私の髪が金髪な訳 因果応報編 その1 2019/5/3 大規模加筆
それは、私がリムジンで桂華銀行本店に行く時に起こった。
「アジア通貨危機良くないわね。
不良債権問題が再燃するじゃないの」
後部座席で私はレポートを読みながらぼやく。
日本の不良債権処理は政財官の護送船団でかろうじて守りきったのだが、タイから始まったアジア通貨危機によってまた信用不安が起ころうとしていたのである。
「ですが、お嬢様にとって都合が良い所もあるのでしょう?」
「わかる?」
このアジア通貨危機で打撃を受けたのが、総合商社である。
特に東南アジアは多くの日本企業が進出していた事もあって、通貨危機から始まる政情不安を看過できず、その日本企業間を繋いでいた総合商社はその波をもろに被る事になったのだ。
おまけに、日本では消費税5%が景気を冷やし、バブルの傷が癒えていない所にこの打撃という事で信用不安が囁かれる事に。
お陰で、欲しかった下位の総合商社を買う事ができた。
「まぁ、二千億円ならお買い得かしら。
藤堂さん欲しがっていたしね」
小学生がほざいていい金額ではないが、そのお買い物が経済紙に載るのもなれたというか。
『東京都芝浦区に本社を置く松野貿易は、ムーンライトファンド傘下に入る事を発表した。
ムーンライトファンドより資本を受けることで、不良債権を処理して経営の安定を図る。
松野貿易はバブル崩壊後の不良債権処理が進んでおらず、アジア通貨危機で経営不安が囁かれていた。
このため、ムーンライトファンドはメインバンクが松野貿易に融資していた債権を一括購入し、松野貿易の経営に介入。
松野貿易は減資を行い株主責任を明確化した上で、債務の株式化とムーンライトファンドからの第三者割当増資を受け入れる事になる。
松野貿易の役員は全員退職し……』
桂華金融ホールディングス時と不良債権処理が違うのは、桂華金融ホールディングスが『貸し手』だったことに対して松野貿易は『借り手』という所で、この千八百億円は銀行が貸している所にある。
メインバンクシステムというやつで、銀行が最後まで面倒を見ることで平時は莫大な現金を管理運営して美味しい所を吸えるのだが、苦しくなると貧乏くじを一手に引く形になって不良債権が膨らむという欠点があった。
銀行団は信用不安が発生しかねないとこの松野貿易への融資を、まだ『現金が返ってこない』不良債権に分類しておらず、経営不安が表面化しても松野貿易への融資に応じていたのだった。
それが、アジア通貨危機によって銀行から一気に余裕がなくなった。
おまけに、松野貿易のメインバンクになっていた銀行の二つが片や合併で身綺麗になる必要があり、片や総会屋事件で脳死状態に追い込まれるという事態に追い込まれて、一気に経営危機が表面化したのである。
「しかし、値切っても良かったのでは?」
「それだと、銀行は融資が回収できないじゃない。
向こうは不良債権にならないから安堵しているわよ。
どうせあぶく銭よ。
泡として消えても困りはしないわ」
松野貿易の買収は基本銀行間で行われた。
メインバンクが持っていた松野貿易への融資をムーンライトファンドが購入。
ムーンライトファンドに融資を一本化した上で、債務の株式化と第三者割当増資を申し入れて松野貿易を一気に支配下に置く。
一個だけずるというか手口が異なる場所があって、これらの取引は全部それぞれの銀行のニューヨークの支店で行われたという事。
莫大な米国IT企業の含み益を前提に、桂華銀行がムーンライトファンドに資金を融資し、松野貿易の債権を米ドルで購入していた。
メインバンク側はこの米ドルの処理、円に変える為の為替差損のリスクを背負い込むが、割引なしで不良債権を買った代償として納得してくれた。
もちろん、今回の処理終了後に桂華銀行からの融資は返済している。
「日本の金融機関の不良債権がここまで大きくなったのは、価値というか信用のズレが我慢できない所にまで来たからというのがあります。
100万を信用して貸したのに50万しか返ってこなかったら、銀行は50万の損を受ける。
もちろん担保に土地や株を持っていたのでしょうが、それも同じく下落中で100万はどうやっても取り返せないからここまで苦しんでいるのです」
一条の言葉を思い出す。
だからこそ、借り手側の救済では債務放棄--借金を無しにします--なんて銀行団が行う際には銀行側にも債権回収不能というダメージと特別損失が発生しているのだ。
かくして日本企業群は仲良く不良債権という泥沼に長くつかる事になる。
で、だ。
そんな中で、帰ってこないと諦めていた融資が満額回収されたらどうなる?
銀行は損失を出さなくて済むし、他の企業の不良債権処理に進む事ができる。
一方で、借りていた企業は銀行からの返済の督促に怯えなくて済む。
日本の不良債権の特色は、企業そのものは結構稼ぐ力があった事で、バブル崩壊で莫大に膨れ上がった不良債権--銀行らの過剰融資で高値で買ってしまった土地建物--への返済に苦しんでいた所にある。
だから、銀行からの過剰融資を返済すると立ち直る会社が結構あったのだ。
この松野貿易なんかはそんな会社だった。
「松野貿易の社長に藤堂さんを送り込みましょう。
他の取締役の人選はどうなっているのかしら?」
「既に手配は済んでおります」
桂華銀行本店に出向くのは、この確認を一条と共に進める為である。
下位とは言え、十大総合商社の一角にあった松野貿易である。
ここを使って、酒田市のコンビナート再開発事業に絡むことになるだろう。
「お嬢様。
よろしいでしょうか?」
運転手の曽根光兼さんから何か告げられた橘が私の思考を中断させる。
彼の口から予想できない一言が出てきたのは、その次だった。
「何者かにつけられています。
今、自動車電話で本家に連絡を取り、手の者を呼びました。
警視庁警護第5係にも連絡します。
今日のご予定はすべてキャンセルして頂きたく」
公爵という高位の華族をやっている事もあって、桂華院家専属の護衛は当然のようについている。
このリムジンには運転手の曽根さんと橘の他に女性の護衛が一人ついているし、リムジンの前後に防弾仕様のベンツが走り護衛二人が乗っている。
それでもつけられている事の意味を考える必要があった。
「わかったわ。
で、つけている連中は内と外どっちだと思う?」
私のため息と共に出た質問に橘はただ横に首を振った。
内、つまり桂華院家の一族・分家筋が私を狙う理由は十二分にあったのである。
わかりやすい理由を上げるならば、桂華銀行の収益柱になっているのにその内情は私しか知らない『ムーンライトファンド』。
ハイテクバブルの波に乗って莫大な金があるのは分かっているから、私を亡き者にしてとか橘や一条を引き抜こうとして等の色々なあの手この手が既に発生していたのである。
それを断った二人の理由はこんなものだった。
「私は大旦那様から『瑠奈様を頼む』と頼まれましたからな」
橘の場合は、私というより祖父である桂華院彦麻呂の忠臣だったという事が大きい。
成り上がり華族とは言え、太平洋戦争からはや半世紀。
桂華院家譜代や忠臣を作る時間はあったという事なのだろう。
「地方銀行でしか無い極東銀行の東京支店長出身だから、この先出向するしか無いと思っていた私が、本店で執行役員なんかについている。
それもお嬢様の悪巧みのおかげだ。
大蔵省天下りと都市銀行系幹部で占められている桂華銀行で、お嬢様の支えが無かったら即座に首を切られますよ。
裏切れる訳無いじゃないですか」
一条の言い分に笑ったのは内緒だ。
ちなみに、執行役員とは重役待遇ではあるがあくまで従業員であり役員、つまり会社の意思決定に参加する取締役でない所がポイント。
ちょうどゲーム機を出してブイブイ言わせている某電気メーカーがこれを導入したのに続いて桂華銀行が導入した訳は、一条と清麻呂叔父様の鶴の一声で抜擢された橘の処遇の為だったりする。
今の桂華銀行は頭取と取締役の半分は大蔵省の天下り、残りは北海道開拓銀行・長信銀行・債権銀行の使える幹部によって占められている。
ここで一条と橘の入る席は無いとばかりに突っぱねたいが、一条は『ムーンライトファンド』にアクセスできる数少ない人間であり、橘は桂華院家の譜代家臣である。
彼らの処遇の為にという実に日本的な組織内政治によって執行役員は導入されたのだった。
外についてはもっとわかりやすい。
身代金誘拐等の格好の標的だからだ。
「ルートを変更して、製薬本社に向かいます」
「待って。
製薬本社に行くのは構わないけど、下手にルートを変える方が危険よ。
銀行本店に行ってそこから製薬会社に向かう方が安全だわ。
銀行本店の警備員も使えるし、茅場町から地下鉄に乗れば霞ヶ関まで行ける。
そっちの方が速いわよ」
銀行の救済に伴って優良物件として都内のビルのいくつかが桂華グループの物になり、それに伴ってグループの本社移転が行われていた。
グループ中核の桂華製薬本社は旧長信銀行本店ビルのある日比谷に移り、桂華銀行は旧一山証券本社ビルのある茅場町に本店機能を集約させていた。
「お嬢様。
その案には問題があります。
桂華銀行本店から地下鉄茅場町駅まで距離が離れております」
その距離4-500メートル。
つけている奴らに害意があるなら襲ってくれと言っているようなものだが、手がない訳ではない。
「手はあるわよ」
そう言って私はニッコリと微笑んだ。
永代橋。
あからさまに怪しい動きをしていた車は私達を確認した後、こちらの警備員に質問されるのを嫌ってか車を東に走らせていった。
私はその姿を船の上から眺める。
「お嬢様。
この手はいつから考えておられたので?」
「結構前から。
東京って川が多いでしょう?
船を移動手段に入れると、追ってくる連中を振り切りやすいなと思ってね」
橘に返事をした私の金髪が潮風に揺れる。
旧一山証券本社ビルの裏には日本橋川が流れていて、ちょっとした船着き場になっていた。
だったらこれを使わない手段はない。
一条に頼んで、船を一隻船員つきで係留させていたのである。
それが図に当たった。
なお、船はうちのリゾート事業で使う予定だった元不良債権のレジャーボートで設備だけは良い。
「竹芝桟橋に向かって頂戴。
向こうで製薬本社が用意した車に乗ります。
向こうの準備ができたら上陸するわよ」
船の便利な所は、岸につかない限りは誰も出入りができない事と、連絡がとれる無線が装備できる事である。
状況はこちらの方が圧倒的に有利だった。
「お嬢様。
銀行本店の警備員の報告です。
ナンバーを控えていたのですが……やっかいな事になりました」
私は橘の報告にいやそうな顔をする。
彼はこれ以上無いほど顔が真剣だったからである。
つまり、ろくでもない報告であり、それは見事に的中した。
「控えていたナンバーを警視庁に報告したのですが、そのナンバーがロシア大使館の登録車であるという事です」
アジア通貨危機
タイを始めとしたASEAN諸国で発生した大規模金融危機。
考えてみると、このあたりの国内外の詰みっぷりが凄い。
松野貿易
この99年に、337億円の減資と取引行による約1,500億円の債権放棄をやっていたりするが、そこから復活。
債務の株式化
デット・エクイティ・スワップ。
借金は返さないといけないのだが、出資だとその会社の株を渡す事で返済という扱いになる。
という訳で、現金返済で無く、その会社の株式を渡すことで債務を軽減する手法。
デメリットとして、株の希釈化(借金がそのまま出資になるので、株が更に増えることになる)やモラルハザード(株渡して借金返せばいいやと経営陣が考えるようになる)を避けるために、この話では減資で株主責任を取らせた上で、経営陣に総退陣を迫っている。
警視庁警護第5係
実際には無い架空の部署だが、華族の警護を担当するという設定。
ゲーム機を出してブイブイ言わせている某電気メーカー
某遊駅を出したメーカー。この年にFF7が出て、次世代機戦争に勝ち覇権を確立する。
外交官特権
外交官に与えられる特権で不逮捕特権や住居の不可侵権等がある。
その為、大使館ナンバーの車にスパイを乗せてなんてのはスパイ小説の王道の一つ。
2019/5/3 大規模加筆