転生者のわたしと、転移者の彼女と
ざまあ系ではありません
ご了承の上お読み下さい
こんな世界、間違っている。
そう思っても、わたしが出来ることなんてろくになかった。
間違っていても、おかしくても。
この世界がそうで、そこで生きるからには、定められた規則に従うしかないのだ。
彼女の声は、ひどく耳障りだった。
独り善がりで、傲慢な言葉。
それがどれだけ、周囲を傷付けるか、危険に晒すかなんて、少しも慮りはしない言葉。
友を傷付ける言葉を吐く彼女を、好きになれるはずもない。
だと言うのに、彼女は。
どうやらわたしのことを、自分と同類だと思っているらしい。
「ビィ」
振り向いた友人はこちらを見て、強張り青ざめていた顔を今にも泣きそうに歪めた。
騎士服に帯剣のわたしが隣に立てば、美しい友人はまるで姫君のよう。
「家まで送るよ。わたしは自分の馬車で来たから」
「ありがとう、カーチャ」
少し震える声を出した友人の頭をなでながら、彼女の横へと目を向ける。
「気にしないで。カルヴァン嬢も来なさい。ビィの家に行ってからだから、家に帰せるのが少し遅くなってしまうけれど」
「ご迷惑では」
「こう見えて監督生だからね。同じ寮の後輩を律するのは義務だよ」
友人の肩を抱き寄せ、哀れな少女に片手を差し出す。
「さ、おいで。良い子だから」
「ありがとうございます」
片手に乗せられた華奢な手を掴み、引く。害悪から守れるよう、我が身を盾に。
「セーラ?」
「それではわたしたちは、これで失礼するよ。人通りがあるうちに帰りたいからね」
呼ばれて肩を震わせた少女に、そんな声聞かなくて良いと、背中を押してやる。
「どうして」
「きみは」
嫌いな相手だ。助言してやる義理はない。
それでも言葉を掛けたのは、常識の異なる世界に突然飛ばされた彼女を、多少なりとも哀れんでいたからだろう。
「ここがきみの故郷とは違うと言うことを、理解した方が良い。油断すれば、たちまちに大事なものを喪うよ」
「どう言う意味?」
「女性だけで出歩くのは危険だ。特に夜なんて、護衛がいても迂闊に出歩くものではない」
だから貴族女性は、幼い頃から婚約者をあてがわれ、父兄や婚約者を伴わずに外出はしない。買い物は家に商人や仕立て屋を呼び付けて。勉学は家庭教師か寄宿学校。通いで学舎に通うことはない。
そうでなければ貞操も命も守れないからだ。そこまで警戒しても、月に何人もの令嬢や婦人が犯罪被害に遭う。平民や貧民ならもっとだ。
強盗、殺人、強姦、人身売買、奴隷に娼館、鞭に鎖に、焼き印。前世ではテレビ画面の向こう側にあったものが、この世界では当たり前に隣にある。
「まともな家の子息なら、夜会で婚約者の帰宅に付き添わないなんてありえない。やむを得ない事情があったとしても、せめて自分の家の馬車を手配し、従者を供に、十二分の護衛を付けて送り返すくらいするのが当たり前だ。でないと」
視線が冷たくなったのは、仕方のないことだろう。
「のたれ死ねと言うようなものだからね。十零の過失で婚約破棄されても文句は言えない愚行だ」
「そんな、ひとを縛り付けるようなこと」
「縛り付ける?それはそうだね。身を守るために作られた行動規範。それがわたしたちの常識なのだから」
きみがそれに従えないと言うのは勝手だけれど。
「大事な友人や後輩まで危険に晒すのは、やめて欲しいものだね。さて時間がない、お暇させて貰うよ」
誰の言葉も、聞く気はなかった。
両手に少女の肩を抱き、振り返らずに歩み去る。
わたしの姿を見た従者は、わたしだからわかる程度に驚いた顔をしたものの、黙って馬車の扉を開いた。
従者の手を借りて馬車に乗り、友と後輩に手を差し伸べる。普段は馬車に共に乗り込む従者は、素知らぬ顔で御者の横に座った。
動き出す馬車。進行方向を背にしながら、縮こまる後輩と、暗くて何も見えない窓に目を向けた友を眺める。
「ビィ」
おもむろに投げた声に、友人が窓から目を離す。
「近々我が家で、お茶でもしない?馬車は出すよ」
「それは」
友人は反論しようと口を開いたあとで、眉を下げてうつむいた。
「そうですね。さすがに、もう、無理でしょう」
「ちょうど、と言うのは、憚られるけれど」
そんな友人の頭をなでて、目をすがめる。
「兄上の婚約者が亡くなられた」
「それ、は」
「元々、予測はされていたことだから」
今度はわたしが窓を向いて、唇に笑みを刷いた。
「破天荒な男装女でも、あちらは受け入れて下さるそうだ。……本当に、ちょうど良かったよ」
「カーチャ」
婚姻は、家同士の利益のためのものだ。そこに、個人の意思はない。
「大丈夫。招待状は後日送るから、色良い返事をくれると嬉しいな」
「ええ。わかりました。父に伝えておきます」
「うん。さて、カルヴァン嬢?」
呼ばえば、華奢な肩がびくりと跳ねる。
「大丈夫。怒ってはいないよ。ただ」
身を屈めて、うつむく顔を覗き込む。
「友人との関わり方は、考えた方が良いね。考えなしに行動すれば、痛い目を見るのは彼女じゃない。きみだ」
「はい。よく、わかりました」
「昼間に付き合う分には良い子なら、それだけの関わりにすると良い。親が厳しいとでも言ってね。わたしから、ご両親には話してあげよう」
小さなことでも悪い噂は商品価値を下げる。万一襲われでもすれば、余計だ。
今日の話を聞けば、まともな親なら関わりを避けさせるだろう。
「情報としても広めるよ。監督生として、後輩を危険には晒せない」
「ありがとう、ございます」
「感謝の気持ちは、来年の指導に活かしてあげてくれ。カルヴァン嬢は頭脳明晰で品行方正だと、聞いているからね」
どうか潰れないで欲しい。潰されないで欲しい。あんな醜く、傲慢な女のために。
少女は泣きそうに顔を歪め、小さな声で、はい、と答えた。
「可愛いカチューシャ」
兄がわたしの顔を覗き込む。
「お前はそれで良いのかい」
頷き、微笑んだ。
「はい。ビィ、ベアトリーチェ嬢は親しい友人です。彼女が姉になってくれるなら、喜ばしいことです」
「お前自身のことは」
「それが我が家と、我が愛する祖国のためになるなら喜んで」
彼女はここを、テーマパークのアトラクション程度に認識しているのだろう。
安全で、優しい、夢の国の娯楽。
だから、気付かないのだ。
夢の国の安全は、自由は、楽しさは、お金と言う対価でもって作られ、多くのひとによって支えられてやっと成り立っているものであることを。
夢の国がただ楽しいだけなのは、ゲストとしてその多くのひとの努力を、享受するだけで済んでいるからだと。
だがここは現実だ。テーマパークではないし、彼女は楽しみだけを享受すれば良いゲストではない。
周りの人間はゲストをもてなすキャストではなく、それぞれの人生を必死に生きる生身の人間だ。
生まれたときからこの世界の人間として暮らす転生者ではなく、突然よそからやって来た転移者の彼女は、それに気付いていない。
だが、彼女が気付かぬうちにも、周りの人間は考え、動き、選択し。
状況は常に、変わり続けているのだ。
夢の国は、夢の国として隔離しているから成り立っている。
彼女の夢の国は、周りに侵食すればただ害悪だ。
それに気付いたものは、さりげなく、しかし確実に、彼女から離れて行く。
彼女を、夢の国へと、隔離して行く。
夢に溺れ、彼女の国を造り上げる、キャストと成り果てたものを檻にして。
夢を見ている彼女は、夢に溺れている彼らは、その夢の国と言うにはあまりに歪な檻に、気付かない。
そうして彼女が傲慢で独り善がりなゲストでいるあいだに。
夢の国はすっかり、世界から弾き出されていた。
「カーチャ」
聞き慣れた声に名を呼ばれ、振り向く。
「なにか?」
「きみは、監督生だろう、なぜ、後輩を監督しないんだ」
「監督生の仕事は、自寮の寮生の監督と補佐です。ベルンシュテイン寮の寮生が、なにか問題でも起こしましたか?」
ベルンシュテイン寮は高位貴族と留学生のための女子寮だ。他寮からの隔離も、学院による警護も厳しい女の園。他寮に比べて規則や門限も厳しいが、その理由をみなわかっているので、規則を破る生徒は極めて少ない、平和な寮だ。問題児が少ない、と言うか、問題を起こせば他寮に移されるので、みな問題は起こさない。
当然ながら、貴族でない彼女はベルンシュテイン寮の生徒ではないし、日頃の生活態度から言って、望んでもベルンシュテイン寮の敷居はまたげない。
ベルンシュテイン寮の現監督生はわたし。なにか問題を起こしたり、事件に巻き込まれた寮生がいれば、早急にわたしに報告が飛んで来るが、今のところそんな報告は受けていない。
「ひとりの生徒をよってたかっていじめているそうじゃないか。まさか聞いていないのか?監督生として、目が行き届いていないのではないか?」
わたしが、監督不行届だと。
「いじめ、ですか?どのような?」
「え」
「学院でいじめを行ったなどと噂が立てば、寮生の経歴に傷が付きます。事実か調べますので、どこで、誰が、どのようないじめを、誰から受けたのか、お持ちの情報を教えて頂けますか?まさか、証拠もなく、我が寮生を貶めようとしたわけではないのでしょう?」
ベルンシュテイン寮生が問題を起こせば、同じ寮の生徒とて無傷で済まない場合もある。いじめ、賭博、違法薬物、婚約者以外との異性交友。どれも疑いをかけられれば、商品価値が下がりかねない。
それだけに、寮生同士の相互監視も厳しい。
監督生の下には七人の模範生がいて、寮生たちは何かあればすぐ模範生に報告や相談を行う。模範生が対処の必要ありと考えれば監督生まで話が上がって来て、しかるべき対処を行うことになる。
監視しているのは寮生同士だけでなく、教員や、学院のそこらじゅうにいる職員たちもで、そこでなにか問題が見受けられれば、それも監督生や模範生に報告や警告がある。
ベルンシュテイン寮の寮生は、在学中常に監視されているようなものなのだ。
はっきり言って、悪事を行うなどほぼ無理である。出来るとしたら学院の監視から漏れた、休暇中くらいだが、その間は家からの監視があるだろうし、社交に出れば寮生に会いもする。
そんな状態で秘密裏にいじめが起こるとでも?寝言は寝てから言って欲しいものだ。
「わたしには、監督生として、寮生を守る義務があります。身も心も、未来もです。わたしがベルンシュテイン寮監督生でいるあいだに、不当に寮生を傷付けさせはしません。さあ、いじめの証拠を提出して下さい」
ベルンシュテイン寮生には、やむを得ない場合を除いては常に三人以上の団体行動を行うことと、分単位での生活記録作成が義務付けられている。己の潔白を証明するためだ。生半な気持ちで貶めようものなら、徹底的に跳ね除けてやる。
「私が、見た」
「いつ、なにをです?」
「このところ、いつも、エマを孤立させている」
「エマ。どのエマ嬢でしょうか」
「エマ・カツラギ。異世界よりのまれびとだ」
ため息を堪えて、答える。
「それの、どこがいじめなのでしょうか」
「なん、だと」
「まず前提として。彼女はベルンシュテイン寮の寮生ではありませんので、わたしが保護すべき相手ではありません。それは、わたし以外のベルンシュテイン寮生も同じです」
他寮の生徒との交流は禁止されていない。他寮に婚約者のいる寮生も多いし、低位貴族や平民の生徒は、他寮にいる。社会勉強や人脈の強化のために、そう言った生徒と関わる寮生は多い。
ただ、あくまでそれは個人の判断に委ねられているもの。
悪い生徒との関わりであれば、口を出すこともあるが、そうでなければ関わるも関わらないも自由だ。
「寮生の交友関係は、監督生の監督範囲外です。寮生がカツラギ嬢との交流に意味があると思えば、カツラギ嬢に関わるでしょうし、逆もしかり。彼女の孤立は自分の価値を示さなかった彼女の責任であり、いじめではありません」
貴族ではない、平民の生徒ですら、高位貴族との繋がりが欲しいものは、己の価値を示して関心を勝ち獲っているのだ。そうでない生徒も、同じ低位貴族同士や平民同士で交流を育み、みな完全な孤立はしていない。
監督生として、高位貴族との繋がりを作れないかと相談され、助言することもある。
みな、努力しているのだ。その、努力を怠っておきながら結果をいじめだなどと。
はあ、と、ため息を、あ、さっきは堪えたのにうっかりした。
「ここは高等部ですよ。成人も済ませた歳で、周りから話し掛けて貰えないからいじめだなどと、幼児のようなことを言って、恥ずかしくはないのですか」
もちろん、大人だって露骨に孤立させられれば辛いし、それはいじめだ。寮内でそんな動きがあれば、監督生として調停に動く。
だが、彼女の場合は違う。
わたしも、ベルンシュテイン寮生たちも、やんわりと何度も、そんな行動や言動を続けていれば孤立すると、伝えて来たのだ。
その上で、彼女が反省なく行動を変えなかったから、関わることは害と判断して関わりを絶った。それは身を守るための行動であり、諫めるべき行動ではない。
「カーチャ」
信じられないとでも言いたげな顔をした男を、無感情に見返す。
「きみがそんな考え方をするとは、思わなかった。がっかりだ」
「そうですか」
わたしはとうに、失望しきっていたけれど。
「では、言い方を変えましょうか」
「なに?」
なぜ、お前が被害者面をしているのか。
「ベルンシュテイン寮生が彼女に関わらないのは、家から止められているからです。彼女の素行不良はすでに社交界でも知れ渡っていて、関われば家にとって害になると、判断が下されているのです」
「それは、」
「もちろん」
我ながら、冷たい目をしている自覚があった。
「その、彼女の周りにいる、あなた方も同類です。願わくば今後、一切話しかけないで下さい」
「カーチャ、」
「呼び方もわきまえて頂きたいものです」
にこりと、よそ行きの笑みを顔に乗せる。
「今後はコルガノヴァ侯爵令嬢と。愛称で呼ばれるような仲だと、思われたくありませんから」
「エカテリーナ嬢」
呼ばれ慣れない呼称に、座りの悪さを感じながら振り向く。
「はい」
踵が高いと足元が不安定になるから、わたしの履くブーツはローヒールだ。それでも、目の前のひとはわたしより視線が低かった。
「婚約を、受けてくれて感謝している」
「こちらこそ、こんな女と婚約して下さって」
「お互い、家のため、国のためだ」
その通り。国の安定のため、今代はどうしても、我が家と彼の家が婚姻を結ばねばならなかった。
だから、そのことに、否やはない。
この国の貴族の娘に生まれた以上、それが定められた道だ。
「はい」
「我が家はきみには窮屈だろうが、耐えてくれ」
「もちろんです」
いずれ、この騎士服を脱ぎ、剣を置かねばならない日が来るだろう。
「でもね、エカテリーナ嬢」
そのひとは、わたしに手を差し伸べて、はにかむように笑った。
五つも歳上の男装女を、哀れにも婚約者にあてがわれてしまった少年。
「僕はきみのその姿が、凛と立つ姿勢が、格好良くて大好きだよ。それだけは、覚えていて」
「え」
「もちろん美人だから、ドレスも似合うだろうけれどね。令嬢たちのヒーローを拐うからには、僕も負けないくらい良い男にならないと」
面食らって目を瞬いてから、ふふっと吹き出してしまった。
「確かに今の身長差ですと、あなたにドレスを着て頂いた方が似合いでしょうね」
「そうなんだよ。でも、これから伸びるからね。絶対にだ。身体ももっと鍛えるよ」
「そんなこと、なさらなくても」
いつか騎士服を脱ぎ、剣を置かねばならなくなったとしても。
「もう十分、あなたは良い男だと思いますよ」
このひとの隣に立つためなら、悪くないかもしれない。
「エカテリーナ嬢と呼ぶのは長いでしょう。婚約者なのですから、どうぞカチューシャと。家族はみな、そう呼びますから」
夢の国が崩れ去るまで、長い時間は掛からなかった。
この国の貴族社会は、個人の意思より家や国の存続が優先される。
それが正しいなどと思ったことはない。
けれど、それがこの国の常識で、個人の思いで変えられるようなものではないのだ。
嫌ならば、貴族をやめるしかない。
だが、ひとにかしずかれることに慣れた貴族が、平民になって巧く暮らせるわけはない。
だから、自分の望みを叶えるために貴族をやめるなんて、よほど強い願いでもあるか、あるいは考えなしの馬鹿かのどちらかだ。
そして、自分の願いも叶えたいが、貴族も辞めたくない、なんて言い出すとしたら、それはもう、子供のわがままと同じだ。
もちろん、自力で権力なりなんなり得て、実力で叶えるなら別だが。
だからこの国のまともな貴族なら、それも学生とは言え成人しているならば、彼女の言葉など子供の語る夢物語だと、相手にしないはずだった。はず、だったのだ。
「エカテリーナ・コルガノヴァ」
聞き慣れた声で呼ばれた声に、振り向く。
もう、話し掛けるなと言ったのに。
「きみは監督生と言う立場を利用して、なんの罪もない少女を孤立させ、貶めた。異世界から来て身寄りもない少女に対するその仕打ち、到底許せるものではない。したがって、きみとの婚約を、」
「カチューシャ」
自分に酔いしれて滔々と語る声を遮って、声変わり前のよく通るボーイソプラノがわたしを呼ぶ。
「やっぱりこれ、変じゃない?さすがに怒られると思うんだけど」
「思った以上に、よくお似合いですよ、チェーニャ。万聖節の前夜祭ですから、これくらいは許容範囲でしょう」
愛らしいドレスを着た婚約者を、微笑んで迎える。
まだ未成熟な少年の身体は、ドレスを着ればまるで少女のよう。抱き寄せて頬を啄めば、照れたようにはにかんでキスを返してくれる。
「カチューシャが嬉しいなら良いけど」
格好良い男を目指す婚約者どのは、少しご不満なご様子。
「今だけですよ。あなたの身長がわたしを抜く頃には、ドレスなんて似合わなくなります。そうしたら今度は、わたしがドレスを着ますから」
「約束だからね」
「ええもちろん」
にこにこと笑って頷けば、ようやく機嫌を直してくれたらしい婚約者が、わたしの横に寄り添った。ぴたりと身を寄せる距離感は、男女としては近過ぎるほどのもの。
「カーチャ……?」
その名で呼ぶなと言ったはず。
思わず漏れたらしい呟きに、顰蹙したのはわたしだけではなかった。
柳眉を跳ね上げ愛らしい顔に怒りを燃やして、婚約者がわたしの前へと歩み出る。
「僕の婚約者に、なんの用事ですか?」
愛らしいドレス姿だと言うのに、その背中には統治者としての威厳が溢れていた。いずれ広大な、公爵領を継ぐはずのひと。
「婚約者?カーチャが?」
「無礼ですよ、他人の婚約者に対して、そのように馴れ馴れしく呼び掛けるなど」
「カーチャは、私の、」
「いつの話をしているのですか?」
言い捨てた婚約者が、ぱっと振り向いてわたしを腕に抱く。身長差から、抱くと言うより抱き付くに近いけれど。
「カチューシャは僕の婚約者です。あなたとの婚約など、とうに破棄されていますよ。あなたの素行不良を理由にコルガノフ家が申し出て、セロフ家が受け入れています。コルガノフ家に、慰謝料を支払った上で」
「なっ、」
「当たり前でしょう。婚約者の役目を果たさない相手に、こんなに素敵な方を任せられるとでも?良いですか?彼女は僕の婚約者です。二度と、馴れ馴れしく、話し掛けないで下さい。目に余るようなら、我が家から正式にセロフ家に抗議しますよ」
きっぱり宣言して、婚約者は腕を解く。わたしに両手を差し出して、もう行きましょうと微笑んだ。
「待て、だが、カーチャ、いや、エカテリーナは、エマに嫌がらせを、」
「まだそんな妄言を言っているのですか?」
わたしに向ける目とは驚くほど温度の違う目で、婚約者はわたしの元婚約者を見る。
「カチューシャが本当に自分の立場を利用して誰かを貶めていたなら、彼女が監督生のままでいられるわけがないでしょうに。ベルンシュテイン寮の監督生の地位はそんなに安くない。そもそも」
わたしの腰を抱いて、婚約者はきっぱり宣言した。
「カチューシャはそんな醜いことはしません。むしろ我が身の危険や外聞を顧みず、夜会で寮生を救うひとです。自分の婚約者すら危険に晒して遊びに夢中な、あなた方と違って」
気付いていないのですか?
冷え切った目で婚約者は問い掛ける。
「あなた方がいま、どんな目で見られているか。すでに悪評は広まりきって、当然ながら婚約は破棄済。次の婚約など望めないどころか、家から絶縁される可能性すらあると」
「な「っなんで!」」
婚約者は公爵子息だ。王家とも濃く血の繋がりを持つ、国内でも随一の高位貴族。
爵位持ちの大人でも礼儀を尽くす相手に、爵位がないどころか貴族ですらなく、今まで面識もない娘が、比較的砕けた場とはいえ夜会でこの無礼。
この一場面だけでも関わりを絶つ理由に余りあると言うことに、彼女も彼らも気付かないと言うのだろうか。
「おかしいよ、なんでそんな、家とか身分とかに縛られなくちゃいけないの!?自分の人生なんだから、自由に選択する権利があって当然でしょ!?」
ああ、これが。
先人が命を懸けて勝ち取ったものを享受するだけの時代の子だ。甘えた子供の考え方だ。
なんて、幸せで。
なんて。
愚かな子。
「チェーニャ。我が校の生徒が無礼をしました。ベルンシュテインの寮生ではありませんが、教育の不行届に監督生としてお詫び致します」
婚約者から身を離し、跪いて首を垂れる。
「大丈夫、きみが言葉を尽くしたことは知っているよ。教師やほかの監督生、模範生たちもね。彼女の無知は彼女が理解しようとしなかったからだ。けれど」
わたしの手を取り、婚約者は告げる。
「顔を上げて。きみの謝罪に免じて、僕からは今回なにも言わない。意味は、わかるね?」
わたしの顔を伺いながら告げられた言葉は、紛れもない慈悲だ。
「忘れないで。僕はきみの誠意に応えるだけだ。そして、次はないよ。さ、立って。こんなことで、きみは膝を折ってはいけない」
「寛大なお心に、感謝致します」
「うん」
立ち上がり、転移者、この世界ではまれびとと呼ばれるエマ・カツラギ、葛木恵麻を見る。
「カツラギ嬢、彼は公爵家の継嗣だ。我が校の生徒でもない。平民が気軽に口を聞いて良い相手ではないよ」
「そんなの、」
「彼が寛大だから許されただけで、この場で首を落とされても文句の言えない無礼だ。きみが元いた世界がどうであろうと関係ない。この国は、そう言う決まりで動いている。死にたくなければ、弁えなさい」
学院内であれば、学生同士と許される部分はある。
だからみな、学生のうちに学ばせるべきと助言を繰り返し、学ばぬ彼女を見限ったのだ。連座で自分まで咎められてはかなわないから。
「それから、これは、きみの世界でもそうだったはずだけれど」
教育、勤労、納税。三つの義務は、生存、教育、参政の三つの権利と表裏一体。そう言う、法律だったのだから。
「権利には義務が付随する。義務を果たさずに、権利を享受することは許されない。特に貴族は特権階級だからね。課せられる義務もより多い。その義務を果たさないと言うなら」
義務の放棄はそのまま、権利の剥奪だ。
「きみは我が国の法の外の人間。なにに縛られることもなければ、なにに守られることもない。野生動物と同じだ。なにをしても罰を与えられない代わりに、なにをされても法には頼れない」
法は法を守るもののためのものであり、法を守らないのであれば、法に守られることもない。法に守られているものからすれば、なにをするかわからない、恐怖の対象でしかない。
「自由にしたいなら好きにすれば良いよ。だが、それに周りを巻き込んではいけない。野生の狼に話し掛ける者がいるかな。いないだろう。誰だって、狼の血肉にされたくはない。だから、誰もきみに近付かない。そして」
腰に提げていた剣を鞘ごと抜き、彼女の首元に突き付ける。
「狼がこちらを害そうと言うなら駆除する。法が通じないなら、それしか身を守る方法がないからね。義務を果たさないと言うことは、きみが言っていることは、そう言うことだ」
「そんな、だって」
「人間は弱い」
この世界は、前世より文明の発展度合いが低い。
「法は、そんな弱い人間がお互いの身を守るために作り上げたもの。簡単に否定して良いものではない。否定すると言うなら、これまで積み上げられて来たものをひっくり返すだけの、根拠を示さなくては。きみにそれが、出来るのかな」
わたしには、出来なかった。
せめてとこうして足掻いても、結局すべてを救えるわけでもない。
たとえ、窮屈な決まりでも、守ることで確かに守られるものがあるのだ。
「それは、でも、だけど、」
意味を成さない言葉を連ねる彼女を見下ろす。
思えばここまできちんと、彼女と話したことはなかった。
もちろん目に余れば苦言は呈したし、一言二言諭すこともあった。
けれど結局は、耳障りな言葉を吐き出す目障りな子供と言う気持ちが強くて、真剣に正しては来なかった。
もしももっと早く、わたしがこうして丁寧に諭していれば、彼女も変わっていたのだろうか。
今更言っても、仕方のないことだけれど。
剣を納めて、息を吐く。
「理解出来ないなら、理解しなくても構わないよ。でも、狼ではなくヒトとして生きたいなら、ここにはここの規則があるのだと言うことは聞き分けなさい。そして、理解出来なくても規則は覚えて守りなさい」
わたしは、転生者だから。なにもわからない赤子として、一から規則を教えて貰えた。
けれど転移者である彼女は、なまじ言葉を話せてしまったばかりに、赤子のようには扱って貰えず、また、彼女自身も赤子のように教え諭されることを拒んでしまった。
違いは、そこだ。
法を理解し、法を逸しない程度の反逆をするわたしと。法を理解しないまま、越えてはならない一線まで簡単に越えてしまう彼女と。
これまでも、幾度かそれでは駄目なのだと伝えはしたが。
わたしが彼女にしてあげるのは、ここまでだ。
「今回は、わたしがきみを救えた。けれど」
婚約者へ目を向ければ、心得たとばかりに寄り添って腰を抱かれる。
「次は許されない。許さないと、彼が言ったから。ここにいる、全員が証人だ。いいね?」
「っ「行こう、カチューシャ」」
それ以上の会話を許さず、婚約者はわたしの腰を押した。
身を寄せ、歩きながら、ひそめた声で囁かれる。
「ごめん。嫌な役をさせた」
「いいえ。助かりました」
公爵子息が公の場で苦言を呈せば、それは見逃せなくなる。だから彼は、沈黙を選んだのだ。
学生が、学外の、それも公爵家の人間に、こんな衆目のある場で、ありえないような無礼で顰蹙を買えば、学院も、同じ学院に通う生徒も無傷ではいられないから。
あえて今回は見逃すと宣言し、学院の監督生であるわたしが、彼女を諌める姿を見せられるようにしてくれた。
わたしと、学院のため。ひいては、国の安定のためだ。
あの場面を見たものは、学院はきちんと生徒を指導しており、その上で指導を無視したのが彼女だと理解するだろう。今後彼女がなにかやらかしても、それは学院の落ち度ではなくなる。
彼女より、四つも年下の彼がここまで考えて動けると言うのに、なぜ彼女には出来ないのか。
「踊ろうか、カチューシャ」
「はい。チェーニャ、女性パートは踊れますか?」
「え、踊れなくはないけれど、自信はないかな」
困り顔の婚約者に笑みを返して、その手を取る。
「安心して下さい。リードは得意ですから」
彼女とわたしは違う。彼女は転移者で、わたしは転生者だから。だから、わたしは理解している。
わたしが日常的に男装で許されるのは、まだ学生の身分だからだ。公爵夫人になるからには、いずれ騎士服を脱ぎ、剣を置かねばならない時が来る。
前世の価値観に基づいて考えるならば、服装を強制されるなんて間違っているし、結婚相手も職業も、わたしに選択の権利がなければおかしい。
でも、わたしはこの世界での生き方を知っている。
女性がいつまでも独身でいるのは危ない。良い家に嫁ぐことが身を守る最善の方法で、良い結婚相手は常に奪い合いだ。早く婚約して、誰かに取られる前に結婚してしまった方が良い。
卒業を待たずに結婚で学院を去る生徒も、女生徒には多い。
「本当だ。上手だね」
そんな生き方を、主体性がないとか、依存だとか、否定するのは簡単だろう。だが、今の時代にこの世界で女性が安全に生きるために、ほかのどんな方法がある?力でも大きさでも持久力でも勝てない男相手に、どうすれば勝てると言う?
「男性が、苦手な子もいますから」
男装に帯剣で、女性にしては背の高いわたしを、恐れる生徒もいる。そう言う生徒に正しい恐れ方や、自分の使い方を教える場となることも、ベルンシュテイン寮の役目だ。
「ダンスの練習台をしたの?もしかして」
ダンスだけでなく、連れ立って歩く歩き方や、エスコートの受け方、いざと言うときの護身術まで、練習台になった。
自由のない、この世界で。危険の多い、この世界で。せめて手の届くところにいる女の子たちだけでも、たとえ誤差のような小さな変化だとしても、幸せになって欲しかった。
「ただでさえステップに慣れていないのに、緊張していては転びやすくなりますから」
「格好良いね、カチューシャは」
「ありがとうございます」
前世で、憧れる先輩たちがいた。可愛くて、お茶目で、でも、真剣に取り組むときはとても格好良くて美しい先輩たち。
そんな先輩たちと共に過ごした時間は、大人になってもずっと宝物で、こころのなかでキラキラ輝いていて、どんなに落ち込んでも折れない支えになった。
わたしもそんな存在に、なれないだろうかと。
思って、婚約者もそれを否定しないでいてくれて、だから、頑張ろうと、背筋を伸ばして。
けれど婚約者は、異世界から来た少女を選んだ。
異世界から来た少女に、守りたい子たちの婚約者も奪われて。
彼女の語る内容が本当に今のこの世界で通用するなら、そんな簡単なことなら。
わたしは今ここで、彼の手を取っていない。
「彼女は」
彼女の言葉を、間違っているとは言わない。ここが前世であったなら、彼女の言葉こそマジョリティだった。だがそれは、先人の築いた土台や骨組みの上に造られた意見だったからだ。
土台もなしに、634mの塔の、展望台だけ空に置くことは出来ない。そんな展望台にヒトを詰めて空に置けば、展望台ごと落下して、みんな仲良くぺちゃんこだ。
「理解出来た、でしょうか」
最終的に彼女の周りに残ったのは、男子生徒ばかりだった。それが答えだ。
彼女の言葉では。わたしの常識では。
この世界の女性は、救えない。
「理解出来ていなかったとして」
新しい婚約者は会場を見渡し、わたしの手を握る力を強めた。
「それはカチューシャの咎ではないし、こんな場所で失態したことが広まればもう、彼女に味方する女性はいないよ。良識ある貴族も」
それとも、と婚約者はわたしを見上げる。
「救いたい?彼女を」
「いいえ」
迷いなく、答える。
自由な彼女が羨ましく、思うこともある。それでもわたしは、この世界で貴族として生きると決めたのだ。
「わたしはベルンシュテイン寮の監督生です。この手と剣はわたしの大事な寮生たちと、可愛い婚約者を守るために」
婚約者はぱちくりと瞠目したあとで、む、と唇を尖らせた。
「可愛いと大事なが逆じゃない?」
「大事な可愛い寮生たちと、大事な可愛い婚約者ですよ」
「いつか絶対、格好良いって言って貰うからね」
婚約者は、彼女を選んだ。
では、目の前の彼は?
「ではわたしもあなたに、可愛いと思われる婚約者にならないといけませんね」
彼女は可愛い。天真爛漫で、素直で、くるくると表情が変わって。
剣を携え男相手にも堂々と口答えするわたしとは、大違いだ。
「僕は格好良いきみが好きだよ」
迷いなく返された言葉は、婚約者のためのお世辞だろうか。
「それに」
わたしより五つも年下で背も低い婚約者は、けれど大人びた表情で微笑んだ。
「カチューシャは今のままでも美人だし、可愛いよ。これ以上があるなら見たいけれど、ほかの男に取られそうで心配だ」
「、ありがとうございます」
「あ、信じていないね?」
ぎゅ、と強く手を握った婚約者が、くるりとわたしを振り回す。男性パートを踊っているときにリードを奪われるなんて、初めてだ。
「本当なのに。帰りの馬車で、覚悟してね」
「どうして、帰りの馬車で?」
「ほかのひとに知られて、取られたくないの!」
お世辞ではないと言うつもりだろうか。本気で?
「……可愛いと言うのは、カツラギ嬢のような女性でしょう?素直で無垢で、天真爛漫で」
「ええ?あれは僕は嫌だなあ」
よそ行きの顔で覆い隠せなかったのか、わずかに辟易を見せて、婚約者は言った。
「あれはね、天真爛漫じゃなくて傍若無人だよ。自分の言葉の意味や影響を考えていない。それに、素直でも無垢でもないよ。素直で無垢ならば、ほかの生徒と同じように、カチューシャの助言を聞いたはずだからね。ただの無知ならこれから教えれば良いかもしれないけれど、歪な考えを持つなら危険分子でしかない。可愛いなんてとても思えないな」
「それを言うならわたしも、常識からは外れているでしょう?」
「そうだね。カチューシャの行動も、ひとによっては危険分子に見えるかも。でも」
婚約者がわたしを見上げる。
「きみはその行動の意味も影響も、理解した上でやっているでしょう。批判も覚悟の上だ。彼女のように、自分こそ正しいと信じ込み、周りの意見を聞き入れず、批判すればいじめだと泣き出す愚か者とは全く違うよ」
「そう、でしょうか」
「そうだよ。僕から見れば、彼女は醜い。カチューシャは美しい。別物だし、比べるべくもなくカチューシャが魅力的だ。だから」
そっと身を寄せ、婚約者は囁く。
「きみには悪いけれど、少しカツラギ嬢には感謝しているよ。もちろん頑張って、医者の宣告した余命より長生きしてくれた姉上にも。お陰で僕は、きみの婚約者になれた」
「本当に?こんな男装女が、婚約者で良かったと?」
「うん。と言うかね、カチューシャはもっと、自分の価値を理解すべきだよ。ベルンシュテイン寮の監督生なんて、誰でもなれるものではないのだから」
それは、だって。
「わたしの、寮生からの人気が高いから」
「そう。堅物教師すら折れるほどの人気と、好成績に、真面目な生活態度。きみは客観的に見ても、とても魅力的だよ、カチューシャ」
「そう、でしょうか」
女のくせにと陰口を叩くものがいることは、知っているのだ。
「実際ね」
曲が終わって足を止めて、婚約者が両手でわたしの頬を包む。
「きみと婚約したと決まってから、自分より背の高い婚約者なんてと僕を馬鹿にしに来たものがいた」
「それは」
「やっかみだよね!きみが若い令嬢に人気なことも、僕がそんなきみを射止めたことも、羨ましくて仕方ないんだよ。馬鹿にすることで自分を慰めているんだ!みっともないよねぇ」
曲の合間だったから、その声は思いのほか響いた。
「自分はきみの隣に立つ度胸もないくせにね。なにも馬鹿にされることなんかないよ。きみが格好良いことは事実だし、そのきみより、僕は格好良くなるつもりだからね!」
そうして、ぱっと、婚約者はわたしから手を離す。
「さあ、行っておいで。きみと踊りたくて待っているご令嬢がたくさんいる。僕の身長が君を抜くまでは、彼女たちにも僕の花を持たせてあげよう。今だけ特別だよ」
婚約者に後押しされて、わたしはひとりホールへと歩み出す。すぐに、顔見知りの令嬢たちに声を掛けられた。
いつもなら、聞こえよがしの陰口を言われることもあるのに、今日はそれがない。
当然か。あんなにあからさまに、公爵子息が恥ずべきことと宣言したのだ。恥の上塗りは出来ない。
「あの、カーチャさま、ありがとうございます」
「うん?どうしたの?」
順に踊る令嬢のひとりから、不意に言われて首を傾げる。
「わたくし、批判を受けておりました」
「もしかして、カツラギ嬢関係で?」
ひそめて問えば、頷きを返される。
「あなたと公爵子息が、はっきり彼女の方が誤りだと宣言して下さった。これで、筋違いな批判も減ると思います。それから」
令嬢は少し躊躇ってから、続けた。
「友人は、彼女の寮の模範生です。友人の名誉も、カーチャさまのお陰で守られました」
「わたしは、監督生としての役目を果たしただけだよ。それより、広い交友関係を持つことは、素晴らしいことだ。今のまま、友人を大切にする気持ちを忘れないように」
「はい」
頷いて、令嬢はまた躊躇いながら、頬を赤らめて言う。
「ずっと、憧れておりました。カーチャさまに」
「そう。嬉しいな、ありがとう」
「あなたはそうして、どんなことも一度受け止めて下さる」
そう、だろうか。
ただ受け流しているだけではなく?
「女子生徒はもちろん、男子生徒でも、カーチャさまに憧れている方はいらっしゃいますわ」
「男子生徒も?」
「ええ。ですが、こうしてカーチャさまと踊れるのは、婚約者を除けば今は女の子の特権ですから」
ふふ、とはにかんで、令嬢は首を傾げる。
「カーチャさまを狙う男性を差し置いて、憧れのカーチャさまと踊れるなんて、この時間はわたくしたちにとって、宝物ですわ」
ぱち、と、ゆっくり目を開閉した。
「カーチャさま?」
それくらい、ぼんやりしてしまった。
「ごめんごめん。照れてしまったよ。宝物、なんて、光栄で」
大好きな先輩たちと過ごした時間が、わたしにとって宝物で支えだった。
そんな先輩たちに、少しでも近付けたら。これからの人生の、支えになれたら。
そう、思っていた目標が。
「そんな、わたくしこそ、こうして踊って頂けて、天にも昇る気持ちですわ。きっとこれから何度も、このときを思い出すことでしょう。こんな幸せが、わたくしに訪れることがあったと」
わずかばかりとは言え、叶っていた、と?
こんな世界に転生して、世界を変える力もなくて、それでも、と足掻いていた。
その、意味が、少しでもあったのだろうか。
「ありがとう。あなたの人生に、これからも幸が溢れるように祈っているよ」
「カーチャさまに祈って頂けたならば、なんとしても幸せにならねばなりませんね」
曲が終わる。
笑って立ち去る令嬢と入れ替わりに、グラスを両手に持った婚約者がやって来た。
「カチューシャ、少し休まない?」
「チェーニャ、ありがとうございます」
婚約者が持って来たのは、冷たい林檎のジュースだった。
「りんご……」
「好きだって聞いたから」
夜会の飲み物はワインが中心。ジュースも葡萄かオレンジで、林檎なんてそんなに置いていない。
「わざわざ、用意して下さったのですか?」
「カチューシャ、夜会でお酒は飲まないのだろう?」
林檎ジュースが好きなことも、夜会でお酒を飲まないことも、誰かに言ったことはない。
「どうして、知って」
「姉上からね、聞いていたんだ。姉上はきみの兄上から。その様子では、今もそうなんだね。良かった」
兄が。
「姉上はいつも楽しそうに、きみの兄上から聞くきみの話をしていたよ。病床からろくに起き上がれない姉上にとって、きみは憧れのひとだった」
婚約者がわたしと同じように林檎ジュースのグラスを傾けながら語る。
「何度か、兄上に付いて家に来てくれただろう?普段は婚約者に会う時さえベッドの上にいる姉上が、きみが来る時だけはドレスに着替えて出迎えていた」
「無理を、させてしまったでしょうか」
「とんでもない。姉上はきみが来る前後はいつも、とても元気だった。うきうきして、楽しそうに、指折り数えて待っていて、帰ったあとも浮かれて、逐一なにがあったとか、どうだったとか、僕や侍女たちに語っていたよ。きみは姉上の手を引いて、庭を歩いてくれただろう?」
姉君との思い出を、思い返しているのだろう。
目を細めて、婚約者はどこか遠くを見つめていた。
「あの時だけはね、姉上は病気の可哀想な女の子じゃなくて、世界でいちばん幸せなお姫さまだったんだ。姉上にとって、きみは憧れの女性で、理想の王子さまだった。もちろん、きみの兄上のことも婚約者として好いていたけれどね、きみは特別だったんだ」
そっと、目を閉じて、婚約者は低く言う。
「わたしが死んだらあなたがカチューシャの婚約者になるのね。羨ましいわ」
婚約者は、その姉に良く似ている。ドレスを着て呟かれたその言葉は、まるで死んでしまった彼女が言ったかのようで。
目を開けた婚約者は、わたしを見上げて微笑んだ。
「このドレス、姉上がもしデビュタントに出られたら着たいと言っていたデザインでね。このドレスで、姉上が憧れたままのきみと、ダンスが出来て良かった」
そんな、ことを、言われたら。
「わたしは、そんな、つもりは、」
「うん。これはね、僕の自己満足だよ。僕も姉上も勝手にきみを好きになって、きみの何気ない行動に意味を見出しているだけ。でもね、カチューシャ、これだけは覚えておいて」
そうして婚約者は、わたしをどこまでも肯定するひと言を口にする。
「きみがいてくれたことで救われた人間が、確かにいるんだって」
拙いお話をお読み頂きありがとうございました