0.プロローグ
その日、ヴァイツゼッカー帝国学院は早朝からざわついていた。
大陸一の覇権を握るヴァイツ帝国。その帝国貴族の子息、子女が集められ、また国内外の優秀な市民をも招集した学院は、豪奢な白亜の建物で、帝国の威信を体現するかのような装飾で溢れている。
併設された教会が朝の鐘を鳴らす時刻、学院の使用人によって掃き清められた回廊には、抑えきれない好奇心を目に宿した学生たちが、続々と詰め掛けていた。
その中でもひときわ目を引く金髪の少女が、最も見晴らしの良いと思われる回廊の角に歩みを進めていく。その姿を認めると、周囲の生徒が一斉に首を垂れた。
「おはようございます、ビアンカ様」
「おはよう」
一目で上等とわかるドレスに身を包んだ金髪の少女は、名をビアンカといった。この学院の生徒会長でもあるヴァイツ帝国の第一皇子、アルベルトの実妹であり、齢十五にして帝国の華と謳われる美姫である。
彼女は、まだ少し幼さの残る顔に勝気な表情を乗せて、隣にすり寄ってきた取り巻きの一人に声を掛けた。
「ごきげんよう、マルグレッテ。あなたも、ハーケンベルグ侯爵家のご令嬢を見物しようとしているの?」
「ビアンカ様、もちろんですわ! この学園に通う者で、『フローラの禍』を知らない者はおりませんもの。クラウディア様の忘れ形見――十二年ぶりに発見された悲劇の令嬢が、どのような方なのか、やはり気になってしまいますわ」
「そうねえ。下町で見つかったとはいえ、ハーケンベルグの血を分かつご令嬢ですもの。きっと、生まれついての気品があるに違いないわ。そうでなくて?」
疑問の形を取りながらも、扇の陰できゅっと持ち上がった唇は、「そんなはずがない」と物語っていた。目尻の跳ねた瞳には、獲物をいたぶる猫のような光が見え隠れしている。
ビアンカは、回廊から見える門に向かってアイスブルーの瞳を眇めた。
「一日遅れの入学……聞けば、今日お兄様が開く歓迎会も、彼女に合わせて一日遅らせたというじゃない。学院全体を振りまわした新参者がどんな人物か確かめるのは、帝国第一皇女にして下級学年長であるわたくしの、当然の責任ですわね」
「もちろんですわ!」
学院は十二の歳から入学を受け入れ、十五歳までの四学年を下級学年、十六歳から十八歳までの三学年を上級学年として区分している。ビアンカは四年生――つまり下級学年の最上級生であり、この学院の低学年組織の実質的トップでもあった。
「あら……」
ふと、取り巻きの一人が声を上げる。
「あちら、回廊の奥の方に、ナターリア様もいらっしゃいますわ」
彼女が指差した方向には、数人の供に紛れ、亜麻色の髪の少女がひっそりと佇んでいた。遠目からもわかる優美な仕草で、そっと顔を扇の中に隠している。その美しい立ち姿を認めて、ビアンカはふんと鼻を鳴らした。
「まあ。ナターリアお姉様ったら、ゴシップの類には全く興味ありません、といったお顔をしておきながら、やっぱり気になるんですのね。わざわざこの、下級学年の校舎までおいでになるだなんて」
「それはそうですわ、ビアンカ様。ナターリア様はアルベルト皇子のご従姉にして筆頭正妃候補。ご自分の序列を上回る方が現れやしないかと、内心で気を揉んでいらっしゃるのでしょう」
「まあ」
ビアンカは意地悪そうに口の端を持ち上げた。
「そんな心配なさらなくても、お兄様に相応しくない女など、わたくしが消し去って差し上げますのに」
低い声音から、その「相応しくない女」の中にナターリアも含まれていることは明らかだ。周囲を囲む取り巻き達は、引き攣った笑顔で精いっぱいの追従をした。
ビアンカ皇女は勝気ながら華やかな顔立ちの、闊達な少女である。一方で、公爵令嬢のナターリアは、帝国一の才女と謳われるほどの頭脳の持ち主であり、繊細な容貌と行き届いたマナーで、こちらも齢十六にして社交界を代表する人物だ。片や下級学年の長として、片や上級学年で頭角を現す人材として、女子生徒内の勢力を大きく二分している。どちらに属するかは貴族令嬢にとっては最重要の検討課題で、それが第三勢力となりうる人物の登場で更にかき乱されるかもしれないことを、多くの令嬢たちが内心では憂いていた。
「来たわ」
ビアンカの鋭い呟きに、周囲が一斉にざわめく。何十という視線が、回廊を貫く石畳の道、その先の鉄扉に向けられた。
突き刺すような視線の種類は様々だ。
不安を宿すもの、純粋な好奇心に彩られたもの、僅かな期待を含んだもの――
かつて無実の罪で学院を追われた、クラウディア・フォン・ハーケンベルグ侯爵令嬢。庶民に落とされた彼女が、その命と引き換えに産んだとされる娘が、十二年の時を経てようやく見つかり、早くも様々な噂や事情にまみれながら、今まさにこの学園の扉をくぐろうとしているのだ。
ギ……―――
はたして、重い鉄扉が軋んだ音を立てて開いた瞬間。
誰もがはっと息を呑んだ。
そこに現れたのは、教会の教えにある、光の精霊であった。
いや、精霊などほとんど教義上の存在であり、よほど高位の導師しか姿を見ることはできない。そうはわかっていても、目の前にいるのはその高貴なる存在なのだと信じてしまいそうになるくらい、現実離れした美しさを持つ少女であった。
扉をくぐり、まず学院内に踏み出したのは、光沢のある靴に包まれた小さな足。どこかの王国の姫君といっても通用するような淑やかな歩調で、彼女は静かに歩みを進めた。
ほっそりとした肢体は、上から下まで墨染のシンプルなドレスに包まれ、華奢な体つきが強調されている。唯一見える肩口の抜けるように白い肌を、ベールから零れた艶やかな黒髪が覆い、それは彼女が歩くたびに小さく揺れた。
何より見る人の目を捉えて離さなかったのが、黒いベールに包まれた、小さな白い顔である。
十二という年齢にふさわしく、いまだあどけなさの残る柔らかな頬に、淡く色づいた小さな唇。睫毛は瞬きのたび音が鳴りそうなほどに長く、ハーケンベルグ家特有の紫紺の瞳は潤むような輝きを帯びている。
どこか憂いを秘めた瞳は、ここではない遠くを見つめているようだ。頤を引きながらも、すっと真っ直ぐに伸びた視線が、幼い彼女を凛とした女性に見せていた。
「まあ……」
呟きは誰ともなく漏れた。それほどに、完成された美貌だった。
レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ。
いわくつきの、下町育ちの少女は、しかしその場にいる全ての高貴な人物の心を、一瞬で奪ってみせたのだ。
扇で口許を隠すのも忘れ、魅入られたように少女を見送っていたビアンカは、彼女が自身の目の前を通り過ぎようとした瞬間、辛うじて我に返った。
「まあ、まあ……!」
咄嗟にそれだけ口にして、何を言おうか考える。常に口が先立つビアンカにとって、それは非常に珍しいことだった。
何か言わなくては。この少女を振り向かせるような、何かを。
焦りながら少女を眺めまわし、
「まあ、従者は一人だけなのね? ハーケンベルグ侯爵令嬢ともあろう者が、随分と寂しいお支度ですこと!」
早口で言い放ってから、即座に後悔した。これでは嫌味にしか聞こえないではないか。
案の定、「ビアンカ皇女は少女を敵と見なした」と判断した周囲が、口々に陰口を叩きはじめる。
「まあ、ご覧になって、あの地味なドレス! いくら質素を心がける学院とはいえ、身だしなみに気を配るのは淑女の嗜み。それをどれだけ理解されているのかしら?」
「仕方ありませんわ、お育ちがお育ちですもの。彼女なりに努力されたに違いませんわ」
「そうね、きっと下町では、あの鼠のような灰色が流行っているのでしょう」
悪意ある言葉の数々に、少女にただ一人付き添っていた少年――よく見れば、こちらもなかなかの美少年である――が、ぐっと拳を握りしめた。白い頬を紅潮させて、きっとこちらを睨みつけてくる。ただ、それは却って悪く作用してしまったようで、今度は少年の関心を引こうとした令嬢たちが、ますます悪口の口調を強めただけだった。
まずい。
この時点で、そこまで少女を追い詰めるつもりのなかったビアンカは、慌てて取り巻き達を制止しようとした。
その時だ。
それまで泰然と、表情も変えずに歩いていた少女が、ふと立ち止まった。
そして、ビアンカたちに向かって、優しく微笑みかけたのである。
同性であっても思わず溜め息が零れるような、美しい笑み。その威力に、ビアンカたちは言葉を失った。
呆然とした皇女たちを横目に、つと視線を戻した少女は、何事もなかったかのように再び歩き出す。ビアンカたちは、魂が抜けたようにその後ろ姿を見送った。
「……なんて、きれいな子でしょう」
すっかり陰口を叩くことも忘れたマルグレッテが、ぽつりと呟く。彼女ははっと、
「いえ、やはり下町の匂いというのは、どこかしら残っているものですけれど……そう、ドレスとか!」
慌ててビアンカに言い訳したが、当のビアンカはゆったりと首を振った。
「いいえ」
既に回廊を抜け、寮へと続く通路を歩いている二人連れを、じっと見つめる。
「あのドレス、デザインこそ地味だけれど、布地の質も仕立ても一級品――サバランに違いないわ」
「まあ……!」
サバランとは、ヴァイツ帝国の北端に位置する織物が盛んな土地で、そこから産出される衣類品は、帝国御用達ともなるほどだった。ただし、「サバラン」の名を冠した一部の商品は、土地の威信をかけて完全手作業で製造されるため流通量が少なく、その布一枚で馬車が十台買えるほどだとも言われる。
「サバランといえば、吸いつくような肌触りが特徴なだけに、脚に張り付いて裾さばきが大変なのよ。それを、あのように悠々と歩いてみせるなんて……」
サバランを身につけたことのある者だけがわかるその難しさに、ビアンカは目を細めた。
まるで水面を切る白鳥のように滑らかな足取り、そして、ふわりと軽やかに舞う程度という、絶妙に調節された裾さばき。
「単なる下町育ちの少女が、一朝一夕で会得できるマナーではないわ」
どこかでよほど鍛錬を重ねたのか、それとも――血のなせる技で、天性のものが備わっているのか。
レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ。
注目せずにはいられない少女だと、ビアンカは思った。
***
「まったく、入寮するだけで、こんな騒ぎになるとは……! 敬虔にして静粛なる学徒が聞いて呆れる、あれではまるで、姑集団の井戸端会議ではないですか!」
くせのある金髪を振りかぶり、滑らかな頬を紅潮させていた小柄な少年は、レオノーラと二人きりになったと判断するや、我慢ならないというように叫び出した。
「男子生徒は馬鹿みたいに口を開けて立ちつくしていたし――まあ、それはわからないでもないですけど――、女子生徒はなんですか、あの、女狐みたいな意地悪そうな顔に、芸のない当てこすり! レオノーラ様を、一体誰だと思っているんだか!」
「カイ、静かに」
少女が可憐な声でそう諌めると、カイと呼ばれた少年ははっと我に返った。
「申し訳ありません」
ばつの悪い思いでちらりと主人を見遣るが、彼女は特に機嫌を損ねていないようで、顔を上げ凛と遠くを見たまま歩き進めている。幼いながらも気品に溢れたその姿を見て、カイは自らの不徳を恥じた。
(レオノーラ様は、お優しいうえに、ご自分に厳しい方だもの。あれしきの陰口で心を揺らすことがあってはならないと、ご自分を律していらっしゃるんだ)
すぐに激昂した自分とは大違いだ。現に、静かに微笑むだけで、彼女は見事にその場を掌握してみせたのだから。カイは、つい前日に主人と仰ぐこととなった美しい少女を、背後から心酔の目で見守った。
レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ。
帝国内でも非常に尊い血を持つ身でありながら、十二年下町で秘匿され、昨日ようやく保護された、悲劇の少女。
出会ってわずか一日という短い時間でありながら、この少女が、天与の美貌だけでなく、主人としての素晴らしい資質に恵まれた人物であることを確信しているカイは、彼女がこれまで被ってきた不遇の環境を思い、改めて心の中で誓った。
(レオノーラ様が、今日からの人生、この世のあらゆる幸福を授けられるようにお助けしよう)
前を歩く少女は、カイの熱い想いなど知らぬ気に、ただ粛々と歩みを進めている。
凛と背筋を伸ばしたその姿を、カイは眩しげに見つめた。
(僕よりも更に幼くていらっしゃるのに、些事に心捕らわれず、真っ直ぐと歩かれるお姿。レオノーラ様は今何を考えているんだろう……)
そこまで考えて、カイはふと頭を振った。
かくも尊い主人が何を考えているかなど、自分には与り知らぬことだし、詮索するのは従者の仕事ではない。
それに、聡明な彼女が考えていることなど、無学な自分が知ったところで理解できるものではあるまいと、そう思ったのだ。
さて、いたいけな従者の視線を浴び続けている彼女はといえば、
(いち、に……靴底に付いた馬糞をこそぎ落とすように踏み出す、右、左……)
先程から、歩きにくいことこの上ないドレス相手に、難儀していた。
(しつこいクソを振り払うように、つま先を振り上げる……むん!)
小さな足がすっと持ち上がり、傍から見ればごくごく優雅に裾を切り開く。
そう、彼女は、ともすれば脚に絡みついて人を転ばそうとするクソ忌々しいドレスを、イメトレしながら辛うじて捌いているところだった。下手に何か話そうとすると、途端に足が取られそうになるのだ。
一方では、
(おっ、十時の方向に小銅貨発見! さっき回廊に転がってたピアスと一緒に後で回収しに行こう)
遠くまで鷹の目を光らせて、小銭および小貴金属の探索に余念がない。さすが帝国有数の貴族子女が集まる学院だけあって、落し物も豪華なことに、彼女の心は浮き立っていた。先程、金髪少女の足元あたりに、宝石つきのピアスが転がっているのを発見した際には、思わずにたりと笑みが零れたほどだ。
ただ、ねこばばは物心ついてからのライフワークであり、熟練の域に達しているといっても過言ではなかった彼女だが、慣れないドレスを捌きながら獲物を探すのは、さすがに骨が折れた。まったく、忙しいことこのうえない。
(部屋に着いたらさっさと着替えて、見つけたお宝全部回収しなきゃな。まったく、女物の服ってのは、布が多い割にはポケットが無くていけねえ)
少年そのものの口調で内心独りごちた彼女は、舌打ちしようとした瞬間びくりと肩を震わせた。
(あー、くそ! 忌々しい! 舌打ちぐらいさせろってんだよ、レーナのやつ。町に戻ったら、ただじゃおかねえ)
憂いを帯びた顔の下、盛大にとある少女を罵っていた彼女は、一昨日まで、下町で「レオ」と呼ばれる――少年であった。
そう。
後に「無欲の聖女」と帝国中から称えられるようになる、レオノーラ・フォン・ハーケンベルグ――レオの受難は、つい二日前に始まったのだ。
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