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血液と主要臓器と毛細血管

この一条の話はフィクションです(棒)

 マネーを血と例えるならば、大企業は主要臓器であり、中小企業は毛細血管である。

 主要臓器を生き残らせる為に毛細血管に血を回さない事が貸し渋りであり、貸し剥がしである。

 この対策に詳しい者が手元にいたのが私の幸運に繋がった。

 地銀出身で中小企業の現場を良く知っている一条である。


「とりあえず中小企業を助けたいならば、いくつかのアイテムを支給しなければなりません」


 中小企業対策を実際に行う一条は私にいくつかのチラシを手渡す。

 何を買ってこいと言われるかとドキドキしていたのだが、それを見た私の目が点になる。


「……壁掛けホワイトボードの行動予定表?」


「ええ。

 それも二ヶ月のやつです。

 これは私の経験ですが、自転車操業に追い込まれている企業のほとんどが一ヶ月の行動予定表を使っています」


 人間とは意識によって行動を規定する生き物である。

 そして、長く続く習慣がそれを後押しするのだが、経済活動ではそれが思わぬ穴になる。


「カレンダータイプの弊害なんですが、来月の予定を書き込むのが月末かその月初めになるんですよね。

 で、その月始めの支払いにその時気づいて慌てて銀行に駆け込む人間の多いこと多いこと。

 二ヶ月タイプだと、その月末と月初めのスケジュールの穴を確実に潰せます」


 一ヶ月タイプはその月の予定を消して翌月の予定を書き込むから、月末の重要スケジュールがあると消せないなんて事態がとてもよくある。

 二ヶ月タイプはそのまま翌月に移り、先月になったものだけを来月に書き換えればいいので、時間的余裕が確保しやすいのだ。


「まず、中小企業が一番逼迫している『時間』という資産を確保します。

 立て直しとかは、この時間を確保しないと絶対にうまくいきません」


 実体験から強調する一条に私は21世紀人として当たり前の質問をしてみる。


「ねえ。

 パソコンのスケジュールソフトは駄目なの?」


「『そんな玩具に払う銭はねえ!』って言われますよ。間違いなく。

 私の先輩達は、そろばんすら投げ捨てられたらしいですよ」


 すげぇ。

 そしてそういう社長さんたちほど腕が良い職人タイプであり、彼らは真っ先にこの貸し渋りと貸し剥がしで消えていったのである。

 腕は良いのに環境に適応できなかった一例である。


「だからこそ、ホワイトボードです。

 スケジュール管理が目的ですが、社長さんたちには『カレンダー破くよりお得ですよ』と言いくるめて置かせてもらいましょう。

 あと、これを書くのは出向する社員に任せます。

 『社長の手間はとらせない』と言ってね。

 それでスケジュールを掌握するんです」


 ああ。

 ジェネレーションギャップの凄さに頭がくらくらする。

 お値段は一万円ちょっとだから数千社もの中小企業にばらまいても一億届くかどうか。

 次に一条が差し出したのがトイレの掃除道具である。

 完全に頭に『?』がついている私に一条は苦笑して言い切る。


「これも実体験ですが、トラブルを抱えている職場はトイレが汚いんです。

 来客用のトイレはまだ掃除している所でも、従業員が使うトイレを見れば一目瞭然です。

 従業員のモラルとリソースも再建において大事なファクターなんですよ」


「モラルとリソース?」


 意味がわからなかった私に一条は具体的な例を出して答えた。


「『トイレを掃除する余裕すら無い』というのがリソース。

 『トイレを掃除する意識が無い』というのがモラル。

 現場がどちらなのかは見ないと分かりませんが、トイレ一つでこれぐらいは分かるものです。

 出向する連中には道具をもたせて全員出向先のトイレ掃除を義務付けましょう」


 セットで買っても一つ数百円。

 なお、一条は地方の営業時代にこれをし続けたらしく、今でも重役室のトイレは自分で掃除しているらしい。

 実に良い人材を確保できたと思う。


「で、この最後の一枚は何?」


 私は飴とかチョコとかせんべいとかのお菓子の詰合せのチラシをひらひらと揺らす。

 裏面にはお茶とコーヒーのセットもついていた。


「職場に女性がいる場合の武器です。

 そういう所では間違いなく女性、奥さんなり社長の愛人が経理を握っていますからね。

 生の数字を出してもらう為には絶対に必要なんです」


 大体千円のセットで一週間だから、一月四週計算で四・五千円。

 多分これ経費でなくて自腹切ってきたんだろうなぁ。

 苦笑する一条を見てこいつどんだけ修羅場をくぐってきたんだと思うと同時に、それだけやったら地方銀行とはいえ花形の東京支店長まで上り詰めるわなと納得せざるを得ない。

 できる人間は、ちょっとしたアイテムと気遣いですら凡人と差をつける。


「ここまでは私の裁量でどうとでもなる事ですが、ここからはお嬢様の裁可が必要になります」


 一条はそう言って、今度は私にも理解できるもののチラシを出してきた。

 まずは50CCのスクーターにヘルメット。

 つまり彼らの足だ。


「支払いおよび代金の受け取りって地味に面倒だから、社長さんたちは後回しにする事が多いんです。

 出向する社員たちは経理で送り込むから、この手の仕事は彼らに任せましょう。

 駐車場の無い商店街や車の入らない小道を駆使する事が多いので、原付は必須です」


 一台10万として数千台導入したら数億である。

 たしかにこれは私の裁可が必要だろう。

 それでも、今の私にとってははした金に過ぎないが。


「で、全体の指揮を考えたらパソコンは絶対に必要になります。

 個々の企業では救えない可能性はありますが、提携させたり合併させたりで交渉力をつけさせるだけで資金繰りはだいぶ楽になります。

 そういう経営再建本部を町々のどこかに作り、そこにパソコンを置いてください。

 価格は安くても構いません。

 表計算ソフトがあればいいんですから」


 この頃から価格が下がって10万円を切るパソコンが登場しだす。

 こちらも億単位の費用が出るが、不良債権処理は兆単位。

 本当にはした金に見えるから不思議だ。

 一条はこのあたりのプレゼン能力も高い。


「で、最後はその経営再建本部ですが……」


「合併で重複している桂華銀行の支店を整理統廃合して用意すると。

 お見事。

 文句のつけようがないじゃない」


 銀行の支店は決済情報のやり取りのためにネットワークが構築されている事も大きい。

 この時期花開いたITによる業務改善をフルに受けられる立場にあった。

 私は投げやりぎみに、一条が用意した重複店舗の再利用計画に判子を押した。

 一条が仰々しく頭を下げた後で真顔で言い切る。


「おそらく、中小企業の選定に半年。

 救済と再建を分けて軌道に乗るのが数年になるでしょう。

 それまでに景気が持ち直せばいいのですけどね」


 私は知っている。

 景気は持ち直すどころか、ここから壊滅的に悪くなってゆく事を。

 そして、それをなんとしても防がなければならない事を。


「違うわよ。

 景気が持ち直すんじゃないの。

 景気を立て直すのよ。私達が」


 私の小学生とも思えぬ低く重たい声に一条も顔を引き締めて言い切った。

 声には少しの茶目っ気を乗せて。


「その命令。

 たしかに受領しました」


と。

ホワイトボードとカレンダー

 なお、ホワイトボードが無くて、カレンダーに直書きという所も(遠い目)。

 まだこの時期あたりの男職場では、プレイボーイ系のえっちなカレンダーが堂々と貼られていたりする。

 来月になった時に捨てるカレンダーを欲しがって喧嘩になった笑い話を聞く程度には、男職場では意外にこのエッチカレンダーの効果は大きいのだ。


時間的余裕

 特に給料で、25日〆の5日支払いだと二週間無いので、社長さんが銀行に駆け込む事に。

 更にこれに月末の手形の引き落としとかが出るのが自転車操業の典型例である。


社長さん

 大体こういう感じて呼ばれる社長さんというのは一人親方なんかが多かったりする。

 その職人タイプが企業の三次や4次下請けなんかで家の工場で部品を作っていた。

 多分理解しやすいのは『男はつらいよ』のタコ社長。


トイレが汚い

 特に汚い理由の最たるものはタバコ。

 で、トイレで吸う連中に限って掃除をしないんだよ。これが。

 自腹で100円ショップで灰皿買って置いた思い出が……


表計算ソフト

 ちなみにこのあたりからエクセル文学がもてはやされる。

 中小企業の社長さんは字が汚い上に書式はめちゃくちゃだから、本気で重宝したのよこれ。

「ここにサインを」だけで済むのがなんとありがたい事か。

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