桂華院瑠奈の避暑
一般人が言ってみたい台詞の一つにこんなのがある。
「え?
別荘なんて持ってても大変だよ。
使うのは年に数日だし、維持費かかるし、行かないとって義務感出るし」
そんな台詞を吐いてみたいものだと思った前世の夢から覚めると、ここは軽井沢。
桂華院家の別荘での朝である。
「おはようございます。お嬢様。
お散歩でございますか?」
執事の橘が私に挨拶するが、ジョギングスタイルの私は軽く手をふって答える。
標高が高いこともあって、朝は結構冷える。
「うん。
軽く歩きたい気分だから」
ポシェットにMDウォークマンを入れて部屋を出る。
メイドが頭を下げ、護衛の二人が私の前後についたのを見て、私はMDウォークマンを再生する。
そう。
まだこの時期はMDなのだ。
好きな音楽を流しながら、私は適当なリズムで別荘の周囲を歩く。
警護の関係から、屋敷には橘の他にメイド三人と護衛三人。
屋敷から少し離れた所に覆面パトカーが一台と警察官が二名。
小学生の護衛にしては大げさなと思うが、実際誘拐されかかった事もあって文句を言うつもりは何もない。
「橘に連絡して。
護衛の警察官の分の食事も用意しておいて。
屋敷に入るのは無理でしょうから、メイドにサンドイッチとコーヒーを届けさせなさい」
護衛の一人が屋敷にコールして私の指示を伝える。
朝霧が漂う軽井沢の朝の静寂が美しく、私はMDウォークマンを止める。
自然の音こそ、この朝の音楽にふさわしいだろうから。
「今日の朝食は何?」
「和食で、ご飯にお味噌汁に焼き海苔。
野沢菜の漬物と鮭の塩焼きでございます。
いつものようにグレープジュースを用意しておりますが?」
「ジュースは後でいいわ。
そのかわりに緑茶をお願いね」
「かしこまりました。
デザートの方はどうなさいますか?」
「パイナップルとメロンのヨーグルト和えかな」
そんな感じに朝食を食べると、午前中は勉強である。
もっとも、現段階の学校の授業で詰まる訳ではないので、英語と中学数学を学んでいる。
意外に忘れているので、こっちは真面目に授業を受けることにした。
問題は歴史と地理であり、こちらは一から勉強しなおしている。
前の世界とまったく別物となっているために歴史は覚えなおさないと話にならない。
むしろ、半端な勉強だと前世の歴史とごっちゃにしてしまって間違いそうだから、はっきり区別がつく程度にはこちらの歴史を詳しく覚えておかないといけない。
地理も別物だ。
国境線がまったく別物だから地名も違う。
歴史が違うからヨーロッパもアジアもアフリカも国境が違ってて、それに伴って地名も違う。
その上経済対策をするにはどこにどんな工場があるか、特産物があるか把握するのは必須だし、華族制度が生きている以上は各家の歴史とかを知っておくのはお付き合い上必須であり重要度は跳ね上がっている。
これに華族の派閥や姻戚関係なんかも経済を動かす上で無視できない要素になると来たもんだ。
私自身人身御供になって財閥の救済を頼むなんて手を考えた立場だから、骨の髄から華族の姻戚関係の重要性はわかってる。
それが歴史を作ることすらできる最強のカードだからこそ、この勉強もおろそかに出来ない。
「ここまでにしましょう。
昼食は何?」
「サンドイッチに、紅茶を用意しております。
あと、午後二時より声楽家の先生がいらっしゃる予定です」
帝亜国際フィルハーモニー管弦楽団と付き合いだした関係から、向こうから声楽の講師がやってきて時々レッスンを受ける事をはじめていた。
才能だけでも立ち行かないのがこの世界だが、悪役令嬢特権のチート声帯はそれを凌駕するらしい。
だから必ずレッスンの最後でこんな事を言われる。
「今度のサマーコンサート……」
「謹んでお断りしますわ♪」
午後四時から夕方までちょっとだけお仕事をする。
完全フリーを堪能したい所だけど、銀行の大合併が始まった以上不良債権処理は最終局面を迎えるからだ。
かくして、電話越しに一条と打ち合わせである。
「この三行が組むと圧倒的よねー」
「これだけの企業で融資トップに躍り出ます。
不良債権処理は一気に加速しますよ」
日本の銀行の融資は基本横並びである。
たとえばある企業が百億を借りた場合、ABCの都市銀行はそれぞれ三十億を用意して残り十億は他社や地銀から借りるという感じ。
今回発生したDK銀行・芙蓉銀行・工業銀行の三行統合は、先のケースのABCの都市銀行に当てはまるので、統合銀行は九十億という圧倒的な貸付残高を誇ることになる。
これが好景気ならば利益総取りなのだが、不景気だと貸し倒れの被害を一手に受けるハメになる。
とはいえ、圧倒的融資残高を誇るという事はこの統合銀行が腹をくくれば不良債権処理は一気に進むという訳で。
「やばい所が一気に飛ぶわね。
一番やばいのはどこだと思う?」
飛ぶとは会社用語の一つで『倒産や破産』を意味する。
テーブルの上にはおやつのケーキと紅茶が湯気を立てている。
私の質問に一条はあっさりと正解を言い放つ。
この瞬間に、私は一条を桂華銀行のトップに押し上げることを決めた。
「大手百貨店の総合百貨店でしょう。
あの債権を整理回収機構に捨て値で送りつけたお嬢様はこれを見越していたんですか?」
「さあねぇ~♪」
会社が倒産したらそこに貸し付けていた資金は当然回収不能になる。
銀行はそういう時に備えて、貸し倒れ引当金というものを用意するのだが、その金額を超える倒産が起こったら当然のことだが銀行の収益にも影響が出て、最悪銀行も破綻する事になる。
桂華銀行はそれらの危ない債権を整理回収機構に捨て値で売却し、莫大な貸し倒れ引当金を用意して巨額の赤字を計上。
その穴埋めを日銀特融と逆さ合併による含み益の顕在化で一気に消し去るという帳簿上のウルトラCで乗り切っていた。
その代償だが、現在の桂華銀行のビジネスモデルは債権のほとんどを不良債権として整理回収機構に送りつけた事で、稼ぐ力が歪になっていた。
リテール部門は旧北海道開拓銀行という地盤があるが、吸収した長信銀行と債権銀行はリテールが弱いという弱点があった。
だからこそ、米国シリコンバレーと組んで、インターネットバンキングを稼働させるという荒業を通すことができた。
現在の桂華銀行の収益は、国債配当とこのインターネットバンキングと一山証券のホールセール部門、そしてムーンライトファンドで稼ぎ出していた。
「資金繰りがかなり苦しいみたいですね。
あそこに卸している業者から相談を受けています」
将来コンビニがメインになって百貨店はいらないもの呼ばわりされる事になるのだが、だからと言って簡単に切れないのがこの手の納入業者の存在である。
地方の中小企業の稼ぎの柱になっているから、倒産・閉店がそのまま連鎖倒産に一気に繋がってしまう。
「帝西百貨店との経営統合も視野にいれるべきでしょうね。
桂華ルールを適用してくれるならば、うちが救済するってそれとなく整理回収機構に伝えといて」
「という事は、サチイも買いますか?」
「の、つもりなんだけど、資金繰り改善したんでしょ?」
総合百貨店の危機ぶりとくらべてサチイは抜擢した社長が資金繰りに成功して、ある程度の余裕ができていた。
その資金繰り成功が、史実よりはるかに良い株価に助けられたのだから何が働くかわからないものだ。
「証券化で中が伏魔殿になっていて、お嬢様が手を出さなかった時点で駄目でしょう。
DK銀行が統合するならば、生贄として斬りますね」
なお、総合百貨店が工業銀行案件で、サチイがDK銀行案件である。
「という訳で、総合百貨店は救済合併で、サチイは法的整理の後で買い取るという事で」
「かしこまりました」
一条が返事をした後で私が付け加える。
できるだけあっさりと茶目っ気をこめて。
「あ。
あと、来年出来る金融持株会社のトップ貴方だから。
最低でも五年はその椅子に座ってもらうわよ。
自分の派閥の形成と後継者の抜擢を、貴方の手で進めておいて頂戴」
そう言って受話器を置いた。
一条の性格だと、喜びと仕事の重さの両方で泣いているんだろうなぁ。
「夕食はチキンステーキとコーンスープにサラダにご飯でございます」
これも私のリクエスト。
高級料理よりもファミレスの食事ちっくなのが魂が貧乏人だなと苦笑するしか無い。
で、夜はフリーで、ベッドに寝っ転がって漫画を読む。
「考えてみれば、この漫画この時期に出ていたのか……」
さて。そろそろ寝るか。
おやすみなさい。
zzz……
桂華院家の別荘のイメージ
三笠ホテル。
なお、これにメイド三人と護衛三人が交代要員として控えている模様。
見張っていたお巡りさんは長野県警で実は危機感があまり無かったりする。
ウォークマン
MP3に本格的に切り替わるのはこの後だったりする。
なお98年にデビューして一気にブレイクした歌姫が宇多田ヒカルであり浜崎あゆみである。
この時期のJPOPは本当に輝いていた。
総合百貨店
帝西百貨店と経営統合した百貨店。
ここも乱脈経営なのだが、外資による瑕疵担保条項が発動してないから債権放棄の救済が可能なのがミソ。
リテールとホールセール
個人や中小企業向けがリテール、大企業や公的機関向けがホールセール。
瑠奈が呼んでいた漫画
冬目景 『イエスタデイをうたって』。
ハルが可愛いから切ないんだよ。この漫画……
7/12
感想の指摘によってMDウォークマンに変更
一部加筆