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第九十八話『英雄傑物』


 ――悪い。言い訳は、後でするからよ。


 座り込んだ態勢から立ち上がろうとした瞬間、右腕がそのまま裂かれるような痛みが走る。喉の奥からは痛烈な吐き気が飛び出てきそうだった。


 眠り込んでいた足腰を無理矢理に目覚めさせ、骨を軋ませてそのまま立ち上がる。額を多数の汗が零れ落ち、口元は早くも息を切らせていた。


 だが、悪くはないさ。立ち上がれたのなら、上出来だ。


 カリアは敵を捻じ伏せる為、前線へと向かった。ならば俺も、それ相応の仕事をしなければなるまい。ただ唯々諾々とその背中を見守ることなど、俺にできるはずがないのだ。俺のような凡人は、手足を馬車馬の如く働かせなければ、その存在を認められないのだから。


「――約束は破るのかい、ルーギス」


 全身を立ち上がらせ、一息をついた頃だった、耳元にその声が入り込んできたのは。耳の奥に絡みつくような、歌でも奏でるような、そんな声。


 紛れもない後衛に潜むエルディス、エルフの姫君の声だ。


「おいおい、まるで舞台袖から見ていたみたいな間の取り方だな」


「当然だろう。僕はこの戦場の責任者だよ。全てを見届け、全てを心にしまい込む責務がある」


 責務を果たせと、そう言ったのは君だろう。そうエルディスは視線を強める。


 瞳に映りこむその姿は、幻影として作り出されたエルディスの姿。


 それにしても、全てを見届ける責務とは、思ったよりも、この姫君は義理堅い性格であるのかもしれなかった。確かに責務を果たせとは言ったが、自ら凄惨な現場を見に来る総指揮官など、そういないだろうに。


 だが、戦術的に考えればこれ以上の方法はない。特にエルディスの場合は、指揮官そのものが遠隔地にありながら前線を見渡せるのだ。こう言ってしまってはなんだが、その幻影はまるで指揮官たる為の術にすら思える。


「丁度良かった、伝令をよこそうと思ってた所でな。エルディス、お前に聞きたいことが――」


「――質問が終わってないよ。約束は、破るのかい。あの子を、信用していないのかな」


 それは何時になく、強い口調で放たれた言葉だった。思わず、目を丸くする。


 妙に強固で、はぐらかすことなど許さないというような、その口ぶり。その碧眼は幻影とはいえ、何処か深い感情を宿しているのが、分かった。


 約束とは、カリアとの会話の事を言っているのだろう。しかし、何故此の姫君が其処に拘泥するのかが、分からなかった。


「そうじゃあ、ない。約束し、そして心の底から信用しているからこそ、さ」


 左手を胸に置きながら、噛み煙草を探す。目を細めながら、言葉を続けた。


 そう、カリアは、勝利をその剣に捧げて戻ると、そう言った。であるならば、俺もそれ相応の準備をしておかねば合わせる顔なぞない。むしろここでぼぉっと座り込んでいる方が、後で首を吊り上げられようというものだ。


 カリアが、俺に対して言葉を尽くしたのならば。俺はその言葉に、行動で示してやりたい。それがカリアという英雄に対して、俺程度にできる誠意の示し方というものだ。


「だから、その為にも出来ることはしてやりたい――エルディス。此の国には、王族特有の抜け道だとか、脱出口ってのは、何処にある」


 その言葉に、何処かエルディスは呆気にとられたかのようだった。


 言っている意味が分からないというよりは、その脈絡が分からないというような、そんな表情。本当に、エルディスというエルフはその感情の流れが読みやすい。かつての頃を思うと、想像がつかないほどだ。


「今、此処でラーギアスの息の根を確実に止めに行く準備をする。狼をここぞとばかりに追い詰めておきながら、最後の最後、囲いに穴を空ける馬鹿はいないだろう」


 エルディスの碧眼が、見開かれる。ラーギアスという単語に反応したように、しかしながら、未だ話が分からないというように困惑の色を伴いつつ。


 それは、そうだろうなと、心の中で笑みを零していた。僅かに眉が揺れる。


 今現在においても戦場は混乱の坩堝にあり、勝敗などわかったものではない。運命の神がどちらの手を取るのか、それはかつての歴史ですら証明されていない事項だ。


 むしろ、今この時においてはこちら側の状況が圧倒的に悪い。そのことはエルディスも、承知しているのだろう。証拠に、その瞳は何処か落ち着かないように揺れ、呼吸の速度は幻影相手でも見て取れるほどに、平常を失っている。


 ――だが、俺にとってはそんなものとうの昔に決まり切っている。運命の神に縋る必要もない。


 勝つさ、勝つに決まっている。 当たり前だ。天才たるフィアラートが場を整え、英雄たるカリアが勝利をもぎ取る為に前線に出た。


 なら、当然に勝利する。それ以外の結果なんざ想像すら及ばない。それが英雄や天才たちというものだ。何時だって運命は、凡人の手ではなく英雄の手の中に転がり落ちる。


 エルディスが口元に手を置き、深く思案するようにゆっくりと、唇を開いた。何処か、ため息をつくようですらあった。


「分かったよ。君がそういうのなら、脱出口、その出口に兵を向かわせよう。それで良いかな」


 だから君は此処に留まっていると良い、そう告げるような口ぶりだった。


 なるほど、結構。本来ならそれで万全だ。隙間なく兵で取り囲んでしまいさえすれば、当然の理としてエルフも人も死ぬしかない。


 そう、それは間違いがない、はずだ。


「――いや、俺も行こう。出来うる限りの、最善を尽くしてやりたい。ただ此処で座っていてラーギアスを取り逃したなんて結果があれば、自ら喉を抉ってもまだ足りんさ」


「……君さぁ。正直に言うけれど、今の君よりは普通の兵の方がよほど役に立つ。ラーギアスも脱出するというのなら、相応の精鋭を連れているはずだからね」


 不思議と、何処か怒気を含んだようにも思える、そのエルディスの言葉。

 

 それは、確かにその通りだ。


 今この身は右腕は使い物にならないだけでなく、他の部分にも随分と無理がきている。何処まで物の役に立つのかは、まるで分からない。元々雑兵の類ではあるが、今ではそれ以下だ。


 だが、それでも。今この時に動かないというのは、駄目だ。背筋を冷たい液体のようなものが走り、喉奥に泥を詰め込まれたような底知れぬ不安が、あった。


「エルディス、無礼を承知で言おう。お前の敵、仇でもある――ラーギアスが、紛れもない、英雄傑物の類だからさ」


 それは、間違いなく断言できる。

 

 かつての時代においても簒奪者でありながらガザリアという国家を纏めきり、今この時に至っても、その兵の運用は凡庸のものじゃあない。


 それに、人間の国と協定を結ぶその意志と、時代を前へと進める躍進力。そうしてその風評の節々から、俺の中に怖気に近い確信が込みあがっているのを感じるのだ。


 間違いなく、ラーギアスは英雄傑物の類であるという、確信。


 そうして、英雄傑物という奴は、易々と死なない。いや、死ねないのだ。


 万の兵を前にしても、絶体絶命の刃に付け狙われようと、平然と生き延びていられる。そういう存在が、確実に存在する。そういう事は、かつての旅を経て、よくよく理解していた。


 だからこそ、此処でその首を絞めつける手を緩めたくなどない。後悔を、残したくないのだ。


 ラーギアスが英雄傑物足るならば、己が生き延びるということがどれ程に必要な事であるのかを理解しているに違いない。


 それは、潔さだとか、総指揮官としての義務だとか、そういうものとは全く別の所にある。運命をその手でつかみ取る英雄は、必ず生き延び、間違いなく再び敵となって現れる。今度は、より強大になって。


 だから、此処で息の根を止めるしかない。その機会を失えば、ラーギアスという影は俺達の憂いとなり続けてしまう。


 ぎゅぅと、左手で宝剣を握りしめる。紫の一線が入った刃が、鈍く煌いた。 


 ――英雄殺し


 そう刻まれた己の銘を、その選び取られた運命を、高らかに叫ぶように。

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