第八十四話『新たな悩み』
「なるほど、子ネズミの如く何処に息を潜め隠れているかと思えば、あの塔か」
居室の中、そう目を伏せて呟くカリアを前に、マティアは思わず息を呑んだ。
今までの動向から考えて、すぐにでも彼女がその銀髪を揺らしあの塔に突貫してしまうのではないかと、そのような想像が僅かにちらついた。
「ええ、恐らくというか、予測に過ぎませんが」
そう思うのであれば、全てを脳の中に封じ込め、殺してしまうという選択肢もあった。大体からして、塔にいるであろうというのは己の推測も大いに含まれている。
しかし、それは紛れもない苦痛だ。
勿論、言わないという選択肢も、マティアは最初選び取ろうかと思った。だがよくよく考えると、何故自身があの男の、ルーギスの為にカリアやフィアラートを抑え込み、その居場所まで秘匿せねばならないのか。
それに、無事であるというのなら何等かの手段を用いて連絡を取るべきだろう。だというのに、彼は今この時も連絡を取ろうとしていないのだ。人の気も知らないで。
その鬱憤とでも呼ぶべき感情の波が胸の中でない混ぜになり、マティアの口から吐き出てしまった。
それに、フィアラートは放っておけば、そのままどんどんと生気のようなものをなくしてしまいそうで、もはやただ見ていることも出来そうになかった。ちらりと、マティアは視線をフィアラートへ移す。
「そう。無事、なの。ふぅ、ん……そう、姫君の」
一瞬ほぉ、っとした表情を浮かべておきながら、次には何とも複雑な表情を、フィアラートはその顔に浮かべはじめる。
なんと、形容したものだろうか。安堵と憤激と焦燥が合わさりあい、互いに衝突している。そんな顔色と言えばいいのか。思わず、マティアの唇がひくついた。
「……分かった、じゃあ、寝る。もう、連絡の一つでもくれれば違うでしょうに。覚えてなさいよ、ルーギス!」
その言葉には、すでにかつてあった虚ろさは取り払われていた。何処かその精神の根本に生気を取り戻したようですらあった。
表情は複雑そうに歪めながらも、やはり眼の下の隈に象徴されるような眠気や、身体の疲弊には敵わなかったのだろう。むしろ、ようやく休んでくれるのかと、マティアもその胸を撫でおろした。
「いいのか、魔術師。安穏と眠り込んでいる奴を無理矢理引きずりだしてやるのも、躾の一つだろう」
カリアが、何処か面白そうに頬を綻ばせて、言う。しかしその言葉もフィアラート同様に、何処か穏やかさを取り戻していた。こんな事でその機嫌を取り戻すのであれば、もう少しその感情を律してはくれないのだろうか。
マティアの感情などどこ吹く風という様子で、カリアは腰元の長剣を揺らす。
「良いのよ、ええ」
フィアラートの言葉には、凛然としたものが含まれている。確信を秘めている様な、全てに理解は及んでいるのだと言う様な、そんな声。
「ルーギスが悪だくみをしてるという事は、もう何処で出てくるか決まってるもの――最後の最後、一番危ない場面に、あいつは自分の名前を書くのよ」
なら、少しくらい休む時間もあるでしょう。そう言い残して、フィアラートは二階への階段を上っていく。
フィアラートの言葉を聞いて、カリアはくつくつと喉を鳴らした。愉快げで、何処か嘲笑う風すらあった。
「全くその通りだ。奴は、まるで自らを窮地に入れ込むことが義務だとでも思っているかのよう。高位に立つもののふるまいではないな。全く、いずれ正してやらねばなるまい」
二人の言葉が、不思議とマティアの胸中にすとん、と踏み入ってきた。
確かに彼、ルーギスはそういう節がある。ガルーアマリアでも、此処ガザリアでもそうだ。危険な場面に自ら躍り出て、その身に傷を増やしていく。
あれが、自己犠牲の精神というやつなのだろうか。その在り方は、マティアにとって理解できないものではない。むしろ、正しい生き方のようにも思える。
他の大多数の為に己の身を捧げ、より多くを救う。マティアもその胸に刻み込んできた思想だ。ただ、彼の場合はそれというよりも、何処か、生き急いでいる様な、そんな印象を受けた。
だから、どうにも手放しに褒めることは憚られる。
――いや、待て。
マティアは思わず自らの中に浮き出た妙な感情を押し戻す。褒めることが憚られる。何故だ。ルーギスが勝手に危険な所に躍り出て、自らを犠牲に勝利を勝ち取ってくれるというのならば、これほどまでに上出来なことはあるまい。喜ばしいことですらある。
むしろ紋章教としては、それを推奨すらするべきだ。栄誉として称えるべきだろう。その過程や感情はどうでもよく、重要なのは結果なのだ。
だというのに何故、今私は彼の生き急ぎとも言える行動に、複雑な感情を抱いたのだ。
自らの得体の知れぬ感情に、思わずマティアの眉が歪む。
「……あの方は、どうしてああも、自ら窮地に飛び込もうとするのでしょう」
そんな、自らの中に生まれた感情を誤魔化すかの様に、マティアの唇が別の言葉を告げていた。その言葉に応じるように、銀髪が揺れる。
「弱いからな、奴は」
はっきりと、言い切る様な言葉だった。それは流石に、マティアにも意外な言葉だ。
カリアという人間が強者の理論で生きる人間だということを、マティアはよくよく理解している。だというのに、憎らしくない感情を捧げている人間に対し、弱いと明言するのは、どういう事なのだろう。
疑問に瞳を瞬かせていると、何処か可笑しそうにカリアは微笑んだ。
「見ていて分からんか、奴は本質的に弱く危うい。だからこそ、自ら手を伸ばして強者に届かせようと窮地に飛び込んでいる。まるで英雄の如くな。まぁ、私に言わせればまだまだだ」
そういうカリアの様子は妙に自慢げだった。弱いと言っておきながら、むしろ自分の所有物を褒め上げるような、そんな態度だ。
「――だが奴は、その弱さから生まれる強さも持っているよ。私は、奴のそういう部分が、非常に好ましいと、そう思う。分からんものだな。強さとは揺るぎないものであり、弱さとは相いれないものだと、そう思っていた」
奴を見て、私は初めて知る事が多い。そう言い切るカリアの言葉遣いは、妙に穏やかで視線は慈しむかのようであった。苛烈で激烈とも言える彼女の行動を知っていると、その姿は少し信じられない。
白い頬が僅かに赤くなると、その銀の瞳はマティアを刺し貫いた。ぴくりと、マティアの肩が揺れる。
「私ばかりに語らせるな。貴様は、奴の何処を見出しているんだ」
奴の何処を見出している。思わず、マティアはその言葉を自らの唇で繰り返した。そうでなければ、どうにも意味が理解できそうになかったから。
私が、ルーギスの何処かを、見出している。
何の話だ。そんな話は、したこともなければ、此の胸に抱いた事すらないはずだ。そうだろうとも。ああ、そうに違いない。
唇を尖らせながらその旨を告げると、どうにもカリアは、瞳を丸めて可笑しそうに噴き出してしまった。
「貴様がそういうのなら、構わんがな。だが私もあの魔術師も、心の根はさして変わらん――牙を出すのが遅ければ、肉の一片も残らんかもしれんぞ?」
もとより、残す気もないがな。そう言いながら、カリアもまた身体を休める為であろうか、背を見せて扉へと向かう。
何を、言っている。マティアはその背中を見つめながら、自らの唇を噛む。
私と彼とは、何の関係もないではないか。敢えて言うのであれば、協力者という立ち位置。後は彼への恨みがこの胸に抱かれているという位だろう。
見放すことはあっても、見出すというようなことは、とても有り得ない。
それは勿論、今回のようにエルフの姫君の背後で糸を引いているであろう掌握力や、歪とも言える行動力は評価をしよう。しかし、それはあくまで使えるか使えないかという意味であって。彼の人格に何等かの評価を与えたわけでは決してない。
そう、決して、違うのだ。マティアは、そう何度も胸の中で繰り返す。
マティアは己の頭の中に、新たに悩みの種が生まれてくるのを、感じるようだった。それはカリアや、フィアラートが生み出したものではない。
紛れもない、緑衣の人。ルーギスが原因となって、生まれ出でたものだった。