。


「ナターリア……?」

「ナターリアお姉様、なんのおつもりですの? 設備の案内でしたら、下級学年長であるわたくしが致しますわ」


 兄皇子はナターリアの意図が読めず怪訝そうに。妹はよりきっぱりと拒絶を口にしたが、ナターリアは微笑んだまま譲らなかった。


「でしたら、参りましょう。アルベルト様も、ビアンカ様も、よろしければご一緒にどうぞ」


 あくまでこの場を仕切るのは提案者である自分だ、という姿勢を示しつつ、滑らかに少女の手を取り通路に向かわせる。アルベルトもビアンカも、一瞬互いの顔を見合わせた後、すぐにそれに続いた。


 扉の向こうに並んでいたのは、はたして、名画の数々だった。


「わあ……。……」


 しかし、歓声を上げかけたレオは、尻すぼみにそれを終わらせた。


 レオが大好きな金だとか金だとか金だとか、そういったものが無かったからである。


「……お宝……?」


 小さく呟くレオに、ナターリアが微笑んで答えた。


「ふふ、素晴らしいでしょう。肖像画の名手として知られるゲープハルトの、最新のコレクションよ。――あら、宝剣や宝石の類は無くなってるわね。たぶん、美術館に貸し出しでもしているのでしょう」


 レオはがくりと項垂れた。

 キラキラしたものは金貨っぽくて好きだが、絵画は興味の範疇外だ。名画だと言われても、その下に値札でも付いていない限り、レオにはその価値がわからないのだから。


「ほら、見てみて。わたくし、特にこの辺りの作品が大好きなの。『忠告するクリングベイル公爵夫妻』に『トマミュラー夫人』、それと『フォーグラー博士の研究』とかね」


 ナターリアが微笑みながら指差す絵画を、レオはうつろな目で眺めた。どれだけ美しくても、絵は絵だ。飛べない豚はただの豚であって、手に取れない絵の中の金貨は、ただの黄色っぽい絵具の塊でしかない。


 その時、いち早くナターリアの意図に気付いたアルベルトが、眉を寄せながら切り出した。


「ナターリア。彼女に血縁のない貴族たちの肖像画を見せてどうするつもりだ。――レオノーラ、すまないね。ここはいつでも開放されているから、気が向いたときにゆっくりとご覧。別に今日――」

「いいえ、レオノーラ」


 だが、皇子の言葉を遮って、ナターリアはきっぱりと告げた。


「わたくしは聞いてみたいのよ、レオノーラ。あなたのそのハーケンベルグの瞳には、どの絵が一番好ましく映るのかしら」

「好ましく……?」

「ええ。ヴァイツ帝国が擁するこの学院の生徒として、貴族の娘として、――そして、アルベルト皇子に並び立つ可能性を持つ者として。あなたは、何に重きを置くのかしら」


 その言葉で、ビアンカはようやく従姉の思惑を悟った。


 ナターリアは、この少女を見極めようとしているのだ。貴族の教養の極致、絵画を、評価させることによって。


(そんな! レオノーラは今まで下町で育ったのよ。教会で見られる精霊画ならともかく、高位貴族でもないと見る機会のない肖像画の評価の仕方など、わかるはずがないではないの)


 ビアンカは唇を噛む。かつては自分だって、兄皇子に近付く女たちを排除してきたものだったが、この寄る辺ない身の上の少女にかなり肩入れをしつつある彼女は、ナターリアのやり口に我慢がならなかった。


「ナターリアお姉様、お待ちください。何もそんなやり方で……」

「そんなやり方? どういうことでしょうか。わたくしは単に、レオノーラに絵の感想を聞いているだけですわ」


 ナターリアの切れ長の瞳が、鋭くビアンカを射抜いた。


「密室ではない開けた通路で、必要以上に人目に触れることなく、ね」

「…………!」


 その表現に皇女が唇を噛む。兄皇子も僅かに苦い顔をした。

 要は、かつて少女を自分側のホームであるサロンという密室に招き、大勢の取り巻きのいる前で辱めたビアンカが、余計な口出しをするなということだ。


 しかし、いくら人気が少ないとはいっても、多少の人の出入りはある。特に、ものものしい雰囲気を醸し出す四人のやり取りに、周囲がこっそり聞き耳をそばだてているのは明らかで、そんな中で少女が頓珍漢な受け答えをしたら、嘲笑の対象になるのは目に見えていた。


「ナターリア、よしてくれ。レオノーラ、気にすることはないからね」

「いいえ。絵、見ます」


 その場を執り成そうとしたアルベルトだったが、少女は凛と背筋を伸ばしてそれを断った。


「ナターリア様のお勧め、こちらですか?」


 レオは別に、ナターリアの意図を理解し、挑戦を受けて立ったわけではない。ただ、無料で絵を見せてくれるのだから――その価値がどんなものかはさっぱり分からないが――、ひとまず見るだけ見て、感想くらいは言ってもいっか、と思ったのだ。なにぶん、感想を口にするのはタダで出来る。


 真っ直ぐと視線を向けてきた美貌の少女を見て、ナターリアもまた口の端を釣り上げた。


「素晴らしいわ、レオノーラ。――そうね、わたくしが好きなのはこれら三つ。ほぼ同時期に描かれたもので、サイズも同じ。絵の価値が決まるとしたら、その描かれている中身による、といったところかしら。あなたは、どの絵が魅力的だと思うかしら」

「魅力的……」

「ええ。そうね、最も価値あるものはどの絵に描かれているか、と言い換えてもいいわ」


 優美な手つきで示された三つの絵画を、レオは改めてとっくりと眺めた。


 「忠告するクリングベイル公爵夫妻」と題された絵は、穂を垂れる広大な小麦畑や草をはむ羊のいる丘を背景に、シンプルな装いをした貴族の夫婦がゆったりと寛いでいる様子を描いたものだ。

 題名から察するに、恐らくナターリアの両親か血縁なのだろう、彼女に似た知的な面差しの二人だった。穏やかな秋の陽光を頬に受け、どことなく自信に溢れた表情を浮かべている。


 「トマミュラー夫人」の方は、ふっくらとした肢体を持つ女性の絵で、彼女は一目で高級と分かる布や宝石で全身を彩っていた。

 背景のテーブルにも花や豪華な燭台が飾られており、女性がかなり裕福なのだということが窺える。


 「フォーグラー博士の研究」は、気難しい表情を浮かべた初老の男性の絵で、彼はびっしりと壁を覆い尽くす本棚の前で、分厚い書物に視線を落としていた。


 どれもまるで目の前で本人が呼吸をしているような、見事な筆致である。


 ビアンカは少女の背後から三つの絵を覗き込み、歯噛みした。


(引っ掛けだわ……)


 皇女として高水準の教育を受けてきた彼女だからこそわかる。

 彼女の従姉は、絵の教養など無いにちがいない少女のことを、完膚なきまでに叩きのめそうとしているのだ。


 ナターリアは、「最も価値あるものはどの絵に描かれているか」と尋ねた。少女が、描かれている何を一番に評価するかを、それで把握するつもりなのだろう。

 値踏みするような従姉の姿から視線を逸らし、ビアンカは改めて絵を見つめた。


 当代きっての名画家、ゲープハルトの三枚の絵。


 一見すれば、色とりどりの布や宝石に溢れている「トマミュラー夫人」の絵が、最も高価で魅力的に見える。だが、その答えを出したのでは、アルベルトの妃となる可能性を持つ女性としては失格なのだ。


(ゲープハルトは、肖像画の名手であると同時に、優れた風刺家。その鋭い観察眼はクリングベイル宰相に勝るとも劣らないと言われているわ。つまり、この絵は単なる肖像画などではなく、暗喩に溢れた風刺画)


 ビアンカは「トマミュラー夫人」の絵に向かって目を細めた。


 豊満な夫人を彩る七つの宝石に、シルエットをすっかり覆ってしまう艶やかな布。宝石は、精霊が嫌うとされる七つの悪徳の象徴で、真実の線を隠す布は虚飾の表現だ。


 後ろのテーブルに置かれた花も、よく見れば先端の花弁が枯れはじめているし、燭台の火も頼りなく、今にも消えそうに描かれ、夫人の方に淡く影を落としている。


 散財と虚飾に満ちた女性が、いずれその美と財産を失っていくことの暗示であろう。


 強欲に支えられた美。しかも衰えることが目に見えている。


 これを「最も魅力的」と讃えるようなら、未来の帝国妃としては落第だ。


(となれば、残るは「忠告するクリングベイル夫妻」か「フォーグラー博士の研究」……)


 ビアンカは二つの絵を見比べて、眉を寄せた。


 描かれたクリングベイル夫妻は、表情こそ威厳と自信に溢れているが、装いは質素そのものだ。特に夫人の方は、乗馬に適しそうなパンツスタイルで、機敏さを優先したと取るか女性らしくないと取るか、微妙なところである。

 「質素堅実」という美徳の持ち主ならこの絵を選ぶべきだろうが、「女性らしい淑やかさ」といった点では、ふさわしくないように思えた。


 一方フォーグラー博士の方はといえば、装いこそ学者らしくシンプルだが、彼の纏っている黒いケープはよく見ればサバラン地方特有の刺繍が入っているし、何より背後を固める大量の書物は、圧倒的な知識の象徴だ。


 特に、博士が手にしているものを始めとした数冊は古代エランド語でタイトルが記されていて、字が崩してあってビアンカでも読めないものの、非常に希少なものであろうことがわかる。


(ナターリアお姉様は、ご自身の教養に強い自負を持っている。その点でも、きっとフォーグラー博士の方に違いないわ。レオノーラ、どうか博士の絵を選んで!)


 ビアンカは無意識に両手を組みながら、少女に向かって祈った。


 一方アルベルトも、ビアンカとほぼ同様の思考を経て真っ先に「トマミュラー夫人」の絵を選択肢から落としていた。

 しかし、妹より深い教養が、「フォーグラー博士の研究」の方にもさりげなく罠が散りばめられていることを告げている。


 ただ、その内容があまり女性には気づかれにくいものだろうと知っていた彼は、ナターリアの意図はどこかを探って沈黙を守っていた。

 それに、出会ってからこちら、常に自分に心地よい驚きをもたらしてくれる少女が、一体どんな選択をするのか見てみたい気持ちもあった。


(彼女なら、僕たちが思いもつかない考え方で、意外な答えを出してくれるのかもしれない――)


 じっと少女を見つめる皇子の隣で、ナターリアもまた腕を組んで無言を貫いた。


 さて、そんな三人の視線を一身に浴びながら、レオはぼんやりと


(すっげー、リアルな絵。すっげー。リアルすっげー)


 とても幼稚な感想だけを抱いていた。


 レオにとっては、絵は絵だ。とびきり美しかろうが、ずばぬけて写実的であろうが、絵を見ているだけでは人の腹は膨らまない。


 だが、「最も価値があるものが描かれているのはどれか」とナターリアは尋ねてくれたので、それであれば多少の関心を持って鑑賞できる気がしていた。


(要は、絵に描かれたどれが一番高そうですか、ってことだろ?)


 ふむ、と鷹の目モードでじっくり絵を眺めてみる。

 気分はリヒエルトきっての世知辛い質屋の主人。彼になりきって、すっかり品を安く買い叩く体勢だ。


 まず、真っ先にレオのバイヤーセンサーに反応したのは、当然ながらトマミュラー夫人だった。


 大きな宝石だけで、七つ。全身を覆う布に、ところどころ散りばめられた小さな宝飾品も素早く査定の対象に含めていく。生花は転売できないので押し花にでも加工する前提で、燭台は台座に埋め込まれた宝石だけをくり抜いたうえで骨董品市に出すとする。


 もちろんテーブルそのものも売り物の対象だ。それに、壁紙、床の素材――


(んっんっんー、この壁紙、なかなかいいじゃなぁい? でも残念、ちょぉっと広さが足りないのよね。壁紙っていうくらいだもの、一家の壁全部覆えるくらいないと、満足に値段も付けられないのよねぇ――はい、小銅貨十枚。とかそんなこと言いそうだよな、あのカマオヤジ)


 過去の経験を思い出し、なんとなくざらっとした気持ちになりながらレオは査定を続けた。全部で、銀貨三枚といったところか。


 次いで見るのは、フォーグラー博士の絵だ。びっしりと書架に並んでいる書物を売り払えば、ちょっとした財産になるだろう。


(特にあの、ものものしい背表紙の本。崩されてるけどエランド語っぽいし。ええと、なんて書いてあるんだ? 『み、だ、さ、……』)


 レオはばっとナターリアを振り返った。


 心臓をばくばくさせながら見つめるが、彼女は不思議そうにこちらを見返すだけである。恐らく、彼女はこの題名の意味までは読みこんでいないのだろう。


(そういや、びっくりなことに、エランド語って貴族にとっては古典扱いなんだっけ。読めるだけで教養人とかゆー)


 エランドは、ヴァイツ帝国に数十年前に滅ぼされた小王国である。領土こそ小さかったものの、精霊の最初の土地とされるそこは宗教立国であり、洗練された文化や言語は、帝国の人間の憧れでもあった。


 しかしながら、戦禍を逃れて孤児となったエランド人の幼馴染がいるレオにとっては、エランド語は古典というより、慣れ親しんだ友人の方言、といった感覚であった。

 特に、とある事情も手伝って、一時期かなり真剣にエランド語を勉強したために、呪いの掛かった今ではヴァイツ語より流暢に操れるのではないかという程である。


(……えーと。この手の本は、まあ値がつきやすいけど、内容が内容だから、……まあ、銀貨二枚プラス銅貨数枚、ってとこかな)


 レオは冷静に判断を下した。


「レオノーラ? どうなさって?」


 挙動不審なレオのことが気になったのか、ナターリアが声を掛けてくる。


 レオは「いえ」と小さく断ると、早々に結論を告げることにした。

サブタイトルを修正しました。

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