第九十話『背徳と忠義』
ヴァリアンヌの瞳が瞬き、脚が戦場の前線を求めて狂ったように踏み出される。敵との蛮声が絡み合い、銀光と紫電を思わせる一線が描かれた。轟音を響かせる互いの凶器の接合。思いのほか、自らの腕にかかる圧力は強い。
眼前の者、ルーギスと名乗る緑衣の英雄と向かい合うのはこれが初めてではなかった。が、剣を交わすのは初めてだ。ヴァリアンヌにとって、彼は何とも感情を表しづらい人間となっていた。
いつの間にか姫様の心に取り入ってかどわかした、憎悪。姫様の御心を開き勇気を与えた、謝意。何とも、言い難い。思えば正式に言葉を交わしたことすら、殆どないかもしれなかった。
間合いを取り直し、ルーギスの脇腹を抉り取る為に両手で振るわれた銀剣が、紫光に阻まれる。そのまま素早く手首を返し、膝元、肩筋、手首と各々を斬獲せんと剣を振るう。そのどれも紫の剣に阻まれ、真面に彼の身体を抉り取りはしなかったが、それも時間の問題だ。
その肩の震えを見れば分かる。その膝の揺らめきを見れば分かる。もう、彼にはこちらを切り取るほどの体力は残っていない。精々、僅かな動きで剣戟を成すのが限度だろう。
後数合。数合で、この一時の勝負は終わる。ヴァリアンヌの戦士としての直感が、それを感じ取っていた。
剣を交わす度、彼の、ルーギスの瞳が己を貫いているのが分かる。人の視線だ。感情を滾らせた人間の、視線。
自身の変化を、己から理解する事は少ない。得てして、他者からの視線によって、その変化を理解するのだ。時にそれは情愛であり、侮蔑であり、憎悪であったりする。目の前の人間の視線も、それだ。即ち、裏切り者を見る瞳の色。
そうだとも裏切り者と呼ばれて当然だ。口角泡を飛ばしながら、大袈裟に罵るがいい。後世へと向けてペンを取る者がいるならば、幾らでも悪し様に書き連ねるがいい。それで全く以て構わない、好きにすれば良いと、ヴァリアンヌは唇を尖らせた。
更に、一合。ルーギスの肩を僅かに鉄が抉りながらも、彼は無理矢理に横に薙ぐようにして凶器を弾き飛ばした。彼の膝が揺れ動き、その瞳が見開かれたのが分かる。
ヴァリアンヌの部隊は、当初非常時に備えての待機を命じられていた。しかしその間にも部下を使い集めた戦場の情報、周囲から嫌でも与えられる伝令だけで、戦場のことは遠くにいながらも理解している。
即ち、姫様の旗は色を失い、もはや倒れかけてすらいる。その結果として与えられるものは敗北の汚名だけではない。その命までもが、奪われようとしているのだ。
ヴァリアンヌは、戦場に敏いとは言えない。己の知識の及ぶ所が戦場においても僅かな部分のみだと理解している。だからこそ、此の状況において、自身に出来る事がなんであるかを察し始めていた。
例え此処で己とその部隊が裏切りその内臓に牙を突き立てたとして、どれほどの効果がある事だろうか。分からない。こうまで不利な状況となってしまえば、もはやそれは何の意味も持たないのではないだろうか。それが、何よりも最悪だ。想定できる中でも最低の状況だ。
で、あれば。そうであるのならば。より良い選択肢を掴み取らねばならない。この身なぞどうでも良い。全ては姫様を救うために。忠臣として出来うる限りの行動を、手足を摩耗させてでも奪い取らねばならない。
そう、心の平衡を失い始めていたヴァリアンヌの耳に、天よりの助けとも言える声があった。
誰でもない、しわがれて、姫様を追い詰める元凶の、声。
「ヴァリアンヌ……お前がぁ胸の奥底に、かつての頃への忠義を重くしているのは知っている」
その言葉は、当然のようにヴァリアンヌの前に積み上げられた。
なるほど、全ては理解した上の事。この身はラーギアスの手の上で踊らされていたというわけだ。苦々しいものが舌の上を滑るのを、ヴァリアンヌは感じていた。此処で彼の、フィンの首を跳ね飛ばしてしまえれば、どんなに清々しい事だろう。
しかし、駄目だ。前後に控えた護衛の剣が、僅かに鳴った音を耳がとらえていた。今動けば、途端に首は胴を切り離し、床に頬をつけるだろう。
「忠義に名誉、結構な事だ。だがな、名誉を得る道というのは、実に狭い」
当初、その老エルフが口から零す言葉の意味が、ヴァリアンヌには掴み取れなかった。何を、伝えたいのだろう。裏切り者として処分するのであれば、早々にしているはず。
その罅が入ったように皺が刻まれた頬が、揺れ動く。
「私はお前の能力を、よくよく買っているよ、ヴァリアンヌ。どうだぁ、ここはひとつ私に、その魂を売り渡してみないか」
裏切りを、示唆する言葉。悪く言えば、ヴァリアンヌの忠誠を軽んじる言葉。
しかしその言葉を前にしてもヴァリアンヌの心地は、穏やかなものだった。迷う合間もなく、唇が言葉を発する。
「フィン・ラーギアス。非才の身にはもったいないお言葉。しかし、私が姫様への忠誠を抱いていることは例え精霊を前にしても変わらぬこと。此の命が欲しいと仰るならば、差し上げましょう。されど魂を差し上げることは出来かねます」
跪かず、その瞳を見つめて、言った。これが今生最期の言葉となっても構わないというように。忠義、忠誠。
ヴァリアンヌはそれらを失うことなど、考えられない。幼き頃より、それのみを胸に抱いて生きて来た。それしかこの身にはないのだ。それ以外に命の使い方を知りはしない。
その言葉を聞いたラーギアスの反応は、ヴァリアンヌが思っていたものとは、随分違うものだった。激昂でも落胆でもなく、静かに受け入れ、まるでこちらを宥めすかすように、言う。
「良いとも構わない。それでこそだと思う。だが忠義とは、目の前にある主君の命を救ってこそではないのかな」
心臓が跳ね上がる音を、ヴァリアンヌは聞いた気がした。目の前の老エルフが、己に何を課そうとしているのかを、理解した気がしたから。
「言った通り、名誉を得る道というのは狭く、険しい。時には自ら泥をかぶり、主君を守る道もあるだろぉさ。さぁ、行きたまえヴァリアンヌ。お前が前線にて活躍すれば、姫君の命だけはお救いしよう」
その言葉は、ヴァリアンヌの耳にはりつきその魂を縛り上げている。茨のように棘を突き出し、彼女自身をも傷つけながら。
更に、一合。彼の何処に、未だ力が残っているのだろう。ルーギスの身体は箍を失ったようにふらつきながらも、握られた紫光が揺らめいて彼の肉体を守ろうとしている。
だがそれも、これで終わりだ。
敵を攪乱する為の一撃ではない。紛れもなく、その身体を両断し絶命させんが為に上段より剣を振るう。銀光りが一線となって、空間を両断した。
裏切り者と、罵るがいい。背徳者と大いに呼ぶがいい。だが私には、このようにしか忠義を示す方法がなかったのだ。ヴァリアンヌの瞳が一瞬揺らめき、瞬く。
――キィンッ
盾とならんと今まで剣を阻み続けて来た紫が、幾度も迫りくる衝撃に耐えかねて、弾かれた。もう、これで彼を守るものは何一つとしてない。
己の部隊が渾身を以て突撃を行えば、抗える部隊はこの国には存在しない。彼、ルーギスが絶命し、前線の部隊を絹の如く裂いてやれば、それで戦場は終わるだろう。
姫君は、私の行いに対してなんと仰るだろう。それだけが、唯一ヴァリアンヌが胸に抱いた事だった。ゆえに、その耳に響いた言葉に、一瞬、反応が遅れる。
「撃てぇッ!」
その、空を切り裂くように響く声を戦場の奥から聞いたのは、丁度剣が天空で煌いた時だった。