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第九十五話『戦場の主』

 銀の風が、戦場を覆う。


 長剣が豪速を以て振り回され、瞬きをする間に、血肉が切っ先より飛び散らされた。美しい。それは、思わず見とれてしまいそうなほどの美技だった。


 戦場という乱戦の最中にあって、如何な訓練を積んだ騎士であっても普段通りの行いを成せるものは少ない。血と肉と骨を粉砕し四散させる此の原始的な地獄は、人を、エルフを、かつてあった野生の頃に舞い戻らせるのだ。


 だが、彼女は違う。銀の凶器を振るい戦場に屍の山を築く彼女、カリア。


 此の地獄にあって尚、その武技は冴えの衰えを見せていなかった。乱れることも、崩れることもなく、その剣は敵を斬り殺す為の最適解をなぞっていく。


 美しい。その姿に、誰もが見入ってしまいそうだった。その一閃は、もはや人間業とは思えない。敵の肉を跳ねのけて尚、切っ先は狂うどころか正確さを増していく。


 ――此の戦場という名の地獄には、奇妙な魅力があった。


 誰もかれもが武器をその手に預け、原始的な闘争へと自らの命を落とし込む。


 槍の穂先が、カリアの心臓を抉らんと唸りをあげて風を裂いた。


 その殺意を銀の凶器で跳ね除け、武器に縋りついていた敵の頭蓋を叩き割り、ただの肉塊へと変貌させる暗い喜び。


 此処はまさしく、感情の坩堝だった。日々抑圧した感情を、戦いという名の劇場で誰もが役者となって叫びをあげる。


 カリアもそれは変わらない。自らの感情が此処に発露されていくのを、いやというほど感じていた。剣が感情をのせ一閃を描く度、それはより明確になっていく。


 ――願うなら、もっと、我儘な女でありたかった。


 カリアは敵兵の頭蓋が潰れていく感触をその手に味わいながら、奥歯を噛む。


 叶うのであれば、あの男の足元に縋りつき、何と言われようと離れるものかと、そう言い放ってやりたかった。散々に奴を困らせ、それでも尚その手を奪い取るような。そんな、我儘な女でありたかった。


 身体中に鮮血という名の化粧が施され、カリアは赤いドレスを纏いながら一歩を踏み出す。圧倒的多数といえる敵の群れを裂くようにして。


 銀色の瞳が細まり、喉が荒々しい蛮声を響かせた。血と脂でぬめりを帯びた長剣が、再び構え直される。


 我儘な女、か。思わず頬が崩れ、カリアは自らを嘲弄してしまいそうだった。


 馬鹿を言え。身の程を知れ。私のような女が、縋りついてなんになる。ああなんとも、みっともないことこの上ない。泣き崩れて、膝をついてあの男に懇願してみようか。行かないでくれ、傍にいてくれと。


 ――そんな女を演じてやれたのであれば、どれほど楽だったのだろう。


 未だカリアの胸中に噛みつき離れようとしない歪な感情を、手元の長剣が代弁者となって叫び続ける。


 皮肉な事に、今日この時の剣の冴えは、カリアが自覚できるほどに素晴らしい。力強くも荒れず、繊細でありながら非力でない。カリアの脚がまた一歩、戦場の中を進んだ。


 理解している。わかって、いるのだ。


 きっと私が今後ろを振り向いたなら、奴は、もう其処にいないだろう。ルーギスは、そういう人間だ。大人しく立ち止まることなど、早々良しとしない人間だ。ならば私は今、何の為に戦っているのか。決まっている。そんなもの、他に答えなどない。


 例えこの背中の後ろにルーギスがいないとしても。例えこの身は、気丈に振る舞うしか能のない愚図だとしても。


 ――奴は、頼んだと、そう言ったのだ。誰でもない、この私に。


 なら、その頼みを完遂してやるのが私の唯一出来る事だ。奴が私を信じているのか、いないのか、それは分からない。だが私は、奴を信じよう。それくらいのことは、可愛げのない私にも許されるだろうさ。


 この時ばかりは、カリアはフィアラートが嫌になるほど羨ましかった。彼女には、外聞もなくルーギスに縋りつく事が出来るに違いないから。そうしてルーギスも、それを無碍にしたりはしないだろう。


 では、それが己ならばどうだろう。不気味なものを見るような目でもされるだろうか。馬鹿な事をするなと、叱責されるだろうか。どうにも、想像は暗いものになってしまう。


 カリアは時折ルーギスという人間が、己を通して何か別のものを見ている気がしてならなかった。その瞳は私を見ている様で、見ていない。それが口惜しくて、歯がゆくて。


 そうしてその瞳が己に何を求めているのか、よく、理解していた。


 それは気丈で、誇らしく、鋭い切れ味を持つ私。曲がらず、折れず、畏れを知らない、強い私だ。


 決して、泣きわめき、崩れ落ち、縋ってしまう様な弱い私では、ないのだ。


 銀が、煌く。唸りをあげながら振るわれるその長剣は、悲哀の言葉を語るように風を鳴らす。カリアの周囲には、敵兵の血と肉と骨が積み重なっていく。


 もはや、そこは戦場の中心地。敵も味方も、誰もがそこから視線を離せずにいる。カリアの剣が振るわれる度戦場が呻き、その脚が前へ進む度、戦場も同時に動いた。


 まさにその在り方は、戦場の主に違いない。


 だが、未だその勝敗は運命の手の中にある。幾らカリアが紛れもない英雄であろうとも、数倍を超える兵はそう簡単に崩れ落ちてはくれはしない。


 むしろカリアの首を身体から落としさえすれば、勝利は我が手に転がり込むと瞳をぎらつかせる。


 まだ、足りぬ。決定的な、全てを踏み潰してしまう様な、何かが。決定打は未だ振るわれていないのだ。


 そうして、その決定打は、空から轟音を立てて現れた。


 ――ギィアァアアアッ!


 その絶叫とも、もはや世界の唸りとも思える響きを伴って、その巨躯は現れた。兵を踏み潰し、蹂躙し、戦場を更なる地獄に変えて。


 大きな朱い瞳には狂乱を、巨大な体躯には果て泣き激情を宿している。ガザリアにおいて最もエルフと人が集積した此処を目指した理由は、ただ一つ。


 早く、急ぎ早くアレをこの口にと。甘美で、一度味わえば忘れはしないその芳醇な味わいをもってこの喉をうるおせと吠えている。本能の叫ぶまま、欲求の赴くままに。


 もはや、その身は大猿の如くとも言いかねる様態だった。


 身体中の毛は逆立ち、四肢はまるで鉄糸で編み込まれたような強靭さが見て取れる。当初は隠れるようだった腹の大口はもはや自ら意志持つようにその牙を鳴らしていた。


 出で立ちも猿のように手足を地につくものではなく、今では二つの脚で大地を踏み潰し、両の豪腕は獲物を捉えんがごとくだ。


 エルフも、そして人も、その姿を見て直感する。自らを遥かに超える巨躯。そして僅かながらに立ち向かった勇者達を、あっさりとその手の中で握りつぶした強靭さ。


 これは、もはや立ち向かえる相手ではない。抗える、存在ではないのだと。


 そんな中カリアは、喉奥で唾を飲み込みながら眼前に降りかかってきたその脅威を、まるで人事であるかのように見つめていた。


 なるほど、これは魔だ。紛れもない、魔性。ただの魔獣であったはずの存在が、今何らかの要因を経て、獣の皮を捨て去り純粋なる魔として君臨しようとしている。


 魔体化と、知恵者は確かそう呼んだ。今のこの荒々しい狂乱ぶりも、それが原因かもしれなかった。


 その腕には幾本かの矢が突き刺さっているが、その全身から吹き上がる不気味な煙がゆっくりと傷口を癒していく。あれは瘴気とも、魔力を蒸発させたものだとも呼ばれるもの。


 カリアはその光景に、見覚えがあった。そう、そうだ。確かあれが魔獣を癒すのだと、あの時奴は言っていた。


 銀の瞳が、暗い灯りを伴って揺れ動く。


「おい、大猿――貴様、よくもまぁ、こんな時に出て来てくれたものだ!」


 声が、震えている。そんな声を聴いているものは、もはや誰もいない。


 戦場は狂気の渦に飲まれていた。ただでさえ命が軽々に千切れおち、恐怖を狂乱をもってかみ殺す戦場において現れた、圧倒的な異物。その魔獣は当然に、敵も味方もなく全てを踏み潰し、嬲り殺す。全てが己の思うようになるまでは。此れはもはや、戦場ではない。ただ、殺戮の舞台があるだけだった。


 その中、やはりカリアは一人何処か呆然としたように呟く。


「嫌な事を、ああ、嫌な事を思い出させてくれるッ――そうだ、あの時も、奴はいなかった!」


 そうだ。あの時、初めて大木の森で出会った日。見ていろと、そう言ったにも関わらず、猪型の魔獣を屠り去り振り返った其処に、彼はいなかった。


 それは、今一番思い出したくなかったこと。思い浮かべることすら、したくなかったこと。銀の長剣が、魔そのものへと向けられた。


「これは八つ当たりだ。おい、貴様。私の八つ当たりは、痛い、では済まされんぞ」


 エルフも、人も。誰もが抗えぬと直感したその存在に、カリアは一人、激情をもってそう告げた。今その背中の先に、彼の姿がもう無いであろうことを理解しながら。

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