第七十四話『歓待と煌く鉄』
エルフ達がその場所を何と呼ぶのかは知らないが、恐らく俺達人間の言葉に直すのならば、王宮と、そう呼べる。
山から溢れる水を流し込んでいるのだろうか、小さな川が常に勢いを止めず、周囲は水の匂いで溢れている。空中庭園の中でも尚、荘厳に、しかし何処までも美しく、その建物はあった。
恐らく、此処に彼らの王、フィンがいるのは間違いない。歓待すると、確かそう言っていたのだったか。
「……ああ゛、いや。こいつはまた随分と、大した歓待だな」
思わず呟いたその言葉が、風に揺られたように消えてゆく。
己と、そしてマティア達に突き付けられた銀の煌き。数十の弓矢と、槍の穂先がこちらを向いている。空が近い所為だろうか、妙に鉄の輝きが淡く感じられた。
おかしい。何故、気づけなかった。周囲を完全に囲むほどの数に、頬を噛む。咄嗟にカリア、そしてフィアラートに目を配った。周囲のエルフ達を無駄に警戒させないよう、僅かな動きで。
銀と黒の瞳の色は、両者とも否定を示す。気づいて、いなかったのだと、そう告げていた。なるほど、であれば俺一人が気を抜いた結果取り囲まれていたと、そんな間抜けな結論ではなかったわけだ。
本来、これほどの数が周囲に潜んでいたのなら、正直気づきそうなものだが。凡人たる俺だけでなく、才持つ彼女達まで気づけなかったのなら、何等かの仕掛けが施されている可能性が高い。
気づけなかった己を責め立てるように唇を、噛む。瞳を素早く動かすが、何処を見ても抜けられそうな場所はない。鼠一匹とて、抜け出そうとすれば串刺しにされて絶命しかねない。
動揺で張り裂けそうになる心臓を必死に宥めすかし、まるで予想していたとでもいうように、口を開く。目の端で、銀の穂先が煌いた。
「――それで、エルフにとってはこれが歓待なわけだろう。次は何が出てくる。道中出くわした魔獣が芸でもしてくれるのかな。是非お目にかかりたい」
可能な限り、余裕を見せるように心がける。軽口を叩きながら、目の前のエルフの瞳を見据える。一瞬だがびくりと、その瞳が揺れたのが分かった。何か異物でも見るような目が、こちらを向いている。
結構、これは収穫だ。なるほど、彼らエルフも、確かに恐怖を覚える感情はあるわけだ。素晴らしい。ただの化け物ではないと証明してくれた。
頬を緩めた俺を、まるで叱咤でもするかのように、王宮の側から声が、届いた。
「無駄な抵抗はおやめなさい。もはや、貴方たちは囚われの身。人間の国、ガーライストにも通達は届いています」
いずれ増援が到着するでしょう、と少し得意げでもあるかのように声は言った。
ガーライスト、その単語に思わず瞼が揺れ動く。
なるほど、俺達は最悪の選択肢を選んでしまったわけだ。よもやガーライスト側に、エルフと手を組むことを提言できるものがいるとは思わなかった。しかも、こちらの先手を打つようにして。
不味い。非常に不味い。流石にその展開は俺も知らないどころか、予想外だ。これから先どうすべきか、見当たらない。
声をあげ、王宮内部より現れた少し上等そうな鎧に身を包んだエルフ。
恐らく彼女が隊長格。周囲を取り囲むエルフの指令者なのだろう。自信に満ち溢れた顔がその証だ。ああ、俺が何とも嫌いな顔じゃないか。
しかし、よもやこの状況で手は出せない。もし一歩でも踏み出せば、必ず彼らは銀色の凶器でこちらの肉を切り裂きにかかる。
例え抵抗したとしても、相手に敗北の傷を負わせることはできない。精々、彼らは一部の手足を失いながらも、必ず俺達を絶命させる。それだけの用意が、此処には成されている。
さてはて、参った。また綱渡りか。どうしてこう、楽器が音色を奏でるがごとく、全て上手くいくということがないのか。奥歯をゆっくりと噛み、彼らに見えぬよう、後ろ手に軽く合図を入れた。
「それで、エルフの王……フィン・ラーギアスは俺達を歓待してくれると、そう聞いたのだがね、よもや、エルフの王は誓いを破られる方なのか」
ひっそりと、冷たい汗が背筋を舐めているのを感じていた。
吐息が荒れそうになるのを必死に抑え、緊張にその身を転げだしそうな心臓を縛り付ける。
駄目だ。ここで、ただ捕まるのだけは駄目だ。正直、奴らの言葉に確約としたものがあるわけではない。ガーライストという言葉も、大国であるがゆえ何処かで耳に挟んだだけという可能性もある。
しかし、もしも彼らがガーライストと手を結んでいるのが真実であれば。そのような、最悪の事態であるのならば、此処で捕縛されることは全ての終わりを意味する。
であれば、少しでも、引き延ばせ。何か機会を見つけ、奴らから時を奪い取るしかない。何か、何かないか。奴らの足元を崩してしまえるような言葉は。
「黙りなさい。我らがフィンは偉大なるお方。貴様ら人間などと誓いを結ばれはしない」
木々の色を反射し、深緑色に見える剣。それを腰元から抜き放ち、激昂を表すかの様に、隊長格のエルフが叫ぶ。その勢いにつられるようにして、周囲を囲む穂先の輝きと敵意が、より強まった。そんな、気がした。
俺は、胸中でほぉっと安堵の息を漏らす。
そうか、話にのってくれる相手なわけだ。では、時間は稼げる。さぁ、探せ。何処だ、奴らの足首は。沼地に引きずり込んでやらねばならない。唇を、開く。
「そうかい……なるほど、結構。ではそうだな、偉大なるフィンに一つご伝言をお願いしたいが、聞いていただけるかな」
今までの様な、何処か軽口を叩くような声色ではない、やや神妙そうな声で、言う。
エルフは、基本的に何処か心の奥底に誇りを抱えていると聞く。ならば、ただ一方的に言葉も聞かず、武威をもって全てを蹂躙するということは、好まない、はずだ。
いや勿論、俺の知るエルフの姫君。彼女に関しては大きく例外ではあった気がするが。しかし、あの女をエルフの代表格とするのも気が引ける。何処か、ではなく、頭の中全てが壊れていたような女だったからな、あれは。
ゆっくり、ゆっくりと言葉を紡ぐ。一秒でも、数瞬でも、時を引き延ばすように。ああ、頼む。間に合ってくれよ。
隊長格であったエルフが、鼻を鳴らすようにして、言った。
「ええ、構いません。それが雨の如く降り注ぐ、フィンの慈愛というもの。しかし……こそこそと、隠れ動くようなことは感心できませんね」
その言葉と同時――ヒュン――ヒュウ、と、風を切り裂く音が二つ、耳朶を打つ。それはどちらも、弓が勢いをつけ、矢を放つ音。
軌道の先にあるものは、予想がついた。俺の背後に隠れるようにして魔術を練っていた、フィアラート。なるほど、やはりこの程度のことは、お見通しだったわけだ。いや、当然か。全く、何時から俺は敵を侮れるほど偉くなったのだろう。
それはもはや、反射に近かった。視界の端を銀色が掠めた瞬間、腕ごと身体を突き出す。間に合うかどうかなど思慮の外。ただ動かすものを、当然に動かしただけ。
次に走ったのは、左手を地面に縫い付けんばかりの衝撃。腕そのものを引きちぎられると、心の奥底からそう思った。
間断なく、右肩が嬉々として鉄を飲み込んだ。血肉を弾けさせながら、身体が、吹き飛ぶ。視界が激しく揺れ動き、森の深緑と空の青さに、血が混じり合っていくのが、見えた。
数度の衝撃を挟み、揺れが落ち着き瞳に真面な光景が戻ってきた時になり、ようやく己が地面に伏しているのだと気づいた。
左手の、感覚がない。いや、左手という物体そのものは、辛うじてつながっている。数え切れぬほどの繊維と筋が断裂し、衝撃と麻痺で今は痛みすら感じない。
ゆえに、その異物感だけを、しっかりと理解していた。左手を貫き、尚腕を蝕み食らわんとするかのように突き刺さる、矢。右肩は尚も鉄をその身に飲み込み、鏃が体内へと身を隠す。
血が恐ろしい程の勢いで、身体という枷を破って飛び出していた。
「ルーギス――ッ!?」
フィアラートの、声が聞こえる。次の瞬間に、周囲を覆う程の、白い靄。否、これは霧だ。
フィアラートが魔術で世界を弄り回してくれれば、彼女らが逃げる手段くらいは確保できるかと思っていたが。なるほど、周囲に溢れていた水を使ったか。
これならば、多少の目くらましにはなってくれるだろう。上手くいけば、カリアとマティアを含め、全員が逃げ切れる可能性もある。
――ああ、といっても。此の怪我では俺は無理そうだ。
左腕が、もはやあがらない。それを引きずって、動くこともできそうにない。未だ平衡感覚は戻らず、傷からは血流が迸る。
どうして、こうなるかな。こんな事を、想定していたわけではないのだが。案外、あのエルフの隊長殿も目敏い。やはり俺如きの図り事が、そう簡単に転がってくれることはなかった。
死ぬな。死ぬだろう。例え生かされたとしても、エルフに捕まれば、それまでだ。
――何とも、不思議だ。以前は、何時死んでも構わないと、そんな風に思っていたのだが。
白い霧に包まれる視界の中、最後に、何かが視界の端を、過ぎった。