第九十三話『鉛の在り方』
ガザリア城門前。ガザリア内地の反乱軍を逃がさぬ為に、好機とあらばその後方より強襲を仕掛けんが為に、平時の数倍の兵が此処に集積されていた。
このガザリアの内外を分ける境界において、未だ部隊同士の衝突はない。エルフ同士が、もしくは人とエルフが血液を滴り合わせ、大地を染めるようなことは、未だ起こっていない。
しかし、紛れもなく此処もまた、戦場だった。王宮前街道と同じく、血みどろの戦場の様相を呈している。
――ギェァァアアア゛ッ
その声が響き渡るだけで、その場にいる兵の肝が引きずり出されるようだった。大音声だけで小動物を死に至らしめるであろう、魔。
猿のような、それでいて腹に大口を開けた魔獣が、全ての者の敵となって此処にいた。
その姿は余りに悍ましい。自然という姿からかけ離れ、何等かの意図をもって作られたようにも見えるが、それにしては出来損ないというほかないだろう。魔獣というものは、得てしてそのような姿で生まれでていた。
その光景は、有り得ないことだ。想定すらしていないことだった。魔獣がガザリアを、その城門を襲うなどというのは、数百年の間、いやそのずっと前よりも、誰もが経験していないだろう。
城門の守護を任じられた兵隊長は、その臓腑が憤激と焦燥で煮えくりかえっているのを感じていた。何故、何故この時なのだ、と。
「放てェッ! 矢を絶やすな! 此処を耐えきればいずれ援軍が来る!」
その言葉に後押しされたように、矢が豪速を以て凶器となり、猿型の魔獣へと降りかかる。
本当は、援軍など来ないであろうことは、口に出した兵隊長自らがよく理解していた。
今、王宮ではフィン・ラーギアスと、エルディスの雌雄を決する戦いが行われている。そうして、本来城門前の部隊は戦の決定打となるべく、牙を研ぐ役目を与えられていたのだ。
それが実際はどうだ。一匹の魔獣に勢いを奪われ、門を破られまいとするのが精々。援軍を頼もうにも、その相手はこちらよりも重要な戦いに赴いている。来るはずが、ない。
だが、それでも城門を守るには十分すぎるほどの兵が集積されている甲斐はあった。間違いなく、魔獣を抑え込めては、いる。兵隊長の瞳が細まり、荒れ果てた吐息が少し整っていく。
魔獣の一挙手一投足に振り回されていること自体は、間違いない。何せ、その強大な腕が振るわれる度周囲の木々がへし折れ、叫び声が響くたび、溢れる命が消えていく。とてもではないが、真面に相手を出来る存在ではない。
だが、こうして城門という防具を用い、飛び道具をもってしてその勢いを抑え込めるのであれば、話は別だ。
再び、号令一下、空を矢が覆い尽くし、魔獣の全身へと注がれる。その多くは魔獣が腕を振り回す度に木切れのように跳ね飛ばされるが、確実に魔獣の身体を捉え始めてきている。
このまま、抑えきる事だけは、可能なはずだ。兵隊長は、自らを納得させるように頷いた。
しかし、何故だ。何故あの魔獣は、ああも興奮しきっているのだ。城門から魔獣を見つめる兵隊長、そして兵士達には、それが不思議だった。
森林の中で魔獣を見かけること自体は、ないわけではない。だがその多くは威嚇することはあれど、あのように興奮して突撃をしてくることは、まずない。しかし今はどうだ、まるで何かにつられるように、この城門を目指している。
僅かに、兵達の鼻が鳴る。誰かが、気付けに酒を煽ったのだろうか。どうにも、ワインの匂いが酷かった。
――ギァッ! ギァァァアアアア!
そうして、繰り返される猿叫。周囲の木々と生命を震わせ、大地をも軋ませる。
だが、もはや悪あがきだとばかりに、兵士達の対応は早かった。次の号令に備え、次々に弓矢をその手に番えていく。
嫌な汗を垂らしたのは、兵隊長、のみ。
今のは、今までとは何処か、違う声だった。
今までの様に、威嚇し、こちらを吹き飛ばそうというような声では、なかった。そう、言うならばまるで、周囲に響かせる為の、何かを伝えるためだけの、声のような。
それはただの予感に過ぎず、直感的に脳髄を走り去っただけものだった。だが、それはもはや真実であるかのように感じられる。
少しずつ、エルフの兵士達の顔が、青ざめていく。一つ、また一つと、その光景に気付き始めた者から瞳を驚愕と絶望に染めていく。
それが見えたのは、森林の中。大猿の叫び声につられるように、猿型の魔獣が城門の前へと次々に集い始めているのが、見えた。明らかな動揺が、兵士達の心を舐めとっていく。
その隙を、此のガザリアをこそ標的と決め込んでいた一匹の大猿は、見逃さなかった。巨躯が揺れ動き、強く地面を叩きながら、跳躍する。空を、その大きな体躯が駆けた。
その禍々しい瞳に、ようやく強固な城門ではなく、惰弱とも思える市街地が、映った。
◇◆◇◆
豪雨を、降らせて欲しい。せめて、敵前衛の目を晦ませ、立ち竦ませるくらいには。
そう言ったルーギスの言葉を頭の中で反芻し、全く無茶をいうものだと、フィアラートは脳髄の中で呟いた。
前々から感づいていたことだが、ルーギスはどうやら、魔術というやつを何でも可能な便利道具とでも思っているのではないだろうか。その実、全く逆だ。
魔術とは、人の術を以てこの世の構造の、ほんの指先ほどを書き換えるだけのものに過ぎない。何もないと見える場所に火を起こすことは出来ても、別段、火をつけるだけなら火石を買ってくれば良い。便利ではあるが、万能とはかけ離れている。
それを、フィアラートはよく知っていた。嫌というほど、理解している。幾度もの苦渋を舐め、凡才として届かぬ者達の背中を見て来たからこそ。
本来、雨を、しかも豪雨を降らせるなどというのは、道理を外れる所ではない。幾千の魔術師が、当然に不可能だとそう断言するだろう。
だが、フィアラートは引き受けた。ごく自然に、任せておきなさいと、余裕すら見せつけて。
フィアラートの臓腑が冷や汗をかき、喉奥が詰まったように狭まっていく。緊張と焦燥が背筋を這っているのが、よく分かった。
不様は、見せたくない。彼の期待を、裏切りたくない。見捨てられたく、ない。その心情は、確かにフィアラートの胸中にあった。足を踏み出した要因は、やはり依存に近い感情に違いない。
だが、今それとは別に、何等かの予感が胸にあるのだ。
かつて、ルーギスと宝剣を融合させ、彼を復活させた時のように。あの時のような、道理を捻じ曲げ、世界そのものを屈服させてしまうような感覚が、今、魔力も気力も、全てが充足した状況であれば、再現できるのではないだろうか。そんな思いが、胸にあった。
ならば、今だ。今、追いつかねばならないのだ。
指先に魔力が集積していく。天候を、大規模な自然を操る魔術など、聞いた事も想像もしたことがない。ゆえに、魔術としての型も、陣もまるで分からない。
だからであろうか、自然と、フィアラートはその手を天へと掲げていた。その手は、何処までも凡庸で、何処までも、鉛の如く。
常、思っていた。フィアラートの黒い瞳が、瞬く。
銀の長剣を操り、超人的な決断力を見せる女性、カリア。彼女は紛れもなく天才だ。
その一振り一振りの剣の冴え、冷徹とも言える決断力、常人の前を行く行動力。どれをとっても、彼女が傑物と断言できる材料に違いない。
そして、聖女マティア。紋章教徒を率いる指揮官であり、崇拝に近いカリスマを有している。その人々の心を惹き付けてやまない存在感は、もはや真似出来るものでは到底ない。
感じていた。ずっと、感じていたのだ。私だけが、何も持っていない。無理やりにルーギスに同行しても、私だけが凡人のまま。
嫌だ。此のままでは、私だけが取り残され、そうして最後にはルーギスに見放されてしまうのではないか、そんな不安が、何時しか胸を覆い尽くし蝕んでいる。それだけは、どうしても嫌だった。
ルーギスは、鉛などで収まらせないと決めたのは、私だ。ならば、私も、それに追随しなくてはならない。彼の隣に見合う様にこの身も、フィアラートという人間も、黄金にならなくてはならない。
そう思い、無茶無謀とも思える依頼を引き受けた。
だが、幾ら魔力を練り上げようと、豪雨を降らせるような都合の良い術式はくみあがらなかった。時間はもう、ない。下手をすればもう目と鼻の先にまで、敵部隊が迫っていてもおかしくはない。焦燥が喉を焼き、歯が歪む。
ああ、これだ。凡人がどれ程、意気地を見せようと世界は何時だって、そんな凡人に興味を見せようとはしない。世界という存在が関心を抱きその胸を開くのは、ただ英雄と勇者だけなのだ。
――何と憎らしい。何と狂おしい。そうだ、世界は私に興味がない。
そうであるならば、それが真実だというのならば、もはや道は一つしかないではないか。
かつて思い浮かべた有り得ない魔術理論。道理を跳ね飛ばした概念思想。前例を顧みることない世界数値。世界が私に興味がないというのなら、もはやこの世界そのものを変革するしかない。
今、脳の中で己が知らない自分が、ペンを取った。ペンが脳という名の羊皮紙に書き連ねるのは知りもしない魔術構造。有り得ない魔術理論。
ああ、そうだこの感覚だ。既存のものに押し込められるのではない。己の手で、世界の有様を書き換える快楽。この身を押さえつけていた大きな鉄を振りほどく清々しさ。
今、新たな魔術が此処で陣となり、フィアラートの黒き瞳に描かれた。馬数頭分の先に、敵部隊の前衛が、見える。
「――天蓋を貫け。洪水よ、世界を砕きて此処に振りよせろ!」
ピシリ、と、フィアラートの脳内で、何かが砕け散った音を聞いた。それが、なんであるのかは本人にすら分からない。
だが、今此処に、確かに魔術は成った。
それは、豪雨などではない。まさしく、濁流の如く。それらが波となって、敵部隊の前衛を荒々しく飲み込んでいく。
フィアラート・ラ・ボルゴグラード。今日この時、彼女の身を覆う鉛の一片が剥がれ落ちた。紛れもない、黄金の輝きをその内部に宿しながら。