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9.レオ、皇子と対面する

「よし!」


 最後の糸の処理を終えたレオは、満面の笑みを浮かべて顔を上げた。


 目の前の箱には、山と積まれたポプリ入りの布袋――サシェ。いらない素材を集めてつくる、0円工房のミッション完了である。


「ん、香りも素晴らしい」


 一つ一つを検品しながら、その出来栄えに大きく頷く。やはりもとの素材が一級品だけあって、仕上がったサシェは、ちょっと高めの小物店に置いてあってもおかしくないほどの会心の出来だった。


(やっぱ、最後に香水の染み込んだ布を足したのが良かったんだよなー。ムエルタの花の香りとも引き立て合って、ふはは、やばいなこれ、他の誰にも真似できない独自ブレンドとかいって人気出ちまうな)


 その先の儲けを夢想して、レオの頬はだらしなく緩んだ。

 そう。

 前日ビアンカに香水を浴びせられたドレスを――匂いが強すぎてもはや涙が出るほどだった――、レオは部屋に戻るなり切り裂き、ムエルタのポプリと混ぜ合わせてサシェに仕立てたのである。


(うー、朝日が眩しいぜ)


 レオは、カーテン越しに射し込む陽光にしょぼしょぼと目を瞬かせた。

 睡眠を邪魔されるのは大嫌いだが、儲けるためにする徹夜は嫌いではない。金への愛が快楽物質となって全身にこれ満ち、レオを躁状態に押し上げるためだ。


 結局、作業にはまるまる一晩掛かった。その間に、カイが何度か呼びに来たが、香りを逃さないよう急いで作業する必要があったため、食事を受取る以外はほとんど会話もしていない。なんだか心配していたようなので、そろそろ安心させてやらねばならないだろう。


 と、レオが体をぼきぼき鳴らしていると、扉の外から焦った声が聞こえてきた。


「レオノーラ様、レオノーラ様! 起きていらっしゃいますか!」


 件の従者、カイである。


「どうしましたか?」


 充血した目をこすりながら扉を開けると、カイはなぜか痛ましそうな表情を浮かべ、それから我に返って叫んだ。


「早くから申し訳ございません。ただ、緊急事態でして……!」

「緊急?」


 レオはことりと首を傾げた。


「アルベルト皇子殿下が、こちらのお部屋においでなのです!」

「え」


 一瞬ぽかんとしてしまう。

 どうやら、昨日妹姫に呼び出されたと思ったら、今朝はどうやら兄皇子のお出ましらしかった。


「ええと……どうして?」

「もちろん、昨日のビアンカ皇女殿下の一件でお詫びにと。ですが、ああ、申し訳ございません、レオノーラ様、とにかくお時間がございませんので、まず、まずはお支度を……!」


 従者がテンパっている。

 しっかりした子なのに珍しい光景だなあと、レオはなんとなく微笑ましい気持ちになりながら、「まあ、落ち着いて」とカイを諭した。


 下町の孤児院育ちのレオからすれば、ヴァイツ帝国第一皇子など雲の上の人であるが、それを言ったらそもそもこの学院に在籍するお貴族様全員が雲上人なわけで、年末ジャンボ精霊くじの当選額が一定を超えるともはや差を感じないように、アルベルトとそれ以外で態度を変える必要もあまり感じない。レオにとっては、みな押し並べて「超えらい人」なのである――いかんせん、敬意を表すには言語が追い付かなかったが。


 カイは、主人の恬淡とした様子に恐れ入りながらも、素早く身支度を整え、恭しく扉を開けた。


「――やあ。朝早くから、それも女性の部屋に突然すまなかったね。許してくれるだろうか、お嬢さん」


 眩しい笑顔とともに、一抱えもある花束を抱えて入ってきたのは、アルベルト皇子その人であった。登校前の時間だからか、仕立ての良いシャツに黒いパンツという、カジュアルすぎはしないがシンプルな装いをしている。


「……お嬢さん、違います」


 ついぼそりと言い返してしまったのは、やはりイケメンへの脊髄反射的な敵対心からだろう。朝の陽光に勝るとも劣らない美貌は、平凡顔を自負するレオの心を、ただそこにいるだけで攻撃してくるかのようだった。


 アルベルトは、幼い少女のかわいい反抗に、おやと眉を上げた。


「失礼。君は立派なレディだったね。レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ」


 爽やかに笑いかけながら、優雅な手つきで花束を差し出す。

 レオはそれに、さっと無感動な視線を走らせた。


――トルペ。香りもなければ食べられもしねえなと。


 トルペとは、春先にかけて咲く釣鐘型のカラフルな花だ。精霊祭の時期に満開になり、結婚式にもよく使われるため、祝福の花だとかとも言われるが、観賞以外に実用性を見いだせないトルペの花は、レオにとって興味の範疇外だった。季節外れのこの花を確保するには、実はかなりの額が掛かっているのだが、花にあまり関心を払わないレオはそれに気付かない。


(どうやら、嫌われてしまったかな)


 年頃の娘なら、異性から差し出されて誰もが喜ぶトルペの花の前ですら、警戒の表情を崩さない少女に、アルベルトはほんのり苦笑した。

 過信するわけではないが、王妃譲りの甘い美貌に、優しい笑みを浮かべれば、これまで大抵の令嬢が心をほぐすのが常だったのだ。


 アルベルトは気を引き締め、改めて真剣な面持ちになった。


「知っていると思うが、僕は学院の生徒会長のアルベルト・フォン・ヴァイツゼッカーだ。だが、今日はビアンカの兄としてここに来た。――レオノーラ。昨日の一件のことはビアンカから聞いた。妹がすまないことをしたね。申し訳なかった。許してくれとは言わないが、妹も反省しているということだけ、僕に伝えさせてくれないか」


 学院の生徒会長にして第一皇子のアルベルトが頭を下げたことに、控えていたカイが瞠目する。それをよそに、レオはきょとんと首を傾げた。


「ビアンカ様、反省?」


 彼女はそういえばちょっと強気に勧誘をしてきたが、自分はそれをきっぱり断ったし、そういえばちょっと罵られた気もするが、その後ちょうど自分の欲しかった香り付きの布もくれたので、レオとしては反省される理由があまり思い至らない。


 アルベルトは苦笑した。


「ああ。さすがにあの妹だって、悪いと思ったことを反省するくらいのことはできる。合わせる顔がないと言って僕に託してきたが、彼女なりに考えてこの花を選んだのだから」


 ビアンカは、葬花のことを打ち消すために祝福の花を、香水の強い香りを思い起こさせないために香りのない花を選んだのだが、そのような細やかな配慮が理解できるレオではなかった。


「ふうん……?」


 ついでに言えば、妹の喧嘩に兄がしゃしゃってくることの方が、庶民感覚的には解せない。


 それでも、別にビアンカに恨みはなかったし、たとえ実用性に乏しいトルペであっても、タダでもらえるものは何でも嬉しくはあるので、レオは素直にそれを受け入れることにした。


「ありがとうございます」

「こちらこそ、ありがとう。受取ってくれるんだね?」

「はい。私、何も気にしていません」


 偽らざる単純な事実だったが、アルベルトはその言葉にほっと肩の力を抜いた。


(ビアンカから聞いてはいたが、心の広い子なのだな……)


 昨夜、泣きながら「お兄様!」と男子寮に駆け込んできた妹に、アルベルトは驚いたものだった。もともと兄妹仲は悪くない方だったが、近頃すっかりませた妹が、泣きじゃくりながら縋ってくることなど滅多になかったからだ。


 アルベルトはなんとか妹を落ち着かせて話を聞き出し、どうやらナターリアと自分が、この妹の行動力に出遅れてしまったことを悟ったのだった。


(それにしても、美しい子だ)


 自らも「精霊の愛し子」と呼ばれるほどの麗しい顔を持つアルベルトであったが、少女の美貌はずば抜けている。亡きクラウディアは蜂蜜色の髪の持ち主だと聞いているから、恐らくこの艶やかな髪は父親譲りなのであろうが、その深い夜を溶かしたような色は、潤んだ紫瞳や滑らかな白い肌、ほんのり上気した薔薇色の頬に映えて、実に神秘的だった。


「レオノーラ……」

「はい」


 なんとなく呼び掛けてしまって、はっとする。これでは、普段あれだけ自分が軽蔑している、異性の容姿にのぼせ上がったご令嬢たちと変わらなかった。


「いや、……ああ、そうだ、ビアンカが汚してしまったドレスを、弁償させてくれないだろうか。まったく同じものは難しいかもしれないが、逆に君の好みのものを仕立てさせよう」


 その申し出に、少女は少し考え込んだようだった。


「……いいえ。別に、いいです。同じでないなら」


 レオとしては、好みでないドレスの末路などどうでもよかったのだが――レオはサバランの価値を知らなかった――、もし全く同じものが仕立てられるなら、万が一エミーリアに再会することがあっても、ドレスを引き裂いてサシェの原料に回したことをばれずに済むなと考えたのだ。複数の男から同じ指輪をせしめて、一つ以外を質屋に回す女と全く同じ発想だった。


「それは……やはり、頂き物のドレスだから、ということかな」

「はい。エミーリア様、くれました」


 誰にもらったのかを尋ねられたかと思ったレオは、端的に事実を伝えただけだったが、アルベルトは申し訳なさそうに黙り込んでしまった。むろん、ドレスが少女にとって大切な思い出の品なのだと考えたためだ。


「それは……大変すまないことをした」


 少女に視線を合わせられるよう、アルベルトがぐっと前に身を乗り出す。

 その時、皇子の胸元できらりと光を弾いたものを見て、レオは思わず、


「あ……!」


 あんたなんで俺のカー様持ってんだよ、と叫びかけて失敗した。

 端整な皇子のシャツから覗く、無粋な革紐。その先には、レオにとって馴染みの古ぼけた金貨がぶら下がっていたのである。


 アルベルトは、体を近付けた途端、肩を震わせて叫び声を上げた少女にはっとなった。


(しまった。彼女は大人の男が怖いのだったか)


 カイ、ビアンカと経由した「レオノーラの過去」は、相当凄惨な内容になっているようである。


 すっかり強張った顔で、目も合わせずに、じっと胸元辺りに視線を固定している少女を見て、アルベルトは申し訳なさを覚えた。


「怖がらせてしまったようですまない。その、ドレスが要らないということなら、何か代わりに贈れるものはないだろうか」

「カー様をください」


 きっぱりとした声で告げられた内容に、アルベルトは一瞬戸惑った。


「え……?」

「私の、カー様を、返してください」

「レオノーラ……」


 再度、憎しみすら感じさせる視線と共に告げられた少女の願いに、皇子はがつんと頭を殴られたような衝撃を覚えた。


(彼女は……レオノーラは、我々のことを許していないのだ)


 それはそうだろう。アルベルトはこの帝国の第一皇子。かつて、レオノーラの母クラウディアを窮地に追いやった人物と同じ立場であり、かつ、そのフローラの禍でかつての第一皇子が継承権を破棄されたからこそ、アルベルトの父に王位が転がって来たのだから。


 片方は禍により全てを失い、片方は禍により至上の権力を得た。片方は母と安全な少女時代を奪われ、片方は次期王の位と最大の祝福を与えられた。それをどうして、恨まずにいられるだろう。彼女が「母を返せ」と言うのも当然だ。自分であれば、出会い頭に殺意すら向けたであろうと思うのだから。


 そんな少女に対し、厚かましくも「何か与えられるものはないか」と問うていた自分の傲慢さを、アルベルトは恥じた。


「すまない……。すまない、レオノーラ。君に母様を返すことができない僕たちを、どうか許してくれ」

「返せない!?」

「ああ。本当に申し訳ない」


 レオは、これだけ大金と権力に囲まれているであろう人物が、いけしゃあしゃあと金貨をねこばばしたあげく、それを返せないと言ってのけたことにぶち切れ、顔を真っ赤にした。彼はもちろん、自分だってかつてその金貨を人様から頂戴したということを、完全に棚に上げている。


「なぜ!? アルベルト様、たくさん、持っています!」

「ああ、その通りだ。僕は過ぎるほど多くのものに恵まれてきた。それなのに、君の唯一の願いすら叶えられない……」


 アルベルトは自嘲的な笑みを刻んだ。滑らかな頬を紅潮させ、大きな目を潤ませて激する少女に、自分は何一つしてやることができない、その無力さを思い知りながら。


「どれだけ金貨を持っていても、このざまだ」


 金貨王などと呼ばれているにもかかわらず、少女の欲しいもの一つさえ手に入れられない我が身を、アルベルトはそう言って突き離した。


 だが、それを聞いて少女はきっと目尻を釣り上げて、彼にとって思いもよらない言葉を叫んだ。


「金貨のせい、しない!」


 レオとしては、「てめえのケチを懐事情のせいにしてんじゃねえぞこら」と叫んだつもりだった。帝国一の金持ちのくせに、奪った金貨を返しもしない、あまつそのことをレオの信仰する金貨のせいにしているような言い方が、レオの逆鱗に触れたのだ。


「金貨、悪くありません。全部、全部、あなた次第です!」


 そう、ケチかどうかは所持金の多寡で決まるのではない、金払いの良し悪しで決まるのである。


 凛とした少女の言葉に、アルベルトはまたも頬を張られたかのような感覚を覚えた。

 彼女の言葉は、まるで「金貨王」という称号に対して自分が抱いてきた鬱屈とした想いを、ずばりと指摘したものであるかのように感じたのだ。


「全て、僕次第……」


 アルベルトは呆然と呟いた。


 自分よりもずっと幼く、社交界デビューすらまだ果たしていない少女、レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ。しかし、彼女が発した言葉は、これまで耳にしたどんな名言よりも深くアルベルトの心を揺さぶった。


(いや……)


 そこまで考えて、ふとアルベルトは思った。

 これとよく似た経験を、二年ほど前に自分はしたのではなかったかと。


「…………」


 ぼそりと、恐らく人の名前と思しき単語を呟いた皇子を、レオは半眼で見上げた。


「なんですか」


 せっかく人が啖呵を切ったのに、さては精霊の名でも唱えて縋っているのか。聞き取れなかったが、内容いかんでは全力で叩きつぶす、と内心で肩を回しはじめた時、目の前の王子がふっと苦笑いを浮かべた。


「いや、すまない。なんだか、昔のことを思い出してしまった」

「昔?」

「ああ……。今から二年くらい前かな。下町にお忍びで降りた時に、同じようなことを言われたんだ」


 映えあるヴァイツ帝国の第一皇子が、こっそりと下町で遊んでいたというスキャンダルに関心を取られ、レオはつい出鼻をくじかれた。


 目をぱちくりさせながら、続きを聞きたそうな素振りを見せた少女に、アルベルトは目を細めながら語り出す。これまでは従姉のナターリアにしかしなかった話だ。しかし不思議なことに、彼女にはすらりと打ち明けられるような気がした。


「……二年ほど前、僕の龍徴(りゅうちょう)が顕現してね――ああ、龍徴ってわかるかな? ヴァイツ帝国の直系男子にのみ現れる、家宝のようなものでね、人によって形状が変わる金なんだ。宗教統制の図られた先代の『金杯王』では聖杯、領土を広げた今代の『金剣王』では聖剣の形で現れて、僕の場合は金貨の形で現れた。だから僕が即位したら、僕の二つ名は『金貨王』になるだろう」

「金貨王……」

「そう。金貨の形で現れたのは、長いヴァイツ帝国史の中でも初めてのことらしい」


 アルベルトはふ、と静かに笑みを浮かべた。


「文化と芸術は経済の申し子。約束しよう、きっと僕の治世において、ヴァイツ帝国は大陸一栄え、かつ文化的にも豊かな国になる。それはとても素晴らしいことだ。だが、――僕の龍徴が現れると同時に、周囲は雪崩を打つように、僕にすり寄り、あるいは僕の寵を争うようになった」


 その一端に触れるだけで、祝福が分け与えられるという龍徴。

 誰もがその金運にあやかろうと、時に周囲と足を引っ張り合い、時に家族を裏切ってまで、アルベルト皇子に接近しようとした。

 昨日まで全幅の信頼を置いていた教師や、純粋に慕ってくれていた幼馴染までもが、龍徴の顕現を境に、濁った眼で手を伸ばしてくる光景に、アルベルトは底知れない嫌悪を覚えたのだ。


「それで、……まあ、嫌気が差してしまってね、気分を変えようと下町に出た。皇子という身分を忘れたかったのかもしれない。だが、愚かなことに、充分な変装もできずに治安の最も悪い地域をうろついていたら、ごろつきに絡まれてしまって、すっかり窮地に追いやられてしまったというわけだ」


 アルベルトはひょいと肩を竦める。


 別に彼とて護身術を知らなかったというわけではない。むしろその逆である。身の安全確保を第一義に教え込まれてきた彼は、指の一振りで人を殺せてしまうほどで、だからこそ「殺さずに相手からの攻撃をかわす」といったことができずにいたのである。


「そんな時、一人の少年が僕のことを救ってくれてね」


 アルベルトはそのことを話す時に、ふと表情を和らげた。


 なんでもその少年は、鮮やかな蹴りを決める――と見せかけて砂で眼つぶしをし、鋭い眼光で相手を威圧する――かと思いきや相手のへそくりの在り処をちらつかせて仲間割れを起こさせたのだという。なんというか卑怯だ。

 だが、アルベルトではないものの、かつて似たような高位貴族のぼんぼんを町で助けた時、同様の手法を取った記憶がある気もしたレオは、その少年に親近感を抱いた。


「それで、僕を助けてくれたわけなんだけど、その後ににっこり笑って手を差し出してきたんだ、『人命救助、小銀貨一枚に負けてやるよ』ってね」


 レオは思わずうなり声を上げそうになった。その思考回路、そして価格設定の絶妙さときたら、他人とは思えないほどだ。


「てっきり人助けに来てくれたと思ったら、彼はちゃっかり稼ぎに来ただけだったんだね。それも、下町で出会った相手に小銀貨を吹っ掛けて。面白くなって、『もうちょっと負けられないか、こちらは貧乏な商人の息子だ』と言ったら、彼はこう答えるわけだ、『俺の知ってる商人連中とあんたとは、姿勢も着てる服も、手のタコのでき方も口調も違う。特にその手入れされた黒髪、きっと高位貴族のぼんぼんに違いない』ってね」


 レオは、ん? と思った。


「……黒髪?」

「ああ。髪と瞳の色を変えて行ったんだ。この前の歓迎会の時のように、黒い髪、灰色の瞳にね。まあ、顔立ちまで変えるようになったのは最近になってからだけど」

「え……?」

「はは、もう知らないふりをしなくていい。君の持つハーケンベルグの瞳には変装などお見通しだということくらい、僕も気付いているのだから」


 脳内でばちっと繋ぎあわされた情報を理解するのを、レオは無意識に拒んだ。


 黒い髪に灰色の瞳。美貌とはかけ離れた平凡な顔をした、歓迎会の門番。

 二年前下町に訪れごろつきに絡まれていた、黒髪の高位貴族のぼんぼん。


「まあ、そういう風に、当時は僕の変装も十分でなかったせいで、その子にも見破られてしまってね。得意げに言われたものだから、僕もまた面白くなって、試しに金貨を突きつけてみたんだ、これではどうかって」


 二年前、黒髪のぼんぼんからレオがせしめた、古ぼけた金貨。


「少年は狂喜乱舞したよ。見ていて清々しいくらいだった。なんというのか……邪心や厭らしさといったのとは全く違って、純粋に子どもが大好きなおもちゃを手に入れたみたいな、そんな素直な喜び方だったな。でも僕はひねくれ者だからね、ついこう言ってしまったんだ。『そんなに嬉しいのか。それは――』」


 ――僕にとっては禍のもとでしかないのに。


 レオは一言一句を覚えていた。

 そう、覚えているのだ。町で他のシマの者たちに絡まれていた青年を、小遣い稼ぎついでに助けてやったときに聞いた、その言葉を。


 アルベルトはふっと笑みをこぼした。


「その瞬間、その子が言い返したんだ。『金貨のせいにするな』ってね」


 レオは冷や汗を滲ませた。


「そ……そうだった、ですか」

「ああ。いや、それだけじゃなくてね、強烈な一撃を頬に喰らわせたうえで、『己の不甲斐なさを金貨のせいにするとは男の風上にもおけない。そんな男のもとにいては可哀想だから、この金貨は然る時まで俺が預かっとく』と言って、手にしていた金貨を握り締めて、そのまま走り去ってしまったんだ。その後、彼はどこを探しても見つからなかった」

「…………」


 もはやレオはぐうの音も出なかった。


 皇族を罵り、殴打したあげく、金貨を奪って逃走。

 どこをどう取っても死罪、よくて一生牢獄だ。


 金魚のように口をぱくぱくさせているレオを見て、皇子ははっと我に返ったようだった。


「おっと……。すまない、今は僕の思い出話なんかをしている場合ではなかったね。君への謝罪についてだった」

「いえいえ!」


 レオは勢いよく両手を振った。もはや金貨を取り返すどころの話ではない。いや、むしろ金貨は正当な持ち主のもとに取り返されたわけなのだ。

 今はまだこの皇子に自分の正体がばれていないようだが、もし気付かれてしまったらどうなるのか。レオは、恐る恐る尋ねてみた。


「……ちなみに、もしその、少年を見つけたら、アルベルト皇子におかれてはいかがなさるおつもりで……?」


 揉み手するほど低姿勢に出れば、案外滑らかに話せるのだということをこの時レオは初めて知ったが、勿論それを喜ぶどころではなかった。


 アルベルトは、長い指先を形の良い顎に当て、「そうだな」と思案した。


「――会ってみないことにはわからないが、恐らく、一生彼を離すことはしないだろう」

「ぐぉ……」


 レオの喉の奥から、ひしゃげた呻き声が漏れかけ、消える。


 終身刑、決定であった。


 なぜか胸を押さえて崩れそうになっている少女に気付き、アルベルトは思わしげな表情を浮かべた。


「どうしたんだ? ……ああ、いや、すまない、また話が逸れてしまったな。どうか君への償いの方法を考えさせてくれないか、レオノーラ」


 だが、少女は俯いたまま動かない。どうしたのかと思い、皇子が身を乗り出した瞬間、しかし彼女はがばっと立ちあがった。


「あの! 皇子、お渡ししたいもの、あります!」


 そのまま俊敏な動きで、「少々、待つください!」と叫びながら奥の間に消えていく。

 次に戻って来た時には、少女は両手に一抱えほどもある布袋の山を抱えていた。


 どん、とその山を間のテーブルに下ろす。その布の山からは、妙なる香りがふわりと漂っていた。


「これは……?」

「心を落ち着ける、よく眠る、香りの袋です」

「サシェということか。刺繍といい、この香りといい、素晴らしい出来だ。まさか君が?」

「はい。ビアンカ様くださった、ムエルタの花と香水、ドレスの布で作りました」


 少女は細い指で、山から一つの袋を取り出すと、そっと皇子の手に握らせた。


「これ、私の気持ちです」


 そして、はにかむような、美しい笑みを浮かべた。


「レオノーラ……」


 アルベルトは息を飲んだ。


(この子は、なんと優しいのだろう)


 それはまるで、荒れ果て、乾いた大地に、すっと清水が染み渡るかのような感覚だった。


 母を失った少女に、当てつけのように贈られた葬花のムエルタ。引き裂かれた精霊布に、香水で台無しにされたドレス。しかし彼女はそれらを活用してこのように素晴らしい品を仕立ててみせ、あまつ、それを主犯の兄である皇子にくれようというのだ。


(ムエルタは、葬花ともなれば、人の心を落ち着かせるポプリともなる……。なるほど、自分次第とはこういうことだと、僕に示してみせてくれたのか)


 アルベルトは、少女の機転と、自分よりも年下とは思えぬ器の大きさに、頭の下がる心地がした。


(それに、彼女のこの、美しく真心に溢れた、聖女のような笑みはどうだ)


 実際には、心付けを渡して情状酌量を狙う、さもしく下心に溢れた守銭奴の笑みなのだが、アルベルトがそれに気付くことはなかった。


「……ありがとう、レオノーラ」

「私が、作って、皇子に差し上げたこと、忘れないでください」

「ああ、忘れずに大切にするよ」

「――よし」


 この啓示を胸に刻めという少女に皇子が頷いてみせると、彼女は満足げに頷いた。


 アルベルトはサシェの香りを吸い込んでみる。そこからは、そっと人を包み込むような優しい香りがした。


「レオノーラ。なんだか僕たちは、君の厚意や優しさに甘えてばかりいるようだ。何かお礼――いや、おこがましいな、お詫びがしたいから、どうかどんなものがいいか考えてみてはくれないか」


 再三アルベルトが尋ねる。しかし、少女は「とんでもない」というように、ふるふると首を振るばかりだった。


「よいのです」

「どうして」

「お花、糸、香水もらいました。皇子からもトルペ、もらいました。充分です」


 もちろんレオにしてみれば、おためごかし五割と、これ以上兄妹から物をもらって、心証を悪くしてはならないという計算が五割といったところである。


「だが……それでは、あまりにこちらが申し訳ない。なんでもいいから、何か僕に頼んでみてくれないか?」


 甘いマスクを存分に活用して距離を詰めると、少女はちょっと身を引いて、「うーん」と考え出した。


「ええと。それなら……」

「それなら?」

「このサシェ、ビアンカ様にもあげてください。皇子のお友達にも、たくさん、たくさん」


 ヴァイツゼッカー兄妹に使用してもらえば、それ即ち皇家御用達ということで、後にこのサシェを販売する時に値段は釣り上がる。人気者のアルベルトやその仲間たちが使っていれば、尚更である。レオはマーケティングの妙技・サンプリングにちゃっかり打って出たわけであった。


「君は……」


 だが、そんなレオの思惑など知らないアルベルトは、ただひたすら感じ入って呟いた。


「なんて欲のない子なんだ」


 金欲の塊であるレオに対し、恐らく世界で最もかけ離れた評価である。


 自身は欲望でだだ溢れていることを自覚しているレオは、きょとんと首を傾げたが、それを見た皇子は「気にしないでくれ」と苦笑しただけだった。


「――失礼いたします、アルベルト皇子殿下、レオノーラ様。そろそろ朝礼の時間が迫ってきております」


 会話が一段落した気配を感じ取り、出来の良い従者がそっと声を掛ける。

 アルベルトは、すっかり心が洗われたまま立ちあがろうとしたが、ふと思い出してソファに座りなおした。


「そうだ、レオノーラ。最後に一言だけ」

「ななななんでしょう」


 なぜか動揺している少女に、しっかりと視線を合わせる。


「今回の件で、僕たちや貴族にはうんざりしているかもしれないが、もしベルンシュタイン一派が君に声を掛けることがあったら、その時にはどうか僕に一報してくれ」

「ベルンシュタイン一派……?」


 耳慣れない名前に、レオはことりと首を傾げた。


「ああ。近年急成長しているベルンシュタイン商会の息子、オスカーを中心としたグループだ。学院では少数派の一般市民や、貴族社会でも新参者の子爵家、男爵家辺りを中心に勢力を広げていて、何かと貴族出の生徒と対立しようとしている。オスカー・ベルンシュタインは、最上級学年の中でも優秀と評される頭脳の持ち主でね。皇族や上位貴族に何かと攻撃をしながらも、いつもうまく立ち回ってけして尻尾をつかませないんだ。独特なカリスマを発揮して取巻きを年々増やしている」

「はあ……」


 いまいち事情が呑み込みにくいが、要はシマ争いみたいなもんかな、とレオは理解した。


「そしてレオノーラ。君は侯爵家令嬢でありながら、下町の出。僕たちの側にも、オスカー・ベルンシュタインたちの側にもつける人物だ。そしてその人目を引く存在感。仮にビアンカと衝突したという噂が耳に入れば、彼らは君を取り込もうと動くだろう。そんなことになれば――」


 アルベルトがぐ、と身を乗り出したために、テーブルに積まれたサシェの山が崩れそうになった。


「崩れます!」

「そう、この学院でぎりぎりのところで保たれてきた均衡が、崩れてしまう」


 皇子は、少女の年齢に見合わぬ理解力に嘆息してしまう。

 改めて、この麗しく優しく聡明な、奇跡のような少女を見つめながら、彼は告げた。


「だからレオノーラ。これからはどんなに些細なことでも、気になることがあったら僕に知らせてほしい。僕も君の周辺には目を配っておこう。――約束してくれるね?」


 声には、必要以上に熱が籠ってしまったかもしれない。

 自分には珍しいそんな情熱に、少々気恥ずかしさを覚えつつ、アルベルトは部屋を辞した。


「目、つける宣言……」


 蒼白な顔で呟くレオノーラを、その場に残して。

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