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第七十二話『拭えぬ記憶』

 ――あら、いたの、貴方。


 そう言いながらも、本当に、心の底からどうでもよさげな声。聞いた耳をそのまま削ぎ落してしまいそうな、怖気の走る、声。


 口は乾き切り、唾液すら浮かばず、身体は凍り付いたように動かなかった。


 その光景には、覚えがある。これは、かつての頃の記憶だ。俺が救世の旅に同行し、未だ彼の姫君の本性を、知らなかった頃の。


 ――何よ。鬱陶しいわね。消えてくれないかしら、嫌になるわ。


 長い髪を振り乱し、姫君は背を見せる。


 もはや欠片となった魔獣の残骸と、大きな爪で抉られたかの如く、乱雑に掘り返された大地を後に、エルフの姫君はこちらを振り返りもしなかった。


 頬を、ぴしゃりと、血が跳ねる。その時になって、ようやく己の鼓動が聞こえ始めた。


 死ぬ。死んでいた。今、僅かにでもあの姫君の軌道に入っていたら、俺は死んでいた。その実感を心臓は確かに訴え、今はまだ生きているのだと、そう身体に訴えかけるように騒音をかき鳴らす。


 恐ろしい。胸中に浮かび上がる感情はただそれ一つ。余りに、恐ろしかった。


 勿論、その力もそう。大型の魔獣を腕の一振りで屠り、息の一つもついていない暴威とも言える力は恐ろしい。


 だが、真に恐ろしいものは違う。


 真に恐ろしかったのは、その煌々と光を放っていた碧眼。


 それを直視した瞬間、理解してしまった。あれは俺を人と、否、僅かにも価値ある存在とは認めていない。恐らく、価値があると認識したことすらないはずだ。


 だから、その手で命を奪う間際であったとしても、何ら感情の揺らめきはない。ただ小虫が、目の前を通り過ぎただけの事。


 俺だけではないだろう、恐らく、奴にとって彼の英雄以外は全てそうなのかもしれない。例え旅に同行し、幾らかの会話を重ねようが、決して意味はない。彼女にとって、俺は下等な生物に過ぎない。


 その恐怖に押しつぶされるようにして、胸を支える大きな何かが、割れていく音を確かに聞いた。


 *


 ――あの時と同じ碧眼が、今、こちらを見つめている。


 姿形は全く違う。その男装は、彼女に素晴らしく似合う。勿論、どのような衣装にしろ、彼女は容易く着こなしてしまうのだろうが。かつての頃とは違い、帽子を被り短髪に見える恰好も、また別の魅力を醸し出している。


 雰囲気も、今はまだ剣呑さはあるものの、何処か柔らかさもある。一見すれば、まるで別人そのものだ。


 だが、覚えている。その碧眼と、声色だけは、紛れもなく、俺の魂が覚えているのだ。


 胸の奥で、嫌な軋みの様な音が、鳴った。


「突然の訪問、失礼を。しかし、エルディス殿、我らもただ――」


 俺が言葉を発せない内、言葉を先に取り戻せた紋章教徒の騎士が、口を開く。その途端、


「――気易く名前を呼ばないでよ、嫌になるなぁ」


 エルディスの声が、それを上書きした。


 酷く不機嫌そうな様子を、隠そうともしない声。


 むしろ敵意に近い感情が、俺達二人に浴びせられる。それは、目の前の麗人からだけではない。周囲の風、森の木々達からも、言わば周囲全てから敵意を向けられているような感覚。思わず、護衛騎士の言葉が詰まった。


 当たり前か。よもや、同盟の交渉に来ておいて、最初に出会ったエルフにこうも険悪になられては、こちらも出方に困るというものだ。


 未だ何処か音が出にくい喉を無理矢理に開き、言葉を零す。


「……ならお望み通り、呼びはしませんよ。お互い、貴重な時間を無駄に浪費する暇はない、そうでしょう」


 紋章教徒の聖女が、エルフの王との面会を望んでいる。その旨を、手短に言葉にした。可能な限り、感情を声色にのせぬよう。出来得る限り、声が歪にならぬよう。


 エルディスは、そんな俺の心情を知ってか知らずか、皮肉げな笑みを浮かべ、肩を揺らして言った。


「王。ああ、フィンの事ね――いないよ、もうそんなもの。フィンは一度仮面を被ったきり、もう出て来やしない」


 その言葉に、思わず瞳を丸める。


 フィンというのは、エルフにとって王を示す敬称のようなもの。王となったものだけが、名前にフィンをつけることを赦される。それは、紛れもない敬意と畏怖の証。


 ゆえに、エルディスが、フィンを示してまるで侮蔑するような言葉を零したことに、瞳を瞬かせる。


 フィンはエルフにとっても象徴的な存在であり、そのように軽く語れる言葉ではないはずだ。だからこそ、俺もあえて王という言葉を使った。これ以上、彼女の気に触れることのないように。


 だが、彼女の様子はどうだ。まるで、フィンなど取るに足らないとでもいうようではないか。


 フィン、つまる所エルフの王は、お前の父親のはずではないのか。だというのに、何故。真相に足を踏み出すように、再び口を開いた瞬間、


「それに、僕は言ったじゃあないか、君」


 ぐいと、見開かれた碧の瞳が、近づいて俺を見つめる。その奥には暗い煌きが、見えた。相手を威圧する、怒りを露わにしたような、そんな色合い。


 その瞳に見つめられた途端、俺の喉から出かかった言葉は、そのまま押し込められるように食道を逆戻りした。喉は一気に涸れ果て、もはや唾も生まれ落ちようとはしない。身体の活動までもが、目の前のエルフの姫君から逃げ延びようとしている。


「君たちはガザリアの空中庭園へ至るべきではない、ってさ。嫌になるよ。人間ってすぐ、禁忌を破ろうとするんだから。これは僕の誓いから出た言葉でもあり、親切心でもあるんだ。絶対に、これ以上踏み出してはいけないよ」


 そう、風が囁くように言葉を並べると、後は現れた時と同じよう。瞬きをする間に、その姿は森の中に消えていった。


 取り付く島もないとは、まさにあの事だ。全て自分本位。こちらの言葉を聞こうとはしない。いや、彼らとしてはあれが正しいのだ。何故なら常に正しいのはエルフの言葉であり、人間の言葉ではない。ゆえに、エルディスにしてみればその行動は至極正しい。


 複数の蹄が土を踏む音が、背後の道から聞こえてくる。なるほど、馬車の随分前を走っていると思っていたが、追いつかれる程度には時間を潰してしまっていたわけだ。


 護衛騎士は気を取り直すと、恐らくマティアに報告を行うのだろう。俺に一礼をして、そのまま馬を返して馬車へと向かった。


 俺はといえば、未だ意識が落ち着きやしない。何度もその場で、ゆっくりと、深い呼吸をした。


 臓腑の奥が凍り付いたように動かず、その全てが固い鉄になってしまったかのようだった。


 そうか、よく、分かる。俺はまだ、奴を克服できていなかった。口に溜まった唾と同時に、その事実を飲み込んだ。


 この感情の正体は、焼け焦げる憤怒ではない、臓腑を溶かす程の憎悪でもない。ただ、ただ。生物の根源たる感情、恐怖。


 俺は、紛れもなくあの怪物に恐怖しているのだ。

 

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