二人のスイートホーム
空中で二つの霧の塊がぶつかり合う。
激突の瞬間、まるでお互い質量を持っているかのようにドンと激突音が鳴った。
そして翻り、またドン、ドンと空中で繰り返し体をぶつけ合う。
『何考えてるの!?
ユウ君を殺そうとするなんてッ!』
そんな声が響いた。
『じゃあユウ君が亜利奈やローゼのモノになってもいいっていうの!?』
反論が聞こえ、衝突はいっそう激しくなる。
『それはユウ君が決めることでしょ!?』
『うるさい、黙れッ!』
「ど……、どうなってるんだ……?」
俺は固唾を呑んでそれを見上げることしかできない。ミストに刺殺されそうになったすんでのところで、別のミストが現れ、彼女が彼女を俺から遠ざけようと争っている。
わけが分からなかった。
「あ、あのミストは偽物だったってことか?」
「――ううん、違うの」
仮説を呟いたところで、背後から否定の声が上がった。
振り返ると、そこに立っていたのはなんとまたミストだ。
今度の彼女はイワン王国風の平民服を着ていた。
「あっちも私、こっちも私。どっちも嘘偽りない私自身だよ」
そんなことあり得るのか?
いや、もう常識で考えないほうがいい。ここで彼女に〝あり得ない事〟などない。
「あそこにいる二人は……この私自身も――。
ユウ君に押し付けたい気持ちと、ユウ君を傷つけたくない理性の固まりなの」
つまり、いま空中で巻き起こっているのは彼女自身の葛藤だ。
きっと誰にでもある、〝やりたい事〟と〝やってはいけない事〟の戦い――……。
「ごめんね。怖い思いしたよね」
ミストはうつむくと、かぶり振って、後悔するように、
「もっと早くこうすればよかった。
ううん、もっと早くこうすることができたのに」
「でもね――。幸せだったんだ。すごく、すごく。
ユウ君とここで暮らす時間が。それを無くすのが怖くて」
それは俺も一緒だ。恐ろしい目には何度も遭った。
けど、それ以上に幸せな時間もあった。
だから、ミストの事を諦めることなんてできない。
「もういいよ、ミスト。
一緒に外に出よう! もう一度二人で、」
「――でもユウ君は私を選べないって言った……ッ!」
「え」
やばい。咄嗟に上半身を捻るように、ミストの直線上から離れる。
嫌な予感は的中した。ミストはまっすぐに包丁を突き出し、さっきまで俺の脇腹のあった空間を貫いたのだ。
避けた瞬間、視線が合う。
ミストの憎しみに満ちた眼光が俺をぞっとさせた。
……だが、ふっとその目が悲しそうな表情に変わると、
〝ごめんなさい〟
そう、唇が動いたと思えば、そのミストは霧散してしまった。
ああ、そうか。あの上で戦い続けるミストはどちらも本物だとすれば、目の前にいたのも、そしてきっと次に現れるであろうミストだって本人だ。二つの意見がない交ぜになった彼女の心は、今でこそこの不思議な空間で分離しているように見えるが、いつ何時どちらに傾くかはわからない。彼女自身が自分を制御できなくなっているからだ。
だがちょっとだけ疑問は残る。
ミストは意思の強い子だ。日本語を覚えようと努力したり、こっちの世界の人間なのに、目的のためならローゼ姫にだって喧嘩を吹っ掛ける、そんな度胸もある。そんな子がこうもたやすく気持ちをコロコロと揺さぶられたりしないはずだ。
――じゃあ原因はミストじゃない……?
「ユウ君、避けてッ!!」
ミストの警告に、見上げると、やばい、包丁らしき刃物が飛んでくるッ!?
俺は前のめりに転倒し、全身を軽く擦る代わりに間一髪でそれを避ける。
と、目の前にミストが降りてきて、
「ケガ、してないよね!?」
「ああ、大丈夫だ」
手を差し伸べられたが、今はそれを取ることができなかった。
このミストだって、きっとすぐに――……。
警戒した俺が自力で立ち上がると、ミストは苦い表情をしてやり場のない手をひっこめた。だが、それで俺の事を咎めたりしなかった。
「――出口を開くよ」
ミストがそう言った。
「私、もう、いつユウ君の命を奪うかわからない」
「…………」
肯定も否定もできず、俺が答えあぐねていると、ミストが指で示した場所に木製の扉が出現した。
「これが出口。
安心して。外の世界へのちゃんとした出口だよ」
「ああ、やっとお目にかかれたな」
俺がそういうと、ミストは軽いジョークと受け取ったのかクスリと笑った。
「さあ、早く行って。私が、私を抑えてる間に」
え。
「ミストも一緒に行くんだよ!」
「ダメ。行けない。
今こんな気持ちで外に出たら、私、今度こそ本当にユウ君を傷つけちゃうから。
だから……私を置いて――……い……、
行かないでッッ!!」
「ッ!?」
突然、ミストが怒声を張り上げる。
「私を置いて行かないでッ!! ずっとここに居てッ!!
二人で一緒に、二人だけの世界で――……ほらッ!!」
ミストがばっと手を翻すと、景色が一転、俺は雲の上に居た。
慄いて下を見下ろすと、そこには俺と亜利奈が在籍する青海学園を中心に、さらにフォーカスが遠のき……、
そこは青い星だった。
本州と九州だけの日本列島を備え付けた、青い地球があった。ユーラシア大陸もアメリカ大陸も南極もない、本当に中途半端な日本だけの地球型惑星だ。
俺達は、成層圏といえばいいのか、宇宙空間との狭間でそれを見下ろしていた。
「ユウ君の世界だってもう少しで出来上がるの!!」
ミストは毎日どこかに出かけていた。
目的を教えてくれなかったが、サプライズがあるぞといわんばかりの態度だった。
「……まさかミスト、毎日これを作っていたのか……?」
「そうだよ、私の作った世界で、亜利奈も、ローゼも、雑音もない世界で!!
二人で生きていけばいいじゃないッ!!」
幻覚の青海学園は、こいつの一部に過ぎなかったわけか……。
俺の記憶から構築したそっくりの世界を用意して、それこそが新しい〝外の世界〟と俺に言い聞かせ、そこでハッピーエンドを迎えるのが彼女の計画だったってわけだ。
もう創世神話だ。冷蔵庫で驚いていたころが懐かしい。
スケールが大きすぎて途方に暮れていると、ミストが俺の手を握り、
「それが嫌なら一緒に死のう? ね?」
と笑顔で言ってきた。うろのような生気のない瞳で俺を映し、
「私、ユウ君と死ねるならそれで幸せだよ。
ユウ君もほかの女と一緒になるくらいなら死んだほうがマシだよね?
だから――……うぅッ!!」
ミストは身悶えすると、疲れた表情に戻り、
「ユウ君、早く行って! 本当に私、ユウ君と一緒になりたいだけなの!
だめ、私、あなたを束縛したいわけじゃないの……ッ!!
見てほしいかっただけ、こんなに好きなんだってわかってほしかっただけ!
なのに、こんな――……ッ!」
ミストの心が良心と欲に揺れる中で、彼女の本心が露呈する。
――バキィッ!
あのへし折れる音が響いて、ミストの世界が揺れる。
彼女の心が崩壊し、全てを使って俺に襲い掛かるのも時間の問題だ。
「はやく――、ユウ君ッ! 外に逃げてッ!!」
ミストは頭を抱え、葛藤に蹲った。
俺を殺してでも引き止めたい、いいや、そんなこと許されない。
そういう気持ちがない交ぜになってミストを苛んでいるのが、手に取るようにしてわかるような気がした。
この子を置いて一人逃げるなんてことはできない!
でも、どうすればいいんだ。
……今ミストを苦しめているのが原因がミスト自身じゃないとすれば……。
それを取り除けばミストを救えるはずだ。
例えば、強力な魔源寄生虫とか、もっと別の外的要因があるはずだ。
のんびり調べている時間はない。
だが、俺だってぼーっと過ごしてきたわけじゃない。
今まで一緒に過ごした中に、必ずヒントはあるはずだ。
『外は雑音が多いの。私達二人を邪魔しようとする雑音ばっかり』
『雑音はユウ君のことを誑かすからいけないわ』
俺は二人の生活を振り返って、ミストを狂わせる原因を突き止めるんだ。
何か、彼女の心を乱す何かが……、
『私がユウ君を護ってあげるから、ユウ君は安心してね』
『ユウ君の、嘘つき』
『嫌いなはずないよッ!! ユウ君と私は愛し合ってるんだからっ!!』
『あいつ、いつまでもいつまでもユウ君の心の中に居座ってユウ君を苦しめてッ!!』
……あれ……?
『大丈夫、ミストがちゃんと連れてってあげるからっ!』
『混乱しちゃって、ちょっと間違った返事をしたんだね』
『じゃないとまたユウ君と私の邪魔をするに決まっているんだ』
……いや、違う。
寄生虫とか、そういう何かじゃない。
ミストの中をかき乱しているのは……。
『――どうしていっつも逃げるの?
ユウ君、本当は嫌じゃないんでしょ?』
――俺だ。
ここはミストが俺の心を反映して作った世界だ。
そしてミストは俺の記憶までのぞき込める。
俺の優柔不断なそれも、よく知っているんだ。
〝責任があるから〟とか、〝好きだと言ってくれるから〟とか、
〝裏切れないから〟とか……。
そんな他人行儀な言葉で誤魔化して、ぐらついている俺の気持ちが彼女に伝達して、心を惑わせているんだ。だから言葉が伝わらない。
当然だ、俺が自分を誤魔化し続けているからだ。
彼女に言葉を伝えるには、そんなものを取っ払わなきゃいけなかったんだ。
亜利奈やローゼ姫の名前を極端に嫌うのは彼女の嫉妬以上に、三人の女の子に囲まれた俺の心の迷いやしこりが、彼女の心にも負担をかけているからだ。
そりゃ、逃げ出せないわけだ。
物理的に逃げ出しても、彼女達は俺の心の中でついて回る。
自分から逃げられるものか。
――ごめん、ミスト。全部俺のせいなんだ――。
謝りたくなったのをぐっとこらえ、もっとその先の、俺が言いたくて、ミストが聞きたい言葉を胸の内から探り出し、
そして。
「ミスト、ありがとう。
こんなに俺の事を想ってくれて、嬉しいよ」
俺は彼女に送った。
「――え?」
俺の反応が予想外だったのか、ミストは虚を突かれた表情で俺を見上げた。
「まずは家に帰ろう。外じゃない、この世界の二人の家に」
「ユウ君……その……、逃げないと私……」
「大丈夫だよ。ほら、大丈夫だろ?」
その瞬間、世界の振動は収まっていた。
俺の仮説は正しかった。心がはっきり定まった途端、それはミスト自身の錯乱を抑えることができた。ミストがこの世界に俺を閉じ込めていたんじゃない。
ミストは、少しゆがんだ形とはいえ、俺の心を純粋に反映していたに過ぎないんだ。
困惑しているのはミストだった。
未曽有の危機が一瞬で解決してしまい、かえって不安そうな顔をしている。
「ほんとに……収まってる」
「じゃ帰ろう。腹減った。ミストの料理が食べたい」
「え。でも」
「――俺のお願い聞いてくれないの?」
「あ、え……っと」
ミストは今までの錯乱が、何事もなかったように扱う俺の態度に、それはそれは複雑そうな顔をしていたが、
「う、うん、いいよ」
とひとまず頷いた。
「あとそれから、もう一つお願いがあるんだけど」
「め、珍しいね、急に。ユウ君がそんなに甘えてくるなんて」
ミストはまた戸惑った顔をしたが、その先にまんざらでもないような色を滲ませて、
「なぁに? 何でも言ってね♪」
あー。
ところでさ。なんで俺、今までこれが言えなかったんだろ。
よく考えたら損だよな。もっと早く頼めばよかった。
なんかいろいろ考えてずっと避け続けてたけど……馬鹿だよねぇ。
「帰ったら、ミストを〝観たい〟。
それから、ミストを〝触りたい〟」
「え」
まさかの要望に、ミストの笑顔が凍り付く。
「ダメかな?」
そう追撃すると、
――ドーン。
打ち上げ花火のような太い炸裂音が響き、真っ赤になったミストは尻餅をついた。