第七十六話『諦観と意地の置き場』
こんな国は、枯れ果ててしまえば良い。
エルディスは一日に一度、塔の中唯一許された窓からガザリアの空中庭園を見下ろす。そうして、瞳に呪いを、胸に憎悪を抱きながら、歯噛みをした。
自分に出来ることなど、何もない。それは理解している。己は此の塔に幽閉されたまま、朽ち果てていくしかない一生だ。死んでしまえば良い。早々に命を絶ってしまった方が、ずっと良い一生になる。
だが、エルディスは理解していた。自分自身が生き延びることこそが、己を此処に投獄した男を最も苦しませる手段なのだと。だから、今日も生きる。全てを諦め、いずれ壊れていくであろう己と精神を抱き寄せながら、何もない一日を過ごしていく。
それは、あのルーギスと言う名の冒険者が投獄されてきても変わらない。
傷ついた彼を治療したのは、手慰みに過ぎなかった。人間なんて、生きようが死のうがどうでもいいけど、目の前で死なれると死体を捨てる場所に困る。
それに、彼が此処に投獄された目的が透けていたから。
彼は紋章教徒の人間だ、なら、大聖教と手を組んだ今のガザリアにとっては、紛れもない敵。そうして態々塔の監獄に収監されるという事は、それなりの重要人物なのだろう。見た目からは、とてもそうとは思えないが。
であれば、あの男の目的はすぐに見て取れた。彼が此処で死ねば、それを僕の責任にする気なのだ。逆に彼が生き延びれば、なるほど、男と女。彼が僕に手をだし、この身を汚すことを望んでいるのだろう。
どうやら、王宮の側も随分と焦っているらしい。塔の中で僕が発狂もしなければ、強硬手段を取らないことに。思わず、エルディスの目が細まった。もう、随分と長い間エルディスは、此の塔で生活を送っている。何の娯楽もなく、何の変化もない生活を。
それでも、その精神は壊れはしない。魂をすり下ろされ、堕落させられるような感覚が日々纏わりついていても。
かといってエルディスは、数少ない自分の支持者を煽るような軽挙も、取る気はなかった。どうせ、そんな事をしても何も起こりはしない。もう、己に何も出来る事はないのだと、諦めてしまった。出来る事はといえば、精々生き延びて嫌がらせをするくらいだ。
しかし、ある種の憎しみや心にため込むものはあれど、同房人の存在は、エルディスにとって案外悪いものでもなかった。
ルーギスはその言葉遣いは粗野であり、とても高貴の出のものとは思えない。今まで己が付き合った事もないような存在だ。
しかし、冒険者としての智識には非常に長けている。その話は、余りに興味深い。まるで、御伽噺の如くだった。
大型の魔獣を、単騎で討滅する騎士の話。
魔術を、その理を超えて行使する魔術師の話。
太陽を追い落とすような、英雄の話。
どれもこれも、とても信じられないような話ばかりだったけど、その語り口調がとても上手かった。いつの間にか、その話に引き込まれてしまう。密かにだがにその話を聞くことが、エルディスの日課に追加されているのは、何、ただの暇つぶしに違いない。
全ては治療をするついでなのだと、エルディスはそう理解していた。
今日も、治療薬を準備する。エルフが大地の恵みより受け取った、治癒の雫。薬草を擦り合わせ、傷口が膿むことを防ぐ薬。此れが在れば、死ぬことはない。
エルディスは戸棚からもう一つ瓶をその指に取り、薬に追加する。これも、毎日同じこと。
どうしてこうも、献身的になるのだろう。いや、そういうわけではないか。これは、共感。悪く言えば同情というやつだ。
きっと、彼に何処か共感を覚えるのは、彼からも何処か、諦めの匂いを感じるから。きっと、彼も心の奥底で諦めているものがある。手放したものがある。だから、傷を舐めあうような共感を、心の奥底で互いに覚えている。
悪くない。悪くないさ。諦めて、最後には壊れて、死ぬ。今更足掻いた所で、どうなるものでもない。足掻いて手が届くような事なら、とうにやっている。きっと、ルーギスもそうなのだ。
父を殺され、フィンの位を奪われたまま、此処で憎悪を胸にただ生きている。そうしてそのまま、己は朽ちていく。
歴史の濁流にのみ込まれ、そうして煌きすらせず消えていくのだ。ただ、それだけ。
エルディスは唇を尖らし、彼のベッドへと、赴く。
――姫様にこのような不自由を……
そこには、何故か彼に向って姫様と、そう語り掛ける忠臣と、布団に包まったまま出るに出れなくなっているルーギスの姿があった。
*
世は巡り廻る。それは人間の世にしろ、エルフの世にしろ、変わらぬものなのだとよく理解した。
「申し開きの言葉もございません、姫様」
よくよくその姿を観察してみると、そのエルフは、紛れもない、俺を王宮前で迎え入れたあの指揮官。その女エルフが、今はエルディスの前に跪き、ひたすらに許しを請うている。
エルディスに仕えるものなのか、それともかつて仕えていたものなのか。それは分からない。だが、あの女エルフが心の何処かにエルディスへの忠誠を持っていることは間違いがないだろう。その様子が、よく見て取れた。
「ヴァリアンヌ、だからその姫ってのをやめなよ。それに、いいさ別に。どうせ、彼も僕も、此処から出ることもできないんだから。出るとすれば、それは首と胴が離れる時だからね」
それは、何処か諦観を含んだ言葉。彼女には、壁となるもの全てをなぎ倒してしまうエルディスという存在には、どうにも似つかわしくない言葉だった。
なるほど、わけありであるのが良く分かる。きっと俺如きには理解もできぬし、知り得る必要もないご事情というのがあるのだろう。
ああ、だが。だがだ。その言葉はどうにも、腹の奥底にある感情に障った。
「おいおい、決めつけてくれるなよ、エルディス。俺はただの一度も、そんな事は言った覚えがないぜ」
ベッドに腰かけながら、未だ鈍重にしか動かない身体を震えさせ、肩を竦める。
その言葉を聞きつけたのだろう。先ほどまでまるで俺をいないものと扱っていたかのような女エルフ、ヴァリアンヌと呼ばれた彼女が、その鋭い目つきをこちらへ向けた。その瞳の色は、よくみたことがある。上流の人間が、下流の人間の無礼に腹を立て、見下す時の色だ。
エルディスはエルディスで、俺の言葉に何処か、不思議そうに碧眼を瞬かせていた。
構うものか。別に彼女とも、エルディスとだって、何かを憚る関係というわけではない。ただ此処に、暫くの間共に監禁されてたという、それだけだ。
唇をゆっくりと濡らしながら、姫君と、忠誠を誓う騎士に言葉を放り投げた。
「馬鹿らしい。お前が物事を諦めるのは勝手さ。自由気ままに濁流の中のみ込まれるなり、好きにしてくれれば良い」
胸の中を、濁った感情が震えたのを感じた。その奥底には、未だエルディスへの恐怖がある。時折吐息が、乱れそうになる心地があるのを感じている。
「だが俺は離して欲しいね。道連れになる気はない。何せ、まだまだしなきゃあならない事が控えてる。全てに流され、巻き込まれる人生なんざ、御免だね」
そうだとも。全く、聖女様といい、エルフの姫君といい、都合よくこちらを巻き込んでくれるもんだ。俺には、俺の目的がある。俺の意志がある。操り人形でも、都合よくつかわれる駒でもない。
最後に全てを決めるのは、俺自身だ。それ以外の何者でもない。どんな凄惨な結果も、馬鹿らしい決着だったとしても、それは全て俺の意志が選びとったものだ。
歴史の濁流は、才ある者が作る。それは、よく分かっている。俺如きに、その流れを生み出すことなんて、できようはずもない。だからこそ、せめて、自分の意志一つくらいは、俺が決めたって良いではないか。ぎゅぅと、拳をいつの間にか、握りしめていた。
そんな、己の感情に浸っていた所為だろうか。
俺は、彼女の変化に気付くのが、一瞬、遅れた。
「へぇ、そう。君、諦めてないんだ」
言葉に応じるように、部屋内に声を漏らしたのは、エルディスだった。その意外さに、少し踵が震える。
俺は、こういった言葉に食って掛かってくるのは、ヴァリアンヌと呼ばれた、女エルフだと思っていた。如何にも忠誠が取り柄のような女だ。エルディスの事を突けば、口を開かずにはいれないだろう。
加えて、エルディスは俺程度の言う事などに一々感情を震えさせはしない。
そう、思っていた。
「そう。なら、そうしてみると良いよ……ヴァリアンヌ」
耳を伝うエルディスの声が、酷く冷たい。その声に共振するように、室温がそのまま下がってしまったようにも感じられた。唇が、怯えたように揺れる。それは俺だけでなく、あのヴァリアンヌも、同じ。
ヴァリアンヌが、跪いてエルディスの言葉に、応える。
「君が言っていた例の件、却下しておいたけど、進めておいて。どうやら、彼、ルーギスはどうしても不様な死に方をしたいみたいだからさ」
その声は、より冷たく、より酷薄に。碧眼が、こちらを向いたのを、感じた。浮かんだ色は、本当に、まるで虫けらをみるような、そんな瞳。
それはこの時代においては初めてみる、かつてのエルディスの面影だった。