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第八十八話『ガザリア内戦』

 其処は、正しく戦場だった。


 血が大地へと滴り、肉が弾ける。兵どもの蛮声が波を打って周囲を覆い、正気という正気が崩されていく。槍の穂先が脇腹を抉りぬけ、放たれた矢が頭蓋を打ち破っていった。


 戦場だ。紛れもない戦場が此処にあった。


 人であろうと、エルフであろうと、戦場においてその在り方は変わらない。眼からは色が消え失せ、目の前の敵を屠りさらんと身体を蠢動させる。此処はもはや地獄だ。素晴らしい地獄に違いない。誰もが一歩その身を踏み出す度、大地を地獄へと塗りつぶしている。


 エルディスは、思わず音をならして唾液を飲み込んだ。兵と兵のせめぎ合いが行われる場所より少し遠く、馬の上から、彼女はその光景を凝視している。


 今、視界の先にあったエルフが数名、絶命した。彼らを絶命させた兵もまた、他の武器の煌きによって命を断たれた。


 死が死を招き、命をどうにも許容しようとしない。奇怪な蛮声を響かせながら、再び兵が突撃を繰り返す。


 此れが、己が作り上げたもの。此れが、己が背負うべきもの。エルディスの胸は、恐怖と戸惑いが混ざり合い張り裂けんばかりだった。


 周囲の名士達がエルディスを担げ上げようとしていたことは確か。己を導いた者がいることも確か。だが、しかし。この光景を作り出した一端を、間違いなくエルディスは握りしめている。


 逃げ出したい。出来るのであれば逃げ出してしまいたい。エルディスという姫君の本性は、臆病さにある。前へと踏み出す気丈な精神も持っていなければ、鈍いとも思える諦めの悪さも持っていない。


 ただただ、その場に蹲ることしかできない臆病な心しか、エルディスは与えられなかったのだ。吐き気を起こすほどの眩暈があった。思わず、馬からその身を転げ落としそうになる。


 視界の先にある光景から、己こそがこの地獄を作り上げた張本人なのだと、嫌でも理解させられる。見たくはない。決して見ていたくなどない。


 だが、その碧眼は閉じられない。エルディスの眉が歪に揺れる。あの兵士達の中には、己の為にと意志を宿して死んでいく者がいる。新たなる世の為にと、その脚を踏み出して死んでいく勇者達がいる。


 許されない。彼らから目を背けることなど、到底許されることではない。エルディスの心が、それを痛い程に理解している。


 エルディスは弱い。臆病で弱い心の持ち主である事に違いはない。だが、姫という地位にあって、それに見合うだけの矜持をその胸に宿していることも、間違いがなかった。


 その矜持が、叫びをあげている。此処で視線を逸らし、全てを見て見ぬふりをできれば、どれほど楽だろう。自分は誘惑されただけだと断じてしまえれば、なんと胸の奥が軽くなることだろう。


 だがその選択を掴み取ってしまえば、自分で自分が赦せなくなることを、エルディスは理解している。そうしてもはや、彼と肩を隣り合わせることができなくなる事も。


 エルディスの視線が戦場を見据えつつ、思わず彼の、ルーギスの姿を探した。緑の衣は、何処にも見えない。


 ――さてはて、互いに、戦場での責任くらいは果たすとしましょうや。


 そう、それだけ言い残して、ルーギスは一人戦場の中へとまぎれて消えてしまった。


 何でもないとでも言う様に。それが当たり前なのだとでも、語る様に。


 ああ、あの背中をどれだけ追いかけたかった事か。


 どれだけ引き留め、この馬の上で共に在りたかった事か。それが出来れば、例え地獄を見据えていても幸福があったに違いない。


 しかし、ルーギスは、責務を果たせと、そう言った。姫としての、担がれた者としての、責務を果たせと。


 それを果たさずに生き残ってしまったら、彼はなんというだろう。仕方がないと、慰めてくれるだろうか。それとも、馬鹿なことをしたものだと、叱責するだろうか。


 それか、もしかすると、自らの主君に相応しくはないと、見捨てられてしまうのだろうか。


 嫌だ。それだけは、嫌だ。私は彼に見合う主君であらねばならない。ルーギスと肩を並べるだけの、主君でなくてはならない。であればこそ、逃げることは絶対に許されない。


 ルーギスの言葉が、何処までもエルディスを束縛していく。臆病な心を無理矢理に押さえつけ、エルディスをこの場に立たせている。その心地は、思ったよりも悪いものでも、無かった。


 ――決まってるけど、君が僕の下へ戻ってくることも、責務の内だからね


 そう、最後に背中に語り掛けたが、ルーギスに聞こえたかどうか。


 それだけが、エルディスの中で唯一の心残りだった。


 *


 当初、エルディス率いる革命軍側は優勢に思われた。


 籠城を続けるラーギアス側に対し、部隊を二つに分けることで兵を機動的に運用する事に成功していたからだ。


 此れも防衛装置の一つなのだろうが、ガザリアの街道は兵が進撃をするには余りにも狭い。例え大軍を引き連れていたとしても、王宮に攻め入れるのはごく一部の兵ということになってしまう。


 其処で部隊は二つに分かれ、別動隊は街道より外れて、道はより小さくなるが側道より進撃を行った。効果は上々。敵方の手は二つに割かれ、こちらの被害は軽減した。なるほど結構。であればより攻め手を増やせば、更に効果はあがるではないか。


 そう、思ってしまった。攻城側は、ラーギアス側が当然に籠城を続けるのだと、そう理解していたから。


 当然といえば当然だろう。籠城という選択肢には、敵方に有利な条件が多すぎる。王宮にはガザリア周辺を覆う城壁ほどではないとはいえ、王宮を守る為の囲いが用意されており、山の断崖を背にした守りに適する構造になっている。


 それに耐えれば耐えるほど、敵方は状況は有利なものへと塗り替えることができた。


 籠城を続けたまま、城門前に集中運用させた兵士達を背後からの伏兵として用いれば、此方は容易く半壊する。その程度の兵の塊だったのだ、こちらは。


 加えて、そうして時間を重ねていればいずれガーライストの兵士達がガザリアへと到着するだろう。そうなれば、其処でこの小規模な戦争は終わる。


 鍛え抜かれた正規兵に対して、こちらになす術など、ありはしないのだ。


 だから、決め打っていた。彼らは出てこない。ラーギアスは、王宮に籠り守りを固めるのだと。

 

 そう思い込んだ己の馬鹿さ加減にため息を吐きながら、剣を抜き放つ。かつてガルーアマリアにてその姿を見せた、紫の一線を宿す剣。それは俺の手から出でて、そのまま指に握られる。


 全く、便利なものだ。こんな事なら、かつてカリアが言ったように暗殺者になるのもありだった。自らを嘲笑するように、頬を歪める。


 目の前を、槍の穂先が駆けて行く。柄を握るエルフの瞳が、戦場の狂気に晒された色をしていた。身体を半身に開き槍を躱しながら、そのままの勢いで半回転し、紫の閃光を走らせる。剣の先が、槍を握る敵兵の手元を抉った。


 それだけで構わない。もう此れで、奴は戦えない。


 それは情けなどではなく、ただ脅威となり得ないものに意識を割けるほど、余裕がなかっただけだ。眼前には、すでに次の脅威が走り寄っている。


 戦場で、止まる事は出来ない。一度戦場に出た以上、脚を止められるのは生を無理矢理に奪い取った後か、心臓を地の底へ落とした時だけだ。


 特に、敵は圧倒的多数。こちらは休む暇もありはしない。狭い街道の中を、兵という兵が、血という血が、肉という肉が溢れかえっていた。


 ああ、全く。悪くない方策だとは思ったんだが。やはり俺は愚かであるらしい。いやそれとも、ラーギアスが何枚も上手というだけか。煌く銀の光を断ちながら、瞳を瞬かせる。


 もしかすると、最初からその時を狙われていたのかもしれない。勘弁してほしい。俺が戦う相手なら、どうせなら暗愚であって欲しいものを。


 当初の考察通り、敵方の方針が籠城と決め打った後。そしてより兵力分担の効果を上げようと、側道へ更なる兵力を送り込んだ、その後だった。


 敵方が突如城門を開き、手薄となった本隊への強襲を開始したのは。

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