第九十七話『刻まれた言葉』
魔猿の胸中に浮かんでいるのは、紛れもない享楽であった。
体躯の奥底より這い出る力は止めどなく、四肢には肉体を裂かんばかりの精気が溢れかえっている。今までにない、高揚と万能感が全身を覆い、もはやその身は魔獣という枠より抜け出した。
だが、それゆえの虚しさもある。
未だ持て余す力の末端を少し振るうだけで、目の前の獲物たちは早々に身体を四散させていく。指先を跳ねさせれば血肉は弾け、手で抑えつければ骨を砕いて絶命する。
他愛ない、あまりに他愛ない獲物たちの存在には悦楽を覚えると同時、あっけなさや不満を覚える所もあった。
だが、今眼前の獲物は違う。
銀髪の剣士は己が力を振るえば逸らし、逃げる所かその僅かな力で立ち向かおうとする。これぞ、醍醐味というやつだ。狩りとは、手ごたえがあるからこそ、それを達成した時の快楽があるのだ。力を振り回すだけでは、この獲物は倒れない。その楽しみが、確かにあった。
ならば、小手先を使えばどうだ。
魔猿の手の甲が街道に叩き付けられ、破片が散弾となって戦場を飛び回る。人間やエルフの身で触れれば、それだけで肉が削げ飛ぶ威力。
銀髪の剣士は当然の如く、破片を迎撃していく。大きな破片のみに狙いを絞り、剣を一振りしたかと思えば、そのまま眼前の空間が薙ぎ払われた。ただ呼吸をするのと同じとでもいうように、破片ごと空間を切り伏せるその力量。
しかし、長剣が振るわれたその瞬間、その隙を狙うかのように豪腕が戦場を薙ぎ払う。一切の加減はない、確実な仕留めをねらった一撃。
――ギィイ、ンッ!
魔猿の手の先を何か硬いものが触れたのが、分かった。鋼鉄を、己の皮膚が跳ね除けるその感覚。恐らくは攻撃をいなすのと同時、こちらへの反撃を試みたのだろう。だが傷は、ついていなかった。
敵は、もはやこちらを傷つけることすら出来はしない。それは重々、承知しているはずだ。
だが、足掻く。足掻き続ける。こちらの攻撃を、その細い剣でどう捌いたのか想像すらつかない。しかし現実として、眼前の剣士は息を切らせながらも、己の目の前に立っている。
それでいい。獲物とは、そういうものだ。息絶えるその時まで、その手足を振り回し生き延びんとするものだ。
数度の攻防を重ねる度、その狂暴な面相が歪み、腹の口からけたたましい猿叫が響く。自らの喜びを示すように、そして狩りの終焉を示すように。
楽しい時間であったのは、違いない。だが、それももう終わりだ。
人間の体力など、たかが知れている。むしろ一人で、よくもったものだ。
先ほどまではこちらの一撃を捌く度、反撃を試みていたその腕は、もはや捌くだけで精一杯。獲物としての鮮度は、明らかに落ちている。
では、やはり次で終わりだ。魔猿の指先に、剛力が宿る。それだけで、空気を震わせそうな、その力。
楽しませてくれた獲物には、それ相応の礼儀というものがある。例えさほどの知性を持ち合わせていないこの魔猿にも、本能としてその意識が何処かにあった。
であるならば、無駄に苦しみのたうち回らぬよう、ただの一撃でその心臓を抉りだそう。
魔猿はその豪腕をかつてない程に大きく、力を込めて振り上げた。
◇◆◇◆
銀髪が、揺れ動く。留め具は千切れ、長くなった髪の毛が頬に張り付いた。カリアは鬱陶し気に銀髪を振り払い、煌々と輝く瞳で魔猿を睨み付ける。
というより、もはやそれしきのことしか出来なくなっていた、というのが正しい。
カリアの全身は至る所から限界の呻きをあげ、もはや返しの刃を向けることすら敵わない。かろうじて豪腕を捌き、生き延びる。無理矢理に足を躍動させ、手首を痛めつけながら返す。そんな、他愛ない延命の手段しか講じることができなくなっていた。
――さて、参ったな。ろくに懐にすら入れていない。
カリアの銀の眼が、瞬いた。愛用の剣は欠けはじめ、魔猿に傷をつける所か、攻撃をしかけたこちら側の手の筋が痛めつけられる始末だ。
勝利への道が、まるで見えない。息が乱れ、それを押し殺す歯が、鈍く揺れる。
負けたくない。そんな不様は、晒したくない。今カリアの心に浮かぶのは、そんな意地に近い感情だけだった。目の端には、涙にも似たものが浮かぶ。
敗北の苦渋など口にしたくはない、魔獣如きに敗北を喫するなど己の矜持が許さない。それも、ある。だが、それ以上に、カリアは一つの事をよく理解していた。
――私には、私の人生には此れ一つしか、ないのだ。
己の人生において、誇れるものを挙げろと言われれば、間違いなくカリアはその剣技を口にする。此れこそが彼女の紛れもない誇りであり、人生の片割れだった。
ゆえに、思う。もし、己が此処で叩き伏せられてしまったならば、此処で敗北を喫してしまったのならば、奴は、ルーギスは、きっと私に失望する。見放される。
ああ、それだけは、嫌だ。それだけは、余りに、耐えがたい。
再び、カリアの銀眼に意志の焔が煌く。であるならば、もはや私は眼前の魔猿を足蹴にし、打倒するしかない。それにしか、前へ進む道はないのだ。
かつて、似た状況があった。大木の森、猪型の魔獣を前に、敗北を喫しかけた時。あの時は、ルーギスの助言を下に、魔獣を討滅した。
だが今此処に、ルーギスはいない。それはもはや覆しようがない。
ならばこそ、ルーギスならば何というか、そう考えてみる。魔獣を深く観察し、習性を見極め、弱きを貫く。
四肢への攻撃が無駄である事は重々理解している。あの腹に空いた大口は、弱点というには凶悪に過ぎる。では、何処だ。何処を断ち切れば、こいつを殺せる。
ふと、反射的に浮かんだ考えが、脳で弾ける。そうして意識をしないまま、カリアの頬が揺れた。何となく、おかしくなってしまったのだ。自らの中に浮かんだ考えが、余りに馬鹿らしく、そして如何にも、奴がいいそうな事だった。
なるほど、ならば賭けてみよう。何、奴の言葉と思えば、それも悪くない。随分と難度は高く、その答えがあっているのかすら、分かりはしないが。
魔猿の蛮声が響き渡り、その大きく振り上げられた豪腕に力が籠っているのが、いやでも分かる。銀の瞳が、揺れ動いた。
機会はもはや一度きり。己の身体の中に残る体力を全て振り絞り、一撃をくれてやる。それで駄目なら、とは思わない。ただその一撃を以て殺しきる。
ああ、それに、奴だって言っていたではないか。
――出来るさ。出来るに決まってる。迷う必要すらない。
――何故そんな事が言える、人事だと思って、何も根拠もない事を言うんじゃない。
その豪腕の影が、霞む。空を裂き、音をも置き去りにして大地を叩き割らんと迫りくる。
カリアは眼を一瞬たりとも逸らすことはなかった。瞬きの間に、この邂逅が終わる事を理解していたから。詰まるところ、己が死ぬか、敵が死ぬか。
不思議には、思っていた。だがそれを掘り下げるような余裕が今の今まで、存在しなかった。
此の魔猿は、その猿叫を周囲に轟かせる時も、ワインの樽を一飲みにした時ですら、腹に大きく空いた口を使っている。木切れも、岩も関係なく、その大口は飲み込んでいた。常に牙は躍動し、その口を中心に、この身体は動いている様ですらあった。
では、何故、元々の口は未だ存在し、その顔面も同時に残されたままなのか。理由までは、分からない。だが、一つ確信できる事がカリアにはあった。
今此の魔猿は、紛れもない魔への変貌を遂げようとしている。
四肢はより強靭に、腹の大口はより凶悪に。だが、その元来の顔の部分だけは、ただの大猿と変わりない。魔ではなく、ただの、獣そのもの。
であるならば、魔へと遂げたその四肢も腹も、二足で立ち上がったことも全て、未だこの身体に残る弱点を守るためなのではないのかと、そう、思った。
しかし例えそうだとしても、其処に至る為の道のりは険しい。何せ二つの脚で立ち上がった魔猿の体躯は人間の身長を遥か超え、そこに至るまでには、鋼鉄の四肢と牙向く腹の大口が邪魔をする。近づく時といえば、豪腕が振り下ろされる一瞬程度のもの。
とても、人間の届くものでは、ない。まして一対一で届かせられるような、ものでは。
剛力と破壊が満ちた掌底が、カリアの体躯へと、迫る。もはやそれに触れること自体が死を意味する、凶器そのもの。長剣で逸らそうとすれば弾かれ、防ごうとすれば折られることは違いない。
背後に飛びのくことも、左右に転がることも、無駄に終わる。それは即ち瓦礫に弾かれての絶命だ。
では、道はただ一つ。
カリアの脚が、全霊を込めて踏み込まれる。豪腕が、今までより大きく振るわれていたことを見逃しはしなかった。銀髪を揺らしながら、小さな体躯が無理矢理に魔猿の懐に入り込む。
攻撃の後では、遅い。狙いをつけるべきは掌底を振り下ろしきった瞬間、その豪腕が振るわれた、直後。自然と、顔面が降ろされるその間。
カリアという存在そのものが、今、死の境界を揺れ動いている。此の一瞬で、その生死が世界に見極められる。
一歩でも違えれば死ぬ。一瞬早くとも、遅くとも、己の身は腹の牙に掻き切られる事を、カリアは理解していた。
魔猿の顔面が、掌底と共に大地へと近づけられる。懐に入り切ったカリアの、傍にまで。カリアにはもはや、恐怖はなかった。ただ、一つの言葉を思いだしていた。
――根拠ならあるさ。
魔猿の胸元で、閃光が、走る。
銀色の閃光が、魔猿の懐からその口元までに一筋の線を掻き入れた。まさしく、瞬きの間。誰もが息を呑むことも、言葉を発することも、無かった。
――あんたが、カリア・バードニックだからだ。
一瞬の、後。魔猿の口元からは銀剣が生やされ、夥しい血が、戦場に舞った。