第八十六話『エルディスという女』
視界が明滅し、一瞬平衡感覚が喪失する。そうして幾度かの瞬きのような感覚を経て、眼が開かれた。
瞳に映りだされたそれは、よく見慣れた光景。自らの、ベッドから見上げる光景だった。エルディスは指先に力を入れて、今が実体である事を再度確認する。
どうにも、幻影を作り出した後、再び身体に戻ってくるこの感覚にはなれない。時折本当にこれが自身の身体であるのか、疑わしいと思ってしまう時すらある。それらは、時間の経過とともに失われていくのだが。
何にしろ、言われた役目は果たした。エルディスは僅かに頬を緩める。感情の動きと言えるほどの激しい表情ではなかったが、その顔つきは微かに機嫌が上向きになっているように見えた。
情報と言えるほどのものかはわからないが、一先ず此れで彼も満足することだろう。そう思い、寝室から出ようと脚をベッドから降ろす。
ふと、姿見が視界に入った。映し出されるのはベッドから立ち上がったばかりの己の姿。髪の毛は僅かに癖がついたように跳ね、服装は男装とはいえ乱れが目立つ。まつ毛や顔色の様子も、何時もと比べよろしくないかもしれない。部屋を出ようとしたエルディスの足先が、止まる。
自然と細長い指が髪の毛を整えだし、衣服の乱れもただす。顔も水に晒し、瞳を瞬かせて鏡の中の自分を観察する。
こんな、所だろうか。どうせなら櫛も入れたほうが良いのでは、とそう考え始めていた折、ふとエルディスの頬が朱色に染まる。
何をしているのだ、自分は。姿かたちなど気にしないのだと、男装を好み、口調とてそれに合わせている。無理をしているわけでもなく、この姿やあり方こそが己に最も最適なのだとエルディスは実感している。
それゆえに、今まで髪の毛や身だしなみなど侍女に任せたままか、大して自ら気にすることすら無かった。
だというのに、今の自分は何だ。
エルディスは大きな碧眼を揺らして、鏡から視線を逸らす。まるで、自らを飾り立てる為に時間を費やす乙女のよう。そんな趣味を持った覚えはない。
大体、これから会う相手といえば、あの粗野な人間ルーギスである。何の気を使う必要があるというのだろう。何一つ、ないではないか。そう思い立ち、寝室と居室とを隔てるドアへと手を掛ける。
寝室のドアの前で数度喉を鳴らし、やはり指先が自然と髪の毛を撫でながら、木製の扉を開く。ぎぃ、と古めかしい音が鳴った。
「やぁ、帰ったよ。出来は悪くない。少なくとも、目隠しをしたまま戦う必要はなくなったかな」
それが誰の功績であるのかは、あえて明言せず、やや高めの声を喉から漏らす。
しかし暫く待っても、部屋の中から期待した声は返ってこない。おかしい。何時もであれば、もうあの少し皮肉げな声が返ってきても良いというのに。
不満げに唇を尖らしながら部屋内を覗き見ると、その人影はいつも通り、そこにいた。しかしその緑衣の姿は、椅子に座り込んだままうつむき瞳を閉じてしまっている。
エルディスは何となく、音をたてぬようにゆっくりとその姿に近づき、間近から顔を覗き込んだ。
定期的に吐き出される深い息、そして開かない瞼。なるほど、間違いない。ルーギスは椅子に座り込んだまま、眠りの中へと落ちてしまっている。
再度、胸中の不満を表すようにエルディスの唇が揺れ、目つきが僅かに強まった。もともとは感情をそれほど表情に出すという性質ではないが、今その姿からは明確な不機嫌さが見て取れる。
自分は指示されるままに幻影を作り上げ偵察活動へと赴いていたというのに、帰ってきてみればその指令者は眠りこけている。指示を出したからには、その結果までを見届けるというのが、義務の一つに入るのではないだろうか。エルディスはルーギスの寝顔を覗き込みながらその唇を尖らせていく。
いやしかし、と、エルディスはその瞳を瞬かせて思いなおした。
そうか、昨晩彼は殆ど睡眠をとっていないのだ。思えば、ルーギスは一晩中エルディスの身体を抱え上げ、一睡もすることなく支え続けていたのである。この、身体を。
何となしに、エルディスの耳が揺れる。
なるほど、であれば、ある程度仕方がない。人間の身体というやつは、それほど丈夫でもなく耐久性に優れたものでもないと聞いたことがある。昨日の事を思えば、今ひと時睡眠をとることくらいは認めてしかるべきであろう。
エルディスはそっと、椅子に置かれた妙にささくれだった手を、撫でた。特に、この者は己の騎士なのだから。それくらいのことは、許すのが上に立つ者としての度量かもしれない。
そう思い再度寝顔を見つめると、すでにエルディスの胸中からはいら立ちのようなものが消え果てていた。むしろ相手の働きを認め褒めはやそうとするような心地が湧いて出ている。
別に、彼に、ルーギスに気を許したわけではない。未だ心の底から信じ切っているわけでもなければ、思うところがないわけでもない、はずだ。
だが、人間に対して抱く敵愾心のようなものが、彼に対しては薄れているのは確かだと、エルディスはまつ毛を瞬かせる。
最初は、同病の者が互いに憐れみあうような、同情心からだった。互いに諦めきった者なのだと感じ、傷口を舐めあうような間柄なのだと思っていた。
だが、それは己の勘違い。一方的な思いであったのだと、エルディスは思い知らされる。ルーギスは、言った。諦める気も、死ぬ気も更々ないのだと。それどころか、自身を無理やりに連れ出して見せると、言い切った。この碧眼を貫きながら。
くすりと、ルーギスの寝顔を見続けるエルディスの頬から笑みが漏れた。
全く、なんという不敬な事だろう。本来であればあの場で首を掻き切っても許されることだろう。ただの人間と、エルフの姫君。比べることすら馬鹿らしい。
だが、あの時エルディスはそんな気にはとてもならなかった。もし、ルーギスがいなければ、己はいずれこの塔の中で精神を時の流れとともに摩耗し、その根を静かに狂わせていったかもしれない。
きっと、この指先に塔を出でて空へと手を伸ばす勇気はなかった。この脚に、大地を再び駆ける蛮勇は出るはずもなかった。
ああ、そうだとも。いずれ全てを諦めて、この手から放り出してしまっていたに違いない。ルーギスが、己すらも巻き込んで連れ出してしまうのだと、此の手を取らなければ。
ルーギスのだらりと伸ばされたままの指を取り、己の指と絡めていく。ぎゅぅと、目を覚まさぬ程度に強く、エルディスは手を握りしめる。
「君は言ったよね。僕を巻き込み、逃げられないようにしてやろう、ってさ。驚いちゃったよ」
そうして、一つ一つ言葉を噛みしめるように。眠った彼に言い聞かせるように、告げていく。まるで、祝詞のように。まるで一つの、呪いのように。
「エルフはね、とても執念深いんだ。一度抱いた感情は、決してたやすく掻き消えることはないんだよ。決してね」
エルフはその長寿ゆえの習性か、考え方や習性、感情に至るまでもが、変質しづらい。軽い日常に浮かぶ程度のものであればともかく、深く刻まれれば、刻まれるほど、それは消えぬ傷となる。
そして己は彼と、契約を結んだ。彼は逃がさないとそう言い、自らは受け入れた。そう、契約なのだ。
気を完全に許したわけではない。全てを信頼したわけでもない。何もかもを受け入れたわけでもない。
ただ、ルーギスは逃がさないと、そう言った。
その束縛の契約を、エルディスは受け入れた。
「僕は約束事は守るよ。自らの矜持にかけて、ね」
未だ寝息を立てるルーギスの耳元で、囁くように、エルディスは呟いた。