第七十一話『邂逅』
馬の蹄が草を踏み、揺れ動く感触を手綱に覚えながら、軽く欠伸をした。やはり、寝不足は否めない。昨晩は一睡もしていないのだから当然だ。
あの魔獣がいたからと、斥候など申し出るのではなかったな。
「……しかし、勇者殿。他に手段があったのでは?」
その問いに僅かに喉を鳴らすようにして生返事をし、手綱を握ったまま、同じく斥候となった護衛騎士を見やる。
別段、険のある言い方でもなかった。純粋な、疑問だったのだろう。猿型の魔獣への、対処について。
どう答えたものかと唇を濡らしていると、疑問を重ねるように、言葉が付け加えられる。
「新しいワインはやはり高価です。それを魔獣如きにくれてやるより、被害を拡大させないため、討伐する方が良かったのでは」
なるほど、らしい考え方だと、素直にそう思った。紋章教徒の騎士とはいえ、騎士道を学び、その剣と槍を磨いてきたのだろう。その在り方は何処までも真っすぐで鋭い。俺と同様に、馬を駆って斥候を志願した所からもその様子は見て取れる。
猿型の魔獣は、大口にワインを一樽も流し込んでやれば、いびきを掻いてすぐに意識を夢の中に手放した。未だこの時代では、酒に対して耐性もついていなかったのだろう。本来ならもう数樽は犠牲になる所だったから、俺としては助かったと思ったのだが。
しかし、なるほど。確かに、物で魔獣をつりあげ、言わば見逃してもらう様な真似は、騎士道の誇りに反するか。指で擦るように顎を撫でる。
「そうさなぁ。本来なら、それで良いさ。エルフ達と交渉をしにいくんじゃあ、なけりゃな」
その騎士はどうにも、不思議そうな顔をしていたように思う。深い兜を被っていた為、顔までは見て取れないのだが、どうしてエルフの事が此処で出てくるのだと、そう言わんばかりに首を傾げた。
馬の蹄が、草を抉りそうになるのを、ゆっくりと手綱を引いて抑える。
「俺達はエルフと話をしにきたんだ。なら、その上で最も大事なこと――それは相手に敬意を示すことだろうさ」
進むうえで、草木を踏んでしまうのは仕方がない事もある。しかし、それにも謝意を示せ。土を踏み込んでしまうこともあるだろう。であれば、そこに礼儀を示せ。口の中で言葉を組み立てながら、そのように告げていく。
「エルフってのは、そういう種族だ。彼らと同盟をなどというのなら、下手な礼儀作法に気を配る前に、足元に目を向ける必要がある……例え魔獣といえど、許可なく無暗に此の森を血で汚してみろ。問答無用で襲い掛かられても、おかしかあない」
馬鹿なとでも言いたげな調子で、護衛騎士が妙な声をあげた。
俺とて、かつて聞いた頃はそんな事があるものかと、顔を歪ませたものだ。だが、事実。彼らはもはや人間とは全く違う種族でしかない。
言葉が通じ、目が二つ、口が一つ、鼻が一つに耳が二つ、それらがあるからといって同一視するような人間も中にはいるが、今なら馬鹿らしい考えだと言い切れる。
彼らには、こちらの道理や道徳、通念などは、全くと言って良い程通じないのだ。
だから、正直な所、エルフの連中と同盟を結ぶなんてのは正気の沙汰じゃないと、今でも思っている。アンは紋章教徒にはエルフと盟を結んだ実績があると、そう言っていたが。正直あの連中を知っている俺からすれば、余りに信じがたい。
「何にしろ、この森、そしてガザリア山に築いた空中庭園に籠ってる連中だ。偏狭な価値観を持ってるのは間違いない――」
「――そうだね、全くそう思う。君の言う通りだ。僕も同意見だよ。嫌になっちゃうよね」
耳が、揺れ動く。風が入り込むような、鋭い声。それでいて、耳の孔奥底を撫でるような、そんな声。心臓が、ぞくりと震えた。全身を揺れ動かすような、激しい動悸。
「だから、そういう事は余り大きな声で話さない方が良い。何せ、彼らは何処までも偏狭で、綺麗な水面の前ですら、自分の事を見られやしない。嫌になるよ」
それはまるで、森と一体化したかのよう。木の葉が舞った次の瞬間に、その姿が目の前に現れていた。
それは、その技法はよく知っている。エルフがよく使う手だ。彼らの領域において、森は友であり彼ら自身である。流石に瞬間移動とは言わないが、人の目を晦ますことくらいは容易だろう。
瞳に、その声の主が、映った。隣には呆然として言葉を失った護衛騎士。
「歓迎はしないよ、人間たち。だけど、僕には僕の誓いがある。だから、恥を忍んで君たちの前に姿を現した」
それは、一見すれば、線の細い、しかして余りに整った姿をした男性。
エルフとは真に、精霊がそのままその姿を造形したのではと思われるような容姿をしている。整った、という言葉でも、表現しきれているとはとても思えない。
頭にのった帽子に髪の毛をしまい込んでいるのだろうか、ぱっと見には短髪に見えた。腰に捧げたサーベルの位置や、長めのズボンを着こなした姿は、まさしく男性のそれだろう。ああ、恐らくは、護衛騎士はそう思い込んでいるだろうとも。
「君たちは、僕達エルフに敬意を示した。では僕は僕の誓いに則り、君たちに一つ忠告を与えよう」
その声は、まさしく風が撫でるよう。ふと気を抜けば、表情が蕩けてしまいそうになるだろう。耳の孔深くを擽られている感触すらする。
だが、俺の情動はそんな感覚にゆすぶられることはなく、凍てついたかのように動きを止めてしまっていた。
今この時、何を、どう理解すれば良いのか、脳は明らかに困惑の極致にある。
予想はしていた。覚悟はしていた。つもりだった。だが今は、臓腑という臓腑が凍り付いてしまったかのように、反応を示さない。
カリアを仲間とし、フィアラートの手を取り、己の溢れんばかりの情念を克服したと、そう思っていた。思い込んでいた。
「君たちは、ガザリアの空中庭園へ至るべきではない。それは悲劇しか生まないだろう。特に、紋章教徒の人間であるならば。これが、忠告だ。いいね、近づいてはいけないよ」
その男装は見事なものだ、恐らくは精霊の力も借りて偽装をしている。かつての頃であった様子とは、まるで違う。別人のようにすら思える。だが、忘れるものかその声を。その、いともたやすく人を踏みにじった声を。
ああ、やはり俺は凡人だ。小人でしかない。天才達と共に在り、一度は英雄たるヘルト・スタンレーを後退せしめ、まるで俺自身が上位へと至ったかのような錯覚を起こしていた。
だが、だがだ。もし英雄であるならば、勇者であるならば、こんなちっぽけな情動を、未だ胸の奥底に刻み込んでなどいるものか。
「ああ、一応、名乗っておこう。これも礼儀というものなのだろう。嫌になるけどね。僕の名前は――」
眼前で、まるで唇から歌でも奏でるように話すエルフを見て、唇が、痙攣した。ああ、お前の名前は。
「――エルディス。女とも男ともとれる名前だけれど、エルフにはそういう名前が多くてね」
――エルディス。エルフの姫君にして、救世の旅の同行者。そうして、最悪の破壊者。