第九十四話『信望する者』
「――突、撃ぃッ!」
これ以上にはない、というタイミングだった。未だ驚愕が皆の瞳を泳ぐ最中、マティアの声が周囲を震わせる。
途端、意を得たとばかりに味方の蛮声がこだまし、崩れた敵前衛をほつれとして、部隊全体を切り裂かんと吠え掛かった。
こちらの前線を支えるのは、紋章教徒の騎士達と、生き残った少数のエルフ兵達。合わせて精々百五十ほど。誰もかれもが、槍を、剣を手にとって、千は超えるだろう数の敵へと襲い掛かる。
もはや、こうなってはエルフも、人間も関係などない。聖女マティアの号令の下、まさしく降りかかった好機にエルディスを戴く革命軍は、街道の利を生かし敵精鋭を抑え込んでいる。誰もかれもが、理解している。これが、最後に与えられた好機。道を切り開くための最期の灯だと。
思わず、吐息を漏らす。素晴らしい。何とも、素晴らしい事だ。
かつて彼女、フィアラートが雨を、嵐を呼び込み戦術の一つとしていたのは知っていた。局所的に過ぎぬとも、戦場においてその威力は絶大だ。一つの天候が、大きな歴史の転換となる事すらある。
だが、こんな洪水を起こすなんてのは、見たことがない。喉が、ひりつくようだった。腕は総毛立ち、胸中は興奮と動揺に満ちている。
此処に、フィアラート・ラ・ボルゴグラード、彼女の天才としての確かな片鱗を見出した興奮。しかしながら、それを以て尚、敵が完全には崩れ切っていない、という動揺。
今、戦場は全ての分岐点だ。敵は多くの兵数を正門前へと集中させている。ならば当然、側道方面の戦力は手薄だろう。此方は前線を散々に崩壊させられながらも、未だ壊滅には至っていない。エルディスの潜む後衛に、未だ敵の牙は届いていない。
此処を凌ぎ切れば、勝機はある。逆を言えば、今此処で敵精鋭に押し負け、道を開いてしまえば、それまでだ。後衛には敵の突撃を受けきる余力はない。一撃のもとに、味方は崩壊の一途をたどる。だから、此処だ。此処なのだ。
今、味方は必死に食らいついている。圧倒的多数の勢いに押し負けまいと、歯を食いしばり血肉を弾けさせながら。
だが、悲しいかな数は絶対だ。街道の狭さを如何に利用しようと、敵は千を超える。対してこちらは百五十か、それが少なくなったほど。
確実に、少しずつではあるが押されているのが、理解できる。瞳が自然と、前線の先、ラーギアスがいるであろう王宮を、捉えた。
右手は、指先の感覚が無い。だが幸い、両脚と左手は未だ動いた。身体中から抜け出ていたであろう体力も、しばしの休息を得て、多少の回復はしただろう。
深い呼吸を、一つ。浅く呼吸を、三つ。そして最後に、深く。
左手で指から零れ落ちた宝剣を、再び握りこむ。もはや弾き飛ばされることなどないよう、小指より力を込めて。
「よもや貴様、その様であの中へと飛び込み戦士面をする気か」
ぴくりと、肩が揺れる。カリアの、声だ。何時もの様に身を貫くような声ではなく、何処か、静かな声。
「勿論。なぁに、片手が残ってればパンは食えるさ」
痛みは慣れたことだと、もはやただ身体から無様にぶら下がっている右腕を見せつけた。
とても戦力になるとは思えなかったが、それでもただ、戦場の有様を傍観しているわけにもいくまい。
それに、カリア、お前にこんな所にいてもらっては困るのだ。護衛などといって居残ってもらっては、全くの意味がない。
フィアラートが天候をも左右させる天蓋の主であるならば、カリアは紛れもなく、戦場の主に違いない。
その振るわれる長剣は、悉く敵を切り伏せ、戦場を巡る姿は誰もを惹き付ける。圧倒的な個としの武勇が、軍全体を奮わせ激励する。かつて戦女神と、騎士の中の騎士と呼ばれた彼女。
此処でも、戦女神には大いに働いてもらわなくてはならない。特に、こんな状況だ。俺の推察や戦況の読みが全て当たっているとは思わない。むしろ、当たっている方が不気味だ。だが、少なくとも、最低限の理解はしている。
今この時は、俺の護衛などにカリアという手札を捨てるべき局面ではない。まさしくそれは切り札を溝に投げ込む行為だ。
それに、俺に護衛なぞという大層なものは必要ない。護衛とは、価値ある存在を守る為に付けるものだ。
いう事を聞かない右手を揺らしながら、カリアにそう、言い含めた。
きっと返ってくるのは、馬鹿め、だとか、愚か者め、などという罵倒だろう。だがそれでも、最後は共に戦場に向かってくれるはずだ。カリアは、聡明な人間だということは知っている。
だが、実際に返ってきたものは、それとは随分と異なるものだった。ふと気づけば銀髪が鼻先を撫で、全身が強引とも思える力で、引き寄せられる。
「――そう無理を、してくれるな。頼むから、自ら身体を傷つけるような真似は、止めろ」
耳元で囁かれたその声に、最初俺は、何事かを告げようとしていたのだと思う。そんな事を言っている場合ではないとか、適当に誤魔化す言葉だとかを、振る舞おうとしていたのだ。
だが、喉からはどうにも言葉がはき出ようとはしなかった。その懇願ともとれるような声の調子に、呆然として瞳は見開いたまま動かない。
背中には、カリアの指先が埋まる感触がある。それは確かに力強いが、何時になく何処かこちらを気遣う様な、そんな強さだった。
頼む、と言ったのか。此の女が。カリアが。人に命じるならともかく、頼むなどという事を、生涯したことがなさそうな彼女が。
足先から髪の毛に至るまでが感情の波に浚われ、言葉を発することすら出来ない俺の代弁者となったかのようだった。
やめろ。やめてくれ、そんな事を、言ってくれるな。罵られるよりも、踏みつけにされるよりも尚、その言葉は胸を響かせる。たった、その一言が。
「……貴様は、此処に残れ。安心するが良い。敵方から一切合財、勝利と名のつくものは手に入れてきてやる」
その口調は、何時ものカリアのものに戻っていた。
命令口調で、やはり何処かに傲慢さが残っている。その、何時も通りの彼女だというのに。どうしてだろうか、それを俺の心は妙に素直に、受け止めている。
かつてこの高圧的な言葉には、何時も反感と共に食らいついていたはずだというのに。
「だが代わりに一つ、誓え。例え何があろうと、私は必ず勝利を剣に捧げて戻る。だから貴様は、自ら危険に飛び込むようなことは、するな。必ず無事でいろ――たまには、私を信じてみろ」
私と貴様は、仲間なのだからな。それだけいうと、何処か表情を歪めながら、カリアが身体を離す。未だ囁かれた言葉が、耳元で反響するようだった。
何を、言うのだろうこの女は。信じろと、そういうのか。かつてこの身を踏みつけにし、見縊り、俺の人生に意味などないのだと、そう言い放った女を。
理解している、分かっているとも。此処にいるカリアと、かつて俺が旅をしたカリア・バードニックは、もはや別物だ。だが、その芯に据えた本性は、そう簡単には変わらないはずだと、そう思ってしまう。
その気高さには敬意を示す。その非凡たる努力家の一面も、矜持を貫き通す意志の強さも、信望しよう。
だが、それでも。心の奥からその性質を、信用すること、など。
己の中で醜く這いまわる劣等感と、未だ心の奥底にあった彼女に対する怯えが、混ざり合い泥のようになって、臓腑の中に沈殿しているのを感じた。
囁かれた声から、一瞬の間。舌が言葉を迷い続ける中、俺はその場で街道に座り込むようにして脚を崩した。
「……悪いな、もう脚がもたなかったみたいだ。此の身体じゃあ、そう易々と立ち上がることも出来ん。だから、何だ――ああ、頼んだ」
そう、僅かに視線を逸らして、言う。何故だろうか。こんな、馬鹿らしい事をいうのは慣れているはずなのに。今日は妙に、気恥ずかしかった。カリアの顔など、見れたものではない。
だが耳には、カリアの笑いをかみ殺したような声が、聞こえて来た。
「ああ、任された。見ているがいい、勝利を貴様が十分だと言うまで、持ち帰ってやる」
戦場に向かう彼女の背中は、妙に頼もしい。英雄が前に進む姿の、なんと心震わせられることか。
カリアなら、その全てを当然のように成し遂げてくれることだろう。例え戦場で何があろうとも、彼女が剣で切り伏せたその先に、勝利はある。そう、信じよう。
――――だから、信用してないわけじゃあ、ないんだ。悪い。言い訳は、後でするからよ。
その背中が戦場に飲み込まれる瞬間、声に出さず、胸の奥でそう呟いた。